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杜若狐雨

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  • 6時間前

    毎度おなじみの誤爆

    https://www.dialog.ua/russia/rossiyskiy-bombardirovshchik-sluchayno-sbrosil-aviabombu-fab-pod-belgorodom-nad-gorodom.html 記事にありますが、 > ロシアの独立監視プロジェクト(特にASTRA)と英国国防省によると、ロシア連邦領土およびウクライナの一時占領地域において、ロシアの航空爆弾が偶発的に落下(異常降下)した事例が330件以上記録されている。 だそうです。(呆) 以下はついでに。 https://war.obozrevatel.com/okkupantyi-pokidayut-kinburnskuyu-kosu-v-atesh-raskryili-chto-zastavilo-vraga-bezhat.htm クリミアの北西(昨日の地図で言えば③ノヴァカホフカ迂回ルートの更に西)にあるキンブルン砂嘴から、ロシア軍が撤退したようです。一応、キンブルン砂嘴の場所を画像で添付しておきましたので、ご確認下さい。 特筆すべきはその理由。 > ロシア軍第337連隊の部隊は、補給が完全に途絶えたため、陣地を放棄し始めた。この地域への弾薬、燃料、食料の供給が完全に停止したため、陣地を維持し続けることが不可能になった。 と書かれていることでしょうね。戦闘が原因じゃないんですよ。これを ・ロシア軍の補給が弱い ・ウクライナの兵站攻撃が効いた ・地形的にそもそも補給が難しい地点だから仕方ない(実際、道路とか細いです) のいずれの文脈で読み解くか。結構意見の分かれそうなニュースだと思います。 また、チョンハル橋(昨日の地図で言えば②のルート)にも再び攻撃があったみたいですね。昨日の今日で恐縮ですが、別の攻撃になります。この橋は完全に使えなくなったと見てよさそうです。 https://www.ukrinform.net/rubric-ato/4132189-chongar-bridge-completely-disabled-after-second-strike-military.html
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  • 1日前

    クリミア補給線解説2

    つづきです。 前回、モスクワからクリミア大橋へとつづく高速道路M4について触れたところで終わってしまいました。あそこで切った理由は、単に画像を1枚しか貼り付けられないからってだけでして、深い意味はありません。 というわけで、今回の画像を御覧下さい。 東を走る青い線がM4高速道路です。真ん中下にあるマリウポリと、その東にあるロストフ・ナ・ドヌーで、前回地図との位置関係は把握できると思います。 地図の西に赤線を引いたコンスタンチノフカやリマンは、今まさに前線になっている場所です。スラビャンスクはロシア軍が攻略を目指している場所で、まだ手つかず。これで、前線からM4高速道路まで、おおよそ200kmくらいの距離があることがわかります。 実はこの距離、結構微妙なラインでして、現在ウクライナ軍のドローンだと、200kmが射程に入るか入らないかくらいなんですね。つい先日、前線の兵士が語った話によると「あと30km射程が伸びれば、M4を射撃管制下に置ける」のだそうで、そうなるとこの道路もP280号線(前回の②チョンハル橋ルート)と同じ運命を辿る可能性が出てきます。 当然、その内側は既にドローン管制下にあり、たとえば赤字で記したドネツク空港(シャヘドドローンの発射拠点)は完全に制圧されています。 モスクワからの直接的な物流が止まれば、現在ロシアが占領しているドネツクだのルハンシクだのも危なくなってくるのでして、このM4高速道路が射撃管制下に入るか否かは、結構大きな変化をもたらすものと思われます。
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  • 1日前

    クリミア補給線解説1

    5月26日に書いたノートの続報みたいなものが出てきましたので、クリミアの補給線についての最新情報を解説してみます。添付地図を御覧下さい。 クリミアには大きく分けて3つの陸路がありまして、 ①クリミア大橋ルート ②チョンハル橋ルート ③ノヴァカホフカ迂回ルート です。 ①は以前にも書きましたが、ケルチ海峡大橋(クリミア大橋)は既に半壊している上に、この海峡で運用されていたフェリーも安全には航行できなくなっています。どうもつい最近、新たにネプチューンミサイルが撃ち込まれたのではないかという情報がも出ています。 ②は、M14と書かれている部分が先日ウクライナの射撃管制下に置かれてしまって、トラックで走るのすら命がけとなったと書いた道です(P-280号線とも呼ばれている)。更にその先にはチョンハル橋という場所があるのですが、この橋は2023年にストームシャドウが撃ち込まれたとか言われたところでして、その時点でこんな感じになってました。 https://www.cnn.co.jp/world/35205607.html で、どうもこのたび、更なるドローン攻撃があり、このルートが閉鎖されたのではないかというニュースが出てきました。(このニュースが出てきたからこのノート書いてます) https://x.com/nexta_tv/status/2063571670875738231 https://militarnyi.com/en/news/chonhar-bridge-in-crimea-damaged-by-behemoth-and-fp-2-drones/ ③は、道路自体は生きているのですが、ルートの北西部にあるノヴァカホフカという地点が前線からわずか15kmしか離れていない場所でして、完全にウクライナドローンの射程圏内にあります。 というわけで、今後クリミアへの補給は益々困難を極めるだろうというお話でした。赤線は既に機能不全、青線は生きているけど前線に近すぎる。そのようにご理解頂ければよろしいかと思います。 なお、クリミア大橋ルートの東にはM4という高速道路が走っているのが見えると思いますが、この道路はモスクワから直通していまして、道中ドネツクの前線から200kmくらいの場所を通過することになります。これも非常に重要な補給線となっており、今後の戦況を左右すると言われてますので、次のノートで解説しようと思います。
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  • 1日前

    ロシア精神史⑲(戦争分析編その7)

