タロット・ザ・フォーチュン・テラー 水先案内人
社外メール(アクマノトリヒキ)
「はい、中部銀行 小牧支店でございます。あぁ、専務さん、いつもお世話になります。はい、おります。今、代わりますのでお待ちくださいませ」
「副支店長、国光物産専務さんからお電話です」
「ありがとう、三番だよね」
「はい、そうです」
「あぁ、どうも、専務。緑川です。いつもお世話になります。暑いですね」
「あぁ、副支店長、こんにちは。早速だけどね、この間少し話した五億の短期融資だけど、進めてもらえるかな。やっと社長の決裁がおりたのでね」
「ありがとうございます。金利面含め、他行さんに負けないように頑張って提示させていただきますので、二、三日お時間くださいね」
「了解、じゃあ頼むね」
緑川は時計を見た。
「十二時だ。また口うるさい支店長が帰ってくるな」
と呟いた。
支店長と緑川は全く息が合っていなかった。本来、支店長と副支店長は一枚岩でなくてはならないのに、緑川は支店長が嫌で嫌でしょうがなかった。
全く実力もないのに、ごますりだけで支店長になった男と、全店ナンバーワン渉外係で、本来なら支店長になっていてもおかしくない緑川との間に、溝があっても不思議ではなかった。
緑川は二年前、妻を亡くし、当時まだ娘が小さかったため一線を外れ、家庭に専念したのが足かせになっていた。
行風として、実力よりも忠誠心がものをいう銀行であった。
「おい、副支店長、今後六ヵ月の収益のシミュレーション作ったか?」
「あと少しです」
「俺が帰るまでに作っとけと言っただろう」
「すみません、すぐ完了させます」
本来は支店長の仕事であるが、支店長はエクセルが使えず、当たり前のように副支店長に指示したのだ。
「じゃあ、飯に行ってくる。頼むぞ」
「行ってらっしゃい」
馬鹿馬鹿しい。何でこんな奴に命令されなくちゃいけないんだ。
「キーン コン カンコン」
「あっ、十二時だ。食事に行かなくちゃ」
前の支店での出来事を思い出しながら、緑川は印鑑を机にしまった。
当然のように緑川は、あの忌々しい支店長に裏で、支店長の親友の人事部長、岩田と組まれ、あることないこと含め、すべての罪を着せられた。
すべては緑川を飛ばすために。
二十年間勤めた緑川をして、こんな部署があるのかと思わせるような、とんでもなく遠いセンターに飛ばされてしまった。
弁解する余地どころか、事実も確かめられないまま飛ばされてしまった。
まさに敗亡だ。
そこは緑川と同じようにペケペケを喰らった、脛に傷をもった人間が集まる刑務所のような場所であった。
そんなところの人間と、もともとはエリートで、冤罪により飛ばされた緑川と合うはずがなく、緑川は天涯孤独を味わいながら悶々としていた。
進むも地獄。
止まるも地獄。
出口のないトンネルだった。
「絶対辞めてやる」
と、いつもトイレに行く度、鏡の前の自分自身に言った。
ただ、四十七歳のため、転職サイトに色々登録しているものの、いまだ銀行を上回る企業はなかった。
「あぁ、宝くじが当たらないかなあ……。一億当たれば、あと十四年で六十歳になり、年金がもらえるまでの間、一日一万円で生きていけばよいし、実際、十分に生きられるのにな」
その日の帰りだった。
緑川は地下鉄の駅へ向かう途中、いつもなら通らない裏通りに入った。
そこで足を止めた。
建物と建物の隙間のような暗い場所に、小さな机が置かれていた。
机の上には一本の蝋燭。
その向こう側には、真っ黒な頭巾をかぶった一人の老翁が座っていた。
「占い……?」
緑川は呟いた。
机の端に小さく、
――見分料 千円――
と書かれていた。
「千円か……。宝くじよりは安いな」
自嘲気味に笑い、緑川は老翁の前に座った。
「何を視ましょう?」
老翁が言った。
妙に低く、耳の奥まで残る声だった。
