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いくひ誌。【451~460】

※意地を張りつづけて十余年、いよいよ張りつめた意地が悲鳴をあげ、チリチリとほころびはじめている、切れるがはやいか、力尽きるがはやいか、ここでも新たな意地を張っている。


451:【散歩しよ?】
SRNO - Give It All Up (ft. Gia Koka)


452:【レンズ】
物語にも倍率というものがある。人称や視点の差異は関係がない。同じ倍率で物語をつむいでいくと、それを構成する一文一文がどれほど優れたものであるにせよ、退屈な文章の羅列でしかなくなる。集中すればするほど倍率は高くなり、顕微鏡のような描写をしてしまいがちだ。理想は、顕微鏡で物語の細部を確認しつつ、望遠鏡でそこからでは視えない遠くの出来事を探り、平行して双眼鏡で身近なひとびとの暮らしぶりを盗み見る。基本は語り部の目から映る範囲のできごとで、しかしそこには無意識化で共有される顕微鏡や望遠鏡、双眼鏡などの複眼からの情景が忍ばされている。何が重要で何が重要でないのか、叙述すべきかせざるままであるべきか、複眼を構成する目の役割に応じてそれらは決せられる。複眼を構成する目の数がゼロに近づいていくほど文章の倍率は低くなっていき、イチならば叙述すべきことがらはなく(描写になり)、また、ゼロならば筆の行方も定かではなくなる。物語同士が交差するたびに目の数は増し、また交差したあとでは目の数は必然、減っていく。物語が多重に編みこまれている作品ほど、倍率は要所要所で起伏に富み変化する。


453:【ヒカキンなるアスリート】
YOUTUBERなる言葉は知っていたが、いざどういう人たちを示すのかは解らなかった。そんな無知無知ボディのいくひしであっても「ヒカキン」なる人物の名は知っている。名を知っているだけでどんな人物なのかはやはり知らなかったが、知る必要もない、と高をくくっていた。どうせ動画投稿サイトYOUTUBEで動画を投稿して不特定多数からチヤホヤされてる承認欲求の塊みたいなやからでしょ、と偏見120%でななめに構えて、いっさいその正体に目を向けようとしてこなかったわけだが、このたび、「ヒカキン密着24時 〜YouTuberの裏側〜 」なる動画を視聴し、いくひしは見も知らぬヒカキンさんに土下座したい気持ちにさせられた。ホント、見下した目で見てごめんなさい、舐めくさっててすみませんでした。尊敬します。あーこのひとはお金にならなくてもきっと同じように毎日アホなことを真面目に愚直にやっていくのだろうなぁ。そう思わせる人間味あふれた人物に映った。実際はどうかは分からない。しかしそう思わせるだけの映像編集技術を持っている時点で、やはり尊敬に値するのである。ヒカキンさんの一日はきっといくひしのひと月より色濃い時間が流れている。これでもいくひし、がんばってるつもりだったけど、ぜんぜんそんなことなかった。じぶんがはずかちい。いい動画を観させてもらった。ありがたい。


