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パリィヌ工場の朝は早い その2

 十八世紀の日本大帝国(現在の日本)は、鎖国解除から一転して海外に目を向け始めたところだった。様々な国に留学生を送り、他国の文化や法律などを積極的に取り入れることで、世界に追いつこうとしていた。そんな中、イギリスに送られた一人が塩沢藤一郎だった。
 皇族の親戚筋であることから、塩沢藤一郎はすぐにイギリス社交界にデビューする。当初はアジア人ということで露骨な差別を受けていたが、持ち前の豪放磊落な性格ですぐに周囲に馴染んだ。
その中で特に親しくしていたのが、イギリスの名門オルハイ家の長男、パトリック・オルハイだった。二人は年齢が近いことと、ある趣味が一致して意気投合した。それは当時ロンドンで流行していたオカルトだ。
二人が開く交霊会には、著名な霊能者とオカルト趣味の貴族、それにオカルトの有識者などが頻繁に出入りしていた。次第に会の規模は大きくなり、深くなり、最後にはごく少数の限られた人間だけに開かれるようになった。自然発生的な秘密結社として稀有な例だ。
この交霊会で塩沢藤一郎は、祖国に持ち帰るべき文化を先祖霊に指定されたと、著書「欧米列強から見た日本」に残している。
 こうして持ち帰られた文化に独自のアレンジを加えた結果が、いまや戦後日本の一大産業となったパリィヌである。帰国当初こそ塩沢藤一郎は頭のおかしい人物とされていたが、いまでは日本復興の父とまで言われている。
 第二次植民地戦争で日本大帝国は敗戦し、西日本全域を割譲。誰もが我が国の緩やかな衰弱死を想像していた。それは経済面だけでなく、文化面としてもだ。
占領総司令部(通称GHQ)によって財閥の解体、政治の分解がなされ、国民には日本大帝国の戦争犯罪が浸透していった。空腹と引き換えに失われていくアイデンティティは、見事に、欧米化へのプロパガンダを成功させる。その際に最も社会に変化をもたらせたのが、欧米諸国で盛んな聖教の宗教観。つまり、性交免許制である。

人間に人間が生み出せるのは神の御業によるものであり、教会によって厳粛に管理されるべきである――
                             エンリケ・D・ウルセラ

 性交免許にはC級ライセンス、B級ライセンス、A級ライセンスという区別がある。日本国民のほとんどは、C級ライセンスまでしか取れなかった。
 C級ライセンスは夫婦間での性交のみが認められている。離婚をするには聖教への帰依と教会の許可が必要であり、その際のお布施は一般家庭が払うのは難しい。
B級ライセンスは夫婦間での性交に加え、ライセンスを持たない者に指導する権利が与えられる。取得は非常に難しく、社会的な地位と人格、さらに聖教布教の貢献が必要とされている。
A級ライセンスは神の代理人と呼ばれ、すべての性交を摂理とすることができる。
日本大帝国は敗戦国だったということもあり、国際的な立場がいまよりもさらに弱く、貴族であってもB級ライセンスを持つ者は、ごく一部しか存在しなかった。

 性に奔放だった戦後日本では、この性交免許制に強い反発が起こった。あちこちで反対デモや破壊活動が行われた。特に凄惨だったのは、丸亀無免許乱交事件だ。
これまで若者による無免許性交の事例はあったが、地元警察と民間業者が絡んだ大規模乱交は、これが全国で初の事例である。
四国香川丸亀市では、夏の盆踊りの際に乱交を行うのが昔からの習慣だった。戦後これを禁止され、夏の盆踊りの売り上げが減少していた。
商工会とりまとめ役の田川順二(当時四十九)は下からの突き上げもあり、顔なじみであった香川県警警視の元川公一(当時五十七)に相談を持ちかけた。大々的にはやれへんなと元川公一は言ったという。
元川公一に乱交会場の提供を求められたのは、代替わりしたばかりの西丸亀自治会会長の保土ヶ谷孝(当時六十二)だった。本人は調書で、新顔の自分が断る選択肢はなかったという。
保土ヶ谷孝は地元の建築業者ではなく、田川順二が指定した業者に会場の設置を依頼。当日のコンドームや記念Tシャツ、飲食物などの物販などには、西丸亀の業者も参加していた。
当日は乱交会場に繋がる道を、特務警官が封鎖していた。この特務警官たちは任務の詳細を知らなかったとされるが、特務警官内にいた聖教信者は、事前に任務の内容を明確に知らされていたと証言している。
公に宣伝されたイベントではなかったが、九十人を超える参加があったとされている。入場料は金五千圓だったが(当時の大卒の初任給が一万七千圓)、のちに回収された金はわずか三万圓ほどであった。
参加者たちは全員が、無免許性交による性病で死亡。これについて聖教日本支部が出した声明は以下の通りである。

毒物で溢れた女性器を、免許なしで触れば事故が起きるのは当然のこと。正確な知識に基づく愛撫をしなければ、穢れを浄化することができず、魂までも犯される。今回の参加者のすべてが死亡に至ったのは、性交をする前に風の通り道を確保しなかったから。神の通り道を作らずに性交するなど、典型的な無免許性交によるミスとしか思えない。

