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雉山いると

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  • 2022年11月6日

    ネット小説の〝需要〟って、なんだ?

    (2025/02/07 一部追記と誤変換などの修正)  老若男女プロアマ問わず。  ベテラン作家も執筆を始めたばかりの素人も、誰もが同じフィールドで殴り合うという蠱毒めいた戦場、小説投稿サイト。  そんな厳しい世界で〝勝利〟――ある程度の評価・感想といった慎ましやかなものだとしても――を掴もうとすると、必然、こんな二択が思い浮かぶかもしれません。  A:ウケそうなもの、需要のありそうなものを書く  B:それでも自分の書きたいものを書く  現実問題として、コンテストでの入賞や書籍化といった大きな目標どころか、多少なり目に見える評価が欲しいというささやかな願いですら、前者のスタイルでないと得られないように感じるかもしれません。  好きに書いて評価されれば一番だけど、実際には難しい、と。  ですが、改めて考えると謎じゃありませんか?  そもそも、ネット小説における〝ウケそうなもの、需要〟ってなんなのでしょう?  ただ流行りを追っていればいいのでしょうか?  まずは結論から。  私は、流行りやテンプレを意識しても、そこに〝需要(読者が求めるもの)〟があるとは感じていません。  むしろ、〝考えてもあまり意味がないもの〟と捉えています。  というのも、いまネット小説にあるのは、 ・『読みやすさ(わかりやすさ)』 ・『フック(話の引きの強さ)』  この二点のバランスだけだと思うからです。  これを突き詰め、最適化した結果として生まれるのが、流行りやテンプレ。  〝需要〟があるから形ができたというより、最適化した結果、より多く読まれるようになるという認識ですね。  どんなジャンルがいいか、どんな設定やキャラクターがウケるのか、といった要素もろもろも、結局はこの2点に集約されます。  おそらく多くの方が感じているとおり、作品の質や面白さは、評価(ポイント)の度合いに必ずしも影響しません。  いえ、語弊を恐れずはっきり言ってしまえば、作品の質は〝誤差〟程度の存在でしかない。  ネット小説というのは、例えるならファストフードや駄菓子のようなものだと思います。  求められるのは栄養ではなく、手軽さや食べ応え、コスパ。  もちろん、より美味しく質が高いに越したことはありませんし、なかには本格的な料理――作品も含まれていますが、主流ではないはずです。  現実にそうしたものを食べるとき、味(質)だけを真剣に吟味する、なんてまずないのと同じように。  その場でいろいろ目移りしたり、気分によって変えたり。同じ価格帯ならば、土壇場で店やメニューを変える、なんてこともよくあると思います。  ネット小説の〝需要〟も、その程度ではないかな、と。  手軽でわかりやすく、なにかしらの引きがあれば、手に取るものがその場でころりと変わる不確かなもの。  なぜそれにしたのか、選んだ本人ですらはっきりとはわからない、というケースも多いのではないでしょうか。  だから考えても無駄、とまでは言いません。  ただ、需要を気にしても〝正解〟は得られないと思うのです。ましてや、『ウケそうなものを書こう』と思ってる時点で、他者の後追いでしかないのですから。  作者としての〝手応え〟をそこに求めてしまうのは危うい、と思っています。  せっかくなので、もう少し深く考えてみましょう。  そもそも、ネット小説におけるウケそうなもの、流行りやテンプレとはどんなものなのか?  異世界もの? 主人公最強無双チートでハーレム? 成り上がりにざまぁ? 悪役令嬢もの? ゲームなどフィクション内への転生・転移? あるいはラブコメ、勘違いものやスローライフ?  いずれも、ランキングで見ない日はありませんね。たしかな人気があるように思えます。  とはいえ、押さえておきたい点があります。  いま挙げたジャンルや要素はいずれも、最近になって急に生まれた新しい流行りではない、という点です。  たとえば異世界ものです。  いまや食傷ぎみという方も多そうな、流行りを超えて供給過剰な感すらある巨大ジャンルですが、突然湧いてきた新興ジャンルというわけではありません。  むしろ、長い歴史を持つ、昔からの定番とも言えるでしょう。  遡れば、洋服ダンスの向こうはべつの世界だった――という【ナルニア国物語/1950年】や、本のなかにべつの世界があった――という【はてしない物語/1979年】も立派な異世界ものです。 【はてしない物語】なんて、いまでいうゲーム内転生・転移の先駆けぽいですよね。  本のなかにべつの世界があり、危機に陥ったそこから〝勇者〟として呼ばれ、飛び込んでみれば謎多き美少女から最強無双チートをもらい、仲間とともに冒険に出る……なんて、いかにもじゃないですか。  もっとも、原作を読まれた方ならご存知のとおり、そんな単純で浅い話だったとしたら名作とは呼ばれないでしょう。  借り物の力でイキって好き放題していた主人公にやがて訪れる大きな代償、大事なものを見失ってしまったツケを自分自身で支払う終盤の悲壮さとそこからの再生は、いまだ色褪せない感動があります。  そこまで遡らなくとも、80~90年代の日本のアニメや漫画などにも多数の異世界ものがあったのを、当時から現役であった三十代以降の〝オタク〟な方であればよくご存知かと思います。  これは異世界ものに限りません。  ざまぁ的な復讐譚なんて、もう神話の時代まで古く遡れちゃいますよね。  日本の時代劇などでも、まだ白黒フィルムだったころからずっと定番の〝仇討ち〟も同種でしょうし。 【巌窟王(モンテ・クリスト伯)/1844年】なんて、今風に仕立て直すだけでもネット小説としてふつうにウケそうです。  ともあれ、異世界ものだけでなく、主人公最強も無双もチートも成り上がりもざまぁもスローライフも、かなり前から(少なくとも90年代ごろにはひととおり)あったわけです。  どれも一時的な流行り廃りではなく、あとに続く人たちがいたからこそ認知され、定着した。  上で述べたとおり、いま挙げたジャンルや要素というのは、どれも長い時間をかけて作り上げられたものではないでしょうか。  テンプレ、という表現があります。  このテンプレとはつまり、上記のような以前から人気のあるジャンルや、昔ならお約束や王道と呼ばれていた要素を、ネット小説向けに最適化したもの、と捉えています。  小説投稿サイトという場所で、いまできる限り読んでもらうためにどうすればいいか、試行錯誤と調整を重ねた結果、残った〝型〟。  そりゃウケるに決まってますし、実際メリットも大きいのですよね。  もし私が、テンプレのメリットはなにかと問われれば、まずこう答えます。 ――『情報を圧縮できること』  〝型〟とはつまり、前提や土台の共有です。  たとえば、『勇者と魔王』。  ほかにも『悪役令嬢』に『婚約破棄』、『NTR』や『ざまぁ』。  もうこれだけで、立場や関係性、状況がほんのり見えてきますよね。それそのものについて長々と説明する必要がない。  書き手の方なら身をもって体験されたかと思いますが、この〝説明〟というやつが難敵なんですよね。特に基本的な情報量の多い作品とか。  不必要に長いのもよくないし、かといって説明しなさすぎてもマズい。 「むしろ説明描写書くのがすき!」という方もいるでしょうけど、「俺が書きたいのは説明じゃなくてストーリーなんだよ!」となる場合も多いかと思います。  テンプレはそこを圧縮し、あらすじやキャッチコピーでわかりやすくアピールできる。  まだ経験が浅く、小説そのものに不慣れな作者さんはもちろん、ベテラン作家さんでも恩恵はデカいでしょう。  ネガティブな意味で使われることも多いテンプレですが、これがあるからこそ、テンプレ崩し――お約束を逆手に取ったカウンター的作品や、さまざまなバリエーションの派生といった個性豊かな作品も生まれるわけです。  このテンプレをお題とした一種の大喜利、私は大好きです。  これこそネット小説の醍醐味、ネット小説でしかなしえない魅力のひとつじゃないかと。  さて、じゃあ異世界テンプレを書けばウケるかというと、さにあらず。  実際に挑戦された方ならよくご存知のとおり、人気ジャンルほど競争も激しく、思ったように読んでもらえないという方がほとんどでしょう。  異世界テンプレに限らず、マイナージャンルよりかは流行りに乗ったほうが読まれるとか、エロは強いとかいう声も聞きますけども、それほど単純ではありませんよね。 (エロがあっても読まれないやつは読まれないよ!)  実のところ。  いま現在のネット小説投稿サイトは、上で述べてきた〝最適化〟が進みすぎて、異世界ものが人気みたいな、単純なジャンル人気すらも通り越している感があります。  