空はまだ薄暗く、霧がわずかに世界を白く包み込んでいる。
村が活気づくには、もう少し時間がかかる。
家々の窓は閉ざされたままで、通りにも人影はない。
遠くで鳥の鳴く声が聞こえるほかは、風が草木を揺らす音だけが静かな朝に溶けている。
俺は、村の入り口に置かれた、朽ちかけた丸太を乱雑に組み合わせただけの椅子に腰掛けている。
表面はところどころささくれ立ち、背もたれもない。
座り心地がいいとは言えないが、立っているより幾分かはいい。
この村に身を置き始めてから、一ヶ月ほどが経っただろうか。
正確な日数は数えていない。
ここへ来た日も、その後に過ごした日々も、ひとつひとつ思い返すようなことはしていない。
特別なことなど何も起きていない。
だからこそ、この村は確かに、心を休めるには向いている。
騒がしい街のように、絶えず人の声や馬車の音が響くこともない。
見知らぬ誰かの視線を気にする必要もなく、過去の自分を知る者に出会う心配もない。
「なあ、スズエさん。あんた弟子取る気はないか?」
まだ眠気の晴れきらない頭で、朝の心地よい静けさを味わっていると、隣から声がかかる。
声の主はバルドさん。
村の門番を務めていて、村長のもとへ俺を案内してくれた男性だ。
思えば、この人とも一ヶ月ほどの付き合いになる。
村に腰を据えると決めてから、家を用意してくれたのも、村人たちに俺を紹介してくれたのも彼だ。
市場の場所や、村で暮らすうえで必要なことも一つひとつ教えてもらった。
それに、彼は時々、夕食にも誘ってくれる。
ただし、食事に誘うと言っても、店で食べるわけではない。決まって彼の家に招かれるのだ。
さすがに、そこまで世話になるのは気まずい。だから毎回断っているのだが、最近は断る理由を考えるのも面倒になってきた。
食事代が浮くのなら、たまには行ってやってもいいか。
そんな考えが、頭をよぎるようになっている。
まあ、こうした好意も、俺を村に留めておきたいからだと考えられなくはない。
だからといって、人からの好意で疑心暗鬼になるほど若くもない。
前世の年齢を合わせれば四十を超えている。
精神はすでに成熟している。
食事代を浮かそうなどと考えている時点で、立派な大人ではないがな。
「弟子ですか。まあ、ないですね」
当たり前のことを告げるように、言葉は詰まることなく口から出る。
俺の肉体は、まだ十八歳だ。
剣を振るう腕にも、踏み込む足にも衰えはない。
傷の治りも早く、鍛錬を重ねれば、まだ伸びていける余地はある。体だけを見れば、これから先も剣を磨き続けられるはずだ。
もっとも、これ以上を目指す心意気なんぞ、枯れてしまったが。
弟子を取るというのは、己の剣技を誰かに伝え、次の世代へ残そうとする者が考えることだ。
長い年月を剣に捧げ、やがて自分一人の成長だけでは満たされなくなった時。
あるいは、老いを感じ始め、自らが積み上げた技を後世へ託したいと願った時。
俺には関係のない話だ。
「加えて言うと、取る気があったとしても、俺より年上の人を弟子にはしませんよ」
そう付け加え、バルドさんの顔を横目でうかがう。
どんな反応をするのか、少し気になった。
バルドさんには世話になっている。
それに、俺一人で村を守るのは面倒だ。
そんな理由もあって、バルドさんから稽古を頼まれれば、時折、相手をしている。
剣の持ち方や足の運びを直し、動きに癖があれば指摘する。
本人が望む範囲で、必要なことを伝えているだけだ。
本格的な指導をするつもりはない。
……人に剣を教えると、どうしても昔の自分を思い出す。
助言をすれば感謝され、尊敬の眼差しを向けられる。
下らないことに優越感を得ていた過去。
俺は自分の根が腐っていることを知っている。
弟子を取ったところで、いずれまた、腐った自分が顔を出す。
教える相手を見下し、感謝や尊敬を求めて、いつか嫌われる。
そうなってから悔やむくらいなら、最初から弟子など取らない方がいい。
「馬鹿。誰が俺を弟子にしてくれって言ったよ」
バルドさんが呆れたように息を吐く。
口元には苦笑いが浮かんでいる。
「娘のことだよ。前に、俺が少しだけ剣の振り方を教えていたことがあってな。今でも、たまに打ち合うことがある」
ああ、そういうことか。
思い返せば、娘がいるという話は聞いた気がする。
だが、剣を教えているとは知らなかった。
それにしても……、へえ、バルドさんがね。
他人に教えられるほどの腕前があるようには見えないが。
もっとも、俺がこの村に来る前は、バルドさん以外に剣を扱える人間がほとんどいなかった。
そうであれば、彼が娘に剣を教えることになったのも無理はない。
村に他の指導者がいないのなら、身近にいる者が教えるしかない。
たとえ、それが十分な腕前とは言えなくとも。
「それでな。あんたに剣を教えてもらってから、自分で言うのも何だが、俺の腕もかなり上がったと思う」
バルドさんは、少し照れくさそうに頬をかく。
自分の成長を口にするのは、やはり気恥ずかしいらしい。
腕が上がった、か。それはそうだろう。
剣技の指摘には自信がある。
王都騎士団にいた頃、俺は周囲の騎士たちと手合わせをしては、足りない技術や改善すべき点を教えていた。
内心はどうあれ、指導そのものは真面目にやっていた。
どう伝えれば、相手の動きが変わるのか。
