• 歴史・時代・伝奇
  • SF

明けましておめでとうございます&進捗間に合わず3日更新予定

明けましておめでとうございます。

正月早々風邪を引きまして、1日はほぼ年始まわりと寝るので終わってました。
そして今、書いているんですけど……ど。
前座だけで3000文字超えて白目むいてます。
ここからあれしてこれしてあれもかいて、と考えると、一万文字を超えずに頑張ることを祈るだけです。いや戦争回て一万文字超える物ですよね☆

いくつか、修正しました。
1話の終わりをもう少し叙情的な言葉を足しました。こう、引きの弱さをもう少しなんとかならないか、しかしストーリーラインは変えられないし、と演出でなんとかしようとしております。

また、16話で、楚王旅が王子の時にさらわれたとか書いちゃったんですけど、王になってからでした。つーか、荘王、共王と少年王が続くんですけど、昔の楚の末子相続が関係しているのかしら。晋ばかりしていて楚は疎いので、もう少し史書を遡って確認します……。

以下。三日予定の冒頭だけ貼り付けます。自分へのハッパかけです。お待たせしている人にちょこっと試食感覚で。言葉の調整などをまだしていないので、文章のねじれなどあれば申し訳ない。

邲の戦いが終わると同時に限定公開小説が書き終われればいいなあ~とはなっております。

***
 士会が陣に訪れたという報告に、楚王・旅は狼狽はもちろん、驚くこともなかった。せいぜい片眉をわずかにあげる程度であった。
 驚きの声をあげたのは楚将たちである。王が送った使者が敵国の最も恐ろしい将を連れて帰るとは思わなかったのである。
「晋人ほど詐術を弄する者どもはおらぬ。罠では無いか」
 左軍の将、公子嬰斉が眼光鋭く言った。旅の弟にあたる。彼は弟であるから将の地位にいるわけではない。それほどの力があるから、任命されている。
 楚は親戚、もしくは王族からわかれた氏族が国政を担っている。公子嬰斉が王に命じられて将となっているということは、王位継承権を捨て臣に下ったと言える。右軍の将も公子側という旅の兄弟であり、似たような立場であろう。楚に限らず君主から別れた氏族が貴族となり国を大臣をしていることがほとんどである。士会や趙朔など他国からの亡命者も大臣をしている、つまり血のつながりの無い大臣を用いる晋こそ異端と言える。以上、うんちくはともかく。
 令尹・蔿敖が公子嬰斉を制して言った。
「晋の陣へ向かった使者は私の補佐をしている少宰。士季は中軍の補佐をする立ち位置であり、少宰とも言えよう。おおよそ、大国同士であれば、大宰には大宰が接待し、少宰には少宰が応じる。少宰に応じついてきたということ、怯えるは軽重が問われる。罠であればこの場で手討ちにすればよい」
 正論であり、公子嬰斉の警戒に対する答えもはっきりしていた。戦場で罠をかけてくるなら殺せ。端的な答えに公子嬰斉は満足げに頷いた。今度は公子側が口を開く。蔿敖の言葉に新たな疑問が出たのであろう。
「少宰に少宰が応じるのであれば、士季は晋の陣で応じ、それを大宰――つまりあちらの正卿に伺うが道理であろう。来る必要が無い。罠とは言わぬが、我らへの謀略ではないか」
 楚が率いる三軍の、左軍右軍双方の将軍が一人の男に弱腰な、という話ではない。実際、晋は詐術多く親戚国家でも容赦なく併呑することから『虎狼』と陰で言われる国である。表看板を徳と礼にしているぶん性格が悪い。その国で、唯一楚王を大敗させた将が
「使者へのご返答に」
 などと気軽すぎる理由で単身やってきたのである。何の策略か、と考えるのが自然であった。三軍の中軍、軍の要を率いる沈尹が
「いかがされますか、王よ」
 と静かに問うた。沈尹も旅の兄弟であるが、沈という氏が残っているところからいち早く臣に降りたのであろう。十三人の他人同士が話し合っている晋と、王が兄弟や親戚が談議する楚。これほどあり方が対局の国家が、中原の運命を決める敵国同士というのは何やら宿命じみており、戯曲のようである。
「会おう。こちらの帰れという言葉を受けながらも、何か言いに来たのだ。それを受けるのが王の責務というもの」
 にやり、と余裕ある笑みを向けながら旅は士季を天幕に連れてくるよう手を降って示した。そばにいた伍参が、受命しすっと下がっていった。寵臣といっても伍参は場で最も格が低い。このようなとき、使いっ走りをすれば良いとわかっているのが、この若者の英才さと言えた。使いっ走りは、相手の軽重を見極める目も必要であり、それは王のための斥候である。
 さて、士会を連れてきた伍参は旅に素早く駆け寄り
「傑物です」
 とだけささやくと一礼して天幕から去って行った。己の分をわきまえる点も含め、伍参は旅の寵臣と呼ばれるにふさわしい近侍であった。
 さて――。
 楚王・旅を上座として、最も近い場に令尹の蔿敖。そこから左右の席にわかれ沈尹、公子嬰斉、公子側が座している中、士会が頭を下げ座したまま進んでくる。主君相手ではないため、地に額はこすりつけていない。儀礼どおりの場まで進むとそのまま拝礼したまま黙っていた。もう五十路も終わろうとしているだろうに、その背にたるみなく、引き締まった戦士の体であった。
 天幕内に緊張が降り積もるように張り詰めていく。その緊張を打ち破るように口を開いたのは蔿敖であった。
「我が少宰が申し伝えたこと、ご了承いただいたと伺っている。その上で我が楚に直接の言上をしたい貴公は何者か」
 何者も何もこの場にいる全員知っているわけだが、形式というものがある。そしてこの時代は形式が最も重要とされていた。
 士会がさっと蔿敖へ体を向け、ゆっくりと頭をあげた。
「栄えある楚の令尹よりこの小者にお言葉いただきありがたいことです。率爾ながら申し上げます。わたしは晋で上軍の将を任じられております士季と申します。このたび、主人につかわされて王命に従わぬ鄭にお伺いたてようと参りましてございます。ところがそちらさまからご使者がお越しいただき、我が晋といたしましてはけしてそちらさまのご使者にご足労いただくつもりではございませんでした。そのむね、ご使者に申し上げましたが、行き違いあってはそちらさまにもわが主人にもご迷惑おかけするというもの。改めて伺い、口上のべたいと参りました。お忙しい楚の貴き方々にお時間をとらせてしまい、小者として恐縮のかぎりでございますが、お国の話でもございます。こちら、そちらさまの王にお伝えいただくよう謹んでお願い申し上げます」
 堂々とした声音で言い切ると、士会は拝礼した。謙譲深い態度ながら、深く、己の軽重を完璧にわかっている男の自信に満ちた声音であった。感情が表に出やすい公子側はうっかり感嘆のため息をつきそうになって、あわてて咳き込んだ。蔿敖がそれを少々あきれた横目でみやったあと、
「王よ。晋の陪臣である士氏の末子が、王の使わした使者へ返答したにも関わらず、己の不才から行き違いあるやもと不安になり、改めて確かめたいと願い出ております。この敖が強く言い含め、不安を取り払い、このまま帰らせましょう」
 とぬかづいて言上した。士会の言葉全て旅に聞こえているわけだから、現代人から見れば滑稽にも見えるであろう。しかし、士会は旅と直接会話する許しを得ていない。蔿敖が話を聞いてやるとしただけである。ゆえに、蔿敖は士会の申し出を伝えた上、
『令尹としてこれを処理するから、まずここから士会を引きずり出します』
 と言っているのである。旅は士会を見た。視線を感じているであろうに、士会は微動だにせず蔿敖に体を向け、楚王を見ない。余人であれば、一目でも見たいと目線だけでも動かすであろう。が、この小者と称する男は静かに蔿敖の返事を待っている。
 蔿敖の言葉は、正論である。士会は晋の正卿ではない。つまり決定権のない使者である。蔿敖が言い含め、同じ問答をし、帰るのが筋である。否、そもそも使者を返すだけで事足りたくせに、士会はやってきた。それは蔿敖に会いに来たわけでは無いであろう。
 ――もう、負けたくはないな。
 旅は少々幼稚な発想に身を任せ、口を開いた。
「晋の使者が突然来て、不安を覚える兵もいるであろう。令尹および将たちは大夫や兵を慰撫せよ。晋の主人の名代だ、俺が相手する」
 公子側は、ぽかんとしたあと、悔しい顔をした。王とこの男の舌戦が見られないと稚気めいた悔しさを覚えたのである。
 公子嬰斉は引きつった。王と使者を二人きりにする暴挙を命じられ、失神しかけたのをなんとか耐えたのだ。
 沈尹は蒼白となった。三将の中で比較的冷静な彼は、使者が小刀ひとつもっていないことを知っている。しかし、王の身に何があるかわからぬと空恐ろしくなった。
 蔿敖は頭を抱えたくなった。所作、風貌、そして戦上手とわかっている男。何もかも王の好みなのだ。そう言うと思った、言うと思った! だから先手を取ったというのに!

