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いくひ誌。【2571~2580】

※日々、幻想に生きている、現実がどこにあるのかもわからずに。


2571:【追いかけっこ】
むかしは極めることへの憧れがあったけれど、いまは極めてしまうことへの疑念がある。極めてしまったらもう何も楽しめなくなってしまう気がするのだけれど、ちがうのかな。それを知るためにも極めてみるしかない、との考えは一理あるとは思うけれど、どちらかと言えばいつまでも未熟でありたいな。未熟でありつづけるためには、つねに「すこし上」に指をかけていくしかないのかもしれない。何も極めたことのない未熟の権化はまくらにあたまを突っこんでそうつぶやいたそうな。


2572:【ぜんぜん知らんかった】
まったくの素人の戯言だとお断りしたうえで、述べるが、知らないあいだに世のなかが「たいへんそう」なことになっていた。なんでも新型のなんちゃらウイルスが流行しているそうだ。かといって現状、致死率2%で死者が全国で数十人というのは、流行と呼んでよいのか疑問だ(亡くなられた方がいるのはざんねんだが)。インフルエンザウイルスでは毎年累積で一千万~二千万人が罹患し、そのうちインフルエンザウイルスの影響で一万人が亡くなっているとされている(ここでの数値は飽くまで推定だ。インフルエンザウイルスが直接の死因とも限らない。ウイルスによって身体が弱り、持病が悪化した場合も含まれる)。よってインフルエンザウイルスの致死率は0.05~0.1%程度と考えられるので、インフルエンザのように流行してしまうと致死率2%(とされている)新型なんちゃらウイルスの場合は、単純に考えれば二十倍の死亡者がでてしまう。ただ、世のなかには死亡しやすいひととそうでないひとがいるわけで(つまり高齢者や喘息患者だと重症化しやすい傾向にあるわけで)、罹患しても死亡しないひとの割合が高いのなら、このように単純に一万×二十=二十万と考えるのは理屈に合わない。(同じウイルスに罹ってもどんな治療を受けるかによって致死率は左右される。国によって死亡者数が異なるのはその影響もあるはずだ。同時に、発覚している感染者数にしても、そもそも検査を受けている患者数に差があると考えられる。いま報道されている情報をみても、実態とかけ離れていると考えたほうが自然だろう。要するに、事実に沿った報道をしているところは現状一つもないと呼べる。このように不明な点が多い場合は、リスクを高く見積もって対処しておくのは、組織の判断としては妥当だ)。医療機関や政府が事態を重くみて最悪の展開を考慮して対策をたてることと、一般市民が過度に恐怖心を抱いて過剰に警戒して生活するのは同じ尺度では語れないし、同じこととして解釈するのはあまり利口とは呼べそうにない。市民にできることは、手洗いを習慣づけることと、高齢者や体調のよろしくないひとへと心を配り、休息を優先し、他者へ厳しく当たり散らさないことくらいなものなのではないか。もちろん、政府の言うように人混みに出掛ける機会は減らしたほうが好ましい(ウイルスに関係なく、人混みに出向く利点はそう多くはない)。とはいえ、まるで感染したら誰もがゾンビになって世界がそのうち滅亡してしまうのではないか、といった不安に駆られているひともいるようだから、そんな心配はしなくともだいじょうぶですよ、と言うくらいのことは、身近なひとが理屈をまじえて唱えてもバチは当たらない気もするが、この考えは楽観にすぎるだろうか。仮に全世界の人間が一生のうちでいちどは感染してしまうとしても、それが短期間のうちで起きなければさほどに絶望すべき未来ではない。避けるべきは短期間での爆発的な流行であり、感染の根絶は二の次と呼べる(言うまでもなく罹患しないに越したことはないが)。医療機関におかれては、新型なんちゃらウイルスへの対応というよりもいまは、幼い子どもを持った医療関係者の方々のほうがたいへんそうだ。医療機関の人手不足が深刻にならないとよいが。以上、2020年3月2日のいくひしまんでした。(冒頭でもお断りしたように、素人の妄言ですので、真に受けないように注意してください。気になる方は厚生労働省のサイトを参考にするとよいのではないか、と思います。https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/dengue_fever_qa_00001.html#Q34


2573:【ほらね】
上記でインフルエンザウイルスの致死率を一千万分の一万(一万÷一千万)をしてそのまま0.001にしちゃいましたが、「%」なのでそこに百をかけるのを忘れていました。直しましたが、こういうミスはしょっちゅうです。すみませんでした。こういうときに誰にも読まれていないっていいなぁ、と思う。(致死率にしても、そういうふうに計算できる、という以上の意味合いはありませんので、真に受けないように注意してください。以下、厚生労働省のサイトです:https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou04/02.html