「仕事です。いや……これからの人生かな。今、会社を辞めようかどうか迷っているんです。辞めたら金がない。残ったら毎日が地獄。どうすればいいのか、自分でもわからなくなっています」
「そうか……」
老翁は机の下からタロットカードを取り出した。
「これはわしのオリジナルタロットカードじゃ。このカードをあなた自身で切ってくだされ。そして机に置き、両手でよく混ぜながら、自分の未来を真剣に念じて下され」
「はい」
「納得がいったら、三枚のカードを裏返したまま抜き、横に三枚並べて下され。わしの方から見て正位置になり、左端が過去、右端が現在、真ん中が未来じゃ」
蝋燭の炎がゆらゆらと揺れた。
緑川はカードを切り、机に置いて混ぜ始めた。
なぜだかわからないが、混ぜれば混ぜるほど緊張が増していく。
「もういいです」
「では、三枚じゃ」
緑川は三枚のカードを並べた。
「では一枚目。左端、あなたの過去のカードじゃ」
老翁が左端のカードをめくった。
「皇帝の正位置」
「皇帝?」
「そうじゃ。力も能力もあった。人の上に立つ器もあった。仕事においても結果を出した。自分の力で道を切り開いてきた人間じゃ。若いころから人より一歩も二歩も前を歩いておったのう」
緑川は息を飲んだ。
「次は二枚目。右端、あなたの現在のカードじゃ」
老翁が右端のカードをめくった。
表情が変わった。
「塔の正位置……」
「悪いカードですか?」
「突然の崩壊。築いてきたものが、自分の力ではどうすることもできぬ理由で崩れる。地位、名誉、人間関係……。自分には何の落ち度もないのに、足元からすべてを奪われることもある」
緑川は何も言えなかった。
「まさに今の俺じゃないか……」
「そして三枚目。真ん中、これがあなたの未来のカードじゃ」
老翁は最後に真ん中のカードをめくった。
その瞬間、老翁の手が止まった。
「悪魔の逆位置……」
「悪魔? 逆さまですか?」
「そうじゃ。束縛からの解放。自分を縛っていたものから逃れようとする力を表しておる」
「解放……」
「あなたは今の苦しみから抜け出したいと、強く願っておるようじゃな」
緑川は息を呑んだ。
「そのとおりです」
「じゃが……」
老翁はカードを見つめた。
「鎖が外れることが、必ずしも幸せとは限らぬ」
「どういうことですか?」
「人は苦しみから解き放たれたいと願うあまり、何を失うのかを見ずに、目の前の出口へ飛びつくことがある」
緑川は黙った。
「出口だと思ったものが、本当に外へ続いておるのか。それとも、さらに深い場所への入口なのか」
「じゃあ、どうすれば……」
「選ぶのはあなたじゃ」
老翁は緑川を見た。
「解き放たれたいと強く願ったときほど、何から解放され、何を失うのかをよく考えることじゃ」
老翁はそこでカードを伏せた。
「最後に、こちらの紙に筆で『一』の字を書いて下され。それが助言、戒めの道標となる」
緑川は筆を持った。
墨を付け、半紙にゆっくりと一本の線を書いた。
老翁はフレームが薄緑色に輝く、ホタルの光のような虫眼鏡を取り出した。
そして、『一』の字を凝視した。
一瞬、レンズが夕焼けのように赤く輝いた。
「ほう……」
「何か見えるんですか?」
「食卓が見える」
「食卓?」
「そうじゃ。三つの食卓じゃ」
老翁は目を細めた。
「ひとつは、豪華な料理が所狭しと並んだ食卓」
「はい……」
「もうひとつは、粗末な料理しかない、貧しい食卓」
緑川は黙って聞いていた。
老翁の表情が曇った。
「そして、もうひとつ……」
長い沈黙のあと、老翁が言った。
「何も載っておらぬ食卓じゃ」
「何も載っていない?」
「そうじゃ。飯もない。水もない。何もない」
老翁は虫眼鏡を置き、初めて緑川の目を真っすぐ見た。
「よいか。あなたが気をつけなければならぬのは、最後の食卓じゃ」
「最後の食卓……」
「何も載っておらぬ食卓に気をつけるのじゃ」
「それはどういう意味なんですか?」
「わしにもわからん。ただ……」
