『紅姫』後半で、神である存在が「なぜ我々がひとの姿をしているのか」という問いかけをする場面があります。答えは『ひとの心を知るため』です。
でも、正直なところ地球上に生きるどんな動物にも感情はあると思っています。犬だって楽しいと笑いますしね。実家で犬を飼っていたので知っているのですが、あの子たちって結構笑ってくれるんですよね。
じゃあなんで神をひととして描くのか。個人的には人間の姿をしていた方が、人間側にとって都合がいいからなのかもしれません。
得体の知れない存在は、その通りに『得体が知れない』ので、わかろうともがいた結果、『人間』になってしまうのでしょうか。
自分が一番安心する相手ってやっぱり同じ形をしたイキモノなんでしょうね。地球上に犬しかいなかったら、もしかしたら神様は今頃犬の姿をしているのかもしれません。それはそれで可愛いかもしれない。
私の創作には大体『人間の姿をした人間ではないもの』が出てきます。でも転生を重ねるとその姿が崩れていく、という個人的な設定があります。記憶を残した転生ってかなりリスキーだと思っていて、嫌な記憶を忘れるからこそ人間って生きていけるとどこかで聞きかじったので、嫌な記憶を残したままもう一度人生を歩むってやっぱりどこか歪むんじゃないのかなって思うんですよね。
そうすると嫌な記憶を克服して前を進みたいというよりも、もしかしたら「嫌な記憶こそあったが、しかし今それを越える幸福が存在している」という執念みたいなものが、彼らが生きている理由なのかもしれないな、と思っています。
あくまで私の創作における考え方なので、悪しからず。異論も異議もあって当然だと思います。
とっちらかったお話をすみません。
ただ人間を書いているな、と思うとその内なるものは一体何か、このひとを生かすものはなにか、そんな風に考えてしまうものです。
生み出したうちの子たちが、一体何を考え、何を想い、その行動をとるのか。無論私の考えを反映させているわけですが、しかし、そこに『個』を感じさせるものがあれば、『人間』として確立するのかなと思ったりします。
作者という自我を感じさせないようになれたら、きっと私は『人間を描けている』のかもしれないなあ、という独り言でした。