私は今、病院に入院している。
白い天井。
白いシーツ。
白いカーテン。
どこまでも白いものに囲まれていると、自分まで少しずつ薄くなっていく気がした。
窓の外には空が見える。
晴れているのか曇っているのか、病室の中からだとよく分からない。季節も、曜日も、ここにいると曖昧になる。ただ、時間だけが静かに減っていく。
一年前。
私は水斗に告白した。
「私のマゼランブルーにならない?」
今思い出しても、ずいぶん変な告白だと思う。
恋の言葉というより、救命の依頼に近かったのかもしれない。死ぬまでの遊びだと言い切って始めた関係。未来を軽々しく約束したくなくて、最初から終わりを含んだ言い方を選んだ。
あの時の私は、恋よりも安定剤が欲しかった。
美術室でマゼランブルーを混ぜた時みたいに、呼吸がしやすくなる何か。夜の自分を少しだけ遠ざけてくれる存在。水斗を好きだったのは本当だけれど、それ以上に私は彼を必要としていたのだと思う。
でも、今は違う。
今の私にとって水斗は、マゼランブルーのように愛おしい。
安定剤なんて軽い言葉では足りない。
あの青を見た時に胸の奥が少し静かになるように、水斗がそばにいるだけで世界の輪郭が優しくなる。放課後の美術室で、絵具の匂いの中で、どうでもいい会話をしている時間。窓から差し込む傾いた光の中で、同じ場所にいるだけの時間。それがどれほど大切だったのか、病院の白さの中で嫌というほど分かった。
死が、こんなにも嫌だとは思わなかった。
前はもっと、静かに受け入れられると思っていた。
余命一年と言われた時も、もちろん怖くなかったわけではないけれど、どこかで他人事みたいに感じていたのかもしれない。どうせ終わるのなら、少しだけ綺麗に終わればいい。そういう諦めに似たものがあった。
けれど恋をしてしまった。
水斗と放課後の美術室で過ごして、名前を呼ばれて、くだらないことで笑って、少しずつ「明日」が欲しくなってしまった。
生きたい。
その言葉が、こんなにも重くて、こんなにもみっともないものだなんて知らなかった。
でも本当だった。
私は心の底から、生きたいと思っている。
もっと水斗といたい。
もっと絵を描きたい。
もっと放課後の光を見たい。
もっと美術室でマゼランブルーを使いたい。
だから私は、水斗に入院先の病院を教えなかった。
会いたくないわけじゃない。
むしろ逆だった。
寂しい水斗のもとへ行きたかった。
会って、声を聞いて、名前を呼ばれて、できることなら手を握ってほしかった。
でも、会えば今以上に死ぬのが怖くなる。
ようやく手に入れたものが、もっと鮮明になる。
ただでさえ手放したくないのに、その輪郭がくっきりしてしまえば、私はきっとますます往生際が悪くなる。泣いて、嫌だと言って、みっともなく生にしがみついてしまうだろう。
それが怖かった。
私はそういう自分をまだ少しだけ嫌っていた。
綺麗に終われない自分。
ちゃんと諦められない自分。
最後まで大人しくしていられない自分。
だから黙っていた。
せめて病院の場所くらいは隠しておこうと思った。
窓の外を見ていると、不意に病室の扉が開いた。
看護師さんだと思った。
でも違った。
「……水斗?」
自分でも信じられないくらい小さな声が出た。
そこに立っていたのは、本当に水斗だった。少し息を切らしていて、髪も乱れていて、制服ではなく私服で、どう見てもまともな手段で辿り着いた顔ではない。
水斗は私を見ると、安堵したように大きく息を吐いた。
「よかった……」
その一言が、ひどく体にしみた。
「どうして」
私は思わず身を起こしかけて、胸の痛みに顔をしかめる。
水斗は慌ててベッドのそばまで来た。
「無理しないで」
「どうして、ここが……」
「苦労したよ、病院をまわりまくった」
少し笑いながら言うその顔は、全然余裕がなかった。
私は呆然としたまま彼を見る。
「え……」
「最初、全然分からなくて。教えてくれないし、連絡も返ってこないし。だから、たぶんこの辺の病院だろうって思って、自転車で……」
「自転車で?」
「うん。回れるだけ回った」
あまりにも馬鹿みたいで、でもあまりにも水斗らしかった。
電車でもなく、誰かのコネでもなく、自転車で病院を探して回るなんて。効率は悪いし、格好もつかない。けれどその不器用さが、たまらなく愛しかった。
この人は本当に、私を探してくれたのだ。
