最近のオリジナル長編アニメ映画を見ていると、ときどき「これはもう現場の誰も止められなかったんだろうな」と感じてしまう作品に出会うことがある。
テーマは壮大で、作画も音楽も豪華。「復讐」「赦し」「生と死」といった“高尚なテーマ”が掲げられ、批評家、文化人「野心的な問題作」「後世に残るべき一本」と理論武装で持ち上げる。
それでも、劇場の客席はガラガラで、一般観客のスコアは伸びない。ストレートに言えば「興行的には厳しい」作品。
ここでわたしが気になるのは、ある一本の良し悪しではなく「なぜここまで行っても、誰も止められなかったのか」という“体制”のほう。
監督ワンマン制という構造
まず前提として、近年のオリジナル・アニメ映画には、
原作
脚本
監督
小説版・ノベライズ執筆
といった主要部分を、一人のクリエイターが兼ねる「ワンマン制」の企画が少なくない。企画の出発点から、世界観・ストーリー・セリフ・設定テキストまで、すべて同じ頭の中から出てくる。
これはもちろんクリエイターの「表現の自由」の側面でもあるけれど、一方で、外部の脚本家やシリーズ構成が、「ここ分かりづらくないですか?」と割り込む余地が、構造的に小さいという意味でもある。
「ここはキャラクターの積み上げが足りない」
「このテーマは別のシーンで反復しておくべき」
「観客はここで置いていかれる」
そういう別目線が、そもそも入りにくい。
巨大製作委員会と「止めるより進める」インセンティブ
そこに、「巨大製作委員会方式」が重なる。
テレビ局
映画配給会社
音楽レーベル
広告代理店
出版社
などが横一列に並び、製作費や宣伝費を分担する。公開館数は数百規模、海外映画祭への出品や世界配給も「前提」としてプロジェクトが走る。
この規模になると、企画がある地点を越えた瞬間、「止める」より「どうやって前に進めるか」のほうに、強いインセンティブが働く。
すでに海外のマーケット向け資料も組まれている
映画祭への出品スケジュールも決まっている
関連商品やタイアップ企画も動いている
そんななかで、「やっぱり脚本が弱いので、全体を練り直しましょう」と言えるプロデューサーは、現実にはなかなかいない。
列車が走り出したら、多少のきしみは「話題性」や「作家性」で押し切るしかない――そんな空気が生まれやすい。
ブランドと沈黙の圧力
そこに、「監督ブランド」という要素が重なる。長年の代表作や受賞歴で評価を積み上げてきた監督ほど、現場スタッフは「自分が分からないだけかもしれない」と躊躇し、メディア側も「巨匠の新作」として扱い、批評家や文化人は「テーマ性」「構造」「引用の妙」を論じることに集中する。
「この展開は観客がついてこない」
「この人物の変化には説得力が足りない」
と感じても、それを口に出すこと自体が、失礼に思えてしまう空気がある。
「自分の読解力や教養が足りないだけでは?」
「分からないのは、こちらが作品に追いついていないからでは?」
そうやって、違和感のほうが、どんどん自分の内側に押し込まれる。
作品の善し悪しとは別に、「分からない」と言うことが難しい環境になっていく。
「作品としては成功」という安全弁
興行成績が伸びなかった作品に対して、よく使われる言い回しがある。
「興行的には苦戦したが、作品としては成功している」
「観客に迎合しない、挑戦的な問題作」
この言葉自体が悪いわけではない。実際、数字に出づらい価値もあるし、後年再評価される作品もある。
ただ、これが毎回のように使われてしまうと、
観客からの「分からない」「刺さらない」という感覚が、作品の問題ではなく観客の側の不足として処理されがちになる。
興行的な失速や、物語としての弱点に、「失敗」というラベルが決して貼られないという危うさがある。
「興行は時代や宣伝の問題で、作品自体はまちがっていない」
という言説ばかりが並ぶと、クリエイター側も、プロデューサー側も、「何が噛み合わなかったのか」を、きちんと検証しづらくなる。「失敗」を「失敗」として扱えない環境は、創作にとってもビジネスにとっても、あまり健全ではない。
テストスクリーニング文化の薄さ
もうひとつ、日本のアニメ映画にありがちな構造的弱点として、
「外部向けテストスクリーニングの文化が薄い」
という点がある。ネタバレを嫌う文化や、制作スケジュールの逼迫もあって、完成前のラフ版を、一般観客に見せてフィードバックを取る「ここが分かりづらい」「このキャラに感情移入できない」といった声をもとに調整するといった工程が、実写映画ほど一般的ではない。
その結果、
テストプレイのないゲーム
テストユーザーのいないプロダクト
のような状態で、400館規模の映画がそのまま世に出ていくことがある。
「理論上はこう機能するはず」と、「現実の観客がどう感じるか」が乖離したまま、誰もその差を測らないまま公開日を迎えてしまう。
「素朴な違和感」をどう扱うか
ここまで書くと、まるで「だから最近のアニメ映画は全部ダメだ」と言いたいように見えるかもしれないが、そういう話ではない。
わたしが気になっているのは、「素朴な違和感」が、“理解力の低さ”“知的レベルの問題”として片付けられてしまう構造のほうです。
テーマも構造も分かる。
作家の意図もおおよそ飲み込める。
それでも、
「キャラクターの感情の線が繋がっていない」
「誰に感情移入していいのか分からない」
「赦しの話に見せかけて、弱い側に我慢を強いていないか」
といった違和感を覚えることはある。
その感覚を、
「浅い」「分かっていない」「勉強してから語れ」
で切り捨ててしまうと、作品にも業界にもフィードバックが届かない。
わたしは、作品を全否定したいわけではない。むしろ、
「もったいない」「惜しい」
と思うからこそ、「ここが噛み合っていない」と言葉に残したいだけ。
わたしの立ち位置
わたし自身は、文豪や哲学者の名前を並べて語れる人間ではないし、高尚な批評語を自在に操れるわけでもない。
だからこそ、理論武装で褒めること、作者のブランドだけを信じて「これは名作だ」と言い切ることよりも、
「ここがよかった」
「ここで置いていかれた」
「このツケの払い方だけは納得できない」
といった、素朴な違和感を大事にしたいと思っている。興行的な失速を、即「失敗」と決めつけるのも極端だ。だが逆に、数字も観客の反応も見ないまま、
「興行は関係ない。作品としては成功だ」
と言い続けるのもまた、別の意味で極端だと思う。大規模なアニメ映画であればあるほど、「誰も止められなかった」構造は生まれやすい。
だからこそ、その外側から「ここで噛み合っていない」と言える素朴な声もまた、必要ではないか――そんなことを、ある作品をきっかけにずっと考えている。