• 歴史・時代・伝奇
  • ホラー

史実・原田左之助につきまして①

原田左之助は新選組初期に、芹沢鴨一派暗殺や、長州の間者とされた楠小十郎の殺害に関わったとされています。

この芹沢一派暗殺については近藤派の野心以前に、京都守護職である会津藩の強い意向があったと言う説が最近では有力です。
(あさくらゆう氏『新選組を探る』等による)

では何故、芹沢派は会津藩の意向により粛清されてしまったのか。

これは芹沢が(土方や井上源三郎、原田左之助等を含め)、親長州派・反幕派宮家であった有栖川宮家を、当時の規則である「武家伝奏」と言う公家の役職を通さず、いきなり訪問して「貴方がたのお役に立ちたい」と申し出てしまった事に、会津藩が大変な脅威を覚えた事によるようです。

芹沢としては京の治安維持活動ばかりさせられ、当初の目的である「京における攘夷活動」が出来ない事への焦りがあったものと思われます。

それは実は近藤派も同じであり、近藤勇は池田屋事件のわずか二十日前に、新選組の解散伺を会津藩を通し幕府老中に提出しましたが、銀八十両を降され無理やり引き留められてしまいました。 

(幕府側の記録、近藤勇の手紙より)

しかし会津は「武家伝奏」を通さず、いきなり有栖川宮家を訪れた芹沢の行動を「清河八郎と同様だ」と捉えてしまったようです。

芹沢が「武家伝奏」を通さず新選組を引連れ、いきなり訪問した事については、有栖川宮家の方も非常に迷惑だったらしく、会津藩に抗議しています。

そうした上での「芹沢の行為」=清河八郎と同様、とした会津は、筆頭局長の芹沢に連れられ、「詳しい事情を知らなかった」とは言え、有栖川宮家を訪れてしまった土方、井上達に、言わば「責任を取らせる」と言う形で、芹沢派の粛清を行わせた可能性が非常に強いです。

ただし芹沢派を粛清したのは土方、沖田、井上、そして山南敬助の四人の可能性が強いと言われています。

万が一の事を考え、近藤勇に最も親しい間柄の多摩・試衛館(『試衛場』もしくは単に『試衛』とも)派が動いたのではないか、との説が強いです。

原田左之助は実は試衛館の食客ではなく、永倉新八の知己であり、多摩・試衛館派と初めて出会ったのは浪士組の集合場所となった江戸・伝通院だったと言われています。

また楠小十郎の他、御蔵伊勢武・荒木田左馬之助・松井龍三郎・越後三郎・松永主膳等は、長州の間者ではなく、芹沢に心酔していたと見られた隊士達で、彼等もやはり会津藩から徹底排除するよう、秘かな命令が出ていたものと思われます。

御蔵と荒木田は斉藤一と藤堂平助が殺害し、越後と松井は沖田総司と藤堂平助が殺害しようとするも逃亡。
松永も井上源三郎が殺害しようとするも同じく逃亡。
残る楠小十郎を原田が殺害したと言われています。

原田左之助の楠小十郎殺害を、新選組の屯所であった八木家の長男・八木為三郎が目撃していたと言う話は「新選組始末記」(現・新選組三部作)の著者、子母澤寛の創作である可能性が非常に強いです。

子母澤寛「新選組始末記」は、西本願寺の寺侍だった、虚偽の多い西村兼文の「新選組始末記」(壬生浪士始末記とも)をベースに、更に創作を加えた著書です。

しかし西村兼文は、新選組隊士の一人、佐野七五三之助を使って三井両替店へ「新選組への融資話」をでっち上げ、「その融資を上手く断ってやる」と言う名目で、八十両以上もの金を騙し取り、最終的に三井両替店を出入禁止となったような人物です

(新選組金談一件。三井側に記録有り)

他にも古経文等を偽造し、好事家に高値で売りつける等していた人物であり(徳富蘇峰などによる証言)、西村と子母澤の両「始末記」は、小説としてはともかく、資料としての価値は、極めて信憑性に欠ける物である、と言うのが最新の研究であり、こちらの小説はその説を採用しております。

何とぞ御理解、御容赦の程、宜しくお願い申し上げます。

2件のコメント

  • 知らなかったです…(´・ω・`)
  • 以上「新選組を探る」(あさくらゆう)
    「新選組隊士録」(相川司)、「新選組日記 上・下」を参考にいたしました。
    ご参考までに… (*^^*)
コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する