見つからないかもしれないのに。
迷惑かもしれないのに。
嫌がられるかもしれないのに。
それでも、自分の足で探してここまで来た。
私はこんなにも必要とされている。
その事実が、胸の奥でじわじわ広がった。
嬉しい。
ただそれだけだった。
泣きそうになるくらい、嬉しい。
「……ばか」
ようやく出た言葉がそれだった。
水斗は少し困ったように笑う。
「うん、たぶん」
「見つからなかったらどうするつもりだったの」
「その時は、また次の日も探した」
あっさり言うから、余計に困る。
そんなふうに当然みたいに言われたら、私はもう何も取り繕えない。
「どうして、そこまで」
水斗は少しだけ黙った。
それから、当たり前のことを言うみたいに答えた。
「会いたかったから」
私はとうとう泣いた。
静かに綺麗に終わるつもりだったのに、全然駄目だった。
涙は勝手に溢れてくるし、呼吸は乱れるし、顔なんてたぶんひどいことになっている。それでも、水斗は目を逸らさなかった。
「ごめん……」
何に対する謝罪なのか、自分でもよく分からない。
黙っていたことかもしれない。
勝手にいなくなろうとしたことかもしれない。
恋をしたことそのものかもしれない。
水斗は首を振った。
「謝らなくていいよ」
「でも……私、会ったらもっと嫌になるって思ってた」
「何が?」
「死ぬのが」
その言葉を口にすると、改めて本当のことだと分かる。
私は死ぬのが怖い。
嫌だ。
まだ終わりたくない。
水斗は少しだけ目を伏せた。
悲しそうだった。けれど、その悲しさから逃げなかった。
「うん」
彼は静かに言う。
「俺も嫌だよ」
その一言が、優しすぎて苦しかった。
慰めではない。
綺麗事でもない。
ただ同じ側に立ってくれる言葉だった。
私は泣きながら笑う。
こんな顔、絶対に見せたくなかったのに、結局いちばん見せてしまっている。
「ねえ、水斗」
「うん」
「私、最初、死ぬまでの遊びだって言ったよね」
「言ってた」
「撤回したい」
水斗が少しだけ目を見開く。
「遊びじゃなかった」
声が震える。
でも、ちゃんと言わなければいけないと思った。
「本気で好きだった。今も好き。すごく好き。だから、生きたいって思っちゃった」
言った瞬間、胸が少しだけ軽くなる。
認めてしまえば、もう隠すものはない。
水斗は何も笑わなかった。
茶化しもしなかった。
ただ私の言葉を受け取って、それからそっと椅子を引き寄せてベッドのそばに座った。
「じゃあ、俺もちゃんと言う」
「……うん」
「俺も本気だから」
病室の白さの中で、その言葉だけが不思議なほど鮮やかだった。
それからの時間は、あまりはっきり覚えていない。
泣き止んで、少し話して、また沈黙して、その沈黙が苦しくないことに安心して。水斗は病室に来られる日は来て、来られない日は短いメッセージを送ってくれた。私は少しずつ弱っていったし、できることも減っていったけれど、彼が来る日だけは、白い病室に放課後の美術室の気配が差し込む気がした。
「今度、青い絵具を持ってくるよ」
ある日、水斗がそう言った。
私は少し笑って首を振る。
「マゼランブルー?」
「うん」
「病院で使ったら怒られるかも」
「じゃあ、こっそり」
「それはそれで困る」
そんなやりとりが可笑しくて、二人で少し笑った。
笑うたびに胸は少し痛んだけれど、それでも嬉しかった。
結果、私が虹を渡る日まで、水斗は一緒だった。
最後の方は、もう長い会話も難しかった。
それでも彼は来た。
来て、そばに座って、時々話して、時々黙って、ただ一緒にいた。
私はだんだん言葉よりも気配の方を信じるようになっていた。
本当に必要なものは、大きな約束じゃない。
立派な励ましでもない。
ここにいる、という事実だけで十分だった。
窓の外が夕方の色に染まる時間、私はふと、美術室の光を思い出した。
放課後、傾いた日差しの中で、水斗が椅子に座っていた横顔。
あの教室の匂い。
パレットの上の青。
描きかけのキャンバス。
あの頃の私は、終わりを知りながら恋をしていた。
でも、本当は違ったのかもしれない。
恋をしたから、終わりが怖くなった。
終わりが怖くなったから、生きている時間が愛おしくなった。
そうやって私は、最後の最後でようやく、自分の命を自分のものとして抱きしめられた気がした。
マゼランブルーは、深い青だ。
静かで、冷たくて、でもどこかで呼吸を整えてくれる色。