     今回は第一次世界大戦とアフガニスタン侵攻です。  ロシアが世界に誇る大敗北戦争二本立てというか・・・自分から仕掛けておいて、国家それ自体が消滅するという、何の冗談ですかって感じの戦争×2でございますね、はい。  いえね、そういう戦争やっちゃった国はそこそこあるんですよ。それこそドイツ(第三帝国)や大日本帝国だって、そこだけ見れば似たような末路。  ただ、ロシアのそれは、やっぱり他とはちょっと違うよなぁといいますか、大日本帝国も第三帝国も、国の進退が窮まった末の決断だったと思うのです。しかし、ロシアの方はね。別に国の命運賭けるようなところじゃなくない?って程度の事情で突っ込んでいって、引き返せなくなってるところが凄く珍しい。こう・・・参戦理由と国が滅ぶ理由が到底釣り合わないというか。喩えるなら、家に巣を作ってしまった蜂を駆除するのに、火炎放射器持ち出して自宅を燃やしちゃいました的アホさを感じちゃうんですね。あと、何度も同じ失敗繰り返しているところも、ほんと懲りないなぁというか。第一次世界大戦なんて、前回書いた日露戦争と何が違うんだってレベルで何も成長していませんからね。  ってわけで、出オチ感満載な戦争×2なんですが、第一次世界大戦から参りましょう。  参戦理由。不凍港が欲しい。日露戦争で極東は無理ってわかったから、だったら毎度のバルカン半島しかないよね!ってノリです。何度見たんだこの光景?  戦闘方法。変わらず。ひたすら人命軽視・兵量頼り・物量重視・火力勝負の力押し。主戦力は当然のごとく歩兵=農民。ただし(日露戦争で経験していたはずだけど)兵器の性能が格段に向上しちゃっている時代だから、クリミア戦争や露土戦争の感覚でいたら、とんでもない損失を出すことはわかっていた・・・はず。たぶん・・・きっと・・・。  兵士の扱い。突っ込め。死んでこい。医療?物資?どうせ死ぬお前らには勿体ない。  民間人の扱い。物資の輸送は戦争優先。お前たちの食糧など後回し。働け。軍需物資を製造して前線に送れ。民間人だろうが異民族だろうが、国の犠牲になるのは当たり前。  戦闘被害。死者170万~180万人。負傷者約500万人。  最終結果。反戦運動からの革命勃発。ロマノフ王朝滅亡。ソヴィエト連邦爆誕。  雑ですけど、もうこれでいいよね?歴史的な流れについては、連載4回目である程度書きましたし。  兵士も国民も蔑ろにしまくった結果、戦争を完遂できずに国内で革命が起きて国家消滅とか、他に事例ありましたっけ?あ、同時期にドイツのヴィルヘルム2世(私的評価は稀代の大馬鹿君主)もやらかしてましたわ。まあ、どちらも歴史上ちょっと類を見ないレベルの自爆劇であったことは、間違いありません。  そう。自爆なんです。戦争が上手い下手以前のレベル。血の日曜日事件で国民に厭戦気分が蔓延している中、そうした声を押し切ってまで不凍港のために参戦し、挙げ句国を滅ぼしちゃうって、明らかに優先順位を間違ってるだろと。しかも内容が悪すぎる。ここまで直近の日露戦争と同じ失敗を繰り返すってのは、ある意味芸術的です。  というわけで、これ以上ロシアについて書くのも疲れました。というか、あまりに同じ内容すぎて、もう書くことがありません。なので、ここでは名前を出してしまったドイツのヴィルヘルム2世について書かせて頂くことで、このロシア疲れを癒やさせて頂こうと思います。  彼はビスマルクという19~20世紀最高の政治家に口出しされたくないからと宰相を解任し、自分のやりたい放題(俗に言う3B政策)やった結果、ビスマルクが危惧していた通りの国際情勢(ドイツ包囲網)を招き、第一次大戦で国民の多くを犠牲にした挙げ句、国家に払いきれない借金を抱え込ませ、最後はオランダに亡命して天寿を全うしたクソ王族の鑑です。素晴しい!グレイト!!グロースアルティヒ!!!もっとも、ニコライ2世はこんなドイツにすら負けているのでしてね(ブレスト=リトフスク条約)。正確には革命で国が滅んだ後に講和条約結んでいるので、ニコライ2世(ロシア帝国)が負けたというより、ニコライ2世が(ソヴィエト・ロシアを)負けさせたと言うべきでしょうが、そこは本質じゃないのでスルーをお願いしときます。第一次大戦の戦勝国(連合国陣営)といえば、イギリス、フランス、アメリカ、日本、イタリアであり、ロシアも陣営としてはこちら側でした。戦勝国側で戦っていたにも関わらず、ヴィルヘルム2世率いるドイツにすら負けるって、もはや実行する方が難しいですよ(当時のドイツは西の英仏、東の露に囲まれて二方面作戦を強要されており、東の露が抜けて全戦力を西に振り向けることができた後でもなお英仏に負けた)。この二人はどちらも戦争で国を滅ぼしちゃったアホ君主でしたが、こうして直接対決の結果まで見せられてしまうとね。なんかもう、本当に救いようがない。ただ、ニコライ2世個人のお人柄は素晴しくよろしかったようなので、そもそも専制君主に向いていない方だったのでしょう。ある意味気の毒。しかし、国民の方がもっと気の毒。あ、結局ロシアに戻って来ちゃった。  ではここからは、そんなロシアを革命して出来あがった国、ソ連・・・が消滅する一因となったアフガニスタン侵攻を見ていきましょう。  こちらも負けず劣らず芸術性が高いです。何しろ、当時アメリカと世界を二分していたソヴィエト連邦という、核を数万発保有して「世界を何十回でも滅ぼせる」と宣伝しまくっていた超大国が、(当時の言葉で)発展途上国と呼ばれる、工業基盤皆無で、農業と牧畜が中心の、鉄道網すらない、道路も未整備な、クーデター連発で社会的にも政治的にも混乱が続いていた、人口わずか1300万人程度の小国相手に戦争ふっかけ、十年間も苦戦し続けた挙げ句に、それが一因となって国が壊れたんです。どう考えたってあり得ないというか、この国の戦争下手ってのは、やっぱり世界最高レベルでしょう。こう言っちゃなんですが、負ける方が難しいレベルの差ですからね、これ。  