老翁の声が低くなった。
「それを選んではならぬ」
「選ぶ? 食卓を?」
「それ以上はわからん」
「そんな……」
「信じるも信じないもあなた次第じゃ。あなたに幸運が訪れますように」
そして、緑川には聞こえないように、
「幸運が近づいている」
と老翁は呟いた。
*
翌日。
食事が終わり、昨日の占いのことを考えながら部屋に戻ると、年上だが同格の邊田が、
「トラブルが発生しているのによく食事なんか行けるな」
と言ってきた。
「トラブル? 知りませんでした」
「もっと自覚を持ってくれよ」
緑川の立場は工場で言えば、肩書きは副工場長だが、飛ばされてきたときには既に同格の副工場長、邊田がいたため、
「ラインに入ってくれ」
と言われた格好で、ラインに入り、朝から晩まで同じ作業をしているのである。
しかし、肩書きが副工場長のため、工場にトラブルが発生するたび、同格の邊田が、
「ラインの仕事だけやっていればいいというもんじゃない」
と言ってくるのだ。
そしてもう一つ厄介なことに、ラインには緑川と同い年の調査役の古井がおり、緑川よりは二つも三つも格下であるが、自分の領域を侵されることを極端に恐れ、仕事も教えず、事あるごとに緑川に罵声を浴びせてくるのである。
邊田と古井で手を組まれ、飛ばされた形できた緑川にはなす術もなかった。
緑川は、待ち受けるそんな明日を思うと夜も眠れず、睡眠薬と、最近特にひどくなったじんましんの薬を飲まざるを得なかった。
内科の先生に無理やり頼んだ睡眠薬だ。
しかし、寝つきはいいが、朝三時に寝汗と共に目が覚めてしまうのである。
そのぐらいつらかった。
そんな悶々としていた今日、またしても邊田が攻撃してきた。
緑川は辞表を握りしめ、
「今は出すな、駄目だ、今は」
と必死に自分を押さえた。
緑川の唯一の楽しみは昼食の時間だった。
昼食は交代制で、緑川が前半。
邊田と古井が仲良く後半だった。
つまり、この時間だけが何の気兼ねなく共同パソコンを使えるのだ。
共同パソコンと言っても、オープンするにはそれぞれのIDを入れなくてはならないシステムになっている。
インターネットは接続できるが、エロサイト及び社外メールは一切ブロックされている。
特に社外メールは銀行という業種柄、個人情報漏洩防止のため厳しく制限されており、執行役員以上の八名しか社外メールアドレスを持っていなかった。
緑川のような一般行員にあるのは行内専用メールアドレスのみだ。
これを通じて、行内ニュース、研修募集、部内連絡、たまに同期のメッセージを受け取っている。
時々チェックしないとすぐにたまってしまい、緑川は何も悪いことはしていないのに、いつもびくびくしながらこの時間に確認していた。
「あー、やっと昼だ。唯一楽しみな時間だ。さあ、パソコンをオープンして、くだらないメールを手早くチェックし、インターネットの占いサイトにアクセスしようっと」
昨日、あんな奇妙な占いを受けたにもかかわらず、緑川は辞職のタイミングを含め、辞職したあとどうなるかなど、毎日懲りずに占っていた。
(研修募集 毎週土曜日六回コース 無料 先着四十名)
「けっ、くだらない。何が年金だ、そんなもんで飯は食えないよ」
(外務員二種試験 受験者募集 先着三十名)
「くだらない。何が証券だ。ここは銀行だぞ」
そして、次のメールを見た。
(幸せになりたいか?)
「ん……何だこれは? 幸せになりたいか? 一体どういう意味だ、何だこれは」
緑川はすぐにクリックし、全画面を出した。
しかし、この一言があるのみで、差出人も空白になっていた。
「おかしい……。まぁ、何かの間違いだろう」
とぼそぼそ言い、すぐに緑川はお気に入りボタンを押し、占いサイトの「タロットコーナー」へと入っていった。
*
翌日、同じ時間にパソコンを開けると、表現が違うメッセージが入っていた。
(幸せになりたくないのか?)
