ハマった漫画があり、夏にアニメ化した『天幕のジャードゥーガル』について。
可愛らしい絵に反してストーリーは重厚で私の好きなジャンルです。史実の実在の人物がモデルとされています。
感想でございます。
主人公・シタラに対して、「共感しづらい」という声を聞いて少し驚いた。
別に、共感はしなくても理解はできるのではないかな?と思ったがなるほど、理解しづらいというのは、括りの単位を「国」にしているからではないか?
私たちは、歴史を見る時「国」という巨大な単位で物語を見がちだが、もしそのスケールを個人のレベルにまで引き下げてみたら、どうなるだろう。
考えてみてほしい。
家族を惨殺され、自らも踏みにじられた少女が、強盗殺人犯である征服者に連行され、こう告げられたとする。
――「妾の一人にお前も加えてやる。家族として幸せになろうではないか」と。
そこで綺麗に順応し、すでに取り込まれている他の妾たちと一緒に和やかに暮らせる人間が、果たしてどれだけいるだろうか。
悔しいに決まってる、私はいろいろ酸いも甘いも噛み分けてきた大人でありますが、じゃあ大衆のためにそれを飲めと言われたら「いや、許しません。私の怒りは私のものなので」と怒り狂うと安易に想像できる。
理不尽に『幸せな世界』を奪われ、家族を殺された多感な少女が、征服者のもとで『平和に』成長していく中で怒りを忘れそうになりながらも踏ん張り、復讐を誓う姿――これを応援してしまうのです。
そこを描き切る作者の視点は、素晴らしい。
読めば読むほど味が出るこの作品において、シタラの本質は「死兵」であるということだ。
優しかったお母様が亡くなった日を境に、彼女はもう無敵の人になってしまった。
シタラの時間は侵攻の日に完全に止まっており、その後モンゴルでどれだけ平穏な年月を重ねようとも、もはや彼女にとって何の関係もない。
ファーティマ奥様の娘として、帰ってきたムハンマド坊ちゃんと共に生きていくはずだった未来は、もう二度と戻らないのだから。
だからこそ、胸が苦しくなる。シタラが失ったのは、優しいお母様であり、仲良しだった同志、平和な日常であり、そして坊ちゃんへの初恋だったのだから。
世間では
「個人を陥れて溜飲を下げるのはいいけれど、社会全体をひっくり返そうとするのは許せない」
という権威主義的な意見や、
「無関係の人は傷つけないお行儀のいい復讐があるべきだ」
という綺麗事が語られがちだ。
意見としてはわかる。
でも、現実の戦争ってそんなお行儀よくないよね。憎んだ人がその他の市井の人間を避けて空爆してないわけで。
史実モデルなら、ご都合主義は書かないでありましょう。
冷徹な真実を言えば、この世に「無関係の人」など最初から一人もいない。
憎んだ人も愛した人も「関係者」。
それでも尚、焼き尽くさねば全てを諦めるのと同等になるんだよな。ぶっちゃけ憎しみに選別はない。
周囲のすべてを焼き尽くしてもなお止まらない――それこそが、底なしの憎悪であり、奪われた者がたどり着く必然の業火なのだ。シタラの止まった時間と燃え盛る魂の行く末から、私は目を逸らすことができない。