第一話 じいじ最大の汚点
洛陽の屋敷の縁側で、仲達は孫の炎を膝に乗せ、やけに神妙な顔で咳払いをした。
「炎よ、今日はじいじの人生最大の汚点を聞かせてやろう…」
「おてん? おてんって、なに?」
「恥ずかしい、失敗のことじゃ…」
「じいじが自分で言うの、へんなの…」
「聞け。蜀の孔明が陣中で病死したという知らせが入っての…。ワシは『好機』と見て、すぐさま追撃の兵を出した」
「かっこいい!!」
「かっこいいのは、ここまでじゃ…」
「えっ、もう?」
「前方の蜀軍から、車に乗った孔明が現れた。羽扇を手に、いつもの顔でな…」
「え、死んだんじゃないの?」
「ワシもそう思った…『これは罠じゃ、生きておったのじゃ?!』とな。ワシは急いで、全軍を引き返させた…」
「じいじ、にげたの?」
「何、戦略的撤退じゃ…」
「にげたんだ…」
「全速力での!」
「めちゃにげてるじゃん…」
「後で分かったのじゃ…。あれは孔明そっくりに作った、木の人形であったとな…」
「にんぎょう?! じゃあじいじ、にんぎょうにびっくりして、全力でにげたの?」
「言い方が悪い…、判断は間違うておらぬ」
「でも負けたんでしょ、にんぎょうに?」
「うっ…、負けたのは判断力じゃ」
「これがきっかけで、蜀の民に『死せる孔明、生ける仲達を走らす』と歌にまでされてしもうた…」
「うた?! どんな、おうた?」
「知らん。想像するだに恐ろしいわ…」
「じゃが炎、これはまだ前座よ…」
「これでまだ、はじまりなの?!」
「本当の汚点はここからじゃ…。あまりに慌てて逃げたせいでな、片方の『沓』を陣中に置き忘れた…」
「おくつ、わすれたの?」
「うむ。裸足のまま馬に飛び乗り、自陣まで駆け戻った」
「はだしで馬のるの?!、じいじすごい…」
「褒めるところを、完全に間違えておるがな…。自陣に着いてから、部下に『将軍、お履物が…』と言われるまで、わしは、気づかなんだ…」
炎は、けらけら笑い出した。
「じいじ、それであだ名とかつかなかったの?」
「よくぞ聞いてくれた。実はの…、あの日以来、家中でこっそり『沓将軍』と呼ばれておったのじゃ!」
「おくつしょうぐん!! へんな名前!!」
「一番許せんのがそこよ。人形から逃げたことより、沓を忘れたことより、それを陰であだ名にされておったことが、じいじの一生の不覚じゃ」
炎は地面の上でごろごろ転げ回った。
「おにんぎょうから、はだしで、にげて、あだ名までついちゃったの?!」
「そう並べられると、なかなかにひどいのう…」
仲達はふん、と鼻を鳴らしたが、そこでふと言葉を止めた。何かを思い出したような、少し柔らかい顔になる。
「実はな炎…、その『沓将軍』というあだ名、誰が言い出したか知っておるか」
「部下の人?」
「いいや。お前のばあば…、張春華じゃ!」
「ばあばが?!」
「うむ…。ワシが屋敷に戻って、裸足だったと知った途端、腹を抱えて笑っての…。それから何十年も、ワシが偉そうなことを言うたびに、こっそり『沓将軍がなんとおっしゃるの』と混ぜっ返してきおった…」
「じいじ、それいじめられてない?」
「いじめではない。あれは、あの人なりの…、まあ、可愛がり方じゃったのよ…」
炎は少し黙って、仲達を見上げた。
「じいじ、その話するとき、ちょっと嬉しそうな顔してる!」
「そうか? 気のせいじゃろう…」
「してるよ。ばあばの話するときだけ、いつもよりゆっくりしゃべるもん…」
仲達はしばらく黙って、庭の方に目をやった。
「…よく見ておるのう、お前は。まあ、そうさな。あの人に笑われた話だけは、何度話しても、悔しさより先に、懐かしさの方が勝ってしまうものでな…」
炎は仲達の胸に、もたれかかった。
「じゃあその話、もっと聞きたい」
「よかろう。次は、渭水で孔明と睨み合っておった頃の、話をしてやろう。あの人にはまた別の呆れられ方をしたものよ」
「それも、ばあば出てくる?」
「うむ、出てくるとも…。あの人が出てこん話の方が、少ないくらいじゃ…」
炎はにっこり笑って、じいじの膝の上で、もう一度丸くなった。
仲達はゆっくりと茶をすすり、次の話を語り始めた。