戦争開始のきっかけは、1979年のイラン革命でした。イランの親米王政が崩壊し、イスラム法の統治を掲げたホメイニ体制に移行しちゃったんですね。これは以前、イランの歴史解説で書いた記憶がありますが、イランは歴史的にシーア派というイスラム教では少数派の宗教国だったため、周辺国がスンナ派ばっかりという中東情勢は些かやりにくかったのですよ。そこで、「革命輸出」という戦略を採り中東全体を揺さぶり、イランの政治的影響力を拡大する方針を打ち出します。  アフガニスタンは、このイランの東にある隣国でして、当時は親ソ政権が国政を司っていたものの、国内情勢は不安定でした。というのは、この国で1930年代から続いてきた王政が無血クーデターで転覆したのが1973年のことで、まだ政治体制が固まっていなかったんですね。この時のクーデターを指導した人物がダウードです。  ダウード政権は、当初こそ近代化を目指していたのですが、次第に独裁色を強めていき、共産主義者やイスラム勢力と対立するようになりました。そして1978年には共産主義者による軍事クーデターが起こり(サウル革命・四月革命)、親ソ政権(タラキー政権)が誕生します。加えて、この地域にはウズベク人などのトルコ系イスラム教徒が、多数在住していました。このような慌ただしい情勢と、国内に溢れるイスラム教徒という条件が揃っているところに、1979年のイラン革命がすぐ隣の国で起こった上、その国が「革命輸出」を掲げちゃったわけですよ。  とどめとばかりに、1978年のタラキー政権下では、ソ連の支援の下で「地主からの土地没収」「女性解放」「世俗化教育(宗教否定)」といった社会主義政策が強硬に実行されました。当たり前ですが、これらすべてはイスラム教徒の伝統を真っ向から否定するものでもありました。結果、アフガニスタンのイスラム勢力ではムジャーヒディーン(聖戦士)と呼ばれる反政府ゲリラ組織が結成され、国は一気に内戦に突入。  この内戦下にあった1789年9月・・・つまりタラキー政権発足からわずか1年半後・・・タラキーが暗殺され、またもや国が揺れました。問題はその犯人。普通に考えればムジャーヒディーンによるクーデターだと思われるでしょうが、そうではなかった。犯人のアミンはタラキーと同じ(アフガニスタン人民民主党の急進派)共産主義者でしたので、彼らは身内同士で殺し合ったに過ぎません。アミンはただ、自身が最高権力者の地位に就きたかっただけなんですね。救いようのない馬鹿ではありますが、ソ連目線で言えば、イスラム勢力に革命起こされるよりは、まだ親ソ政権のアミンでよかったとも言えたはずなんです。  しかし、ソ連の書記長であったブレジネフは、目をかけていたタラキーを暗殺されたことに激怒します。また、このタイミングで、KGBはアミンを独裁的で予測不可能な危険人物と認定し、マークするようになりました。アミンに対するこうした危機意識は、ソ連指導者の間でも瞬く間に広がり、ほどなくして「アミンは内戦収束のためにCIAを通じてアメリカに助力を願い、アフガニスタンに親米国家が成立してしまうのではないか?」という根拠のない疑心暗鬼にまで発展してしまいます。冷戦期のアメリカが・・・共産主義政権に・・・手を貸す??? 何を言っているんだお前はって感じですが、ソ連政府は大真面目でした。  こうなるともう、ソ連のやることはひとつです。同年12月末、嵐333号作戦と銘打たれたアミン暗殺作戦が決行され、東欧に亡命させていたカルマルを傀儡の大統領に据えたわけですよ。共産主義の親玉が共産主義政府の指導者を殺すというあたりが、もうね。こうしてソ連は、やらんでもいいような暗殺劇によって、アフガニスタンの政情を更に不安定にしてしまいます。  ところが、当のソ連はこの暗殺劇の波及効果を完全に見誤っていました。ソ連はアミンだけを危険人物と認識していましたので、彼を排除してさえしまえば、あとは簡単な治安維持だけで数ヶ月以内に(親ソ政権を残したまま)撤退できると踏んでいたんです。しかし・・・普通に考えればそうはならんことは、明らかでしょう。既に反政府ゲリラが内戦始めていた国でこんなことやらかして、なんで穏やかに終われると思っていたのか、そちらの方が謎思考ですよ。で、こうした一連の軍事介入を侵略と受け取ったアフガニスタンのイスラム勢力は・・・彼らにしてみれば、タラキーもアミンもソ連も一緒でしたので・・・一気に抵抗運動を激化させていきます。反政府ゲリラ組織ムジャーヒディーンが、完全に国全体を飲み込んでしまったんですね。ソ連の出口戦略がそもそも大間違いであったことが判明した時には、もう手遅れでした。  これは、イラン革命がアフガニスタンに波及する流れそのものです。アミン政権以上に警戒しなければならなかったはずの事態を、自ら招いてしまったんです。そして、アフガニスタンに革命が波及すれば、周辺一帯(カザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、トルクメニスタン、タジキスタン)にもイスラム教国家ができてしまう。そうすればソ連が崩壊する!  というわけで、ソ連は引くに引けなくなってしまい、泥沼のゲリラ戦に巻き込まれていくことになりましたとさ。めでたくなしめでたくなし。  結果から見れば、疑心暗鬼に駆られてのアミン暗殺から始まった戦争が、10年続いた挙げ句に国を滅ぼす一因となってしまったという、あまりに笑えないオチですね。まあ、そもそも他国の首脳を堂々と暗殺するなどというイカレた行動を、こんな簡単に実行できてしまう文化それ自体に重大な欠陥があるような気はしますので、それが己に返ってきただけとも言えそうですけど。ブレジネフさんには是非当時のお気持ちをお伺いしてみたいものです。  では、そんなソ連軍の10年にも及ぶ戦いぶりを見ていきましょう。  死者15000人。もともと大軍が派遣されるような場所ではありませんので、死者数は(他の戦争に比べれば)控えめです。