それを考えるのは、何度も通ってきた道だ。
「娘も、俺の腕が上がったことに気づいてな。どうして急に上達したのかと聞かれて、ついスズエさんのことを零してしまった」
そこまで言うと、バルドさんは一度、言葉を切る。
俺の顔色をうかがうように視線を向けてくる。その表情には、申し訳なさそうな色が浮かんでいる。
だが、かといって本気で後悔しているようにも見えない。
俺に断りなく話したことを気にしているのか、それとも娘に俺との手合わせを伝えたのが嬉しいのか。
どちらか決めかねている、そのような表情。
「……別に隠すようなことでもないだろ?」
最後には、そんな言い訳めいた言葉を付け足す。
困ったように笑ってはいるが、その笑みの奥には、俺の返事を待つような期待がわずかに覗いている。
「まあ、そうですね。……それで、本題は俺に娘さんを弟子にしろと?」
俺のことをどこで、どのように話そうと気にはしない。
この村で広まった噂が村の外まで届くことはないだろうし、俺を知る者の耳に入るとも思えない。
それよりも、弟子を取る気はない。
その考えに、揺らぎはない。
たとえ、バルドさんの娘だとしてもだ。
……いや、知り合いの娘となれば、なおさら厄介か。
稽古中に怪我でもさせれば、娘だけでなく、バルドさんとの関係まで悪化する。
教えた以上は強くしてくれるのだろうと期待されても困る。
考えれば考えるほど、引き受けた後に起こりそうな面倒ばかりが浮かんでくる。
「ああ。頼めるなら、そうしてもらいたい」
俺の表情から、断られそうだと察したのだろうか。バルドさんの顔から期待の色が薄れ、代わりに頼み込むような真剣さが浮かんでいる。
軽い相談のつもりで切り出したわけではないらしい。声にも、視線にも、どうにか引き受けてもらいたいという思いがにじんでいる。
その顔を見て、俺は小さく息を吐く。
はあ……どう断れば、角を立てずに済むだろうか。
何かと世話になっている相手の頼みを、あまり無下に断るのも気が引ける。
「スズエさん、乗り気じゃないのは分かるが、頼むよ。俺も娘にあんたを紹介してくれと、何度もせがまれてるんだ」
娘さん自身が望んでいるのか。
それも、一度ではなく、何度も父親に頼み込むほどに。
それなりに、剣に対しての思い込みは感じられる。
少なくとも、思いつきや一時の興味で言っているわけではなさそうだ。
強者から直接教えを受けられる機会は、意外に少ない。
娘さんからしたら、今の状況は、絶好の機会だったという可能性もある。
「いや……そう言われても。それに、俺から学んだことをバルドさんが娘さんに伝えればいいでしょう」
俺が直接教える必要はない。
自分が伝えられることをバルドさんに教え、あとは彼から娘さんへ伝えてもらえばいい。
そうすれば、俺が深く関わらずに済む。
バルドさんは、俺の言葉を聞き終えると静かに首を横に振った。
「そんなこと、とっくにしてるさ。俺は、あんたほどうまく教えれない。分かって言ってるだろ」
その指摘に、すぐ返す言葉は見つからない。
彼なりに工夫を重ね、できる限りのことをしているのだろう。
それでも、俺と同じように教えられるわけではない。
剣の腕だけでなく、相手の動きを見て、何が足りないのかを見極め、それをどう伝えるか。
俺が黙り、次の言葉を探していると、バルドさんは少し間を置いてから、譲歩するように言った。
「一回だけでいいんだ。そしたら娘も多少は満足すると思う」
折れないな。
ここまで頼まれては、これ以上何を言っても意味がなさそうだ。
俺が断る理由を並べても、バルドさんは引き下がらない。
娘に何度もせがまれているという話も、どうやら誇張ではないらしい。
俺の意思よりも、娘の望みを優先している。
そのことが、彼の表情からも言葉の端々からも伝わってくる。
これが、愛する娘を持つ父親の弱みというものなのか。
それとも、何があっても娘の願いを叶えようとする、父親の強さなのか。
どちらでもいい。
一度だけでいいと、向こうから条件を下げてきたのだ。
……ここが妥協点だろう。
「分かりました、一度だけですよ。それと、何かしら対価は用意しといてくださいね」
たとえ一度きりでも、剣を教える以上は時間を使う。ただ働きで引き受けるつもりはない。
対価がなければ動かない。
俺の時間だって、有限なのだから。
「金取んのかよ。いつも縁側で寝てるだけのくせによ。まあいい、頼んだのはこっちだからな。娘に何か持たせておく」
失礼な言い草だ。
だが、反論する気にはならなかった。
寝てるだけの時間も人間には必要なのだよ。
何も考えず、ただ寝転んでいられる時間は、思っている以上に貴重だ。
少なくとも俺は、この村に来てから、それを実感している。
強くなる必要もなければ、思いつめる必要もない。
ただ目を閉じて、次に起きる時まで何も考えずにいる。
そうした何気ない時間が、どれほど得難いものなのか。
最近になって、ようやく気づいた。
「それじゃあ、俺の休日に家を訪ねるよう、娘さんに伝えてください。時間帯は、非常識でなければいつでも構いません」
休日の暇つぶし。
そう割り切るしかない。
剣の腕を見て、目についたところに簡単な助言を与えるだけだ。
小一時間もあれば、それで十分だろう。
一度だけ。娘さんが納得する程度に、剣について語ってやればいい。
それでこの話も終わる。