冒頭で挙げたこの二点、 ・『読みやすさ(わかりやすさ)』 ・『フック(話の引きの強さ)』  これが、本来ならあるはずの〝需要(読者が求めるもの)〟や作品の質よりも、もっと重要で支配的なパラメーターになってしまっているのですよね。  いやそれが面白いってことだろ、と思われるかもしれませんが、作品の質(面白さ)には他にもいろんな要素や種類があるはずなんですよ。  なのに、上の二点だけが突出して、これがなければ同じスタート地点にすら立てないという前提条件と化してしまっているのです。  面白いストーリーも、魅力的なキャラも、〝いま〟〝ネット小説投稿サイトという場所で〟、そう感じてもらえるように最適化しないと、ろくに読んですらもらえない。  たとえば、テンプレとは言い難い個性ある内容でありながらランキング上位に来ている作品などは、内容そのものは画一的でなくとも、文体や構成などがネット小説向けに最適化されている場合がほとんどです。  ほかにも、これはちょっと批判めいた表現になってしまいますけども、最初の引きだけ強くてあとは尻すぼみ、みたいな出オチ感漂う作品に高評価が入るのも、いまのネット小説ならではと言えるでしょう。  それが悪いこととは思いません。  長文あらすじ系タイトルなども含め、投稿サイトという場所に最適化しようとすると、自然とそうなるよなあと納得できるからです。  ただ、書き手にとって厳しい世界なのは間違いありません。  とはいえ。  最適化だけで語れるほど単純な世界でないのも事実です。  安定してヒット作を連発する人気作家さんを見ていると、最適化の技術が高いのに加えて、もうひとつ重要な要素を持っているように見えます。  それが、書き手としての個性――作風や性癖といった言葉に置き換えてもいいです。  ネット小説では、作者ではなく作品にファンが付く、たとえ書籍化作家でもランキングに入らない作品では見向きもされない……みたいな話も聞きますが、最適化を突き詰めた先にあるのは、むしろ逆の現象だと思っています。  最適化すればするほど、横並びになればなるほど、わずかな〝色〟の違いが目につく。  ほんのちょっとの彩りが、際立って見える。  私は、これこそ、ネット小説の作者としてもっとも重要な要素だと考えています。  たとえば性癖。  最近では本来と違った意味でも使われるこの言葉、〝性癖が歪む、歪んだ〟なんて表現で使われたりしますよね。  でもこれ、本当に〝強い〟作品は、触れた人の性癖を歪めるどころじゃないんです。 〝性癖をぶち抜いてくる〟んですよ。  それまで興味がなかったどころか、苦手意識すら持っていたジャンルや表現を、『これいいじゃん! すき!!!!』と、まるっと反転させてしまう力がある。  というのは滅多にないにしても、濃厚な〝癖〟は、たとえ全体のたった1パーセント程度の微量でも、匂い立つような存在感があるのですよね。  作者の立場でいえば、狙ってできるものではないと思います。作風にしても、すぐに確立できるようなものではないでしょう。  ただ、『これが好きなんだ』という自信を持つことはできるはずです。  自分の〝癖〟に、読者の〝癖〟を揺さぶる力がある、と信じること。  自分自身や自分の作品は信じられなくても、込められた〝癖〟は信じること。  このへん、書き方によっては自己啓発めいてアレな響きが出てしまいますけども、実際に大事なところじゃないかな、と。  ウケそうなもの・需要を狙って書くのもいいでしょう。  自分の書きたいものを書くのもいいでしょう。  でもその前に。  作品にこめた、こめようとしている〝(性)癖〟をどれだけ強く信じているか、一度自問してみるのもいいかもしれません。  いち読者から見て、作者の〝最適化〟は信頼できない面があります。結果としてそうなった、という理詰めの行動だからです。これは環境や状況しだいで変わってしまう。  でも、個性や(性)癖は信頼できる。  この信頼は、書き手として得難い財産になるはずです(もちろん〝癖〟も変わりうるものですが、たとえ中身が変わっても狂い方が同じであれば、コアな読み手はきっとついてきてくれるはず)。  なんて、言うほど簡単ではありませんが、個性や〝(性)癖〟というもうひとつの軸が軸足となったとき、創作投稿サイトという苛烈な戦場とどう向き合うのがよいのか、自分に合ったスタイルがおのずと見えてくるのではと思います。  これでもかと最適化してなお、読者をドン引きさせかねないほど尖りまくったそれは、むしろテンプレのなかでこそ輝くのではないかと。  最後に。  これまで触れなかった、もうひとつの選択肢。  A:ウケそうなもの、需要のありそうなものを書く  B:それでも自分の書きたいものを書く  の、B。  言葉を憚らずに言えば、これは大きな自己欺瞞ではないでしょうか。  だって、本当に自分の書きたいものを書くだけなら、ネットで公開する必要なんてないのですから。  自分ひとりで書いて、楽しんで、どうしても読み手が欲しいなら周りの人に見てもらう程度でもいいはずです。  自分の書きたいものを、書きたいように書く。このシンプルな創作に、投稿サイトなんて戦場は必要ありません。  でも、実際には多くの人が利用し、作者として活動している。  そこには〝欲〟があるはずです。  見てほしい、読んでほしい、評価してほしい、褒めてほしい。  そうした欲求は人として自然なものですし、あって当たり前だと思います。  同時に。  ごく自然で当たり前だからこそ、〝書きたいものを書く〟という選択、思いが、自分の欲をごまかしたり薄めたりするための方便に使われるとしたら、あまり良いものとは思えません。  自分の作品を気に入ってくれた人だけ読んでくれればいい?  もしそうだとしたら、読者の数を気にしなくてもいいはずですし、投稿サイトじゃなくてもいいのでは?  創作活動って、正気に戻ったら負けみたいなとこありますよね。  一種の狂気とか幻覚とか衝動に身を任せてないとやってらんねーぜ! みたいな。  自然とそうなれる、ある種の耐性を持った方ならいいんですよ。  心配なのは、自覚や耐性がないまま創作沼に沈みつつある(ように見える)人です。  たくさんの人に自作を見てもらえるって、うれしいですよね?  褒めてもらったり、評価入れてもらうのって、飛び上がるぐらい喜んじゃいますよね?  書籍化してもらえるかもって、夢がありますよね?  こういった喜びや期待が深ければ深いほど、自分を縛る〝呪い〟も深くなるので。  狂気でも正気でも自分を見失わない、べつの軸を持っておくって大事だよな、と最近は特に思うわけです。  なんにしても、いま創作・表現に励まれている方々すべてに幸あれと願うばかりです。  * * *  とまあ、いまだに自作ひとつ公開せずぐだぐだ創作論めいた長文お気持ち的ななにかを近況ノートに書き殴るやつがいるらしいですよ?  というか今回書き終わって文字数見たらクソ長くてわらう。もしここまで読んでくれた人いたらありがとう、そしてごめんなさい。  いや、うん……実はふつうにいろいろ書いてるんだけど、いまだに書き溜めてる最中だったり、カクヨムさんには投稿できないやつだったりするので。文字数だけなら50万文字は書いてるのに現状ここで公開できるものがなにもないという。  べつのとこで公開するやつがひと段落するまで、こっちはずっとこのまんまぽいかも。  ついでなのでひとつ愚痴。  なんか企画名だけで笑っちゃうようなキャンペーン始まりましたけど。  サポーターズギフトは早く匿名で贈れるようにしてほしいなーと、そっちのほうが先だろって思っちゃうんですよね。  だって、名前出るの嫌じゃないですか?  推しに認知されたくない的なやつもありますけど、私みたいに読者でもあるけど作者でもある(ここにはまだなにもないけどネット上に自作を載っけてるという意味で!)という人の場合。  サポーターになってギフトを贈るという行為が、〝お返し〟を期待してるように見えてしまうかもしれない、という懸念や不安が真っ先に出てくるんですよね。  作者が実際にどう受け止めるかが問題じゃなくて、そう見えかねない、受け取られかねない、というのが大きなハードルなんです。  名前なんて出なくていいんですよ。  いち個人として認識されたくもないんです。  このへん、いまのシステムは本当にわかってないというか、推すほうの心理もっと汲み取ってくれよ! と言いたくなるところですね。  作者によってはカクヨム外で、ほかに投げ銭的なもの受け付けてる方もいるので、私なんかはそっちで投げたりしてます。  完全匿名で推しに直接お金投げつけるの気持ちいいんだよなあほんと!  とはいえ、カクヨムさんのサポーターズパスというサービスそのものはとても良いものだと思います。  応援したいからこそ、そのへんも応えてくれたらなあと期待しています。  まあもっと言うなら、ロイヤルティとかサポーターとかの前に、誤字報告機能と小説内の画像投稿機能がほしいですけどね!
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  • 2022年9月13日