いや、十分すぎるほど多いんですけどね。年に1500人死んでいるってことは、毎日3~5人くらいのペースで死につづけてるんですから。ゲリラ側に立ってみて下さい。彼らは相手が諦めるまで負けない戦い方をする部隊です。毎日着実に成果が出続けているんです。士気、上がりますよ。  ソ連軍の問題は、戦い方にありました。同じ場所で戦い続ける市街戦や攻城戦などとは違い、山岳地帯におけるゲリラ戦において、『同じ状況の繰り返し』などというものは存在しません。「こういう作戦で動け」「こういうことが起きたらこうしろ」という事前のすり合わせができないんです。現場の兵士たちは、その場の判断で臨機応変に戦うことを求められます。これがソ連軍には苦手中の苦手でございましてね。  思い出してみて下さい。ソ連軍の戦い方(縦深火力ドクトリン)を。まずは敵陣深くに砲弾ぶっぱなして、あとは戦車と歩兵で突撃するのが基本戦術なんです。数と火力だけを頼りに、兵士の命をつぎ込めるだけつぎ込んで、目標に向かって突き進んでいくのが彼らの攻撃戦術なんです。これ以外の戦術など持ち合わせてはいないのであって、柔軟な作戦など採れません。では、攻撃目標も防衛目標も存在しない・・・強いて言えば神出鬼没の敵兵一人一人が攻撃目標であり、自分自身の命それ自体が防衛目標であるような・・・山岳地帯のゲリラ戦で、こんなソ連軍の伝統戦術が通用すると思いますか? するわけがありません。  と・こ・ろ・が。  組織が硬直化しているソ連軍では、「現場の指揮官が臨機応変に物事を判断して行動する」という概念それ自体がないのです。この光景もどこかで見ましたよね?はい、冬戦争。あの時は、現場を見てもいない上級指揮官が、モスクワから戦車で雪道に突撃するよう指示を出し続けました。その伝言ゲームが忠実に実行された結果、ああなったんです。  アフガニスタンも同じです。冬戦争のフィンランド軍と同様、アフガニスタンのゲリラ部隊も戦い方はよく似ていました。すなわち、まずソ連軍をおびき出して罠を張った山岳地帯まで連れて来る。そして奇襲によって軍を分断し、補給線を断つ。あとはゲリラ戦に持ち込んでの各個撃破という構図。見事なまでに同じです。しかし、ここがソ連軍のすごいところなのですが、彼らは冬戦争のそうした苦い経験を、軍の資産として受け継いでいなかったんですね。だから、まったく同じ失敗をまたやらかしました。山岳地帯の戦い方も神出鬼没のゲリラも知らない指揮官が、モスクワから毎回同じ指示を繰り返すんです。そして、それを伝言ゲームされた部隊長が、兵士たちに突撃命令を繰り返す。要は力押し。人命つぎ込めば何とかなるだろという、戦場にあるまじき発想です。「兵は畑でとれる」が繰り返されたのは、これで何度目でしたっけ?  それでもダメならどうするか?  水源、集落の破壊、毒ガスの使用といった禁じ手に訴えました。これまたお得意の、民間人を巻き込む作戦でございます。そして、また国際社会からの非難を浴びて孤立するという、どこかで見たパターンの繰り返し。アメリカはアフガニンスタン侵攻において、ソ連へのイヤガラセのごとくムジャーヒディーンへの武器支援などを行っていましたが、その口実はソ連が与えてしまっていたのですよ。  こうして10年間、一切の戦術的進展も軍事組織的改革も見せないまま、むしろ非人道的手段に訴えて国際社会の信用を落とす。世界を二分する超大国が、こんな小国の鎮圧さえもできないのかと失笑される。その一方で、軍事支出と犠牲者だけは着実に増えていく。国内では反戦世論が爆発し、政治的にも軍事的にも経済的にもソ連は追い詰められました。  逆に言えば、確固たる国民の意思と武器支援さえ続けば、どれほど貧弱な国家であろうと国土を占領されることはない。大国とだって渡り合えると証明したのが、アフガニスタンとヴェトナムだったとも言えるのでしょう。(なお、このときアメリカ政府がアフガニスタンに提供した武器の数々は、9.11以降のアルカーイダとの戦いにおいて、自国に跳ね返ってくることになります)  アフガニスタン侵攻については以上です。個人的評価は『「あいつ、やべーやつかもしれねーから暗殺しとくか」から始まった国家滅亡』とでも申しますか。なんかラノベのタイトルみたいですけど。こんなストーリーでラノベ書いたら「リアリティがなさすぎる」とか「こんな馬鹿な国あってたまるか」とか言われちゃいそうですね。(笑)  少しだけ補足しておくと、第二次大戦後のソ連って、自らが戦争参加する「ホット・ウォー」は避け続けていたんですよ。やっていたのはあくまで「コールド・ウォー」。直接的には武力を行使せず、超大国の地位を利用しての代理戦争で済ませ続けてきたんです。それが朝鮮戦争でありヴェトナム戦争でした。しかし、このアフガニスタン侵攻に関しては、ソ連自らが戦争当事者になってしまった。戦争当事者になったことで致命傷を負った。なのに、その当事者にならざるを得なかった原因が、あまりにショボすぎた。私はこの先見性のなさ(戦争目的のなさ、出口戦略のなさ、代替手段を模索しなかった短絡的思考回路)こそが、アフガニスタン侵攻の見所だと思っています。  なお、プーチンはこうして起きたソ連崩壊を「20世紀最大の地政学的惨事」と評価しているわけですが、いやいやいや。他国からすれば、武力行使への敷居が低すぎる国家は、滅ぶべくして滅ぶというお手本でしかないですよ。多分、そのことに気づいてないのは、当のロシアだけだと思います。  というわけで、ロシア人が自らの国を滅ぼしてしまった二つの戦争を見てきました。どう考えても、国の存亡を賭けていいような開戦理由じゃなかったと思うのですけど、いかがでしょう。武力行使への感覚がマヒして、それが何をもたらすのかを考えられなくなってしまった、脳筋国家の末路です。  つづく
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  • 2日前