「おかしい、どこにも差出人がない。社外メールということはあり得ない。どういうことだ……。一度返信してみようか? いや、もし変なところへ行ってしまい、メールで遊んでいると噂になったら大変なことになる。気になるけどやめとこう」
と呟いた瞬間、メールが飛び込んできた。
(どっちなんだ?)
「えっ……」
背中に戦慄が走った。
すぐに緑川は、パソコンを統括管理するシステム部に内線電話した。
「緑川と申します。すみません、一点確認させてください。役員以下は社外メールはできませんよね?」
「当然ですよ」
「ですよね……じゃあ、相手から、つまり社外からメールが入ることがありますか?」
「あるわけないじゃないですか!」
「ですよね。では、行内だとして、メールの差出人が記されないことがありますか? つまり空欄になっているとか……」
「あるわけないじゃないですか。緑川さん、何かそういうメールが来たのですか?」
「いや……あの……ちょっと消去してしまったのですが、なんか空欄だったような気がして」
「あるわけないじゃないですか!」
と、ぷつんと切られてしまった。
もう一度メールを確かめようと画面に目を戻したら、そのメッセージは既に消えていた。
昨日のメールもなかった。
「一体どういうことなんだ?」
気持ちが動揺し、カチャカチャやったが駄目だった。
翌日、仕事も手につかないまま昼を待ち、パソコンをオープンしたが、期待したメールはなかった。
そんな中、金曜日になってしまい、結局その週は何事もなかったかのように終わってしまった。
土日の家事でくたくたになった月曜日、夢遊病者のように出社し、昼にパソコンを開いた瞬間、緑川は凍りついた。
(決めたか?)
というメッセージがあった。
これはただ事ではない。
きっと神様が、こんな冤罪をかけられ、女房にも先立たれた哀れな緑川に微笑んだのだ。
そう決めつけた。
無意識に、
「幸せになりたい」
と、その送信元のないメールに返信してしまった。
と同時に、
「お金さえあったら、こんな銀行辞めることができる。いや待てよ、不老不死……。いや、そうだ! 未来が予測できたら……」
と思い、「未来」とインプットしかけた瞬間、
(お金、寿命、未来は駄目だ)
とメールが勝手に開いた。
心臓が凍りついた。読まれている。
「それならば……」
緑川は必死に考えた。
何があれば、金がなくても生きていける?
何に一番金がかかる?
その瞬間、ひらめいた。
「これしかない」
(飲まず食わずで生きられるように)
つまり、金がほしい、長い寿命がほしい、未来が見たいというプラス発想ではなく、生活に必要なものそのものを減らす。
これから一番、時間も金もかかるであろう衣食住の「食」。
それを排除するという発想だった。
送信ボタンを押そうとした、そのときだった。
緑川の頭の奥に、ふっとあの老翁の声が蘇った。
――何も載っておらぬ食卓に気をつけるのじゃ。
指が止まった。
「食卓……?」
一瞬、緑川は画面を見つめた。
しかし、すぐに首を振った。
「まさかな。食卓なんか関係ない。これは食事そのものがいらなくなるんだ。むしろ最高じゃないか」
送信した。
直後、返信が来た。
(わかった。直ちに叶えてやろう)
その瞬間、すべてのメールは消去されてしまった。
不思議なことに、この日は空腹を覚えることなく家に帰り、夕食は抜きで寝てしまった。
こんなことはかつてなかった。
翌朝、体重を量った。
五十七キロ。
昨日と全く同じだった。
「全く変わっていない……」
その日の昼食時間、違う部署の、唯一心を許した日々川が、
「さあ、緑川君、飯でも行こうか?」
と誘ってきたが、
「いや、ちょっと今日は行きたいところがあるので失礼します」
という苦しい言い訳をし、避けた。
仕事を目一杯やり、家に帰ると、ピッタリ五十七キロだった。
