皇甫嵩の叔父の皇甫規は非漢族の鎮撫に活躍してきた名将です。
正史『後漢書』皇甫規伝に、皇甫規が宦官によって罪に陥れられた話があります。
【原文】
其年冬,徵還拜議郎。論功當封。而中常侍徐璜、左悺欲從求貨,數遣賓客就問功狀,規終不荅。璜等忿怒,陷以前事,下之於吏。官屬欲賦斂請謝,規誓而不聽,遂以餘寇不絕,坐繫廷尉,論輸左校。
【訳】
その年の冬、首都に召し返され議郎を拝命し、功績に応じて封地を与えられるための論功行賞が行われた。中常侍(宦官の役職)の徐璜と左悺は皇甫規から財貨をもらいたいと思い、賓客を皇甫規のところへ何度も派遣して功績を尋ねさせたが、皇甫規は最後まで応じなかった。徐璜らは憤慨し、過去のことをあげつらって役人に審理させた。役人は財貨を収めることによる赦免請求を行って欲しいと皇甫規に勧めたが、皇甫規は断固として聞き入れなかった。結局、非漢族たちが治まっていないという理由で廷尉の獄に繋がれ、左校での労役刑に処された。
これはひどいですねぇ。
功績によって封地をもらえるはずだったのに、罪に陥れられました。
宦官たちとしては、賄賂をくれれば功績を盛っていい封地を得られるようにしてあげるよ、というつもりだったのでしょう。
それを無視されたから、俺たちを無視したらどうなるか思い知らせてくれる、と怒ってしまい、こうなったのでしょうね。
皇甫規は労役刑に処されたあと、太学の学生張鳳らのデモによって赦免されました。
【原文】
諸公及太學生張鳳 等三百餘人詣闕訟之。會赦,歸家。
【訳】
諸公および太学生張鳳ら三百人あまりが宮門にやってきて訴えたため、皇甫規は赦免されて家に帰った。
この数年前に、朱穆という人が宦官を糾弾し、逆に朱穆のほうが労役刑に処されたことがありました。
その時にも太学生が数千人で宮門に至り皇帝に赦免要求を呑ませています。
当時の太学生たちの宦官への反発と、徒党を組んで皇帝に要求を呑ませる様子がよく伝わってきますね。
こういうプレッシャーがのちに皇帝を「党錮の禁」に走らせたのかもしれません。
原文引用元: 漢籍電子文献資料庫