今回から「内藤鳴雪」と言う人(新キャラクター。と申しますか史実上の人)が登場しました。
この内藤鳴雪について軽くご説明いたします。
内藤鳴雪は元・松山藩の上士で、まだ少年だった原田左之助が中間(小者)として仕えていた主筋の人です。
原田より七歳年下、「史談会」では原田についていろいろ証言しています。
原田左之助 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E5%B7%A6%E4%B9%8B%E5%8A%A9?wprov=sfla1(このWikiの下の方に原田への鳴雪の証言があります)
幕末の頃は松山藩の世子に仕えるため京に滞在し、第二次長州征伐にも参戦しました。
維新後は主に教育事業に携わり、旧主である久松家(久松松平家)の依頼で松山の歴史を調べるなどしていました。
同時にあの俳句の「正岡子規」の漢学の師であり、逆に俳句では敢えて遥か年下であった子規に弟子入りした人でもあります。
また夏目漱石の「吾輩は猫である」にも、主人公・珍野苦沙弥先生の友人、美学者の迷亭の伯父牧山(…のモデルと言われている)として登場しています。
拙作におきましては
①この内藤鳴雪(助之進)が少年時代の原田の主筋であったこと
②幕末、京に居たこと
③維新後は教育事業、俳句などに勤しみながら松山の歴史を調べていたこと
④また、伊予松山から少し離れた霊場に、古代日本の有名な修験者「役小角」(えんの おづぬ)の伝説が残ること
……などを参考に、山崎の「身体の消滅」を何とか防ごうとする原田への助言者、言わば「賢者ポジション」として登場してもらいました。
役小角 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B9%E5%B0%8F%E8%A7%92?wprov=sfla1なお、原田の少年時代のトラウマ描写については、中間にはそうした風習がよくあった事からそのように書きました。御了承くださいませ。
また、今回から原田の相棒ポジションとして永倉新八(杉村義衛)に加わってもらいました。