    一人称の文章に三人称を混ぜるな高校 校歌

    〝俺〟の視点で 綴られる物語 共感呼ぶモノローグ 想い重ねるシチュエーション そこに突然 神の視点 急に呼び捨てのヒロイン 急に上から目線 どうした主人公 そんな人間ではなかったはず 読み直して ようやく気づく 唐突な視点変更という 幻惑魔法 ああ やめてくれ 頼むから それだけは 視点変えるなら ちゃんと区切れ 一行で 行ったり来たりするな ああ我らが 一人称の文章に 三人称を混ぜるな高校 一人称の文章に 三人称を混ぜるな高校 * 三人称と神視点はちょっと違いますが、作品によって三人称だったり神視点だったりブレ方がさまざまなのもあって、あえてひとまとめにしてます。念のため。 ―――――――――― (2025/02/08)  時おり界隈でも話題になる人称のブレ。  できるかぎり避けたほうがいい程度の話ではあります。  ただ、たまーにすごい作品があってですね……上の校歌でも書いたように、ひとつの段落のなかで人称がころころ変わったりするんですよ。  一話じゃないですよ? 二、三行ぐらいの短い文章、ひとつの段落のなかで一人称と三人称がいったりきたりするんです。  もはや読みづらいを超えて、作者さんこれ書いてて自分で混乱しないのかなとふしぎに思うほどです。  そこまでではないブレならあまり気にしない、という人がいるのはわかります。  こういうことを書いている私も、『一話のなかでの人称の切り替わりがやや不自然』程度ならあまり気にせず読み進めます。一度そういう小説なのだと認識してしまえば、あとは内容のほうが大事ですからね。  ようは読み手が混乱するほどひどくなければいいわけですから、たまにブレる程度ならあまり神経質にならなくてもいいと思います。  というか、人称のブレは指摘するほうも注意が必要ですね。  三人称のなかに一人称の視線やモノローグが挿入される、というのはプロの作家さんでも当たり前に使うテクニックですが、これを人称のブレと捉えている方を見かけてひっくり返ったことがあります。  とはいえ、その差を微妙なものに感じてしまう方がいるのもわからなくはありません。  きちんと書かれたプロの文章なら、三人称という俯瞰から、その人物の視点に一時的にフォーカスした描写だとわかるはずですが、作者個人の推敲どまりなネット小説の場合、そのへんがわかりづらい作品もあるでしょう。  それもあって、このノートでは『一人称のなかに三人称を混ぜるな』と書いたのですよね。  逆の書き方はふつうにあるので。  というか、小説に限定しないなら、〝一人称のなかに三人称〟もあるんですよねえ。一番わかりやすいのがゲーム。もっというとエロゲ。  主人公一人称視点の文章が、濡れ場になるといつのまにか三人称的なねっとりした文章になってて、でも上手いライターさんが書くとその境目がわからないほど巧妙に変化してて、『んっ!? いつのまにっ!?』ってなるアレ。  いやまあこの例はともかく。  同じことの繰り返しになっちゃうけど、ようは人称のブレそのものよりも、いかに読み手を混乱させないかが大事じゃないかってことですね。  公募などはべつとして、ふつうにカクヨムなどに投稿するだけなら、そこまで神経質にならなくてもだいじょうぶだと思います。
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  • 2022年8月13日

    レビューの補足 ~TS百合は百合じゃない?~

    (2025/02/23 一部修正)  レビューの補足を近況ノートでするな、というのはまず置いといて。 【魔法少女タイラントシルフ】のレビューに載せたこの部分。 ――〝性自認が男のTS百合は百合ではない〟  これ、本当は『性自認が明確に女性へと変わったわけではないTS百合は百合ではない(と百合原理主義者を気取る私も~)』と書きたかったんですよね。  TSものの一種の王道パターンとして、TSした主人公の性自認が女性へと変わる(タイミングや程度はべつとして)、というのがあるじゃないですか。  特に〝TS百合〟というジャンルであれば、多少の変遷はあれど、最終的にはそうなる(すくなくとも、自身の身体的性別を受け入れる)作品が多いと思います。  そのとき、主人公の性自認がはっきりと変わる、あるいは身体的性別を受け入れる描写があるなら、文句なしに百合(GL)作品だと思います。  逆に、性自認の明確な変化がないものは、ジェンダー的にはシスジェンダー(心と身体的性別が一致している)ではなくトランスジェンダーの一種ではないかなと。それを主人公がどう受け止めているかはともかく。  特に、TS以前の性的指向がヘテロ(異性愛)の場合、それが変わったという描写がない状態(そう思わせる描写)のまま女の子とイチャイチャしても、身体の性はともかく、心の性別的にはヘテロだろそれ、という印象が強いので。  最終的に女性っぽい振る舞いや言動になったとしても、そこを描写してくれない内容、またそうなるまでのストーリーや登場人物の関係性を百合と呼ぶのはなんだかなと思っていたのです。  このへんが我ながら原理主義的だなあと思うところですね。  もっとも、すでに界隈では擦られまくった話題ですし、ともすると否定に直結しかねない定義バトルをしたいわけでもなく。中身ヘテロ男子の作品をTS百合と呼ぶな、などと主張する気もありません。好きかどうかで言ったら、それもふつうに好きですからね。  あくまで、自分の中で〝𠷡〟とカテゴライズできない、という話です。  ところが、そんな私でも『これは百合だわっ!』となったのが【魔法少女タイラントシルフ】なのです。  主人公の性自認が〝大人の男〟のままでありながら、脳と心が迷わず百合と判定した、いまのところ唯一の作品です。主人公の年齢がもっと低い作品なら、ほかにもいくつかあるんですけどね。  タイラントシルフは、主人公の精神的な幼さがいいかんじに男性性を薄めていて、ヘテロぽさを見事に打ち消しているのですよねえ。ただTSさせましたでは、あの感じは出せないなと。  ……なんて長ったらしくレビューに書くわけにもいかなかったので、わかりやすさを重視して『性自認が男の〜』としたのでした。  ただでさえオタク構文的な限界長文レビューになってるのに、あれ以上増やすわけにいかないですし。  というかもっと文字数削りたかったのに、ひと月以上寝かせてもあれが限界だったという引き算のへたくそっぷりに泣けてきます……。  そもそも、原理主義的といえば。  私のなかでは、百合イコール恋愛感情ではなく、GLともややニュアンスが違う、と考えています。 ・百合  同性間のままならない感情を指す。必ずしも恋愛という輪郭をとらない。 ・GL/ガールズラブ  同性間のままならない感情を指す。多くの場合、最終的には恋愛の輪郭を描く。  なぜわざわざ区別するかというと、明確な恋愛感情と性的な意味合いの強い身体的接触(唇同士のキス、またそれ以上の行為)をともなう関係は、それもうただのレズビアンだろ、と思っているからです。  ゲイとBLを、前者はリアルのジェンダーとして、後者は創作のものとして使い分けているのと同じようなもの、と思えばわからなくはないのですが……だったら、なおさら『百合とGLの違いってなに?』ってなりません?  両者が同じ意味なのであれば、あえてふたつの言葉で表現する必要はないだろう、と思ってしまうのですよね。  現状、百合やGLが指す範囲がかなり広く、ロマンシスあたりまで含まれているため、さらにわかりづらくなっているのもあり、そこは分けて考えたいと思っているのもあります。  このあたりのもやもや感は、自分のなかでの源流が、昔の文学作品にあるからかもしれません。いまだと百合と呼ばれるだろう、同性間のままならない感情がほんのり香る程度の作品がめちゃくちゃ好きなんですよね。川端康成の『朝雲』とか。あのへんを〝GL〟と表現するのは違和感あるのです。  かといってロマンシス(シスターフッド)でもない。百合とロマンシスの違いって微妙、百合はもう少し恋愛寄りという意見もありますが、個人的には関係性も距離感も別モノという認識です。ふたりのあいだに強い絆や関係、重い感情がなくても成り立つのが百合かな、と。  その点、なんだかんだロマンシスは男性でいうブロマンス寄り、百合はそれとGLの中間ぐらいのニュアンスに置くのが一番しっくりくるんですよね。    ただこんなん言い出すと百合とついてる作品の多くが楽しめなくなってしまうので、いまは気にしてません。  もともと、ほんのり香る程度からえっちなやつまでぜんぶ好きですし、べつにどっちでもいいというか、あくまでジャンル、カテゴライズの話であって、苦手とか嫌いとかではありませんからね。  原理主義的うんぬんもものの例えですから、いろんな百合・GLをもっと供給してくれ……というお気持ち。
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  • 2022年8月13日

    ツールによって文章が変わる?