    ルカシェンコ決断

    https://www.dialog.ua/world/lukashenko-sdelal-neozhidannoe-zayavlenie-o-voyne-v-ukraine-my-chto.html ロシアから出されていた派兵要請を、事実上拒否。これ、ルカシェンコもロシアが勝てるとは思ってないってことでしょうね。ロシアが勝ったら窓から突き落とされるか交通事故に遭う対応ですし。
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  • 2日前

    ロシア精神史⑱-2(戦争分析編その6-2)

     今回は日露戦争の海戦編です(構成上は前回とまとめて1話です)。蔚山(ウルサン)沖海戦でウラジオストク巡洋艦隊が事実上全滅したことには既に触れましたので、残るロシア艦隊は第一太平洋艦隊と第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)となります。  旅順攻囲戦の気配が高まる1904年8月10日(旅順攻囲戦の開戦は8月19日)、旅順が陥落すれば陸上からの射撃で全滅は免れないことを悟った第一太平洋艦隊は、旅順港を脱出しようと試みました(前回地図参照)。これが黄海海戦と呼ばれる海戦です。結果は大日本帝国海軍で沈没なし。ロシア海軍では司令長官死亡。沈没1隻・継戦不能で旅順に引き返した艦が5隻・継戦不能で清やフランス領の中立港に逃れた艦が8隻です。この時点で、(ウラジオストク巡洋艦隊の結果も合わせて)日本の制海権は確定しました。  そして迎えた1905年5月27日から28日にかけて、有名な日本海海戦(ロシアだとツシマ海戦と呼ばれる)が行われます。結果は御存知の通り、大日本帝国海軍の圧勝。損害は大日本帝国側で水雷艇3隻・戦死者117名・戦傷者583名。対するロシア・バルチック艦隊は、(全38隻のうち)沈没艦21隻・拿捕艦6隻・中立国抑留艦6隻・戦死者約5千人・捕虜6106人です。(これについては資料が明確にありますので、数字が信用できていいですね) この戦果は世界に衝撃を与え、提督の東郷平八郎は世界三大提督と呼ばれるに至りました。  このバルチック艦隊が負けた理由もまた、兵站や兵士の生活環境軽視にありました。というのは、バルチック艦隊はこれでもかというほど悲惨な旅をさせられてきた艦隊でありまして・・・これがどれほど苛酷だったかを語るのが、今回のメインですね。  1904年4月、後に第二太平洋艦隊と改名されることとなる(けど面倒なので以下ではバルチック艦隊で通させて頂きます)バルチック艦隊が、極東へ出撃することが決定されました。開戦からわずか2ヵ月でのことであり、この決定自体は非常に早い段階から決まっていたと言うことができます。  この艦隊が実際に出航できたのは、同年10月15日(※※)でした。ウラジオストク巡洋艦隊の壊滅は8月、黄海海戦も8月ですから、既にこの時点で虎の子です。しかし、この艦隊はもともとバルト海沿岸警備に向けて設計されていたため、外洋航行や長距離遠征には不向きと言われていました。具体的には、石炭の積載量などが大きくなかったんですね。(フラグ成立) ※※当時のロシアの暦はユリウス暦で、現在使われているグレゴリオ暦とは13日のズレがあるため、彼らの残した記録は13日ずらして読む必要があります。すなわち、ロシアに残されている記録では10月2日出航となっています。以下では特に断りのない限りグレゴリオ暦表記に合わせますが、資料はユリウス暦のものも多いので、計算ミスしていたらすみません。なお、ネットで適当にAI検索かけると、この辺の数値はごっちゃになって出てきて矛盾が生じます。  ここでまず問題となったのが航路です。長距離遠征に不向きであるなら、当然航路は短い方がいいに決まっているのです。しかし、北極海経由は海が凍っていて無理。スエズ運河は船体サイズの問題で無理。結局アフリカ南端からインド洋へ抜け、更に東南アジアを経由して日本のすぐそばを通るという地獄のルートしかありません。その総移動距離、実に18000海里。馴染みのある単位で言えば33336kmです。ただでさえ補給に欠陥を抱えているロシア軍が、長距離遠征に不向きな艦隊で、こんな長距離移動ができるはずがないんですよ。(フラグ成立)  おまけに、この艦隊は出航前から不安要素満載でした。本来ならば熱帯低気圧などの天候も加味して、1ヵ月前には出航していなければならなかったんです。実際、出航に先立つこと1ヵ月、すなわち9月中旬の段階で、指令官に任命されたロジェストヴェンスキーは『ひっきりなしに起こる各艦での機関やモーターの故障、規則の乱れ、海が頻繁に荒れるので予定していた乗組員の教練が進まない。こうしたことのために、艦隊全員の士気さえ落ちている』という嘆きを記録しています。そして10月の上旬には『1ヵ月前に出航できていれば、天候にも恵まれていたのに』といった愚痴を手紙に残しています。10月14日という出発前日に至ってすら『故障が相次いでいる』『これでは、航海に入ったらどうなるのだろうと心配だ』『艦艇での故障、失策、拙劣な指揮、命令の不実行、無知、無能力、怠慢』といった言葉が記されていました。旅順攻囲戦でも書きましたが、士気の問題は周辺国が想像する以上に深刻だったのです。(フラグ成立)  出港から1週間ほどが経った10月21日、この航海の先行きを更に悪化させる大失態をやらかします。深夜に操業していたイギリスの漁船を、(不正確な情報のせいで)日本の魚雷艇だと勘違いした艦隊は発砲してしまったんですね。乗組員に死傷者が出た上、漁船のうち一隻は沈没。味方巡洋艦アヴローラまで巻き添えで被弾。このとき重症を負った従軍司祭が、後日死亡しています。(ドッガーバンク事件)  バルチック艦隊にとって不幸だったのは、この民間船がよりにもよってイギリス籍だったことでしょう。ロシアの南下政策を止めたくて、「栄光ある孤立」を捨ててまで日本と同盟組んだばかりのイギリスですよ。この事件でイギリス国内における反露・親日感情は決定的になります。そして当時のイギリスが、このバルチック艦隊の予定航路に抱えていた植民地の数。南アフリカ、インド、マレーシア、オーストラリア・・・これらがすべて敵に回り、入港禁止措置をとられてしまった瞬間でした。もちろん、当時の蒸気船の動力源であった石炭も手に入りません。しかも当時、最も優秀な石炭とされる無煙炭の大部分は、イギリスが押さえてました。ただでさえ補給の下手なロシア軍が、おまけに出航前から故障頻発と嘆いていた艦隊が、石炭の入手にすら苦労することになるのです。  10月26日、スペインにて一回目の寄港。しかし、ドーバー海峡を無許可で通過していたせいでイギリス海軍から追尾されており、イギリス海軍は寄港と同時にスペインへ圧力をかけました。曰く「石炭はおろか真水であっても供給すれば、中立違反と見なす」と。なので、給炭を断られます。といっても、既に石炭は空っぽ近く、ここで給炭できなければ移動すらままなりません。交渉の末、一隻400トンまでの給炭が認められたものの、ドッガーバンク事件の謝罪や賠償金の話がつくまで予定通りの出発はさせてもらえず、艦隊は足止めを食らいました。この最初の寄港地で、既にロジェストヴェンスキーが『石炭切れで航行不能になっていた艦艇。グリース切れ、飲料水不足、食料不足が起こった。規律も何もあったものではなくなった』と記しています。  11月2日、艦隊はフランス領モロッコのタンジール港に寄港します。いわゆるジブラルタル海峡の南側ですね。このときのフランスは、露仏同盟を結んでいたこともあって協力的に給炭してくれました。ロシア側の記録で10月21日(グレゴリオ暦なら11月3日)には出港したとありますので、滞在は1日と思われます。この場所で小型艦中心の別働隊(フェリケルザム支隊)を分離し、別働隊はスエズ運河を使ったショートカットルートへ。