「やっぱり……」
お願いしたとおりになっている。
「これはすごい。これから一生、本当に絶飲食で生きられる」
と思ったと同時に、
「これからどうやって昼飯、飲み会を断ったらいいのだろう」
という疑問が浮かんだ。
次の昼。
また出元不詳の社外メールが来た。
そこには、
(夢は叶えた。破った際は悲劇が起きる)
と書かれていた。
「ちょっと待ってくれ」
とインプットしかけた途端、パソコンはシャットダウンしてしまった。
「破るとはどういう意味だ? 飲食してしまうということか? どうしよう? これからどうなるんだ?」
その夜。
実際には空腹感はないのだが、何か頭で感じる感覚、習慣にも似た空腹感のようなものを感じた。
「いかん、どうしたんだろう」
と思ったと同時に、
「そうだ……薬も飲めない」
全身から血の気が引いた。
「睡眠薬を……じんましんの薬を……どうやって寝るんだ? どうやって、この痒みを抑えるんだ?」
結局、緑川は恐れていたとおり体をかきまくり、一睡もできず朝を迎えてしまった。
そんな状態で一週間が過ぎた。
睡眠不足でフラフラと起き、永年の習慣でトイレに入った。
そして、自分の体に違和感を覚えた。
「ん?」
ふと見ると、全身に電気が走った。
「ない!」
体の一部が消えていた。
さらに調べると、排泄に必要な器官までなくなっていた。
明かりの点いた部屋で全身をよく見ると、体中の毛がなくなり、毛穴まで消えていた。
緑川は鏡の前で立ち尽くした。
「入れない以上……出す必要もない……ということなのか?」
震えが止まらなかった。
「とんでもないことになってしまった……。どうしよう?」
口、歯、舌だけは残っていた。
多分、喋る機能に必要だからだろう。
鳥肌を立てながら、
「そうだ、もう一度、社外メールで聞いてみよう」
と、死ぬ思いでランチタイムを待った。
「頼む、助けてくれ。お願いはなかったことにしてくれ」
とメールしようとしたが、そもそもの原メールが消去されており、返信しようにもできなかった。
緑川の頬を涙が一筋流れた。
その瞬間、出元不詳の社外メールが届いた。
(お前の望んだことだ。もう戻れない。インプット済みだ。今後の飲食代金を貯め、早く銀行を辞めろ!)
「そのとおりだ……」
緑川は自分に言い聞かせた。
今後、一切、自分の飲食代はいらない。
飲食に注ぐ莫大な時間と金が節約できる。
「しかし、いったいいくらの節約になるんだ?」
計算してみた。
朝の喫茶店。
昼のランチ。
夜の食事。
週一回の飲み代。
一年間にすると、それなりの金額になった。
しかし、数字を見た瞬間、緑川は別のことに気づいてしまった。
人間の快楽である、
「喰う、呑む、寝る、出す」
そのうち、寝る以外のすべてを自分は捨ててしまったのだ。
その「寝る」ことすら、薬なしでは満足にできない。
「早まった……」
緑川の体が震えた。
「これは神様のメッセージじゃない……」
画面を見た。
「悪魔だ」
その瞬間、あの老翁の言葉が、もう一度蘇った。
――何も載っておらぬ食卓に気をつけるのじゃ。
「これだったんだ……」
緑川は椅子から崩れ落ちた。
「何も載っていない食卓……。俺が自分で選んだんだ……」
*
それでも本当に絶飲食であるにもかかわらず、緑川は一切痩せず、太らず、五十七キロをキープしていた。
これまで食べたらすぐ太ってしまうという体質から、毎晩スポーツクラブへ出かけ、せっせせっせと走っていたときが夢のようだ。
体型だけを見れば、むしろ若返ったようにも見えた。
喜んでいいのか、悲しむべきなのか、わけがわからなくなっていた。
ただ、確実に昼食、大好きな昼食後のコーヒー、飲み会を断らねばならず、社内で緑川は変人扱いになっていった。
しかし、この絶飲食生活は、わずか一ヵ月ももたなかった。