以下続く~!

2件のコメント

  •  楚国の幼君ラッシュは何なのでしょうね? 左伝文公元年には「楚国の挙は恒に少者に有り」とされていますが、理由までは書かれていません。楚は同姓経営で公族令尹も多いので政治的なバランスの問題なのですかね?

     本文中で書かれていた、姫姓以外の執政が普通にいるのは、確かに中原の国としては異端ですよね。分かりやすいところだと、確か宋も歴代右師は子姓多めだったような。
     贏姓の人が姫姓の国で執政やれるのは、なかなか凄いことだなと今更ながらに思い至りました。

     本編の話をさせていただくと、荘王と士会の対談の行方が楽しみですね。
  • ペンギンの下僕さま
    あけましておめでとうございます。

    楚は末子相続から始まってるようなので、幼君もしくは少年王、若い王がスタートラインになりやすかったのではないかと思います。たぶん。たぶん!!

    魯や楚はもちろんですが、宋の左師右師も公室から分かれた決まった氏族で、例えば右師は戴公から派生した氏族のみ(華元が有名)で左師もどこかの君主派生しかなれなかったはずです(なので左右に上下なくその時威勢のある方が上となります)

    晋はそもそも春秋時代に設立した、分家が諸侯武公になる卑怯技で古い臣が少ない。献公の代で先代たちの公子皆殺し、文公の代で太子以外国外居住と決めたので、公子出身政治家がいなくなりまして。分家のころに来た異姓と古い姫姓が政治的に同等になってしまったんですね。

    どうでもいいですが、楚が漢水を越えて左伝に初出演するころ、晋分家が本家を圧迫しながらも潰しきれない。このころの中原の雄は鄭だった。これを思うと思えば遠く来たものだ、となります。

    続きに関しまして、天才2人を描かねばならない重圧に潰され続けながらがんばります!!
コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する