せっかくフロム本を読んでるのでメモでも。
「生きるということ」(エーリッヒ・フロム)
冒頭に以下の名言が並びます。(本の帯にはTo HaveからTo Beへ――ってかっこいい言葉がかかれてます)
なすべき道は、あることである。 ――老子
人が考えるべきことは何をなすべきかではなく、
自分が何であるかである。 ――マイスター・エックハルト
君があることが少なければ少ないほど、
君が君の生命を表現することが少なければ少ないほど――
それだけ多く君は持ち、それだけ多く君の生命は疎外される。
――カール・マルクス
出だしからそそる感じで、ゾクゾクしました(変態卯月w)。なんともむずかしい感じのお言葉が並ぶ。老子さんとマルクスさんは有名ですけど、このエックハルトさんがなかなか曲者でして。
ウィキより。
マイスター・エックハルト:中世ドイツ(神聖ローマ帝国)のキリスト教神学者、神秘主義者。パリ大学にてマイスターの称号を受ける。トマス・アクィナス同様、同大学で二度正教授として講義を行った。1326年、ケルンで神学者として活動していたエックハルトはその教説のゆえに異端の告発を受け、これに対し「弁明書」を提出。当時教皇庁があったアヴィニョンで同じく異端告発を受けたウィリアム・オッカムとともに審問を待つ間に、エックハルトは没した。(「スコラ哲学の王」トマス・アクィナスさんと、「オッカムの剃刀」のオッカムさんと同時代)
神との合一を、そして神性の無を説く。このようなネオプラトニズム(新プラトン主義)的な思想が、教会軽視につながるとみなされ、異端宣告を受けることとなった。オッカムさんは、普遍は存在しないっていう唯名論を唱えて教会から異端とされたんでしたね(「普遍論争」は以前触れました)。
本書の内容というより、こんな偉人の言葉もでてきましたよって感じのメモ。
『持つこととあることの違いの重要性』
仏陀は、人間の発達の最高段階に到達するためには所有を渇望してはならないと教える。
イエスは説く。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを救うのである。人が全世界を手に入れても、自分自身を失い、損なうなら、何の得があるだろうか」(ルカによる福音書)
マイスター・エックハルトは、何も持たず自分を開き〈空虚〉とすること、自分の自我に邪魔されないことが、精神的な富と力を達成するための条件であると教えた。
マルクスはぜいたくが貧乏に劣らず悪であること、そして私たちの目的は多くあることでなければならず、多く持つことであってはならないと教えた。
【持つこととあることとは二つの基本的な存在様式であって、そのそれぞれの強さが個人の性格やいろいろな型の社会的性格の違いを決定する】エーリッヒ・フロム
もう、これは何度も何度も読んだりしないと分からないですなw
『さまざまな詩的表現の実例』
そう思いながら読み進めていくと、なんと芭蕉さんの俳句が登場しますw
鈴木大拙の「善に関する講義」からの引用がある。(鈴木大拙は禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に紹介した人。生前、1963年にノーベル平和賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸しているのだとか)
十九世紀のイギリスの詩人テニソンの詩との比較で登場(テニソンのは英語にしておきます。ネット上に訳は落ちてます)。
散歩中に見た花に対する有名なひとたちの反応w
Flower in the Crannied Wall Alfred Tennyson
Flower in the crannied wall
I pluck you out of the crannies
I hold you here, root and all, in my hand
Little flower――but if I could understand
What you are, root and all, and all in all
I should know what God and man is.
よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな 芭蕉
「テニソンは花に対する反応として、それを持つことを望んでいる」
「芭蕉の花への反応はまったく異なっている。彼は花を摘むことを望まない。それに手を触れさえしない。彼がすることはただ、それを「見る」ために「目をこらす」ことだけである。
さらにゲーテの「見つけた花」という詩が出てきます(これも訳文の著作権が気になるのでドイツ語で。ネット上に訳は落ちてます)。
「Gefunden」Johann Wolfgang Goethe
Ich ging im Walde
So für mich hin,
Und nichts zu suchen,
Das war mein Sinn.
Im Schatten sah ich
Ein Blümchen stehn,
Wie Sterne leuchtend,
Wie Äuglein schön.
Ich wollt es brechen,
Da sagt' es fein:
Soll ich zum Welken
Gebrochen sein?
Ich grub's mit allen
Den Würzlein aus.
Zum Garten trug ich's
Am hübschen Haus.
Und pflanzt es wieder
Am stillen Ort;
Nun zweigt es immer
Und blüht so fort.
なんとゲーテさんは、芭蕉さんとテニソンさんとこれまた違う対応。
「彼はその花を「根をみんなつけたまま」掘り取ってまた植えるので、その生命は破壊されない。ゲーテは言わばテニソンと芭蕉の間にいる。」
このように、あることと持つことの違いを詩を使ってフロムさんは説明。
「あることと持つことの違いは、本質的に東洋と西洋の違いであるわけではない。その違いはむしろ人を中心とした社会と、物を中心とした社会との間にある。」
よーく、西洋的、東洋的みたいな言い方がされてきましたけど、人間はそんな単純にカテゴライズされるわけでもないことが分かります。
「西洋人には(ユングが考えたように)禅のような東洋的体系が十分に理解できないというのではなく、現代の〈人間〉には、財産と貪欲とを中心としていない社会の精神が理解できないのである。実際(芭蕉や禅と同じように理解しにくい)エックハルトの教えと仏陀の教えとは、同じ言語の二つの方言にすぎない。」
まだほんの冒頭部分なのにこんな感じw
ただ詩やなんやらを並べただけのメモですけども、興味がわいたら図書館ででもぜひw
これはキュンなやつ?
ずっと真夜中でいいのに。『シェードの埃は延長』MV (ZUTOMAYO - SHADE)
https://www.youtube.com/watch?v=zjEMFuj23B4
では。