2574:【いつもどおり】
繰り返し言っておかないと誤解されそうなので注釈を挿しておくよ。いくひしさんはあんぽんたんだよ。卑下や自虐じゃないよ。ホントにホントに正しい知識も正しい論理も身に着けていないよ。専門分野は何もないよ。化学反応式は水素と酸素が結合して水になる、くらいしか書けないよ。分数の足し算も怪しいよ。人前で暗算したらほぼ間違えるよ。たとえばレジでお釣りを五百円玉でもらおうとして大目に小銭をだすけれど、いっつも足りなくて、無駄にジャラジャラとお釣りを返されるよ。機械音痴でもあるからスマホでピ!もできないよ。たまにこの「いくひ誌。」でお利口さんぶって、それっぽい文章を並べるけれども、それっぽいだけで詐欺師の文章と同じだよ。もし信じちゃいそうになったらそれはちょっと危ないよ。じぶんの知識と知性を疑ったほうがよいかもだよ。ただ、間違った文章を並べるのはダメだよ、というわけではないんだよ。間違ってもよいんだよ。情報汚染なんて言葉もたまに聞くけれども、そんなのはおかしいよ。そもそも汚染されていない情報なんかないんだよ。より汚染されていない、誤りのすくない、現実の解釈としてより妥当くらいの塩梅だよ。じぶんで間違えに気づけるようになれるといいね。


2575:【自己言及が好き】
口を開けていたらかってに入ってくるような情報にはどんなときであれ注意を払っておいて損はないでしょう。もちろんじぶんで食べにいった情報であっても、いくらかほかの情報と食べ比べてみないことには、それが毒か否かも判らないはずです。情報に含まれる毒は決まって遅延性です。時間差で身体を蝕み、身を危ぶめていくものです。いちいち情報を疑っていたらキリがない、と不満に思われるかもしれませんが、じぶんがどの段階で疑うのをやめてしまうのか、盲信ラインがどこにあるのかを知っているだけでも痛い目に遭う確率は減らせるでしょう。盲信ラインにもいくつかランクがあります。じぶんの判断材料はいったいどの盲信ラインから入手した情報だろう、とすぐに思い浮かべられると好ましい気がします。あなたにとって、SNSから、或いはネットから、それとも書籍から入手した情報はどのレベルの盲信ラインですか。媒体の差異だけでなく、誰が発信しているのかも基準の一つとなりそうですし、その誰かがいつどれくらい調査し、検証し、校正したかによっても情報の信憑性は変わってきそうです。いちばん好ましいのは、どんな情報にも誤りは含まれていると身構えておくことでしょう。どこにどんな誤りが含まれているか、信憑性がないか、どのくらいの確率で再現可能か(発生するのか)、をじぶんで判断できるひとが専門家と呼ばれるのではないでしょうか。これもまた真に受けるには不十分な文章ですね。真に受けるな、という文章は、真に受けてもよいことになりますか?