なぜなら、悪魔は絶飲食で生きることを可能にしたが、飲食欲までなくしてはくれなかったからだ。
もう必要のないはずの感覚を、頭の中で、体全体で感じてしまうのだ。
生きる以上、それは当たり前の本能であり、抑えることはできなかった。
とりわけ、空腹感との闘いが一番つらかった。
家に帰り、娘のためだけにカレーライスを作った。
味見もできない。
食卓に皿を置いた。
娘が美味しそうにカレーを口に運ぶ。
緑川の前には何もない。
何も載っていない食卓。
老翁の言葉が耳の奥で響いた。
――それを選んではならぬ。
「我慢しなければ……」
しかし、カレーの匂いに耐えられなかった。
緑川はスプーンを手に取った。
無意識に一口食べてしまった。
「あっ……」
スプーンを落とした。
しばらく目をつむり、恐怖の中で待った。
何も起こらなかった。
「大丈夫……なのか?」
とりあえず一口で必死に止め、不眠症も一向に改善しないまま、恐怖のベッドに入った。
フラフラで翌朝、体重を量った。
五十六キロ。
「あれ……痩せている。どうしたんだろう?」
その日は何とか夕食を我慢した。
テレビを見ていると、娘がうまそうにポテトチップスを頬張っていた。
どうしても我慢しきれなくなった。
「お父さんにも頂戴」
残りをガツガツ食べてしまった。
翌日の体重は五十五キロになっていた。
緑川は体重計から動けなかった。
「食べれば……食べるほど……」
鏡に向かった。
映った自分は、病人のように痩せこけていた。
「もう駄目だ。どうしても食べたい、飲みたい。どうやって……どうやったら我慢できるんだ」
ランチタイムを死ぬほど待った。
パソコンの社外メールを待ち続けた。
「きたっ!」
そこには、一行だけ書かれていた。
(口がなくなっていいのなら夢を叶えてやる)
「そんな無茶苦茶な……」
と呟いた途端、パソコンはシャットダウンした。
「もう駄目だ、限界だ。逃げ道はない。頼む、助けてください。お願いします」
必死に祈った。
何の返事もなかった。
その夜、緑川はついに薬を飲んだ。
そして、死ぬほど飲みたかったミネラルウォーターを喉に流し込んだ。
自ら死のうと思ったわけではない。
ただ、とにかく疲れ果てていた。
痒みもなく、ぐっすり眠りたかった。
頭が回らず、もうどうでもよくなっていた。
「眠りたい……」
それだけだった。
この一ヵ月近くの睡眠不足と、飲食欲との闘いでフラフラだった。
緑川の部屋から鼾が聞こえてきたのは、ほどなくしてからだった。
*
「お父さん、朝ごはんは? 作ってないの?」
返事がない。
「お父さんってば、起きてよ! お父さん、会社行かなくていいの?」
娘はベッドに近づいた。
「お父さんってば……」
布団をめくった。
「あっ……」
娘の顔が凍りついた。
「お父さん……?」
声が震えた。
「キャー! いやだ! どうしよう! この人、誰? なんでミイラがこんなところに……」
娘は泣き叫んだ。
「お父さーん! 誰か! 誰か助けて!」
娘が泣き叫ぶ中、ベッドに横たわるミイラの眼窩が、一瞬、緑色に輝いた。
次の瞬間。
体が空中に跳ね上がった。
まさにそのとき、突風が窓を突き破った。
ミイラの体が砕けた。
乾いた体は、砂のように崩れ、反対側の割れた窓から外へ吸い出されていった。
まるで砂嵐のように。
部屋の中に残った食卓。
娘の朝食が置かれていた。
その向かい側。
緑川がいつも座っていた場所には、
何も載っていなかった。
*
同じころ。
新宿の裏通り。
真っ暗な路地に、一人の盲目の男が横たわっていた。
突然、その男の目が開いた。
灰褐色だった瞳が緑色に変わり、
そして赤く光った。
男はゆっくり立ち上がった。
手にしていた白い杖を捨てる。
つい先ほどまで目が見えなかったとは思えない、確かな足取り