ロジェストヴェンスキー率いる本隊は、遠回りのアフリカ西岸ルートへと向かいました。  同月12日、ロジェストヴェンスキー隊は再びフランス領ダカールに入港しました。しかし、同じフランス領であったにも関わらず、ここでは給炭を断られてしまいます。もちろん、イギリスや日本が圧力を加えた結果です。といっても、身動きとれない艦隊に居座られても困るのでして、結局「石炭はやるから自分たちで勝手に作業して勝手に出てけ」的対応をとられることに。ちなみにダカールって北緯14度ですからね。彼らが普段生活していたのは、暑さの対極にある北の果て。ですが冷房なんてものはありません。この様子については、『統計によれば、1500名がアレルギー、800名がうつ病、700名が情緒不安定、少なくとも20名が極東到達前に自殺する可能性があった』と研究されているようでして、実際に炎天下の作業で、士官一名が熱中症死しています。当時の給炭は、炎天下の中、人力で石炭を船内に運び込むという、苛酷な肉体労働だったのです。  11月26日、再びフランス領ガボンで給炭。ここはほぼ赤道直下であり、ここから南半球に入ると冬と夏が逆転して更に暑さが苛酷になります。この地ではついに上陸すらさせてもらえず、河口での給炭作業となりました。直前の23日に記された指令官の記録では『航海は日ごとに苦労が多くなる』『どの戦艦も石炭を満載して二千海里(≒3700km)の航行が限界だ』『これからの航海では石炭の洋上積み込みが必要になってくる。これは、恐ろしく困難な作業だ』『毎日のように故障が起きている。ところが、故障の修理はもちろん、機関の点検のためだけにでも、どこの港にも入港できないのだ』といった苦悩が記されています。  12月6日、ポルトガル領アンゴラで給炭。沖合5kmでの作業です。同月11日、ドイツ領ナミビアで給炭。次の寄港地までは4000km以上(すなわち彼自身が限界と書き記した二千海里以上)も離れていたため、給炭量が多すぎ、ここで砲座や魚雷発射管までもが石炭まみれになりました。遠征に向かない艦隊の特性が、いよいよ目に見えて深刻化しましたね。船内の温度は40℃から50℃にも達し、しかも粉塵が舞い飛ぶ劣悪な環境。健康被害が拡大していきます。  12月29日、マダガスカル到着。1月9日に、スエズ運河を通過できた小型艦別働隊(フェリケルザム支隊)と合流。この別働隊を待っている間に、(1月1日の出来事であった)旅順陥落の報が入ります。実はこの直前の12月25日(ロシア暦では12月12日)、家族宛てと見られる手紙にはこう記されています。『彼(フェリケルザム)の艦隊には『どうしようもない連中』がいるんだ』『こうした『どうしようもない連中』を引き取れというのだ。だが、この訓練も教育もない連中がいったい何に役立つのか、私にはわからない。結局のところ、余計な負担であり、弱点になるだけだろう』と。この頃には冷蔵庫も故障し、食肉が腐って廃棄処分に。  このマダガスカルを出航できたのは3月16日のことでした。すなわち実に2ヵ月以上もの間、足止めを食らっていたわけですが、この地では脱走者や自殺者が相次ぎ、かなり多くの水兵が下船を申し出たようです。そんなマダガスカルの地で、彼らは皇帝から直々に『ドブロトヴォルスキー支隊を待つこと』と命じられました。この分遣隊は本隊に遅れること約1ヵ月、11月16日に出航していた別働隊になりますが、これについてもロジェストヴェンスキーの手紙に率直な見解が記されています。『(1月20日)さまざまな理由から我々はここで足止めを食らっているが、これこそは自滅を招く源だ』『(フェリケルザム指揮下の)艦は、ボイラーがすっかり古くなり、機関の調子が悪い。何隻もの水雷艇は全くのガラクタ同然になっている』『ここで七隻の駆逐艦すべてを艦隊から離脱させ、終戦まで繋留しておくべきだろう』『艦隊にとっての重荷である』・・・こうした愚痴が連ねられた末に『ノシベ(マダガスカルの港)でブロトヴォルスキー提督の小艦隊の到着を待つのはごめんだ』『艦隊を増強するどころか、弱体化するだけだろう』という、悲しすぎる言葉が連ねられているのです。実際、彼らは足手まといとなりました。皇帝からの電報は1月7日でしたが、彼らがマダガスカルに到着したのはなんと2月14日のことだったのです。(そして彼らの補給や補修で更に時間をとられまくって、旅程がどんどん遅れてゆくという地獄絵図)  皇帝の無能は止まりません。  ええ。これでもまだ終わらないのがロシアのロシアらしいところなのでして。この状況を危惧したロシア海軍上層部は、よりにもよってこのタイミングで本国に残っている旧式老朽艦や沿岸護衛用小型艦までをも合流させて「艦隊を強化(笑)」しようという、追い討ちにすら似た発案をかましました。これを第三太平洋艦隊といいます。この艦隊は、ロジェストヴェンスキーの猛反対にも関わらず、2月15日に出航してしまいました。この頃になると、医官のグラフチェンコが彼を『我々はロジェストヴェンスキーの姿を見ても、彼とはわからないほどだった』『今日、彼を見て思わず声を上げそうになった。すっかり変わっていた。歳をとり、背中が丸くなり、髪は真っ白だった』と記録しています。乗組員であったコスチェンコの日記には『この状況の中で、ロジェストェンスキーは必死になって[バルチック艦隊は、極東海域で失われたロシア艦隊よりも脆弱である]ということを政府にわからせようとした。しかし、ロシアの運命を司る支配者たちは耳が聞こえない振りをし、[艦隊は航海を再開し日露戦争の制海権を保持せよ]と命令を下したのだ』と記されています。ロシアお得意の現場無視、上意下達体質が遺憾なく発揮された瞬間でした。  この後も1回12時間にも及ぶ地獄の給炭を幾度となく繰り返し、4月5日にようやくマラッカ海峡へ。しかしここで、現地の日本人に見つかり、その情報が本国に打電されてしまいます。  4月13日、フランス領インドシナ(現在のヴェトナム)のカムラン湾に到着。しかし、イギリスからの圧力を受けていたフランスは、彼らに24時間以内の退去を命じます。やむなくヴァンフォン湾へ移動。5月9日に第三太平洋艦隊と合流し給炭を終え、いよいよ目指すは最終目的地のウラジオストクのみとなりました。もちろん、そこで補給を完了させて万全の準備を整えた上で、日本海軍と戦うためです。(フラグ成立)  5月23日、バルチック艦隊は東シナ海で最後の洋上給炭を行います。石炭輸送船から持ち込めるだけの石炭を持ち込んで給炭したんですね。その後、6隻の石炭輸送船が上海へ入港します。この情報を掴んだ大日本帝国海軍は、この地点から大回りが必要な宗谷海峡ルートや、既に機雷の敷設が完了していた津軽海峡ルートではなく、対馬海峡ルートを本命視して監視を強め、5月27日に無事発見するわけです。あとは先述した通り。  バルチック艦隊の敗因は、それこそキリがありません。ロジェストヴェンスキーが出航前から予見していた通り、そもそも勝てる戦ではなかったというのが正確な理解でしょう。その中でも特に目立つのは、補給の弱さ、その補給の弱さを決定づけてしまった民間人殺害、無煙炭を入手できず船足が落ちたこと、石炭を積み過ぎて船足が落ちたこと、上級士官と水兵の間に身分的な差があり奴隷のような扱いが横行していたせいで士気が低かったこと、兵士の健康に悪影響が出るほどの環境の劣悪さ、そもそもの訓練不足、現場無視の上意下達・・・等々ですかね。総移動距離33000km、そのほとんどを給炭作業に費やした末の全滅でした。こんなこと、艦隊が出港する前にすべての手筈を整えておいて当然でしょうに。  というわけで、ロシアは永遠の戦争素人国家(兵站軽視国家)であり、また有能な軍人を圧殺してしまう国家でもあるということを証明してしまった、日露戦争について解説してみました。次回は第一次世界大戦とアフガニスタン侵攻に参ります。  つづく
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    ロシア精神史⑱-1(戦争分析編その6-1)