 この事件の社会的影響は凄まじく、文部省は保健体育の受講開始年齢を十三歳から九歳に引き下げた。
 また、これまで活発だった自由性交戦線や、性交解放活動隊から離脱者が増え始め、一時期は帝国大学を占拠するまでの勢いは嘘のように消えた。※聖教教会東京支部は、思想問題ではなく、単に性病による死亡で人数が減っているだけとコメントしている。

 異なる文化に右往左往する国民ではあったが、女性の参政権獲得やアパルトヘイト問題などの影響もあり、世界規模で様々な規制が緩和されていった。
近年では、ドギースタイル(後背位)やカウガールスタイル(騎乗位)での性交が解禁されたことが、記憶に新しいだろう。それまで許されていたのはミッショナリーポジションだけで、日本では正常位と呼ばれている。これは直訳すると宣教師の体位となる。聖教では快楽のための性交が禁止されていたために、このような名前が付けられていた。
 日本ではこのように無免許セックスの横行、そして女性の社会進出が他国よりも遅れていることから、国連からA級ライセンスの許可が下りていなかった。
ここで頭を悩ませていた日本政府の打った手が、塩沢藤一郎が持ち帰り、独自に育て上げたパリィヌ文化である。
 パリィヌ文化の黎明期は、本土爆撃によって荒廃した東京都足立区から始まった。焼夷弾などによって焼き払われたのは軍事施設だけでなく、住宅地帯までにも被害が及んでいた。その際に土地の所有権が、歴史資料などと共に消失。あるいは曖昧になってしまった。
 そこに反社会勢力が入り込む。特に足立区のような損害が激しかった土地は、彼らの大きすぎる声と実力行使により、見事に反社会勢力の所有物として認められてしまう。その後も元の持ち主が権利を主張するような事例は少なく、したとしてもその声は封ぜられ、加速する治安の乱降下により、足立区は持ち主の性質を大きく反映した土地柄となった。
 そこで日本政府から依頼を受けた塩沢藤一郎が、反社会勢力に話を持ちかける。パトリック・オルハイの趣旨と政府の援助を後ろ盾に、両者は手を組むことになった。こうしてできたのが、現在では老舗として名高い足立区パリィヌ工場である。
 パリィヌ文化はそれまで、一部の貴族たちのお戯れでしかなかった。少年に簡単な女装をさせて、お互いに自慢し合うだけのものだった。だが用意された合言葉である「異性でなければ性交ではない」が社交界で広まると、貴族たちはこぞって工場からパリィヌを買った。そして同時に、聖教からは反感を買うことになった。
 パリィヌの需要が高まり供給が追い付かなくなると、それまで戦災孤児などを工場に拉致していた反社会勢力は、公然と人買いを始めた。貧困を極めていた多くの庶民が子供を工場に売るようになる。しかしそれでも当時は、出荷の時期を待たずに買われていくパリィヌもいるほど人気があった。
 塩沢藤一郎はここで大きな決断をする。売り時であるパリィヌを中途半端な状態で市場に出さず、きちんと教育して品質を高めてから出荷すると声を上げた。
パリィヌ工場が教育機関であることを宣言すると、政府の援助も公然の秘密ではなくなり、国家予算が堂々と注ぎ込まれる。これで日本は大々的にパリィヌの生産を始めることになった。これに関して塩沢藤一郎は、自身の著書「地球規模での流通目線」でこのように述べている。

 教育せずに売れば、これは国内だけの産業で終わる。しかし教育して立派なパリィヌを作れば、これは世界に誇れる産業となる。

塩沢藤一郎が当時、どこまで見通していたのか不明だが、この英断は確かに世界を巻き込んだ。
 パリィヌの高品質化は、様々なシーンへの提供を念頭に、カテゴライズされていった。
 中でも特筆すべきは、それまで生まれつきの骨格から、整形しても容姿のレベルが高くならない丙級パリィヌを、従軍パリィヌとして教育したことだろう。
戦後、いまほど世界情勢が安定していなかった国際社会は、まだ多くの紛争が教科書に載る準備をしていた。従軍パリィヌは続々とそういった戦闘地域へと輸出されていく。
 高い性技術と確かな戦闘技術、加えて命令に従順になるよう精神調律された従軍パリィヌは、高額であるにも関わらず、世界中に求められた。湾岸戦争の際には、ニュースの映像で流れるテロリストの傍らに、自動小銃を担いだ日本人の少年が立っているほどだった。世界中に流れたこの映像は、世界のパリィヌ熱をさらに加速させることになる。
 次に塩沢藤一郎は甲級パリィヌ(現在の高級パリィヌ、特別国際科)を発表する。精神調律なしでありながら、高い従順性と高いインテリジェンスを誇る特別仕様。そしてなによりも整形なしでありながら、大衆パリィヌとは一線を画す高水準の容姿。これは多くのナチュラリスト(生まれつき完璧なパリィヌこそ至高と考える人々)の購買欲を刺激した。
これらは本来の楽しみ方である装飾品としてのパリィヌの価値をさらに高め、各国の貴族王族や大商人に求められた。
こうして一部にパリィヌが普及してからしばらく、ようやく一般国民にもパリィヌが徐々にいきわたっていく。といっても所有するほど裕福な家庭は少なく、パリィヌを使った風俗店ができ始めたということに過ぎない。現在、工場で教育される多くのパリィヌは、大衆風俗店に出荷されている。

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