2576:【おのれ、がおー!】
文章の分類の仕方にはそれこそ読むひとの数だけある。重複している部分もあるだろうが、分類する文章の数が増えれば増えるほど個々人で差が生じてくる。分類の基準は、たとえば言語や文章形態、ジャンルや類似作品など、言葉のつらなりから窺える共通項をどのように結びつけるかで変わってくる。玉入れゲームのようなものだ。いま読んでいる文章はいったいどの箱に入れようかな、と悩むだけのフレームが、文章には――というよりも、読者の頭のなかにはたくさんある。選びたい放題だ。そのなかでいくひしさんの文章はどのように分けられるかな、と二秒くらい考えて、ふだんなら何も思いつかなくてまあどれも違うかな、とか、どれも一緒だな、くらいで思考が逸れるところを、きょうは「あれ?」と引っかかるものがあった。たとえばいくひしさんは小説と日誌をつむいでいる。もうこの時点で二つに分類されてしまったが、この二種類は何も小説と日誌だから異なるわけではないのではないか、との引っ掛かりを覚えた。自作小説の霊魔怪シリーズなどは日誌のテイをとっていたりするが、これはやはり小説なのだ。日誌のようで日誌ではない。何が違うのか。一つには、視線がどっちを向いているのか、という点が大きく異なるように思うのだ。このいま並べている文章をはじめ、日誌は明確に読者を、すなわちいまこれに目を走らせているあなたを意識してつむいでいる。たいがいは未来のじぶんか、読書に馴染みのなかったころのじぶんへ向けて語りかけているので安心してほしい。もちろん小説でも想定している読者がいるわけで、しかしそれは飽くまで想定であって、対象ではない。小説の場合、いちど物語をつむぎはじめたら語り手の視線は、物語のなかに向かっている。けっして読者に語りかけたりはしていない。せいぜいが独白なのだ。言うまでもなく小説には無数の手法があるため、読者に語りかける小説だってたくさんある。売れている作品のすくなからずはそのタイプだろう。じぶんに向かって語りかけてくれているのだ、と読者が錯覚してくれればそれは読者のほうから物語を手元に引き寄せ物語の世界へと身を投じてくれる。だが、いくひしさんはそういうタイプの小説はあまり多く手掛けていない。掌編でいくつかつくったかな、といった具合だ。その点、この「いくひ誌。」では明確に視線をあなたに向けて言葉を発している。並べている。押しつけがましく、自己主張がすぎ、でしゃばって感じられる方もすくなくないのではないか。でしゃばって感じるもなにも読者がそもそもすくないのではないか、いないのではないかって、それはさすがに言い過ぎの気もするが、しかしいまは花粉症の季節なので、いい杉の木があってもおかしくはない。いくひしさんがいまどんな顔を浮かべているか見えているだろうか。あなたに顔を向けているので丸見えであろう。そうである。むふふー、と鼻の穴を膨らませて得意げになっている。ドヤ顔、またの名を、己顔である。鏡を覗いているようなものだ。じぶんでじぶんに語りかけているのだからぴったりではないか。


2577:【勘違いオバケ】
さいきんの悩みというか、これでよいのだろうか、と思うことの一つが、知識をいっぱい溜めても知識を溜める前のじぶんとあんま変わらんな、ということで。というよりも、本当に知識は溜まっているのか、からしてけっこう怪しい。もうわからんことだらけだし、なんだったらわかった気になっただけでじぶんでじぶんに説明しようとするとたいがい説明できずに、いろいろ「そこはどうなってんの?」と突っ込まれて、黙ってしまう。なんで? とじぶんの説明に投げかけるといくひしさんはたった一つの「なんで?」に言葉を詰まらせてしまう。理解が浅いからだ。というよりも、理解など端からしていないのだ。わかった気になっているだけで、ふんふんわかったー!という気分のみを味わっている。で、それはそれで楽しいからよいのだけれども、それだといざ何かをしようとしても、そのわかったー!だけでは何もできないのだ。利用できない。端から知識を溜めていなからだ。とはいえ、まったくのゼロというわけではない。だのに、そのゼロではないすこしばかりの蓄積された知識を用いても、とくに新しく何かをつくったり、できたりはしないのだ。選択肢が広がっていない。自由じゃない。なんでじゃろ。疑問に思って、腕を組んで、うーんって首をひねってみて、一つ思いついたのは、そもそもいくひしさんは新しい何かをつくったり、できたりしたいわけではないのかもしれない、ということだ。いやいや、小説はつくりたい。そう、小説をつくりたいのだ。物理的な何かに知識を利用しようと思って知識を溜めていないので、いざそれを利用して物理的な何かをつくったり、なしたりしようとしても、端から溜めた知識の形式が小説用になってしまっているので、ほかの創作や問題解決に流用できないのかもしれない。知識って、たとえ同じ情報であったとしても、蓄積のされ方というか、収納の仕方、もっと言えば引きだし方の形式が異なると、応用の幅が極端に減るものなのかもしれない。単に知識を記憶するだけでなく、それを用いて何をしたいのか、を通しで、流れで、回路として築いていかないと、というよりも、築いているからこそひとは記憶を行なえるのかもしれない。したがってひとは、しぜんとじぶんのつくりたいことや、なしたいことに最適化されたカタチで知識を蓄え、或いは何もつくりたくはなく、なしたくもなければ、そもそも知識は蓄えられないものなのかもしれない。定かではないが、すくなくともいくひしさんは本を読んで賢くなった気がぜんぜんしない。できることの幅が広がった気がしない。せいぜいが小説の素材が増えたかな、といった程度で、それも単なる錯覚にすぎない気がする。勘違いオバケと呼んでください。


