丘の上に立つと、海はいつもより静かに見えた。
潮の匂いは確かにあるのに、波音が遠い。
世界が、何かを待っているようだった。
「沈むよ。」
隣で彼女が言った。
水平線の向こうに、あまりにも大きな太陽が傾いている。
普段の夕日とは明らかに違う。
それは、海に落ちるというより、海を押し広げながら沈んでいくようだった。
そして、その中心に、月があった。
月は小さい。
だが確かにそこにあり、太陽の真ん中に包まれている。
黒い円の中に、薄く、はっきりと模様が見えた。
静かの海、嵐の大洋、欠けた縁。
夜にしか見えないはずの傷跡が、白昼の炎の中に浮かんでいる。
「食べきれてないね。」
彼女が笑う。
確かに、月は太陽を覆いきれない。
太陽はあまりにも巨大で、月はただ抱き込まれているようだった。
しかし奇妙なことに、暗くならない。
太陽の縁からは、七色の光が溢れている。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
それは美しいスペクトルとなって、丘の草を、港のクレーンを、街の窓を照らした。
街は祝福されているように輝いていた。
だが、太陽の光が届かない高みの宙には、
すでに夜の星々が強く瞬いていた。
昼と夜が、同時に存在している。
「おかしいよね。」
彼女が小さく言った。
彼女の声には、先ほどまでなかった硬さがあった。
ぼくはスマートフォンを取り出した。
この瞬間を残さなければ、と思った。
理屈ではない。
ただ、この光景が、あとで嘘のように消えてしまう気がした。
画面越しに見る太陽は、さらに歪んでいた。
光が暴れ、月の輪郭が震える。
手が揺れる。
シャッターを押す。
ぶれる。
もう一度。
ぶれる。
「落ち着いて。」
彼女が言う。
だが、落ち着くほどに、光は強くなった。
太陽の縁が脈打っている。
それは炎ではない。
まるで、巨大な心臓の鼓動のようだった。
どくん。
どくん。
丘の草が、わずかに伏せる。
海面が、一瞬だけ引いた。
遠くの港で、警報が鳴った気がした。
いや、風の音かもしれない。
「……ねえ。」
彼女が、太陽を指さす。
月が、動いている。
覆うのでも、離れるのでもない。
太陽の中心へ、吸い込まれるように沈んでいく。
包まれているはずだった月が、
炎の奥へ、奥へと消えていく。
模様が揺れる。
静かの海が、歪む。
嵐の大洋が、裂ける。
そして。
一瞬。
太陽が、空洞になった。
光が消えたわけではない。
だが、中心に、暗い穴が開いた。
その穴の奥に、星が見えた。
昼の空の中に、宇宙の深淵が口を開いている。
街の窓ガラスが一斉に鳴った。
低い振動が、丘を震わせる。
どくん。
どくん。
鼓動が速くなる。
海が後退する。
水平線が、下がる。
「……?」
彼女の声は、風にさらわれた。
だが海は押し寄せなかった。
ただ、引き続けた。
まるで、地球そのものが、呼吸を止めているようだった。
ぼくはスマートフォンを下ろした。
もう撮らなくていい、と思った。
画面の中の歪んだ光景よりも、
今、目の前で起きていることの方が、確かだった。
月は完全に太陽の中に沈んだ。
暗い穴は閉じる。
次の瞬間。
光が爆ぜた。
だがそれは破壊の光ではない。
街を焼く炎ではない。
すべてを均等に、容赦なく、照らす光だった。
丘も、港も、二人の影も、
隠すものなく白日の下に晒される。
美しい。
そして、逃げ場がない。
星々は、なおも空に残っていた。
昼と夜の境界は崩れ、
世界は一枚の膜のように透けて見えた。
ぼくは思った。
これは終わりではない。
だが、始まりでもない。
何かが、位置を変えただけだ。
彼女が息を吐く。
「……撮れた?」
「ぶれてる。」
「そっか。」
彼女は微笑む。
「まあ、しょうがないね。」
太陽は、いつの間にか普通の大きさに戻っていた。
月もいない。
星も消え、海は満ち始める。
警報も鳴っていない。
港のクレーンは静かだ。
ただの夕暮れ。
だが、ぼくらは知っている。
あの巨大な光と穴を。
太陽の中心に開いた、宇宙の口を。
ぼくはスマートフォンをポケットに戻した。
写真がなくてもいい。
記録できなくてもいい。
世界は、時折、正体を少しだけ見せる。
それが祝福か凶兆かは、
まだ誰にも分からない。
ただ確かなのは、
あの光は、確かに存在したということだ。
そして今も、どこかで、
包まれたまま、脈打っている。