根拠のない「大丈夫」に腹が立つ理由
――孤独な大人にも、倒れていい居場所が必要だ
私は、根拠のない「大丈夫」が苦手だ。
「自分はそんなに愚かじゃないから大丈夫」
「自分はそこまで体が悪くないから大丈夫」
「自分はまだ平気だから大丈夫」
そういう言葉を聞くと、腹が立つ。
なぜなら、事故も病気も災害も、本人の賢さだけでは防げないからだ。
どれだけ交通ルールを守っていても、もらい事故は起きる。
どれだけ気をつけていても、急な病気は起きる。
人は、ある日突然いなくなる。
私はそれを知っている。
身内の突然死があった。
会えると思っていた人に、もう会えなかったことがあった。
訃報を聞いた時、人はまず信じられない。
次に「なんで?」と思う。
それからようやく、「亡くなってしまったなら仕方ない」と受け入れていく。
テレビの向こうの人でさえ、亡くなればファンは動揺する。
まして身内や友人なら、なおさらだ。
人が死ぬということは、それほど重い。
だから私は、検査を受ける。
採血も、MRIも、CTも、心臓の検査も、必要なら受ける。
ファーストエイドキットには、常備薬、処方薬リスト、直近の検査結果を入れている。
自分の体の状態を、できるだけ説明できるようにしている。
これは怖がりだからではない。
備えるためだ。
病気そのものは悪ではない。
心臓に疾患があることも、糖尿病になることも、精神疾患があることも、発達特性があることも、それ自体は決して悪ではない。
むしろ人間の体や心には、そういうことが起こる。
悪いのは、見ないふりをすることだ。
調べもせずに「大丈夫」と言い張ることだ。
根拠のない安心に逃げることだ。
検査を受ければ、白黒がつく。
異常がなければ安心できる。
異常があれば、薬、生活改善、治療、備えに進める。
発達特性や精神疾患があるなら、それに合った暮らし方や働き方を考えられる。
つまり、測ることは、自分を責めることではない。
自分を助けることだ。
私は、かつて一人の人間を長く支えてきた。
周りが見捨てる中で、フォローしてきた。
紹介の場を設け、ゼミの穴を埋め、色々な面倒を見た。
それでも彼は、自分の問題を見ようとしなかった。
私が求めていた「恩返し」は、私に金を返すことでも、頭を下げ続けることでもない。
自分の人生をちゃんと引き受けることだった。
必要なら専門家に会い、自分に発達特性があるのか、精神的な問題があるのか、健康面に問題があるのか、ちゃんと調べることだった。
アスペルガーならアスペルガーでいい。
違うなら違うでいい。
ただ、自分を知って、自分に合った生き方をしてほしかった。
それが、彼自身にとっても周囲にとっても、一番楽になる道だと思った。
けれど、本人が受け取らないなら、こちらにはどうにもできない。
最後は自己責任になる。
それでも私は思う。
社会は、悲しいほど「我関せず」だ。
みんな本当は不安を抱えている。
自分が倒れたら、誰か助けてくれるのか。
助けてくれないかもしれない。
でも、大人だから助けてほしいとも言いにくい。
孤独な大人が、安心して弱音を吐ける場所は少ない。
子供食堂はある。
それはとても大事なことだ。
けれど、孤独な大人にも居場所が必要だと思う。
大人食堂。
居場所カフェ。
大人の保健室。
倒れる前に寄れる場所。
苦しい時に「ここに来ていい」と言われる場所。
現実には難しい。
トラブルもあるだろう。
依存も起きるかもしれない。
運営も大変だろう。
それでも、想像したり、考えたりすることはできると思う。
それらさえもしないで、いきなり「無理だ!! 」と一蹴するのは、果たしてどうなのかな?
孤独な人に、
「倒れてもいい」
「助けてと言っていい」
「ここがあるよ」
と言える場所がこの世の中にあってもいいんじゃないかな?
(影の声;まあ、一人のキリスト者としては、究極的には、イエス様を受け入れて、イエス様に支えられながら生きる道、となるのだが、聖霊派じゃないけど、そう簡単・・・・・・殺気? )
物語の中なら作れる。
ASUKAの世界は、たぶんその願望から生まれている。
発作が出ても、居間に出てきていい。
薬が切れて苦しくなっても、責められない。
誰かがコーラを持ってくる。
誰かがアイスを用意する。
誰かが心電計を持ってくる。
猫を抱いて、呼吸を整えて、みんなでその人を支える。
「大丈夫」は、根拠なしに言う言葉ではない。
備えた上で、支え合った上で、ようやく言える言葉だ。
私は、そういう世界を描きたいのだと思う。
孤独な人に、
「倒れてもいい」
「助けてと言っていい」
「ここがあるよ」
と言える世界。
それが、私の物語の奥にある願いなのだと思う。