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いくひ誌。【1141~1150】

※日々、過去のじぶんを消し去りたいと未来のじぶんからもそう思われているだろういまのじぶんを書き換えたい。


1141:【きーこーえーなーい】
欠落は埋めようとするから得るものがあるのであって、欠落を欠落のままでよしと開き直ってしまったら、単なる欠落以上の意味合いは生じない。生じないんだよいくひし、ねえ、聞いてんの。


1142:【いいんだよ】
うっせー。穴ぼこが欲しかったんだよ、それでいいんだよ。穴ぼこに穴ぼこ以上の意味をつけようなんておこがましいとはおもわんのかい!


1143:【思わんけど?】
おまえの見た目レンコンやんけ。どんだけ欲張ったん、欠落。


1144:【裁量労働制】
話題になっているらしい、ということしか知らないが。裁量労働制は、仕事量をどのように規定するかが問題だ。仕事量の規定がトップパフォーマーのレベルならば奴隷制度になるし、ローパフォーマーに合わせれば、労働者の負担を下げつつ能率の向上に繋がる(生産性をあげた分だけ労働時間が短縮されるならば、いままで身を入れて仕事をしていなかった層が生産性をあげるようになる。労働時間が短縮されるというのは、相対的に賃金があがることになるからだ。また、そのとき企業側の支払う給料は減少するので、WIN:WINの関係性が成立する。反面、トップパフォーマーの能率を基準にしてしまうと、ほぼすべての従業員がサービス残業をするはめになる。アスリートを基準にされたら大概の者は、規定値以下の成績しかだせなくなるだろう、単純な理屈だ。すると誰も真面目に働こうなどと考えなくなり、全体の能率は下がっていく。企業、労働者共に、誰も得をしない。ただし、ここに他国の安い労働者が入ってくると話が大きく変わってくる点には注意が必要だ。ともあれ、その場合は、現状の労働環境でもそう変わりはないのだから、議論するならばべつの話になっていく)。しかし、AIの導入など次から次へと設備投資によって仕事量の変化するいまの時代に、適正な仕事量を計るのはむつかしい。すくなくとも、環境が変化するつどに、時間を費やし統計的に判断していかなければならない(繁忙期と閑散期とではやはり仕事量は変化する)。そのたびに規定を変更し、さらにそれをチェックする第三機関を確立できるかが焦点となっていくだろう。可能であるようならば、新しい時代の働き方として導入してみるのもよいのではないかと思う。(仕事量を見える化していかないことには、労働環境は改善されていかない。コンビニ店員のように、空いた隙間に新しい仕事を詰めこまれ、トータルで苦しくなるだけだ。そのためにも、仕事量の明確な指標は必要だろうと考える)


1145:【遺伝子プールと98%】
ヒトゲノムは解読された。しかしゲノムにはタンパク質を合成する遺伝子と、それ以外のジャンク領域が残されている。ジャンクはヒトゲノムの98%に相当する。ヒトゲノムに刻まれている情報の98%が肉体の設計図以外の情報なのだ。私見だが、その領域には、系統「遺伝子プール」が蓄積されていると考える。遺伝子プールとは、個体ごとの差異を含めた種全体の、遺伝子情報である。AとBとCの民族があったとして、それら三つは人類である以上、それら民族間にある身体的特徴を含めた遺伝子情報は、総合して、遺伝子プールとして見做すことが可能だ。ただし、AとBのあいだに交配した過去がなければ、AにはBにのみ見られる遺伝子情報が欠けていることになる。だが人類からすれば、AとBが交配するにしても、しないにしても、その遺伝子情報は保存されていることになる。ただし、個体としてみたときに、遺伝子に含まれる情報は多いほうが、より生存に有利になる。AとBとCすべての遺伝子情報を有していたほうが、ウイルスや環境の変容に適応できる確率があがる。ただし、遺伝子情報には、肉体に引き継がれやすい顕性と、なかなか面に現れない潜性があるため、遺伝子情報を多く持っていれば有利とは、一概には言えない。また、現存する人類は、すでに多くの民族間で交配しつづけてきた歴史がある。いかに民族として純潔だ、と言い張ったところで、必ずほかの民族と遺伝子を共有した過去があるはずだ。そういう意味で、誰もが「遺伝子プール」を保持していると見做すことが可能だ。それを、ここでは「系統遺伝子プール」と名付ける。あなたの祖先の辿った長い交配の歴史が、あなたには、あなた独自の「系統遺伝子プール」として刻まれている。個々人が、自分だけの「系統遺伝子プール」を保有し、それらすべての系統遺伝子プールが、人類を一単位とした遺伝子プールを形成する。話は冒頭に戻るが、おそらくその「系統遺伝子プール」が、ヒトゲノムから遺伝子を除いた残り98%に含まれているのではないか、と妄想している。科学的根拠はない。だが、そう想像してみると、色々とわくわくしてきませんか?