454:【対価】
お金を払ってもらう、というのは特別なことだ。なにかしらの益を誰かから得たらお返しをする。これはたいせつな心がけである。しかし自然な行為では決してない。特別なことなのである。人類の積み上げてきた文化が、そうしたルールを暗黙のもとでも成り立たせられるように育んできたからこそ、そうした善意は社会に浸透したのである。自然に、雨のように、ぽっと降って湧くようなシステムではない。しかし、現在、それが一部でこそあれ、崩れようとしている。小説に焦点を絞って話そう。たとえばツイッターでは誰もが無償で言葉をつぶやき、発信している。そのつぶやきから有益な情報を得たとしても、受動者が発信者に対して何かお返しをすることは稀だ。いいねやRTをして、ある種の称賛を示すことはあっても、それがつぶやきへの対価と呼べるのかは怪しいところである。仮にそれが対価として成立するのであれば、小説を読んだ者が、おもしろかったです、と作品を高く評価するだけでその作品への対価を払ったことになってしまう。個人的にはそれを対価と認めることに抵抗はなく、なにもふしぎではないように思うが、現実では、出版社というスポンサーのついた作家のつむぐ作品にかぎって言えば、それだけを対価と呼ぶのは不条理だとする認識を持たれる。しかし、小説もつまるところは文字であり、情報である。無料で発信される無数のつぶやきと、電子書籍化された小説、そこにいかほどの差異があるというのか。出版社を通しているか否か、それ以外にちがいを求めるのはむつかしい。つぶやきは物語ではない、という主張がでてきたとして、ではアマチュア作家と商業作家とでは何がちがうのか、という話になってくる。アマチュアであろうと、プロ並みに読者を獲得している作家はいる。善悪の判断を抜きにして、無償と対価アリ、読者はどちらの作家の小説を読むだろう。本当に欲しいものがタダで手に入るのである。タダより怖いものはない、そんな言葉も世にあるが、しかし怖いならばタダとは言わない。タダとは、それを手に入れても何も失われない状態を言うからだ。ならば真実、タダで有益なものを手に入れられるとすれば、ひとは対価を支払うよりも、タダのものを手にしたくなる。不自然なことではないし、ふしぎでもない。本は中身の物語に値段がついているのではない。本という媒体に値段がついているのである。本という肉体を失くした物語は、情報という第三の形態――物体でも思念でもない、多くの者たちと共有可能な「概念」としてその存在を維持できるようになった。人類史において、概念に値段がついていた歴史はない。著作権ですら、保護するのは発想であり、概念そのものではなかった。その点、商標登録はゆいいつ概念にちかいシンボルを保護する目的でつくられたルールではあるが、それも権利を保障するにとどまり、値段の制定には至っていない(そういう意味では、為替や株の売買は、「信用(権利)」という概念に値段をつけている行為と呼べるかもしれない。ちかごろ問題になっているメルカリでの現金の売買にしても同様だ。お金に値段をつけるという行為は、お金という概念の価値を大きく揺るがすことになる。概念とは基本的に、なにかの基準となるものだ。基準がほかの基準によって枠組みを縮小させられたり、拡大させられたりすれば、その枠組みはやがて基準としての役割を失い、概念としての性質を維持できなくなる)。話を戻そう。我々現代人は、物語をデータとして扱えるようになった。本に値段がついていたように、現代ではデータを読み込み、再生させる端末に値段がついている。そこにデータを提供するシステムへの対価を加えてもいい。すでに対価は支払われている。ではなにゆえ、カタチなき「概念」に重ねて報酬を与えなければならないのか。提供者の視点ではなく、それを受動する側からしてみれば、考えるまでもなくそのような不満を抱くはずである。この不満は理不尽でわがままなことだろうか? ハッキリ言って、本を窃盗することと、データの流用はまったく別の次元の話である。しかし、過去の風習に囚われている者たちにはこの違いが知覚できないようである。繰りかえすが善悪の話ではない。どちらが理に適い、どちらが理屈として筋が通っているかの話である。言葉遊びと言えば端的だ。データそのものに値段をつける時代は、理に適っていない。サービスにしても同じだ。サービスの内容を伝えただけでは対価を支払ってはもらえない。それを物理的に提供してはじめて相手に満足してもらえる。利を提供できる。アイディアもまたしかりだ。それ単体では無用の長物である。図案は製品にしてこそ意味を持つ。では、データのまま存在を維持する物語には、いったいどんな対価が支払われるべきだろう。物語という図案から製品をつくりあげるのはいったい誰になるだろう。概念は、それを起動し物理世界に還元した者に対価を要求しない。概念を起動した者が、それを他者に提供することで利を生むのである。ならば概念としての物語を扱う者たちがすべきことはなにか。それらをより多くの者たちに起動してもらう場をつくりあげること――そうしたシステムを構築し、起動させ、サービスとして提供することにあるのではないか。収益モデルはそこを基盤とするほかに、概念としての物語の商品化はないように思う。無料化ではない。物語は本質的に値段がつけられないのである。


454:【見返り】
データとしての物語に、それでも見返りを期待したいのならば、それは対価ではなく、お布施というカタチになるだろう。施しである。無償の奉仕である。それを読者に無理強いすれば、物語は神となり、祈りや供物なくして存在できない異形のモノと化すだろう。教祖にでもなりたいのかな?(勘違いしてほしくはないが、物語を提供する行為そのものは、対価を得るに値する。物語提供サービスとして需要はあるだろうし、仕事になる。しかし、それはサービスに対する対価であり、提供した物語そのものへの対価ではない。その証拠に、たとえば本は、その中身の物語がどれほど優れていようと、或いはどれほどお粗末だろうと、本一冊の値段に大きな差異はない。稀覯本や文化財としての本には付加価値がつくため高値になる傾向はあるが、それもまた中身というよりかは、本そのものの古さに値がついていると呼べる。作家が職業として成立するのは、概念としての物語を、文字というデータに変換する作業を担っているからである。概念をまたべつの、より広く共有されやすい形式へと変換する。その翻訳作業に対価が支払われていると呼べる。ゆえに、作家が意識すべき顧客がたとえ読者であろうと、やはりというべきか、実質的な顧客はそれを商品化する版元なのである。繰り返しになるが、我々が本を購入するとき、それは任意の物語を〈入手するためのシステム〉へ対価を支払っているのであり、物語そのものへの対価ではない。物語に貴賤はない。ゆえに値段はつけられない。それは、人の命に優劣をつけられないのと同じことである)


455:【バンバン!】
裁判長! やつの言い分は詭弁であります! 至急反論の許可を!