けれど、あの日から私の中では、もう少し違う名前になっていた。
放課後の美術室で。
病院の白い部屋で。
死が怖いと震える私のそばで。
それでも静かに、確かに、生きている今を愛しくしてくれるもの。
それはもう、ただの青い絵具ではなかった。
私にとって水斗は、マゼランブルーより涙色だった。
結果、私が虹を渡る日まで、水斗は一緒だった。
最後の方は、もう長い会話も難しかった。
それでも彼は来た。
来て、そばに座って、時々話して、時々黙って、ただ一緒にいた。
ある日の夕方、病室の窓から差し込む光がやけに柔らかかった。
白いカーテンの端が、ほんの少しだけ揺れている。空は晴れているらしい。けれどその青さを直接見る元気は、もう私にはなかった。
水斗が、いつもの椅子に座っている気配がする。
「……来てる?」
かすれた声でそう言うと、すぐに返事があった。
「来てるよ」
その声を聞くだけで、少し安心する。
目を開けるのも億劫で、私はただ呼吸に集中していた。吸って、吐いて、それだけのことが妙に難しい。胸の奥で、細い糸みたいな命が静かに軋んでいる気がした。
怖い、と思った。
やっぱり最後まで、死ぬのは怖かった。
綺麗に受け入れることなんてできなかった。
もっと生きたい。
もっと水斗といたい。
もっと絵を描きたい。
もっと放課後の美術室で、何でもない顔をしていたかった。
「水斗」
「うん」
「私、やっぱり……嫌だ」
言葉が途切れる。
何が嫌なのかなんて、言わなくても分かるはずなのに、それでも言いたかった。
「まだ、死にたくない」
沈黙が落ちる。
その沈黙が、少しだけ怖い。
けれど次の瞬間、手の甲にあたたかいものが触れた。
水斗の手だった。
強く握るわけではなく、壊れものに触れるみたいに、そっと包んでくれる。
「うん」
彼は静かに答えた。
「知ってる」
それだけだった。
慰めも、励ましも、無理に前向きな言葉もない。ただ私の気持ちを、そのままそこに置いてくれる返事だった。
私は少しだけ泣いた。
涙はもう、頬を伝う力さえ弱々しかったけれど、それでも確かに零れた。
「ごめんね」
「謝らなくていい」
「もっと……一緒にいたかった」
「俺もだよ」
その声が少し震えていて、私は不思議と安心した。
悲しいのは私だけじゃない。
この別れは、ちゃんと二人のものなのだと思えた。
窓の外から、遠くで子供の声が聞こえる。
それがなぜだか放課後の校庭みたいに思えて、私はぼんやりと美術室を思い出した。傾いた日差し。キャンバス。油絵具の匂い。筆を洗う水の濁り。窓際に立つ水斗。あの場所で過ごした時間は短かったのに、私の中ではひどく鮮やかだった。
「ねえ……」
「うん」
「今、美術室みたい」
「……そっか」
「放課後の、あの感じ」
水斗はたぶん泣いていた。
でも声は崩さなかった。
「じゃあ、今日はデートだね」
私はほんの少しだけ笑う。
息が苦しくて、ちゃんと笑えたかは分からない。
それでも嬉しかった。
「うん……最後まで、放課後の美術室」
「うん」
「私のマゼランブルーでいてくれて……ありがとう」
その言葉を言えたことが、少し誇らしかった。
一年前、死ぬまでの遊びだと言って始めた恋。けれど終わる頃には、それが遊びなんかじゃなかったと、ちゃんと知っている。
水斗の指先が、少しだけ強く私の手を握る。
「光沙知」
「……なに」
「好きだよ」
たったそれだけの言葉なのに、世界が少しだけあたたかくなる。
私は目を開けようとしたけれど、もううまくいかなかった。まぶたの裏に滲む光が、ひどく青い気がする。マゼランブルー。深くて静かな青。けれどその奥に、夕焼けみたいな淡い赤も混ざっている。
ああ、と思った。
マゼランブルーより、涙色だ。
私の恋は、きっとそういう色だった。
「……私も」
最後の声は、自分でも驚くほど小さかった。
ちゃんと届いたのかは分からない。けれど、水斗の手がもう一度、確かに応えてくれた。
呼吸がひとつ、ふたつ、静かに遠くなる。
苦しさより先に、不思議なほどの静けさが来た。
怖くないわけではない。
死にたくなかった気持ちも、本物のままだった。
それでも、最後にこの手のぬくもりがあってよかったと、心から思った。
放課後の光の中で、絵具の匂いに包まれているみたいだった。
私はたぶん、そのまま静かに眠るように息を手放した。
水斗の呼ぶ声が、最後に少しだけ聞こえた気がした。