作品の目指すものによって、書くべきことは違うと思います。
小説執筆で「著名作品の何とか先生がこう言っていたから」というのは、実はあまり意味がないと考えています。
それはその先生と目指す方向性が同じであるなら、参考にできる、程度の話なのです。実際、商業ライターを31年間やっておりますけど、題材によって書くべきことの密度は変えますしね。それが計算なわけです。
例えば「へんちー」で言うなら、この作品では一行でも早く更紗と剛のしょうもないやりとりに行かせるのが「作品のテーマを誤認させないこと」です。
東郷剛がどんな人間なのか、みたいなことは、更紗との人間関係ができて来れば自然と表現されることであり、リアリティなどという、コメディ系フィクションでは比較的どうでもいいことのために、序盤の掴みを遅くする理由がないわけです。
というか、小説はノンフィクション以外は、作者が神なんですから、理由なんて後からどうとでも付けられるんですよね。細かく整えて、一々その場で説明しても、推理ものみたいに情報提示が前提のジャンル以外では「かったるい。早く本題に入れ」です。「説得力があって素晴らしい」なんて読者は少ないのです。
全方面に配慮すればするほど、薄まるんですよね。やりたいことは。
読めない人はいる。そう割り切って、合わない人への配慮は最低限にする、の方が、結局読みたい人に刺さる小説になると考えています。
で、より大切なのは「作品が何をしたいか見失わない」ことです。ライターをやっていて思いますが、同業者も含めてヤフーコメントではボロクソです。どう書いても、マウント取りたい人はたくさんいるし、それを気にしたら何も書けない。閲覧者が増えれば増えるほど、批判者は出て来るものなのです。
批判的意見の中から、くみ取れるものはくみ取っていいですけど、作品の骨子を捉えていない意見は聞いても、迷走するだけです。他人は作品に責任は持ってくれませんからね。結果、読まれなくとも自己責任でいいと思うわけです。