456:【許可する!】
あのねぇ。お話にならないですねぇ。いまの経済社会において、値段のつけられないものはないんですよ。値段がついたらそれは商品です。買う者がいるかいないか、それは後の問題であって、本質ではございません。で、本についてでしたか? あのねぇ、本はですね、人間の知る権利が極力偏らないようにと、可能なかぎり均一な値段を定められているんですよ。価値のある情報ほど高く、そうでない情報は安い、そんなことになれば資本を持っている者とそうでない者とのあいだで余計に格差が広がってしまうでしょう。知識は万人に配られて然るべきものなんですよ。だから本は中身の是非に拘わらず、一定の値段なのです。おっと、こんな言い方をすると、ならば情報はタダでばら撒くべきだ、なんて暴論を投じられてしまいそうですね。そんなことになればネットの虚構ニュースの二の舞になるでしょう。値段の設定にはある程度の情報の質を担保する効果があるのですよ。電子書籍にしたって同じです。無料で配布する、これは何も責められるものではない。しかしそれは飽くまで、提供者が意思決定すべき事柄です。商品を受動する側が、値段にケチをつけるのは、まあ、ケチをつけるだけならばそういう自由もあるでしょうが、しかしそのケチを強要しては、それこそタダにしろ、なんて言いながらその手で商品をかっさらうような真似をすれば、そんなのは盗人と同じです。盗人以外の何者でもないのです。いいですか。本質どうのこうのは、まあいいでしょう、そういう一面もあることは認めます。ですが、いまの経済のうえでは値段が定められ、そういう商品として売りに出されている以上は、その対価を払わずにそれを手にすることは、してはいけない罪なのです。そんなシステムは間違っている、時代遅れだ、そういう主張もあるでしょう。それもまたある一面では正しい。しかし、たとえ間違ったシステムだったとしても、それが基準として公に認められているならば、それにのっとった行動選択を我々社会に内包されている者はとらなくてはならないのです。人を殺してはいけないというルールがあれば人を殺してはいけないのです。あべこべに、人を殺さなくてはならない、というルールができてしまったら、それがいくら間違った思想だとしてもそのルールに従わねばならないのです。いいですか、だからこそシステムやルールは重要なのです。一個人の身勝手な判断でかってに破るような真似はしてはいけないのです。いいえ、破る自由はあるでしょう、しかしそれを破ったならば、同様にして定められている罰則を受ける覚悟は持つべきです。あなたが違法に視聴し、ダウンロードしたそれら情報は、総額でいったいいくらになりますか? 覚悟なき者にルールを破る資格なし。よくよく考えて違法で犯罪なそれに手を染めましょう。


457:【反論になっていない】
けっきょく、ダメだからダメだ、としか言いようがない時点で、さきは見えている。工夫を迫られる段階はとっくにすぎているのだ。ではどうすべきか? まずは宿敵の手法を「効果的だ」と認めるところからはじめるよりない。そう、効果的は硬貨的なのだ(意味があるようでないジョーク)。


458:【メモ】
トリアージ。赤、黄、緑、黒。赤はなぜ二種類ないのか?


459:【とくになし】
とくにないです。


460:【2017文学フリマ東京5/7】
行ってきたよー。ひとの多さに死ぬかと思った。こわかったぁ……。なんだろうな、イベントの感想でも書いとくか。とりあえず久々にひとと話して緊張した。だいたいがおとなりのブースのお姉さん方と交わした、ひとこと、ふたこと、だけなのだけれども、まあ、なんだ、きんちょうした。ひとの優しさに触れるとね、まあね、そのぬくさにびっくりするよね。深海魚に熱湯、みたいなね。ショック死二歩手前でしたわ。ふたこと以上は交わしたので、ショック死ですわ。焼けましたわ。こんがりジューシー焼き魚なのですわ。かんぜんに今は自棄ですわ。あとはなんだろうなー。購入した本のなかでは、ブース「エ-28」の粒子さんという方の同人誌「標本」が、断トツに好みだったなー。ほかの出店者の方々の作品も、試し読みコーナーで三時間くらいみっちり読み漁っていたのだけれど、やっぱりいくひし、個性的な作品につよく惹かれる。個性的というか、個性を消そうとしてもにじみ出てきてしまう灰汁みたいなものが好き。文学文学しているものは、なんかちょっと、そのレベルを楽しめるところまで、いくひし、まだ文学をたしなめてない。どちからというとすこしダシ舐めてる。文学から滴り落ちている、ダシというか、灰汁というか、なんかこう、ハミでちゃって、にじみでちゃったモノによわい。よわい、というか、ひわいというか、王道からズレたことに恐れを抱きつつも、でもこっちにだって行きたいんだもん、みたいな分からず屋の物語って、なんかいくない? 王道は王道でかっくいいのだけれども、王道は王の道ゆえ、王のモノしかおいちくない。それはそれでイバラの道でたいへんそうだ。まあ、いずれにせよ、いくひしに目をつけられるような作家さんは、ホント今後苦労するかもしれないね。とっくに苦労をしているのかもしんないけどさ。同志って感じだ。かってに勇気をもらったよ、という報告を以って、今回の感想といたしましょうかね。おまえのどこが苦労してんだ、みたいな野次が聞こえてきそうでもないけれど、どうせいつもの幻聴だ、って聞こえなかったふりをする。

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