• ホラー
  • 現代ドラマ

「オストラシズムの教室」作者あとがき

 こんばんは。坂月タユタです。

 先日ナツガタリ'25が終わりましたね。私は結局「オストラシズムの教室」のみの応募となりましたが、何とか書きたいことを書ききることができたので、満足はしております。最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。

 ここまでの道のりを振り返って、まず作者として一言申し上げたいのは――「もっと明るい題材にすりゃよかった」です。なんでよりによって学園に虐殺事件なんてブチ込んだんだ。普通に青春ラブコメとかでよかっただろ。皆さんきっとそう感じていたと思いますが、安心してください、作者もずっと同じことを思っておりましたので。

 暗い話を延々と書いてしまったので、つい気が緩んでこんなふざけたあとがきを用意してしまいました。普段の私なら絶対にやらないことですが、ここまで来てしまった以上、どうぞ最後まで付き合っていただければ幸いです。

 さて、「学園」という舞台はある意味一番残酷で、一番人間がむき出しになる場所なんですよね。嫉妬も裏切りも会社勤めより露骨だし、逃げ場もない。友情や恋愛が芽生える一方で、排斥(オストラシズム)や暴力が当たり前に存在する。そんな現実を描き続けると、作者の精神が先に排斥されそうになりました。いや本当に。執筆しながら泣きそうになったのは初めてでした。

 私がこの作品で描きたかったのは、残虐な描写でも虐殺事件の手口でもありません。そんなものを真顔で語るほど、作者は人間不信には陥っておりません。……多少は陥っておりますが。描きたかったのは『声を上げることの意味』です。たった一言で孤立は揺らぎ、沈黙は裂ける。その一言で生き延びる人間がいると信じています。もっとも現実の社会は、声を上げた人間に『空気読め』と石を投げる仕様になっておりますが。だからこそ物語の中くらいは、声を上げることを肯定してやりたいのです。

 正直に申し上げますと、人間という生き物はどうしようもなく暴力的です。だからいじめもなくならないし、戦争もなくならない。人間はきれいごとでは生きられません。どんな立派な教育を施しても、兵器を廃絶しても、結局はどこかで弱い者を排斥し、手軽な暴力に頼ってしまう。それが人間の“初期設定”のようなものなのでしょう。クソだなと思いますが、事実です。

 しかし、だからこそ忘れてはならないのは――人間はクソである、という事実そのものです。悲しいことに、我々はそれをすぐに忘れて「人は皆やさしい」などと都合のいい夢を見ます。そしてまた同じ過ちを繰り返す。だからこそ、この不完全さを受け入れた上で、隣にいる誰かに声をかけ、救いの手を伸ばすことが必要になるのだと思います。

 救いとは、大げさなことではありません。戦争を止めることでも、革命を起こすことでもなく、目の前で起きていることに「やめなよ」と声を上げること、目の前の人に「大丈夫か」と声をかけること。その程度の行為が、人間の暴力性をほんの少し和らげる唯一の手段なのではないでしょうか。

 世界は残念ながら良い方向にばかり進みません。人間は今日もどこかで争い、誰かを排斥しているでしょう。それでも、あなたが声を上げれば、手を伸ばせば、せめて目の前の一人くらいは救えるかもしれません。その一人を救うことが、人類の持つ数少ない希望だと信じたいのです。

 最後に。ここまでお付き合いくださった読者の皆様には、心より感謝申し上げます。本作が少しでも楽しめた方は、ぜひ誰かに薦めてください。レビューや感想もお願いします。もし「暗くて読後感が重い」と感じられた方は、どうかケーキでも買って帰ってください。砂糖と脂肪は大抵の文学よりずっと優秀に心を救ってくれます。

 それでは、また次の作品でお会いしましょう。

坂月タユタ

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する