全部見ました。
私の近況ノートへの返信も、お相手様の近況ノートとその返信欄、いいね欄も。
ここには私目線どう思っているのかを書きたいと思います。私の話です。
何のことだか分からない人は、私の昨日の近況ノートを見てください。
また、削除したレビュー本文をこのノートに画像にて載せることをお許しください。
全部見た上で、謝罪したいのか、釈明したいのかが私には分からず、とても混乱しました。謝罪はしなくていいです。昨日も私の穿ったものの見方が悪いと書きました。
すみません。
私のレビューを削除するという行為がお相手様のことを傷つけてしまったことに対しては謝らせてください。
申し訳ありませんでした。
削除理由であるお相手様の「秀逸短歌集!よく分からないけど面白い」というキャッチコピーについて。
昨日から私の気持ちは変わっていません。
いくつもの受賞経験と、歌集の出版経験という華やかで目を引く肩書きをプロフィールに記載している方からの「よく分からないけど面白い」という言葉は、私にとっては貰って嬉しい言葉ではありません。
すみません。
私はどうやら反語が分からない系の物書きみたいです。
レビューや感想とは、作品と向き合った時に自分の中から生まれたり、湧き出てくる感情を言葉にする行為だと私は思います。
さらには「よく分からない」という感情を自分の言葉で表現しようとすることは、レビューする側が作品に贈れる唯一の祝福だと思います。
少なくとも私はそういう気持ちで作品にレビューを贈らせていただいています。
その上でネガティブかつ、創作者としてよくない考え方だと思いますが、私の作品が、短歌で賞を取るような方から『捉えきれないほど面白い』という意味で『よく分からないけど面白い』と評価されるとは、どうしても考えることができません。
お相手様は素敵な短歌を詠まれる方です。とても長い間短歌に真剣に向き合ってきたことは私でも分かります。そんな方がよく分からないほど面白い連作を私は本当に作れたのでしょうか。
お相手様の喩えを借りますが、「ソラノカメ」は本当に、ピカソの絵を見たときと同じような種類の感動を与えることができたのでしょうか。
もう分かりません。
本当にすみません。
まさか、お相手様がへこまれるほど、私の作品を想って書いてくれたキャッチコピーのようには思えませんでした。
レビュー本文で、言葉の飛躍の高さについてとカタカナ語を多く使ったことによる不思議さについてお褒めの言葉をいただきました。
そんな大変素敵なレビューでさえ、「よく分からない」という要素をやんわりとプラスに書いたもののように感じてしまったのは本当に申し訳ありません。
それから、「よく分からないけど面白い」が褒め言葉になり得ることは分かります。一応私だって物書きですよ。反語が分からない系の。
私だって、とてつもない芸術作品にふれた時には「よく分からないけれど凄い」と感じることもあります。何度も言いますが、それが分からないわけではありません。
自分が全く創作をしてきていない、絵や彫刻などの作品であれば、作られた過程やこの作品を作る難しさなどを想像することすら叶わず、ただただ圧倒されます。
ですが、同じ分野の創作に少しでも足を踏み入れているのならば話は別です。
そんな言葉では片付けてなるものかと、必死で自分の中に落とし込みたい。結局できるはずもないのですが、それでもなぜ自分がこれほどまでに凄いと感じたのかを探したいと思ってしまいます。
短歌は、言葉が少ない文学だからこそ、余計に「この歌を一番私が読み込んでやるんだ」という熱を持った人が多いのだと私が勘違していた部分はあります。
少なくとも私は、お相手様の短歌を見た時に、プロフィールにたくさんの功績があるだけに、流石言葉選びが尋常でなく、上手い人だなと思ったので、思わぬ言葉の連なりに少々驚きすぎてしまった節もあります。
だから、お相手様のキャッチコピーが私には刺さってしまったのだと思います。
申し訳ありません。
最後に、お相手様の近況ノートにいいねされたり、返信を送られた方々には、ぜひとも私の「ソラノカメ」を読んでいただきたい。
私はただ自分が気に入らないからという理由でいただいた言葉を削除したり、無碍に扱ったりはしません。
今回は「ソラノカメ」にとって、お相手様からいただいたキャッチコピーが不利益になると判断したため削除させていただきました。
私自身はよく分からない作者でいいですが、作品のことは何よりも大事です。自分のも皆様のも。
ソラノカメ
https://kakuyomu.jp/works/16818622177452539701シンシア 2025.7.15