     いまや、日常的なインターネットの利用のほとんどがスマホという時代。  総務省やLINEによる利用率(使用機器)の調査などでも、パソコンに比べてスマホ(携帯電話)の割合が圧倒的に多く、その傾向は60歳以上の年配の方でも変わらないという結果が出ているそうです。  つまり、10代20代の若い人たちだけでなく、すべての年齢層でパソコンよりスマホが多く使われているらしく。LINEの調査結果では、パソコンと併用している人よりも、スマホしか使っていないという人のほうが多く、パソコンのみにいたっては1%という数字。  この傾向はネット小説でもそう変わらないでしょう。  ほとんどの利用者がスマホを使ってアクセスし、読書をしていると見てよさそうです。  さて、読者側はそうだとして、作者側はどうなのか?  閲覧も執筆もスマホなのか、あるいは執筆はパソコンという方も多いのか。  個人的に気になっているのは、その割合もさることながら、どういった理由で執筆用の端末を選んでいるか、ですね。  入力のしやすさや画面の大きさといった、さまざまな要素のなかからどれを重視しているのか。  というのも、〝使う端末(ツール)によって、書く文章が変わることはあるのか?〟と疑問を感じたからです。  そんな私はといえば、ここ十年ほど、執筆は九割スマホでした。  いえ、スマホというか、ガジェットオタクこじらせていた時期からずっとそうなので、昔はPDA(懐かしのPalm機とか)などでぽちぽち入力していました。  スマホという言葉がiPhoneやAndroidを指すよりも前の話ですから、我ながらよくやっていたなと思います。  iPhoneがメインになってからはソフトウェアキーボードの入力の速さに病みつきになり(両手持ちQWERTY限定。フリックは無理)、『もうこれしかねえ!』とすぐに移行、たまにポメラやパソコンと併用という形に落ち着きました。  特にここ数年は十割スマホといってもいいかもしれません。  複数の端末でのデータ共有がすごく楽になったのに加え、冒頭の調査と同じく、それ以外のネット利用でもスマホが中心になったのもあります。  が。つい最近、とある理由から、再びパソコンでの執筆を再開しはじめたところ……びっくりしました。 ――なんか文章がちがう……?  自分としてはスマホと同じように執筆しているはずなのに、なんだか文章のノリというか、調子が変わっているような気がしたのです。  気がした、というのがミソです。  あとから読み直して、あきらかに違うというほどではありませんし。だいぶふわっとした感覚で、うまく言語化できないのもあってか、自分でも半信半疑でした。  ただ、以前ツイッターかどこかで、パソコンの大きな画面で書いていると、前後の文章の流れがよくわかる(から書きやすい)みたいな話を聞いたのですよね。  当時はすでにスマホメインだったので、ほーんなるほど言われてみれば、ぐらいにしか思っていなかったのですが、たしかにありえそうな気もします。  スマホの場合、いくら画面が大型化してきているといっても、一覧性ではパソコンに劣ります。  文章の前後、流れを把握しつつ書くといった点ではたしかに有利かもしれません。  とはいえ、スマホでは無理、という話ではないでしょう。  仮にその点で大きな差があるとしても、じゃあ実際に出力される文章に他人が読んでわかるような違いが出てくるかというと、あやしいものです。  パソコンのほうが入力支援が豊富(執筆に使うソフトやIME、また複数のソフトを併用など)という話なら納得、議論の余地なしと思うのですけどね。  この点で、スマホはまだまだ面倒が多いというか、近づけることはできるけれど同等とはいかない印象です。  そんなわけで、しばらくのあいだスマホとパソコンを併用する昔のスタイルに戻ってみたのですが。  個人的な結論は、 ――やっぱり文章に差は出るかも。でもそれは、ツールではなく環境やそのときのノリによる違いっぽい。  となりました。  端末に場所が左右されるパソコンと、いつでもどこでも執筆環境にできるスマホとの違い、と言い換えてもいいでしょうか。  家で腰を落ち着けて書く場合は、どっちを使ってもあんまり変わらない気がします。集中し始めたら、いちいち自分がどんなツールを使っているか、なんて意識しませんし。  言い方を変えれば、執筆時にいちいちツールの存在が意識に上るような場合は、そのツールや環境自体が良くないんじゃないかな、という気がしますね。  逆に、家ではなく外、あるいは家のなかでもスキマ時間などに、ふだんとメンタルやらノリやらすこし違うときに書いたものは、文章の調子もやや変わっている感覚があります。  ふだんちょっと書きづらく感じていたシーンがさくさく書けたり。  行き詰まっていたところが、あっさり書けるようになったり。  執筆への意識とかメンタルの持っていき方が、環境……外部の刺激など加わって変わるからかなぁと推測しています。  あくまで個人的なものですし、やはりふわっとした感覚なので、結論というにはあやふやなのがもどかしいです。  できればもっと突き詰めたい、自分だけでなく他の方の声も聴きたいところ。  検索しても、このノートのように個人的な経験や感覚での記事しか見つからないので、だれかアンケなどとってまとめていたらぜひ読んでみたいなあと思っています(人任せ)。  いや自分でやれよという話ですけど、必要な母数を集められる気がしません……。  というわけで、併用も悪くないなと思いはじめたところなのですが。  私の感じた最大のメリットは、そこではありません。  パソコンとスマホを併用するもっとも大きなメリット……それは、 ――〝文章のミスに気付きやすくなる〟  です。  画面の大きさも変わり、文章の見栄えも変わるせいか、スマホでは気づかなかったミスをパソコンで見つけられたり、あるいはその逆といったパターンもありました。  しかも、単純な誤字脱字だけでなく、文章そのものがちょっと変とか、言い回しが妙にくどいとか、あからさまなミスではない修正点も見つけやすく感じました。  上記の結論、ツールというより環境やメンタルの差によって文章に違いが出るかも、なんていうのは副次的なもので、これこそが併用のもっとも大きなメリットだと思う次第です。  それぐらい、かなりはっきりとした体感を得られました。  スマホ・パソコン(あるいはタブレットでも)の併用、オススメです。
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  • 2022年5月24日

    『まずは完成させるのが大事』って、ほんと?

