この物語は、イギー・ポップの『The Passenger』を一曲まるごと、拍として借りた小説です。解釈や伝記の話ではありません。もっと手前、鼓膜と骨の間に置かれる四拍のほう——それだけを頼りに、夜の円環に線路を引きました。短い一節〈I am the passenger〉は、意味より先に≪姿勢≫を決める呪文です。歌が「わたしは乗客だ」と言うとき、こちらの体も呼吸の置き場を決め直す。乗る/走るの二項は、この小説のあいだじゅう、互いに入れ替わり続けます。
第一章の降り口で私が置きたかったのは、理屈より先の≪湿度≫でした。蛍光の白、古いポスターの笑顔、音が薄紙の向こうへ引いていく感じ。あの「最初の手触り」を決めた時点で、夜はもう始まっている。乗る者の歌が胸で回りはじめる前に、ホームの空気が先に拍を刻むからです。そこへ≪弱い紙≫(切符)を一枚だけ持ち込み、名をしまえるようにしておく。強い札は挟めない。弱い紙なら、余白に隠して運べる。そんな作りにしました。
第二章で窓をまず鏡として立て、すぐに声の面へ反転させたのは、『The Passenger』が本質的に「窓からの歌」だからです。走るのは車輪でも、見るのは眼でもない。拍が見る。鏡像が半拍だけ先に呼吸を終え、こちらは追いつけない——そのずれを、歌の反復が支えにも脅しにも変える。だからあの章では、引用を欲張らず一節だけに留め、代わりにBPMと呼吸の描写で歌を転写しました。耳の外で鳴っているのに、胸骨の裏から聞こえる音。あれは『ザ・パッセンジャー』の真正な居場所だと思っています。
わたしはこの歌を「勇気の賛歌」とも「逃避の主題歌」とも呼びません。どちらにも使えてしまうからです。むしろ、≪乗ること≫を肯定も否定もしない歌、という地点に置き直しました。乗る者の視野は限定されるけれど、見えるものの種類は増える。操縦桿を握らないかわりに、窓の編集者になれる。それがこの物語でいう「乗客の倫理」です。乗る=従属ではない。乗る=選び続ける姿勢だ、と。
「R」はその裏返しの役でした。命令ではなく合図を置く人。――「運転席、空いてるわよ」。押しつけのない勧誘は、イギーの曲が持つ≪反復の自由≫に似ています。サビが戻ってくるたび、同じ言葉を別の角度で受け止め直す余地が残されている。名も同じです。「名は札でなく、弱い紙」という設計にしたのは、歌の反復へ寄せるためでもありました。反復のたびに、名は摩耗し、戻り、また折れる。それでも拍がつながっていれば、呼吸は立て直る。
『The Passenger』を物語の構造に移すとき、わたしがいちばん頼ったのは≪間奏≫の感覚でした。言葉が退いても、曲は止まらない。そのときに身体が勝手に拍を刻むように、物語にも沈黙を置きました。引用した哲学の命題(「語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」)も、作者としては≪間奏≫として鳴らしたつもりです。
ただ本文でアヤがそれをどう受け取ったかは、別です。彼女はその沈黙を「墓標」として恐れ、物語の核心に結びつけてしまう。その誤読が、かえって彼女を走らせる燃料になった。作者の意図と主人公の解釈がずれることで、物語の重さが生まれると信じています。
影の陳列、穴あきパンチ、紙粉になった「望」。これらはすべて、歌のリフに相当します。くり返しながら、毎回すこしだけ角度を変える。たとえば第一章のポスターは、ただの小道具ではなく、「見返す視線の練習問題」として置きました。見られる/見るの往復が、やがて名の宣言へつながるように。
≪I am the passenger≫。この短い定義を、わたしは物語のなかで何度も等号に置き換えています。≪乗る=拍を受けとる≫。≪名乗る=速度を決める≫。≪降りる=主語を選ぶ≫。三つの等号は、どれも強制ではなく、姿勢のサンプルとして提示したつもりです。読んでくれる方が自分の夜に持ち帰って、使えそうなら使えばいい。使いにくければ、しまっておけばいい。余白はそのために空けました。
最後に、曲について一つだけ。あのベース・ラインは、「一歩遅れて追いつく」ためのレールです。すこし遅れても、追いつける。窓のこちらも、向こうも。だからこの小説は、≪乗る≫と≪走る≫のどちらを選んでも終わるように書かれています。今日の私が「乗る」を選んだなら、明日の私が「走る」を選べばいい。そのとき、窓はまた鏡になり、次の反復に入ります。歌がそのたび、最初の四語をくれるはずです。
読んでくれて、ありがとう。今夜は、あなたの速度で。