御影は“正しく理解した者”に強く応える ~誰も知らない歴史を、俺は知っている~における歴史の設定について
この世界の日本は、私たちの知る歴史と同じようでいて、途中から大きく異なる道を辿っています。分岐点となったのは、宝永年間で、各地の大社が、歴史上の人物の御影を呼び出す術を見出したことが切欠でした。以下、主要な出来事を記載。
◎宝永年間、御影の発見
御影は、単に強い力ではない。
歴史上の人物を、正しく理解し、正しく捉えた者にこそ強く応える力である。
10年あまり後に、この御影の顕現と運用に、国司という役職が深く関わることが分かった。発見当初は御影の存在だけが知られ、その政治的運用が整うのは享保であったが、これにより、日本の政治は大きく姿を変える。
◎幕府の専断から、各藩の衆議へ
それまでの日本では、幕府が大きな決定を下していた。
だが、御影の力が政治そのものに関わるようになると、幕府が一方的に全てを決める体制は揺らいだ。
以後、日本は各藩の代表が集まって衆議する国へと変わっていく。
そして、賛成と反対が割れ、議が決しない時には――
各藩の代表による御影戦をもって、その結論を決する仕組みが定められた。
◎朝廷の権威の上昇
御影は、正統な系譜や祭祀、記録と深く結びついていた。
そのため、古い社と結びつきの深い朝廷の権威は大きく高まっていく。
この世界において朝廷は、単なる形式的な存在ではない。
政治の実務を直接担うわけではないにせよ、国家の正統性を支える中心として、
後の明治天皇に近い重みを、より早い時代から帯びることになった。
◎薄く民意を含む政治
この世界の日本には、近代的な意味での選挙制度はない。
だが、各藩の代表がそれぞれの立場や利害、土地に生きる人々の事情を背負って議に臨むため、
各藩の意見を通じて、薄く民の意思が政治に反映される仕組みが生まれていた。
完全な民政ではない。
それでも、幕府の専断よりは広く、人々の暮らしが政治に届く余地があった。
◎先祖礼賛の時代
御影戦が強いことは、そのまま藩の発言力と利益に繋がった。
ならば、自藩にゆかりある人物を研究し、その歴史を正しく継ぐことは、
単なる教養ではなく、政治と安全保障に直結する重大事になる。
こうして日本では、先祖礼賛が強まっていく。
家の歴史、土地の伝承、神社の由緒、史料の保存。
それらはすべて、御影戦の強さに繋がるものとして重んじられた。
◎黒船来航と、変わらなかった日本
やがて黒船来航が起こる。
だが、御影によって強化された日本は、外圧だけで簡単に屈する国ではなかった。
列強は日本を脅威と見たが、御影という力の本質を理解しきれず、深く踏み込めなかった。その結果、日本は大きく形を変えぬまま、
世界から孤立したまま近代を迎えることになる。
◎御影の限界
御影は強い。
ただし、それは個人を戦闘の達人にする力であって、
機関銃や大砲を上手く扱わせる力ではない。
御影は「人を再現する力」であって、
「戦場そのものを再現する力」ではなかった。
ゆえに、明治初期の軍隊を相手にするなら圧倒できても、
戦争が機械化・火力化・集団戦術化していくにつれ、その優位は失われていく。
昭和初期にもなれば、御影だけで戦争に勝つことはできなかった。
◎1945年、日本の転換
1945年。
アメリカは近代軍隊を率いて日本に来航する。
局地戦の中で、日本は悟る。
もはや御影戦の時代ではない、と。
御影はなお強かった。
しかし、その強さは時代そのものを支配する力ではなかった。
日本はここで大きく方針を転換し、
政治と軍事の中枢から御影を外し、現代国家に近い仕組みへと移行していく。
◎現在へ
そうして御影は、国家の意思決定や戦争の道具ではなくなった。
代わって残されたのが、競技としての御影戦である。
かつて国の行方を決した力は、
今では高校生たちが競い合う競技として継承されている。
だが、その本質は変わらない。
御影は今もなお、
正しく理解した者にこそ、強く応える。
○日本史略年表(御影史観)
◎宝永年間(1704年〜1711年)
各地の大社において、歴史上の人物の御影を呼び出す術が確認される。
当初は祭祀上の秘事として扱われたが、後に実戦的価値を持つことが判明。
◎享保(1716年〜1736年)
御影の顕現と運用に、朝廷が与える国司という役職が、深く関与できることが明らかとなる。政治・祭祀・軍事の均衡が揺らぎ始める。
◎18世紀前半
幕府による一元的決定に対し、各藩の発言力が増大。
重要案件について、各藩代表による衆議が制度化される。
衆議で結論が出ない議題について、
各藩代表の御影戦によって議決を定する方式が成立。
以後、御影戦は政治的正統性を持つ意思決定手段となる。
◎18世紀中盤
正統な祭祀・系譜・記録の価値が高まり、朝廷の権威が上昇。国司は朝廷が正統性を認める役職であり、それが朝廷権威の上昇にも繋がった。
天皇は国家の正統性を支える象徴的中枢として、従来より強い地位を持つようになる。
◎18世紀後半〜19世紀前半
各藩で地域史・家史・神社由緒の調査と保存が進む。
御影戦の強さが藩益に直結するため、先祖礼賛と史実研究が社会全体で強まる。
また、この中で北海道の開発が共同で進められる。
◎19世紀
日本には近代的選挙制度は成立しない。
一方で、各藩代表が土地と民の事情を背負って衆議に参加するため、
藩意を通じて間接的に民意が政治へ反映される体制が定着する。
◎嘉永6年(1853年)
黒船来航。
ただし、御影によって強化された日本に対し、列強は本格介入を断念。
日本は開国圧力を受けつつも、独自体制を維持する。
◎19世紀後半
世界が急速に近代化する一方、日本は御影を基盤とした独自秩序を維持。
結果として、世界から半ば孤立した国家として推移する。
◎明治期
御影は依然として強力な戦力であり、
近代化初期の外国軍に対しては優位を保つ。
ただしこの時点で既に、御影の力が個人戦闘に偏るという限界も認識され始める。
◎大正〜昭和初期
世界は戦争の主軸が、個人の武勇から、機関銃・砲兵・機械化・集団運用へと移行。
御影は個人を達人にはできても、近代兵器の運用体系そのものには適応できず、
相対的優位を急速に失うが、日本では御影による決定の時代が続く。
◎1945年
アメリカが近代軍隊を率いて日本へ来航。
薩摩や沖縄での局地戦の結果、日本は御影戦の時代の終わりを悟る。
アメリカからの要請もあり、国家体制の大転換が決定される。
◎戦後
御影は政治・軍事の中枢から外される。
代わって、文化・教育・競技の領域で制度的継承が図られる。
◎現代
御影戦は競技化され、
高校御影競技連盟の管理する競技として存続。
かつて国の意思決定を担った力は、今や若者たちが競う技として受け継がれている。