    (2022/08/13 一部改稿) 『最初から〝完璧〟を目指すんじゃなくて、短くていいからまずは一作でも完成させてみよう!』  小説に限らず、なにかしらの創作を志した方であれば、どこかで一度は聞いたり言われたりした言葉ではないでしょうか。  最近では、ネットの創作界隈やまとめ記事などでも話題になっているのを見かけますね。  実際のところ、上記のアドバイスはまったくもって〝正しい〟と思います。  初っ端から大作志向、完璧主義なんて、いままでなんの経験も積んでいないスポーツ初心者が、いきなり公式戦に挑戦するようなもの。  絶対不可能とまでは言えずとも、なにもいきなりそんな無理をしなくても、と言いたくなるのは当然です。 『作品を誰かに見せるのは、もっと実力をつけてからがいい』 『自分が納得できるだけの完成度まで仕上げてから公開したい』 『中途半端なものは嫌だ……』  そう意気込んだはいいものの、結局形にできずエタって終わり、というのも事実ありがちでしょう。  ただ、以上のことを踏まえた上で、あえて言います。  ――自分が納得いってないものを公開するのって、本当に〝良いやり方〟なの?  まず完成させるのが大事、という話とセットでよく語られるのが、人に見せて意見をもらう、たとえ失敗してもそれを糧にする、という点です。  でもこれ、実際に創作活動された方なら、まずその時点で難しいというのをよくご存知ではないでしょうか。  たしかに、創作投稿サイト・サービス、SNSなどで、自身の作品を公開することはぐっと楽になりました。  ですが、それはほかの人も同じこと。  ただ公開するだけ、では、激流に放り込まれた一枚の木の葉がごとくあっという間に流され消えてしまいます。  リアルで周りに創作仲間がいない、という人の場合、まずは自分の作品を見てなにかしらの感想というアクションを、自分のために起こしてくれる人を見つけるところから始めないといけないのです。  それって、言うほど簡単ですか?  どのSNSでもいいですが、なんのバックボーンも〝コネ〟もない素人がぺぺっと投稿しただけでもらえる反応なんて、たかが知れています。  いえ、たとえひとつでも反応をもらえるだけ御の字でしょうね。感想や指摘をもらうどころか、まともに見てもらうことすら難しい。  だからこそ、とにかく作って完成させて、そうした厳しい場所で反応をもらうために試行錯誤するというのは、いい経験になるでしょう。  ……本当にそれができるのならば。  たとえばTwitterです。  ここでの一番わかりやすい反応であるRT・♡数などは、作品の内容や質よりも、ぶっちゃけ相互さんの拡散力でほぼ決まってしまいます(これはTwitterで活動されてる方ならよくわかるはず)。  Twitterほど極端でなくとも、ほかのSNSや投稿サイトでも似たようなものですね。反応が欲しいと思うなら、人と繋がるための努力がどうしても必要になる。  とはいえ、露骨に宣伝目的、〝お返し〟を期待してすり寄る真似は好まれませんし、塩梅は難しいところです。  私が写真系の投稿サイトを利用していたころ、新着など目についた作品を片っ端から評価+定型ひと言コメントを残して〝お返し〟を期待するやり方は、〝外交〟なんて呼ばれ、蛇蝎のごとく嫌われていました。  しかしながらこの〝外交〟、わりとバカにできないのですよね。たしかに効果はあるんです。  上記の例ほど無神経なやり方でなくとも、一定の反応や評価をもらうために、人の作品に評価を入れたり、感想を送ったりしながら繋がりを築いていく活動は決して間違ったものとは思いません。  SNSとは本来そういうものですし、本当に自分が好きな作品や作者さんを推してくのであれば、下心ばかりとは言えないですからね。  かといって、そうした活動は、ただ創作だけに打ち込みたいという人には負担になりかねません。誰もができる、というものでもないでしょう。  わりと気軽に言われる、『SNSとか投稿サイトで反応をもらう』は、やはり言うほど簡単ではないはずです。  そもそも。  仮に誰かに見てもらえたとして、まともに読み込んで、きちんとした感想や指摘をくれる人は滅多にいない、という現実もあります。  そういうのも含めて勉強、という方もいるでしょうが、当てにできないフィードバックはノイズも同然です。自分の作品を読み込んでくれる、ごく少数の読み手からの貴重な感想や指摘が、作者的にはとんでもなく的外れだった……なんていうことも、ないとは言えません。  なんにせよ、この点で、小説はほかの創作と比べても一段ハードルの高い分野です。  絵や写真、動画など視覚メインの表現は、一見もしくは短時間で観てもらえます。上達の度合いなどもわかりやすいでしょう。  最初は上手くいかなくて失敗ばかりでも、成長して質を上げられさえすれば、必ずどこかで人の目に留まります。  それに比べて、小説はある程度時間をかけないと読んですらもらえない。この、〝ある程度のところまで読んでもらう〟がどれほど難しいか。  じゃあ読みやすいように最初は掌編、短編ぐらいの短さで書いてみよう、なんていうのは根本的な解決とは言いがたくて。結局のところ、仲間を作るための積極的な活動やコミュ力が一番効果的という、身も蓋もない結論になってしまうと思うのですよね。  こんなこと書いてる私自身、いきなり長編&大作志向な人間でした。  創作自体は物心ついたころからしていたため、完璧主義こじらせて一作目からエタる、なんてのはなかったものの。『適当なところで完成させて公開するより、とにかく完成度上げたい』→でも完成前に力尽きる、というのをたびたびやらかす子どもでした。  それを見ていた親からも、『完璧を目指さなくていい、いったん完成させてから質を上げていけばいい』と繰り返し言われたものです。  ですが、感情を上手く言語化できなかった当時から、そうしたアドバイスに対して、反感めいた違和感を、それはなにかおかしいという感情を抱いていました。  いまならわかります。  当時の私は、べつに100%を目指していたわけでも、完璧を求めていたわけでもなく。  『これならいい』というある種の納得、自分のなかのイメージを形にできたという満足感が欲しかったのだと。  〝いましたいこと〟がそれであって、腕を磨いてからどうという話ではないのだと。  冒頭に挙げたような、最初から大作志向&完璧主義の方で、『中途半端なものは作りたくない、もっとレベル上げて完璧に仕上げてから公開したい!』とか言っちゃう人たちのなかにも、私と同じタイプは多いのではないかと思っています。  そういう人に『完璧を目指すな』とか言っても、そりゃあ届かないですよ。はたから見て完璧を求めてるように見えても、本人は〝完璧〟を目指そうなんて思ってないんですから。  ただ納得したい。  ただ満足したい。  単純にしてもっとも厄介なこの欲求が、最初から大作志向&完璧主義な人すべてに当てはまるとは言いませんが、どちらにせよ、『まず完成させる』よりも、もっとずっと大事なことだと私は考えています。  なぜなら、この欲求を満たすための試行錯誤にこそ、創作の奥深さが詰まっていると思うからです。  プロを目指すのでなければ、どこまでいっても所詮は自己満足。言い方を変えれば、自分が満足し、納得できるのならば、必ずしも作品の完成や評価だけが目指すべきものではないでしょう。 『まずは完成させてみよう』というアドバイスを聞かず、途中で力尽きてエタった人のなかには、本人なりの納得や手ごたえを感じて去っていった方もいるかもしれません。  もしそうならば、その挑戦にはじゅうぶん価値はあったのだと思います。  ただし。  ここで忘れてはいけない大事な前提があります。  これまで上記で書いていた、完成させられない、作品の質をとことん上げたい、もっと上達してからがいい……という気持ちの理由が、『人に見られるのが恥ずかしいから』など、人の目を気にしてのものではないという点です。  これについては、この手の話でよく引用される、徒然草の第百五十段『これから芸事を身につけようとする人は~』というあの内容がもっともふさわしいでしょう。  ざっくり言えば、『へたなうちは人に見せたくない。