     日露戦争は、ロシアが実は列強と呼ばれるほどの実力を有していない後進国であったということを、内外に知らしめてしまった戦争です。クリミア戦争は、まだ敗戦の言い訳が立ったんですよ。相手が英仏同盟軍でしたから。しかし、日露戦争ではそうはいかない。何しろ、1853年の黒船来航からわずか50年で近代化の坂道を駆け上ってきた極東の新興国ごときに、1700年頃(ピョートル大帝時代)からヨーロッパ文化を採り入れ続けて来たロシア帝国がボロ負けしたわけです。国際社会に与えた衝撃は計り知れません。この知らせを受けて、同じくロシアに苦しめられていたイランで立憲革命(1905年~1911年)が起きたことからも、「俺たちでもロシアに勝てんじゃね?」という空気感が漂ってしまったことが伝わってきます。インド国民会議でも民族主義者が台頭する契機となりましたし、オスマン帝国では青年トルコ革命(1908年)の引き金にもなりました。  開戦理由は毎度おなじみの不凍港。クリミア戦争で黒海艦隊を手放さざるを得なくなったロシアが、だったら極東で不凍港を手に入れればいいじゃないかとばかりに、朝鮮半島や満州にまで南下を進めたことでした。具体的にはまず1858年のアイグン条約で清との間に不平等条約を結び、沿海州と呼ばれる日本海沿岸を共同管理地としていたことが背景にあります。後に清がこれを拒絶したものの、今度は1860年、清vs英・仏のアロー戦争終結を仲介した(英仏に撤兵を促した)ことで、この不平等条約を追認させ、単独管理に移行させました。つまりは領土を奪ったわけです。こうしてロシアは、極東のウラジオストクを獲得しました(中国には、今でもこの時奪われた領土を取り戻せという声が根強くあります)。1871年には、このウラジオストクが軍港として利用されはじめ、日本にも大きな圧力がかかり始めます。ちなみに、ウラジオストクとは「東方を支配せよ」の意味。ロシアがどういう意図を持ってこの地に進出してきたかが、一目でわかる命名ですね。  このウラジオストクは「ほぼ」不凍港ではありましたが、それでも凍ることがあったため、ロシアはより完璧な不凍港を求めました。そして1897年12月、朝鮮半島の付け根にある旅順にロシアの第一太平洋艦隊が配備され、事実上の占領を開始したわけです。翌年の3月には清朝政府にこの実効支配の認定を迫り、『旅順・大連租借に関する露清条約』を結んで租借権を獲得します。  こうしたロシアの動きに不安を感じた日本は、1902年にイギリスと日英同盟を結びます。イギリスはロシアの南下政策を押しとどめたい。日本はロシアの脅威に対抗できる後ろ楯が欲しい。利害が一致し、イギリスが「栄光ある孤立」を捨てた瞬間でした。日露戦争の開戦自体は、もうこの時点で確定していたと思います。  というわけで、日本も開戦のタイミングを探っていたものと思われますが、この判断の裏には、『シベリア鉄道が全面開通する前』ならば満州のロシア軍を撃破できるという思惑と、『バルチック艦隊が動き出す前』(すなわち援軍が来る前)に旅順やウラジオストクのロシア艦隊を各個撃破すれば勝機はあるという二つの思惑が重なっており、これは結果的に正解だったと言えるでしょう。開戦は1904年2月。日本から国交断絶を通告して戦闘を開始、数日後には双方が宣戦布告を行いました。  開戦後のウラジオストク巡洋艦隊は、日本海・津軽海峡付近で日本の商船などを破壊する、通商破壊を積極的に行っていました。1904年6月の常陸丸事件などですね。これに対し、同年8月には上村彦之丞中将率いる第二艦隊が、蔚山(ウルサン)沖海戦でウラジオストク巡洋艦隊を事実上壊滅させています。このような、民間人を巻き込む行為への国際法は、1899年の『ハーグ陸戦条約』だけだったので、当時だとギリセーフってところでしょうか。まあ、ウラジオストクの方は今回の本題ではないので、サラッと触れるに留めます。  さて、この戦争におけるロシアの勝利条件とは、満州・朝鮮半島への支配権を確立し、不凍港の獲得を確固たるものとすることでした。逆に日本から見た勝利条件は、この地の支配権を放棄させ、不凍港を諦めさせることでした。つまり、日本は何を置いてもまず、第一太平洋艦隊の基地である旅順を落とさねばならなかったのです。  ここで参考までに、旅順203高地の地図を載せておきますので、御覧下さい。見ての通り、狭い水道と急峻な丘陵地を備えた天然の要塞です。圧倒的に防衛側が有利なこの地形で、日本は攻城戦を仕掛けねばならなかったのですよ。ハンデすごいです。  しかし勝ったのは日本でした。なぜか。  日露戦争で際立ったのは、クリミア戦争時と同じロシア軍の欠陥です。すなわち、兵站の脆弱性。  まずロシア軍の主力輸送路は、言わずもがなのシベリア鉄道でした。もちろん単線です。面白すぎるのでもう一度書きますが、単線です。イギリスだと1830年にリバプール・アンド・マンチェスター鉄道が全線複線で開業していますし、フランスだと1850年代頃から複線化が加速しています。アメリカだと1844年には最初の複線が作られてますし、日本だと1898年に東海道本線の全線で複線化が完了しています。つまり、技術的に不可能だったわけではないのです。しかし、あまりにも長すぎる距離、ロシアの財政、そして厳しすぎる気候が複線の設置を許さなかったのですね。  しかも、開戦時のロシア軍は、この鉄道を1日4往復しか稼働できていませんでした。かといって、他にめぼしい輸送手段があるかと言えば、それもなし。単線シベリア鉄道一本槍!  この明白すぎるほどの輸送力不足がある時点で、戦争のプロならばむしろ戦争してはならないという判断が確実に下せます。補給に弱点を抱えた前線など、維持不可能だからです。実際、当時の陸軍大臣であったクロパトキンはこの無謀を指摘し、開戦そのものをすべきでないと申し入れています。また、財務大臣(当時の言葉だと大蔵大臣かな)としてシベリア鉄道の建設を推進してきたヴィッテ(日露戦争時の役職は閣僚会議委員)も、財政難を理由に対日協調路線を提言し、開戦反対派のリーダーとなりました。しかし、それでも止まれないのがロシアという国。有能な軍人の声は、決して皇帝には届かないという、これまた何度見たかわからない光景の繰り返しです。  するとどうなるか。シベリア鉄道の稼働率を上げるしかなくなるんです。結果、戦争中に何と20往復(!)まで稼働率を高めることができたのですが(これは日本軍にとっては想定外に大きかった)、今度はこの輸送力を実現するために、苛酷すぎる労働が一般市民にまで課せられることになります。こうしてロシア国内では鉄道労働者によるストが激化しました。おまけに、シベリア鉄道の渋滞はウラジオクトクに保管されたシベリア産小麦を、都市部へ送り届ける機能にまで支障を来し、モスクワ周辺ですら深刻な食糧難が発生。こういう無茶な施策への不満が積み重なって、1905年には『血の日曜日事件』が起こり、国内の政治が不安定化したことも、ロシアの継戦能力を奪う大きな原因となったんですね。  