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海に捨てる

拙著の「海に捨てる」を御清覧くださりありがとうございます。鐸木と申します。
以下は私的な書き散らしです。

久々に小説をネットにあげた。前作から一年ぶりとの表示を見てびっくりした。ネットに小説をあげるときは大抵精神を病んでいるときであることは駄文の暗さ具合でよくわかる。そう思えば一年も健全な精神を保っていたのは上出来ではなかろうか。流石に公開した作品の主人公ほど精神は病んでいないし、頭痛も最近は止んできたが、おおまかには彼と同じ状況である。死への強烈な恐怖心も依然としてある。割と楽観視はしているが、矢張りネガティヴな気持ちはじわじわと侵食してくる。僕は常々、自身を蝕むニヒリズムと決別するために駄文を書き散らしている。死への恐怖心への克服法は未だ編み出せていないが、死ぬ時は死ぬのでしょうがない。そう思っている。中村文則の「悪意の手記」で主人公が難病に侵され、必死で死を受け入れようとしている様ににているかも知れない。でも、もっとフラットに構えたいなとも思う。僕は死イクォール虚無という考え方はあまり好きじゃ無い。信仰している宗教もないが、例えば銀河鉄道の夜みたいなあぁいう世界が死後広まっていたら良いなぁと思う。夢想家と言われるかも知れないが、逆に夢想しなくてどうするんだと思う。死後なんて誰も知らないんだからせめて夢想ぐらいさせてくれと思う。僕は結構な偽善者だから、死後は燃える蠍になりたいと思う。世界を我が身の焼身で照らしたい。空想は楽しい。

因みにこの小説の海への愛着は坂口安吾の「私は海をだきしめてゐたい」、関戸克己先生の「生きている渦巻き」、夏目漱石の「こころ」、カミュの「異邦人」などからきている。

文学者は度々海を取り上げる。いや芸術を志す者じゃなくても海に憧憬は抱くだろう。人間を虜にする海は、一体なんなのだろう。
海を目の前にしたときの、あまりの大きさに全てのネガティヴな感情が諦観と真っさらな憧憬に変わる、あの心地よさと淋しさ。自身がいずれ終わる身であることを強制的に自覚させられるあの脅威。脅かされて感傷に浸らせられて、最後の最後に優しく汐風に抱きしめられるあの悲しくも嬉しい感覚。ふと描写を想起しただけでありありと目の前に海が浮かぶ。海はいいなぁ。

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