人知れずこっそり練習して上手くなってから披露するほうがカッコいい……とか言ってるやつが実際に芸を身に着けたところを見たことがない』というアレですね。  これまで上で書いてきた内容は、これを読んで〝いやー耳が痛いぜ〟というタイプの人について語ったものではありません。  人に見られるのが恥ずかしい、という理由で『上手くなったら……』と言っているタイプは、そりゃあ完成しないだろうなぁと思います。  自分の納得・満足のためなのか。  たんに未熟な自作を人に見せるのが恥ずかしいからなのか。  この点は区別すべき大きな違いでしょう。  逆に言えば、この点を区別せず向けられる、『完璧を求めていたら永遠に完成しないぞ』といった言葉は真に受ける必要はないと思います。さくっとスルーしちゃいましょう。  私も人様の現代語訳でしか知らないものを賢しらに引用するのもアレですが、あの徒然草の内容も、べつに自作を人に見せまいとすることそのものが問題だなんて言ってないのですよね。  未熟でもなんでも、才能のなさにつらい思いをしても、恥ずかしがることなく努力し続けるのが大切だよ、というメッセージは約700年経った現代でも色褪せない重みがあります。  終わりに。  上記の内容はすべて、ただの趣味としてやっている創作限定です。  プロを目指す、プロではなくとも書籍化や商業デビューなど高い目標を持っているという場合はこの限りではありません。その場合、フィードバックがどうというより、まず完成品があるという実績、できればプロの目を納得させられるぐらいのポートフォリオが必要ですからね。  この点について議論の余地はないでしょう。  ですが、ただの趣味であるならば、それは自己満足と納得のためだけであるほうが、ずっと〝健全〟のはずです。  人生、なにがあるかわかりません。  もしかしたら明日、突然の終わりがやってくるかもしれず、『まずは完成させてみよう』で作ったものが、自分の人生最後の作品になるかもしれません。  そのとき、この作品が最後でよかった、と思えるかどうか。  なにいきなり重いこと言ってんの、もっと気楽にやろうよ! と言われちゃいそうですが、ここで言いたいのは、上でも繰り返し書いてきた〝本人なりの納得〟というやつです。  完成させることを優先し、試行錯誤を重ね、自分の描きたいものを形にできるまで技術と経験を積み重ねるのはなんのため?  漫画家にしろイラストレーターにしろ小説家にしろ、なにか目指すものがあるとして、それはなんのため?  動機、理由はさまざまにしても、そこに〝本人なりの納得〟、手ごたえがないのなら、きっとどこかで躓いてしまうでしょう。  だって、創作なんて負けと挫折ばかりじゃないですか。へたしたら楽しいより苦しいつらいのほうが多いくらいです。  ならばなおさら、成功するにしても失敗するにしても、自分がやりたいようにぶつかっていったほうが得られるものは多いのではないかと。  そして。  上では、いつ最後の作品になるかわからない、と書きましたけども。  同時に、自分の人生がどれほど長く続くかもわからないわけで。生きていて、やる気さえあれば、創作に終わりはありません。  一度挫折しても、いつかまた筆を取るときがくるかもしれません。  一度エタった作品も、サルベージして次に活かせるときが来るかもしれません。  私は過去何度も超長編をエタらせてきましたが、同じぐらいネタを使い回したり、再構成して書き直したりしてきました。  昔、五十万文字まで書いてからお蔵入りさせた超長編も、それから五年ほどのちに、べつの短編作品へと生まれ変わらせたりしています。  やはり納得のいく形ではなかったものの、あのとき描きたかったエッセンスのいくらかは拾えたと自負しています。  そうしていまは、十年以上前に眠らせた話からネタをリサイクルして、べつの話を書き始めています。こういった再利用はこれからも続き、懲りずに同じことを繰り返すのでしょう。  少なくとも私自身は、大作志向がすぎるあまり、いくつもの話やネタをあきらめお蔵入りさせてきたことを後悔していません。むしろ『これそのまま公開しなくてよかった……』と安堵した経験のほうが多いです。思い入れのある内容ほど、しっかり形にしたいですから。  だから、挫折してもエタってもあきらめてもいいと思うのです。  自分が心底書きたいものなんて、十年や二十年程度で変わりはしません。何度だって拾い上げて、敗色濃厚な戦いに挑んでみせましょう。 ・長い。三行でまとめろ。  自分の思い通りの創作がしたい、上達したいなら、とにかく作って数をこなすのは大前提。たしかに絶対必要になる。  でも言われるまま数をこなせて上手くなれる人なんてまずいない。継続して数こなせるのも一種の才能。  ふつうの人が数をこなすためには本人なりの納得や拠り所が必要。そしてその拠り所は外でなく内に求めたほうがきっといい。  おまけ。  ついでに、もひとつぶっちゃけましょうか。  今日日、自信を打ち砕かれるのなんて秒ですよ、秒。  SNSや投稿サイトを開けば、丹精込めた渾身の自作が秒で吹き飛ばされるような面白い作品がごろごろしてて、しかも作者が自分よりはるかに歳下だったとかよくあるやつですよ。  あとだいたい自分が自信もって送り出したものほどなぜかウケなくて、適当に書いたやつのほうが伸びるとかあるあるだし。まあその伸びるっていうのも当社比でぜんぜん大したことなかったりするけど。  だから大事なんですよ、本人の納得っていうのが。逃げ道のない納得っていうのは、成功しても失敗しても自分を支えてくれるから。不安を乗り越えるための糧になるから。  そしてこの〝納得〟は、成功あるいは失敗体験をどれだけ重ねても、上達しても、それだけでは手に入らない。  創作・表現……自分が描きたいものと、とことんまで向き合って、掘り下げて、突き詰めて、あがいてあがいてのたうち回って、でも届かなくて絶望する、その先でしか得られない。そこでは『なにかを作ったことがある』というふつうの経験値はなんの役にも立たない。  第一、初っ端大作志向の完璧主義だろうがそうでなかろうが、一度の挫折で止まっちゃう人なんてアドバイス通りにやってもどっちみちどこかで躓いて止まっちゃうんですよ。  止まらない人はいきなり初手超長編の完璧主義で爆死しようが挫折しようがエタろうが止まりません。  やりたくてやってるだけだから。  創作なんてほぼ九割つらいだけ。残りの一割をどこに見出すか。  たとえ一割でも、残りの理由を見つけ出せていたらだいじょうぶ。  その人はなにがあっても止まることはないでしょう。  * * *  とまあ、作品を公開しないうちから近況ノートに創作論めいたことを書き連ねるという奇行を繰り返している奴がなに偉そうに語ってんだって感じですね! うひひ!  ……いやまあ本当なら一作めをもう公開してる予定だったけど、前回のノートを書いたあとよくよく読み直したら、性描写がこれアウトじゃねーかってレベルに思えてきたので、全面的に修正してるとこだったり。  でもやっぱ難しいんすよね、性描写って。ぜんぶ削れば絶対だいじょうぶだけど、ぜんぶ削ったら成り立たない。少なくとも作者的には。  一部の人には理解されないだろうことを承知の上で言うけど、〝無意味な性描写〟なんて存在しないんですよ。どう考えても作者の趣味でしかないただの下品なえろ描写も、それによって読者の内面や受け取り方が照らされたり、作品や登場人物のシルエットが浮かび上がる役割や意味は絶対あるんです。  あとはもう作者がそれをどう自覚的に扱うか、読んだ人がどう感じるかって話だけ。  だからガイドラインも性描写そのものを禁じてるわけじゃなくて、問題は描写のしかたと量。で、これのアウトセーフがわかんねー。  とか悩みつつ直してますはい。いま二十万文字ちょいまではできあがってて、三十万文字ちょいまでいくとキリがいいとこなので、そしたら公開したいところ。  その都度書いて更新してくとか器用なことできないから、ある程度書き溜めてドバッと出すスタイルでいく所存。  ここまで書けてれば少なくともエタりはしないはず。いやフラグとかじゃなくてっ!
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  • 2022年2月14日