2578:【五右衛門か!】
やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。おぬしは知らぬでござろう、いくひしさんはじつはけっこうに歳をいっておってな。もうもう腰はイタいわ、腹は減るわ、しろくじちゅうおねむだわ、イライラしたら泣きじゃくるわ、赤ちゃんか! ついつい顔を、くわっとさせてしまうでござるよ。そこにきてさいきんは、おひさしぶりに、ひさかたぶりに、作業中にカックンと意識を失いかけるでござる。むかしはたまーにあったでござるよ、積み木遊びをしていたらそのままコテンと床に倒れてしまって、赤ちゃんでござるか? 赤ちゃんでござる。おふろに浸かっているあいだにも意識がとおのくでござる。それならまだしも、でござるよ。いまじゃなんと、おふとんにもぐっているあいだに知らぬ間にすやすやぐーぐー、意識をうしなって、夢を見ているでござる。すいみんか! すいみんでござったでござる。あ、つまらんなって顔をしないでほしいでござる。いくひしさんだってまいにちまいにちおもしろいことだけ並べてはいられないでござる。たまにはこうしてつまらないへにょへにょも並べてしまうでござるけれども、赤ちゃんのぷりぷりほっぺに免じてゆるしてほしいでござる。たまにはおもしろいぷりぷりも並べていることもあるとそれとなくアピールをしてみたでござるけれども伝わったでござるか? いくひしさんはしょうじきさんなのでこうしてちゃんと自己申告をするでござる。えらいでござる。すごいでござる。もっとちやほやされてもよいはずなのになんでかいっつもシーンでござる。寝ている赤ちゃんよりもしずかでござる。寝ている赤ちゃんはかわいいでござる。寝ている子猫もかわいいでござる。もうもう寝ていたらみんなかわいいでござるよ。いくひしさんもかわいくなりたいのできょうもぐっすりぐーぐー寝るでござる。なんだかいっつも寝て終わるでござるな。寝ればオチると思っていないでござるか? やや、これがうわさの寝落ちでござる。またつまらぬオチをつくってしまったでござるー。


2579:【ぐらぐら】
あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たぬ、といった頭痛の種をトレードオフなんて言いますれば、世のなかの大部分の問題というものはこのトレードオフにおけるあちらとこちらのどちらを選ぶかの問題でございまして、そこにきてではあちらとこちらのどちらを犠牲にするか、生かすのか、の問題として拡大解釈してもよいかというとそれはいちがいにそうとは言い切れぬ、もどかしさがでございます。どちらを捨ててどちらを活かすかの天秤であるならば、捨てたほうはまたいずれ使いまわせばよいわけで、保留という選択肢を忘れてはいけないわけでございます。トレードオフが一度きりとは限らぬもので、何度でも繰り返してもそれはそれでよいわけでありまして、たとえば世のなかにはトレードオフを繰りかえすことでしか得られぬ境地というものもございますのではないか、とソレガシめは思うのであります。あちらを選んでこちらは衰え、のちのちこちらを選んであちらが衰える。しかしいちど肥えたあちらなれば仮にのちのち衰えたとして、総合してみればマイナスとはなっておらず、繰りかえせば繰りかえすほどにトレードオフは双方ともに肥えていく。のみならず、重複する部分にてこれまでなかった何かが凝縮されては、ダマとなって、核となる。これはもうもう、繰りかえされる栄枯のなせる業と見做して遜色なく、損はない。むろんいちどきりの切り捨て御免で、二度目のないトレードオフもございまして、なるべくどちらも活かせる道はないのかと比べっこに押しあいっこ、よくよく目を凝らしていきたいものでございますな。なにはともあれ、捻転ばかりの人の世のつね、天秤ばかりの両端にいったい何を載せましょうか、品を見定めるにも大小さまざまな秤が入り用でございまして、マトリョーシカよろしく無限回廊に迷いこまぬようにとひとつ余計なお世話に、お節介、注意を喚起して、今宵の「いくひ誌。」とさせていただきたい。みなみなさまにおかれましては、ぜひともお身体、体調、おだいじになさってくださいと、春一番の風のつよい夜にて、あちらとこちらのついでにみなみなさまのお顔も立てておこうと姑息に企み、三つ巴、或いは三方よしを選んでいきたいと高望みして、ここいらで筆を擱くといたしましょう。きょうもきょうとて、あちらもこちらも関係のない、万年ぐらぐらやじろべいこと、いくひしまんでした。


2580:【創作者失格】
よいですかいくひしさん。あなたがしているのはただの破壊です。邪魔であり、迷惑であり、他人の足をひっぱり、傷つけ、損ない、裏切っている純なる悪です。身の程を知りなさい。


______
参照:いくひ誌。【611~620】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883534208

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