1146:【暴論の暴論】
けっきょく、どんな暴論も、一部では正しく適用できるケースが存在する。すべてが間違っている暴論は、もはや言語たり得ない。どんな正論にも例外が存在するように、どんな暴論にも妥当性は点在する。では、この主張にはどんな例外があり、どんな妥当性が浮上するだろう? 正論と暴論の違いとはなにか? ふたつは異なるものだろうか? あらゆる論は、暴論であり、そのなかに正論があると考えると、腑に落ちる。世の中には、二種類の論しかない。暴論の暴論と、暴論の正論である。


1147:【非酸】
他人に酸をかけ、傷つける犯罪がある。皮膚は融け、目はつぶれ、ときに聴覚まで奪われる。それらの傷が消えることはない。アシッドアタックと呼ばれる犯罪だ。アシッドアタックが有効とされるのは、見た目によって対人関係がガラッと変わってしまう、人間の習性に因を求めることができる。酸をかけられ、傷ついた者は、その見た目の変貌具合から、人々から忌避されるようになる。だがその習性は変えようがない。かといって、内面が人間の本質だと言い張るにしても、そこで性格の歪んだ者を排除しようとしてしまえば、それそのものが思想の自由を脅かし、けっきょくのところ見た目で人を判断し、差別するのと同様の結末に至る(他人を排除しようとする時点で性格が歪んでいるとも言えるが)。なんにせよ、他人に危害を加えることが平然と行われつづけていく背景には、それをする者とされる者とのあいだに明確な格差があるように映る。それは見た目の違いかもしれないし、性別かもしれない、身分差かもしれないし、出生の違いかもしれない、信仰の違いかもしれないし、資産の多寡かもしれないし、或いはそれらすべてかも分からない。いずれにせよアシッドアタックを含めた、他人の人生を狂わせるような危害が、許されていいわけがない。憤ることはできても、何もできないじぶんがいる。きっとあすも何もしないでいるだろう。ただ、せめて周りで同じような目に遭っているひとがいるならば、そのひとたちの目線でまずは物事を考えていきたい(一つの目線だけでは不足だろうが、人間は同時にいくつも考えることはできない。初めのとっかかりをどこに据えるかは重要に思う)。似たような構図はどこにでも有り触れている。かけられているものが酸ではないだけだ。


1148:【にがて】
褒められることが苦手だ。何かをしたとき、良く思われて当前だ、と傲慢に思っているところがある。だから想定していなかった文句や批判が、有益に感じる。同時に、称賛は好きだ。誰かが誰かに向かって、あいつのこれこれはいいものだ、と言ってもらえるのはすごくありがたく、うれしく感じる。ひるがえっては、じぶんに向けられる正の言葉は、十割お世辞の域をでないと感じる。良くて当然、ただしじぶんが至らないのは知っている。だからこそ、こちらの差しだしたリンゴを食した者がそれをほかの人たちに薦めるか否かが、一つの指標になっている。評価の高さよりも、話題性が重視される時代背景にはそうした個人の価値観の変化が関係しているように感じる。要は、みな意識(理想)が高いのだ。何より、誰もが何かの発信者になりつつあることが大きな要因ではないじゃろか。(過度の一般化)


1149:【ぷろもーしょん】
話題性は大きく二種類に分けられる。コスプレ型か、知恵型だ。ディズニーや流行語など、それを高く評価したり、口にすることで、自分の株があがるように錯覚できるものが、コスプレ型の話題性である。一方で、誰かが困っている、そうしたときに、過去の自分の体験から、これを使うと解決できるよ、と善意で薦める、これが知恵型の話題性である。前者のコスプレ型は一過性の話題で終わりやすく、ディズニーのように強固なブランドを形成していない者にとっては、あまり有用ではない。ツイターでバズるつぶやきのように、数日後には誰も話題にしなくなる傾向にある。反して、知恵型は、ブランド力を高める方向に働く。数字として表出しにくい話題性であるが、確実にそれそのもののシェアを広げるだろう。ブランドとは、名前に向けられた評価ではない。名前から離れたところ、権利者からは見えないところでどれだけ話題にされているか、が重要である。口コミが有益だったのはそのためだが、いまは権利者の顔色を窺ったり、同業者同士の利権が絡むので、ネット上のレビューにはかつてほどの価値はないと考えるしだいである。(むろん無価値ではないが、プロモーションとしてはアテにできないだろう)


1150:【戻すよりかは】
環境変容の要因が、外来生物にあったとしても、それがいまの生態系に取りこまれてしまったならば、その悪因を排除しようとする考えは、生態系を滅ぼしかねない。悪因が入りこまないように徹底的に排除することは有効だ、しかし悪因が入りこみ、環境を構成する要素の一つとして常態化してしまったあとでは、むしろそのままにしておいたほうがよいこともある。環境の変容は不可逆だ。元に戻せることもあるが、基本的には、いちど変質してしまったら、再現するのはむつかしい。そもそもを言えば、悪因を悪と決めつけているのは、現代人であり、いまある環境からの主観でしかない。変質したあとでよりよい環境になることもあり得る。むろん生存バイアス、結果論であるので、前以って予期できるならば、変質そのものをコントロールしていくことはたいせつだ。出版業界を取り巻く、海賊版サイトについても同様のことが言える。いま仮に、海賊版サイトを撲滅できたとして、売り上げはもう元には戻らないだろう。たとえば現代人からスマホを取りあげたとして、公衆電話が復活することはないのと同じ理屈だ。人々は気づいてしまったのだ。よりよい環境があることを。認知してしまった以上、それをなかったものとは見做せない。悪因はもう市場にしっかり根付いてしまった。引っこ抜けばそこにはただ穴が空くばかりだ。そこに埋めるべき、自分たちの植木をつくる時期である。問題は、引っこ抜いたのが竹である点だ。新たに植える木々は、すべての根が繋がっていなければならない。好き勝手に樹を植えても、養分を取り合って、けっかすぐに枯れてしまう。根を繋ごう。地上に葉を茂らせたければ、まずは地中で、ほかの木々の根と結びつき、竹林に負けない雑木林をつくるのだ。竹林にはなかった生態系がいずれ新たに築かれるはずである。鳥や獣、昆虫たちにとっては、土のなかのことなど知ったことではない。荒野になれば、ほかの地に移るだけである。根を繋ごう。


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参照:いくひ誌。【521~530】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883247213

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