    運営「エッッッ」――警告が来る基準とは?

     ジャンル問わず読み漁っていると、少なくない頻度で嫌でも目にしてしまう、作者からの『怒られました』『警告が来ました』という悲しい報告。  ときには『どこが駄目なのか具体的に言ってくれっ!』とやるせない叫びを上げる姿も見ます。  いやごもっとも、たぶん警告を受けた作者さんならば誰しもが感じることでしょう。  そういう私自身は、まだカクヨムに投稿した経験はないものの、よそで似た経験はしていますし、いま執筆中の作品の内容的にもまったく他人事ではありません。  では実際のところ、警告が来る基準とはどんなものなのでしょう?  まず、一番最初に一番身も蓋もないことを言ってしまうと、警告が来るかどうかの最初にして最大の分かれ目は、 『評価がどれだけ入っているか(ほかの利用者、運営の目につきやすいか)』  なのかもしれません。  これまで、警告を受けたという作者さんの報告のなかで、 『評価が入ってから警告が来た』 『コンテストに応募したら来た』 『ロイヤルティプログラムでリワード受け取る段階で来た』  といった話を目にしました。  つまり、あとから内容を書き換えたわけでもないのに、投稿当初の段階では警告が来なかったということですね。  これについては信憑性がありそうだなぁと思っています。  なぜなら、そうした声がある一方で、評価がほとんど入っていない作品のなかには、明らかにガイドラインに触れる内容でありながら、特に止まることなく連載が続いているものがあるからです。  投稿時に内容を自動判定するような、機械的なチェックがないとは言いきれませんが、おそらくランキング作品やコンテスト、リワードなど、野放図な状態ではマズい領域に乗った作品が重点的に調べられているのでしょう。 (追記:投稿当初、ユーザーからの通報という要素をすっかり失念していましたので、今さらながら加えておきます。その点においても、より多くの人の目に触れるようになってから警告が来た、というのは整合性がありそうです)。  それ以外の作品についてはちょっと抜けがある、というのは、少々不公平を感じさせるものがあります(すべて推測のため、運営さん的には違うのかもしれません)。  もっとも、小説という表現の形式上、完全な自動判定というのはいまはまだ難しいという都合もあるのでしょうか。  ほかにもう一点、警告を受けた作者さんたちをモヤっとさせているのが、『具体的な修正箇所、基準を教えてくれない』という部分でしょう。  私はまだ警告はおろか投稿前のため、運営さんからのお手紙は見たことがないものの、複数の作者さんが口を揃えて「どこを直せばいいのかわからんっ! 具体的にここと言ってくれっ!」と悲しみの叫びを上げているのを見るに、細かくは教えてはくれないのでしょう。 (2022/10/14 その後、新しく警告を受けたという複数の作者さんの報告を見ていると、どこが問題なのかある程度具体的な連絡が来るらしく、以前とは違うのかもしれません。とはいえ、以降の内容がまったく的外れになったというわけでもなさそうなので、特に修正はしていません)  ただ、致し方ない部分もあるのかなと個人的に感じています。  逆に考えて、ガイドラインや警告の通知などでもっと具体的で明確な基準を設けたとしましょう。  次に始まるのは、ほぼ間違いなく、〝どこまでギリギリを攻められるかのチキンレース〟です。 『こういう単語や描写は駄目です』  と言われれば、じゃあそれ以外の言葉や表現・シチュならなんでもいいんだねっ! となるのは目に見えています。  このへんの話は、カクヨムの運営さんがどうというより、こういったサービスのガイドラインは総じて似たものではないでしょうか。  有名なところでは、二次創作に対する公式のガイドラインなども近いかもしれません。  禁止事項を細かく定めるよりも、ある程度のラインを示すにとどめ、あとは利用者の判断と良識に委ねるという形です。  それらには、界隈を不必要に萎縮させないという配慮、細かな内容までいちいち設定してられない、といった事情もあるかもしれませんが、それ以上に、具体的な基準を示すことで始まるチキンレースを避ける意味合いもあるのではないでしょうか。  問題のある表現が出るたびにあれは駄目これは駄目とするぐらいなら、いっそすべて禁止してしまうほうが早いわけですから。  これはカクヨムさんでも同じだと思うのですが、〝なにがなんでも過激な表現を守らなければならない理由〟などないでしょうし。  さて、以上を踏まえた上で。改めて『運営が〝これはアウトっ!〟と判断する基準』を考えてみます。  ガイドラインによれば、 〝それ自体が作品の目的(テーマ)ではなく、物語上の必要な要素として必要最低限の描写となるよう配慮をお願いいたします。〟  として性描写や暴力描写、いわゆるエログロ(ゴア)表現でしょうか、などが挙げられ、 〝上記についての過剰な表現や、表現・描写の割合が大きいもの〟  を制限するとされています。  おそらく、実際に警告を受けたという作品の多くは性描写についてだと思うのですが(ここもよく考えると「なんで? 暴力描写も大概過激じゃね?」となりますが今回は置いておきます)、このガイドラインを見る限り、キモとなるのはこの、 〝物語上の必要な要素として必要最低限の描写〟  という部分なのでしょう。  作者的には、「これは必要最低限の描写なんだって!」と言いたくなるところでしょうが……この考え方については、著作物の【引用】に関するものと近いのかもしれません。  著作権には、なんらかの著作物を引用する際の要件として〝主従〟があります。  どれが自分の著作物で、どれが引用なのかの主従関係をはっきりと示す、というやつですね。  おそらく、この主従関係――ここカクヨムにおいては、〝話の内容と性的描写、どっちがメインかわからん〟というライン――が一定を超えている、と判断されたものが警告されているのではないかと推測しています。  つまり、『べつにその描写なくてもその話成り立つよね?(成り立たないなら成り立つようにしてね?)』という判断ですね。  引用を例で言えば、主従が〝明確〟である、の部分が重要なのでしょう。  性的描写の一例として、私が読んでいた作品のなかには、本番の直接的な描写がなくほぼキスシーンだけでありながら警告を受けたものがあります。  その作品などは、この考え方にモロに引っかかったのではないかと考えています。  少なくとも、件の作品のなかでは、本番行為や性的な言葉が明確に描写されていない(直接的な単語もいっさいない)一方で、それを匂わせる描写(間接的な表現)が繰り返し登場し、ただ情報として描かれているのではなく、ある程度の文字数を割いて、登場人物の性的欲求の発露として(その部分は)かなり直球に描かれていました。  キスシーンについても、行為自体はそれだけでも、人物のモノローグと前後の流れでは、それ以上の行為をがっつり想起させるものとして描写されていました。  言ってみれば、それ自体が〝過激な描写〟でなくとも、〝過激さを明確に喚起・想起させうる、また読者の性的欲求を刺激する描写〟だった、とは言えたかもしれません。  直球な言葉・表現を使っていないからセーフ、とは言えないということですね。  いやまあ、結局は〝そういう文章〟になっている時点で、運営さん的には直球な表現になるのかもしれませんが。  どちらにせよ、わりと直接的に本番行為が描写されていながらも、特に修正などなくそのまま書籍化された作品などとの決定的な違いがそこらへんにあるのでしょう。  これは完全に推測ですけども、どれかひとつというより、すべてが合わさってアウトと判定されたのかもしれません(全体的に性的表現の描写が多かったのも含め)。  作者的には、「必要だから書いたんだよ!」と叫びたいところでしょう。  上記の作品においては、性的な関係や描写が、ストーリーに直結する重要な要素として描かれていたのでなおさらです。  そもそも論としても、『性的な描写は〝絶対に〟控えなければならないものなのか?』という問いもあるでしょう。  十代の子でも手に取って読むような、名作と呼ばれる一般文芸のなかにも、それこそ官能小説のような濡れ場がある作品もあるわけで。  とはいえ、ネット小説を同列に扱えないのは仕方がありません。  唯一言えるとすれば「警告するならもっと早くしてくれよ!」みたいなことかと思いますが、これも運営さんが好き好んでそうしてるわけではなく、たとえば通報による対処ならば、どうしても後手後手になる(それだけ評価やPVが増えてからになる)のは仕方がないのでしょう。  ただし、投稿する側の注意点、またテクニックとして、上記の〝主従関係〟は無視できない要素ではないかと思います。  作品の、前後の流れのなかで、性的な(また過激な)描写の存在感がへんに大きくなっていないか、それ自体が〝過激な描写〟でなくとも、〝過激さを露骨に喚起させうる描写〟かどうか、という部分ですね。  とまあ長々と書き連ねましたが、個人的結論としては、 『わからん。こっそり書いてるうちは怒られないかも? あと〝主従関係〟と描写の多寡、質はかなり厳しく見られてる気がする』  になります。  さあ、あれこれ偉そうに書いてきましたが、今度は私の番です。  もし運営さんから怒られたら指差して笑ってやってくださいね!
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  • 2022年1月11日

    一話あたりの文字数は、結局どれくらいがいいのか?

    (2025/02/07 一部追記や表現の修正)  ネット小説の書き手なら、多くの人が一度は悩むだろうタイトルのそれ。  以前は、一話あたりおおよそ3,000文字前後がよい、という話をよく聞いたものの、最近はさらに短い作品も増えてきた印象があります。  3,000文字前後がよいというのも、それぐらいが読みやすいという経験則的な話だった気がしますし、もっと短いほうが読みやすいというのもわからなくはありません。  では、まずここでひとつ告白、いや懺悔をします。  実は私、一話あたりが2,000文字以下のような最近の短い作品は、ロイヤルティプログラムのスコア稼ぎの面もあるのかなぁと思っていました。  でもあれ、関係ないのですね。  いえ、どんな意図かは作者さんによるでしょうけど、少なくともリワードのスコアという点では意味がない。 ――(引用ここから)――  以下はカクヨム公式ヘルプ、『作品に広告を表示してカクヨムリワードを獲得する』からの引用。 『アドスコアの計算について』 〝また係数として文字数が考慮され、文字数が多いと獲得するスコアが多くなります。これは話数の分割を増やして閲覧数を増やすことに対する抑止です。また過剰に文字数を増やすことについても同様にスコアに寄与しないようにしております。〟 ――(引用ここまで)――  そりゃ対策しますよね、という。  しかしお恥ずかしながら、私はこの近況ノートを書くにあたりガイドを読み直していて初めて知りました。  ロイヤルティプログラムにはもともと興味がなく、参加するつもりもなかったためろくに調べていなかったのですが……すでにプログラムを利用されている方にとっては周知の仕様だったのでしょうか?  なんにせよ、一話あたりの文字数を考える上で、リワード狙いといった要素は考慮してもあまり意味がないようです。 (追記: この点については、涼森巳王(東堂薫)さまの『カクヨムロイヤルティプログラムでお小遣いを稼ごう!〜ついでに小説うまくなろう〜』に具体的な数字と解説があり、大変参考になりました。感謝。 https://kakuyomu.jp/works/1177354055363788455)  では、実際のところどれくらいの文字数がよいのでしょう?  上記の『作品に広告を表示してカクヨムリワードを獲得する』には、こんな記述もあります。 〝読者にとって読みやすく適正な文字数を心がけてください。〟  この『読みやすく適正な文字数』というのが、内容や文体によって変わるだろうところが難しいのですよね。  たとえば、内容。  超長編のハードファンタジーで文体も堅め、地の文も多い……といった作品で一話あたりが2,000文字を切るようなものはあまりないでしょう。  ゲーム的なシステムがあったり、本格SFや壮大な戦記ものなど、基本的な情報量が多い作品も不向きに思えます。  一方、日常をのんびりこつこつ描く内容や、地の文が少なめで軽めのファンタジー作品などは向いているのでしょう。  そして、話数と更新頻度。  投稿当初からリアルタイムで追いかけている場合と、すでに長期連載となり何十話何百話とある作品を読みはじめた場合とでも印象が変わります。  たとえば前者。  一話が短い作品は、私個人の感覚では正直じれったく感じることが多いです。  一話あたりが短すぎると、日々話を読み進める楽しさより、なかなか話が進まないもどかしさが勝ってしまう作品も多いのですよね。  さくっと読めるぶん、途中で断念するほどではないのだけど、ある程度話数を重ねて内容が出そろってこないと入り込めない、という。更新頻度が低いとなおさらです。  かといって一日に複数話投稿を毎日というのも、追いかけるのが億劫になってしまうときもある。このあたりのバランスは難しいところです。  翻って後者。  すでに何十話何百話とある作品を読む場合は、一話あたりの軽さが素直にありがたい。  長編だからこそ、軽くてさくさく読める、というのは一気読みのときに楽なんですよね。  ただ難しいのは、長編を一気読みする場合、一話が短いことが必ずしもメリットばかりとは言えない点です。  これはものすごく単純な話なのですが、話数が多いとそのぶん次の話へ進むための操作→読み込み、という手間が頻繁に必要になるわけです。  おもしろく読み進めていればなおさら、読み込みと画面遷移、そのとき目に入ってしまう広告といった視覚的な外部情報などで、集中や話への没入感がいったん、わずかだけど途切れてしまう。  読書体験において、これがけっこう馬鹿にならないのですよね。  加えて、一話あたりが短いことによる〝ぶつ切り感〟も長編になるほど増してしまう。  話がこれから展開する、緊迫感のあるいいシーンでいよいよ話が動き出す、というところで次の話なんてのが毎回続くと、クリフハンガー的おもしろさよりもうんざりしてしまったり。  一話が短すぎて、同じシーンが何十話も続いている作品を見ると、あえてここまで細かく分ける必要はないんじゃないか、と思えてしまうのです。  もうひとつ、読書スピードは読者によって大きく変わるという点まで考えると、これという数字を出すのはさらに難しくなる。  私のように、3,000文字を1分ほどで読み終え、やっぱり一話4、5,000文字はないと物足りないなあ……という人もいれば(もちろん、これも作品によりますが)、日々のすきま時間に倍以上の時間をかけてゆっくり読む人もいる。  これについては、個人差が大きすぎて、想定する読者層というだけではなんとも言えない領域。考えるのは無駄、とまでは言いませんが、あまり意味はないかもしれません。  ミもフタもないことを言ってしまえば、どれくらいのPVや評価が得られるかという点だけを考えるなら、文字数よりもそれ以外の要素の影響が大きいのではと思います。一話が長くても短くても、読まれる作品は読まれるし、ウケる作品はウケるでしょう。  ここからは、比較的読書スピードが速いだろう私の好みと私見全開になりますけれど。  考えてみると、そも〝短いほうが読みやすい〟という捉え方自体に、罠感あるのですよね。  短い時間で読めることと、読みやすいは、そのままイコールで結んでいいものか?  一話1,000文字の話は、たしかに誰にとっても読みやすいでしょう。  ですが、読書慣れしている方なら1分もかからず読み終えてしまうだろう短さは、作品の魅力や中身がちゃんと伝わっているのか。また読者にとって、日常の楽しみのひとつとして、人を惹きつけられる分量になっているのか、とも考えてしまいます。  多数派でなくとも、〝物足りない(ネガティブな読後感)〟が〝読みやすい〟を上回ってしまう読者も確実に存在するでしょう。  とはいえ、短く区切られているほうが、手を出しやすいのもたしかです。  スマホの画面サイズによっては、短い文字数のほうが物理的にありがたいという方も多いでしょう。  そんなこんなを考えてみると、なんだかんだと言いつつも、一話あたり3,000文字前後という数字は、やはりバランスのよい文字数なのかもしれません。  堅めの作品でも軽めの作品でも、それなりに内容を込められる文字数というとそれぐらいなのかな、と。  最終的な判断は、もちろん書き手が決めることではありますけど、内容や文体、投稿サイトの仕様といったもろもろを鑑みたとき、一話3,000文字前後というのは、いまでも指標のひとつになりうるのだなと改めて感じた次第です。
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  • 2021年12月30日

    カクヨムコン、恋愛が主題の男性向けVRゲームものはどの部門?

     冷やかし感覚ながら、せっかくタイミングが合ったので参加してみるか、と考えていた今回のカクヨムコン。  タイトル通りの話を書いていて、はたと気づきました。  ……これ、応募できる部門なくね?  異世界ファンタジーとホラー、わざわざ『女性向け』と明記されている恋愛(ラブロマンス)とキャラクター文芸は明らかに外れるとして、残るはふたつ。  現代ファンタジーとラブコメ(ライトノベル)。  一般的なVRMMOものであれば、現代ファンタジーで応募されてる方が多いのではと思いますが、私の書いているものはVRMMOを主な要素としつつ、主題は恋愛のつもりなのですよね。  ざっと尺の半分を占めるVRMMO要素は、最悪別の要素に置き換えても成り立つけど、逆はないという内容なので。  この時点で『非恋愛主題作品』と明記されている現代ファンタジーからも外れてしまう。  残るはラブコメ(ライトノベル)ですが、話の内容的にはどちらかといえばシリアス寄りでコメ要素がほとんどない。  説明には『恋愛・ラブコメ要素のある小説』とあるので、恋愛が主軸であればラブコメ系の作品でなくともよいのでしょうが、それならなんで部門名が『ラブコメ』なのかという。心理的に応募しづらいことこの上ない。  このへん、『恋愛』『ラブコメ』というカクヨムのカテゴライズには前々から疑問を持っていたのですけど、改めてその思いが強くなったところです。  カクヨムコンも含めて、それならもういっそ、 『恋愛・ラブコメ(女性向け)』 『恋愛・ラブコメ(男性向け)』  とでもしてくれたほうがわかりやすい。  どちらにも入らない恋愛作品には、別の受け皿もあるわけですし。  カクヨムコンの応募要項や質問欄を見てみると、『各部門の求める作品、選考する編集部や過去の受賞作品を参考にしてね!』とあるものの、こうして読み直してみると、VRゲームものは行くところがないなぁと気づきます。  過去の受賞作には、現代ファンタジー部門にVRゲームものがありますけど、これだって、カクヨムヘルプのジャンル説明にある、 『現実世界に連なる世界観で展開される、超常や異能など非現実的な設定が登場するファンタジー作品』  に照らし合わせると、ズレを感じます(ただし当該作品は申し訳ないのですがまだ未読です)。  ……え、もしかして、コンテストはまた部門の意味合いが違う? コンテストのほうは『現実世界寄りの舞台』としか書いてない?  ならカクヨム内で、同じ『現代ファンタジー』という言葉を使いながら説明を使い分けるな、という話でして。  むしろカクヨム内の説明も『現実世界寄りの舞台』だけでいいじゃん、という。  じゃあカクヨムコンの部門はどうなっていればいいのかと考えてみると、たぶんすごく簡単な話で、異世界ファンタジーか現代ファンタジー部門のどちらかに、 『仮想空間もしくはそれに類する仮想的な異世界を主な舞台とした』  といった感じの一文を加えてくれれば、それで済むと思うのですよね。これだけでほとんどのVRゲームをカバーできるはずですし。  以前から『VRゲームものはSFなのか?』という疑問を感じていた私としては、そのほうがしっくりくる、というのもあります。  でも現状そうなってはいない。  これは、そこらの素人が思いつくことを、運営やプロの編集さんたちが考慮しなかったということではなく、考慮した上であえて省いたのだろうなぁと考えると(SFジャンル自体削られてしまったのも併せ)、VRゲームものの〝お呼びじゃねえ〟感に泣けてくるものがあります。  ただ同時に、致し方ないのかな、とも。  SAOのようなヒット作品があるとはいえ、VRゲームもの自体はジャンルとしてはわりと小規模なんですよね(ゲーム世界へ転移・転生は別ジャンルだと思っているので、オバロなどはノーカンです)。  たとえば、キーワード別の検索数でみると、『VRMMO』は現時点で987作品。  これは、『恋愛』(26918作品)、『ラブコメ』(10642作品)といった巨大ジャンルは言うに及ばず、『チート』(3557作品)、『ハーレム』(3538作品)、『ざまぁ』(2054作品)、『ヤンデレ』(1638作品)といったあたりと比べてもかなり下。  このキーワード検索は、タイトルやキャプションでの検索とはまた違う上に、一部の作品は異世界ファンタジーや現代ファンタジーなどと重複しているだろうことを考えると、純粋な作品数そのものは把握が難しいものの、おおむね傾向としてそこまで大きなジャンルでないとは言えるでしょう。  ウケないと言われる『ロボット』ですら2180作品あることを考えると、書き手にとっても難しいジャンルなのかもしれません。  そう考えれば、カクヨムコンという、サイト名を冠したもっとも大きなコンテストで、そこまで巨大でもない特定ジャンルをわざわざカバーするような説明をしないのも当然だと思えてきます。  ……というようなことを、つらつらと考えつつ。  応募はすっぱり諦めて、いまはのんびりと書いているのでした。
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