つまるところこの時のロシア軍は、不凍港が欲しいという国家の事情で極東にまで駆り出された兵士と、そのせいで苛酷な労働・食糧難を背負わされることになった国民が、どこまで高い士気を保てるかという、内部的な問題をも抱えていたのです。対する大日本帝国軍は、「藩」を超えた「日本人」という概念自体が浸透した直後。前述の常陸丸事件などもあって、国家存亡の危機という感情を全国民が共有しており、極めて士気の高い状態でした。そして、旅順における動員人数や死傷者数は、両軍共にほぼ同じ。(戦闘参加者数は双方共に5万程度、戦死は1.5万人、負傷は日本が4.4万、ロシアが3万)  こうなると勝敗は明らかですね。ロシアには高台の城塞という地の利がありましたが、それでも死者数が同じということは、戦闘条件を拮抗させる別の要素があったということを意味します。それが何であったかは、もう言うまでもないでしょう。そして、戦闘条件が拮抗するなら、士気の高い方が勝つ。必然です。  では、その戦闘内容を見ていきましょう。旅順攻囲戦における陸上戦の戦闘様式は、ほぼ第一次世界大戦における防衛戦同様の、機関銃・有刺鉄線・榴弾砲・塹壕といった特徴を備えており、武器水準の向上によって殺傷力が大幅に増してしまった近代の、最初の白兵戦事例とも言えるものでした。少なくとも当時の攻城戦においては、武器の性能と物量こそが戦闘の行く末を支配する最大の要因であったことは、間違いないと思われます。裏返せば、もしロシアがシベリア鉄道以外にも複数の輸送路を確保していたら、すなわち、日本軍に数倍する人員を輸送し、十分な物資の補給まで可能としていたら、旅順の結果は違うものになっていたはずです。というのは、日露戦争最後の戦いとなった奉天会戦の後でも、ロシア軍にはまだ20万人の余剰戦力があり、ウラル山脈の西側からはその更に数倍の戦力を連れて来ることすら可能だったからです。ただ、ロシア軍は深刻すぎる輸送能力不足を抱えていただけなんです。物資も食糧も増援も、すべてが現場に届かなかっただけなんです。(どこかで見た光景)  少しでも軍事知識を囓ったことのある方には常識だと思いますが、戦争においてはプロフェッショナルになればなるほど、前線などより兵站を重視します。実際、クロパトキンが指摘していたことも既に述べました。ところが、ロシアという国ではこの常識がいつまで経っても(それこそ数百年単位で)浸透しないんですね。  理由のひとつは、権威主義国家であること。軍隊の構造それ自体がトップダウンであるため、現場の声が軽視される風潮がいつまで経っても消えないことです。  ふたつめは、火力重視の伝統です。これは18世紀頃にピョートル大帝やエカチェリーナ2世が進めた砲兵主義に、実際の戦闘経験から「敵陣を圧倒的な火力で叩いて突撃」という戦術が強く支持されたためです。この戦闘スタイルはソ連軍にも受け継がれ、現代ですらロシア軍といえば戦車・砲兵・歩兵重視です。(これを縦深火力ドクトリン、あるいは縦深作戦と言います。これに対し、アメリカ軍は陸海空等すべての領域を組み合わせたマルチドメインオペレーションを掲げています)  みっつめの理由は、物量重視の伝統です。日露戦争時点でのロシア軍にとって、最大の戦勝成果と言えば露土戦争……ではなく、祖国戦争でした。ナポレオンを破ってヨーロッパ最強の座へと躍り出たというその成功体験が、戦争遂行過程に対する上層部の客観的評価を妨げていたんでしょう。で、その祖国戦争ではどうやって勝利したか。圧倒的な物量(国民の命含む)を犠牲にして勝利したんですよ。(※)結果として、兵士なんて使い捨てであり、使い捨ての消耗品に手厚い支援をするなど馬鹿らしいという考えに至っています。この思考を裏付ける具体的な事由は、戦術的戦傷救護(TCCC)や戦時医療体制の欠如、訓練や装備が不足した兵士を前線に送り出す、囚人や前科者で構成された突撃部隊の存在等々、枚挙にいとまがありません。 ※奉天会戦も実は戦略的撤退であり、祖国戦争と同じ戦術を採用したものだと言われています。指揮官は先にも出てきたクロパトキンです。日本軍はこの戦闘でほぼ継戦能力を失っており(すなわち、日本軍の兵站も限界に達しており)、深追いできませんでしたが、結果的にはこれがむしろ幸いしたような気がします。ナポレオン軍の二の舞になっていても、おかしくなかったですからね。  そして最後の理由。国土が広すぎることです。道路の整備が追いつかない。輸送は鉄道に頼るしかないのに、工業化が進まない。おまけに寒暖差が非常に激しい土地柄のせいで、線路は膨張収縮を繰り返し、劣化は常に深刻です。脱線のリスクがあるので、スピードなんて出せません。メンテナンスだけでも一苦労。そういうコストをかけられないんですね。  この国土の広すぎ問題こそが、日露戦争で敗北した最大の理由と言えるでしょう。もちろん、国土が広いからこそ物資も兵士も豊富に用意できるのでして、そこはトレードオフではあるのです。ただ、兵器や弾薬や防寒装備といった物資のほとんどを、ウラル山脈の西側で製造している国が、極東の寒冷地を前線にして戦争しちゃったんです。極東の地で南下政策なんてしなければ、そもそも戦争だって起こらなかった。クリミア戦争では1900kmの輸送にすら苦労していた国が、そのわずか50年後に9000kmの輸送を担うことになったのですよ。おまけに、その輸送路のメインとなるシベリア鉄道は、自国で資金準備がができず、フランス資本に頼り切ったもの(だから単線が限界)。これでまともな兵站を構築できるはずがありません。  なお、日本の兵站確保は海路を通じて行われましたが、それが簡単だったかと言えば、断じてそんなことはありませんでした。念のため。  こうして旅順攻囲戦は日本の勝利に終わり、203高地を制圧した日本軍は、榴弾砲を港に撃ち込んで、第一太平洋艦隊(の残存艦)を壊滅させました。1905年1月1日のことです。  折角ですので、海戦も見ておきましょう・・・ってところで一旦切ります。単純に長くなりすぎただけですので、次の話とまとめて1話だとお考え下さい。すみません。
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  • 3日前

    クリミアで食糧危機発生

    https://newsukraine.rbc.ua/news/essential-food-shortages-hit-russian-occupied-1780774170.html 先日、クリミアではガソリンの購入上限が20Lというお話を書きましたが、今度は食糧の購入制限も飛び込んで参りました。
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    ロシア精神史⑰(戦争分析編その5)

     今回からはカテゴリーD(大・敗・北)として、クリミア戦争・日露戦争・第一次世界大戦・アフガニスタン侵攻を見ていきます。  クリミア戦争(1853年~1856年)は、ロシアの近代化遅れと兵站能力不足が浮き彫りになった戦争でした。カテゴリーAで「クリミア戦争も露土戦争の一種」と書いたのですが、そのとき「なんでクリミア戦争では負けたのに、30年後の露土戦争では勝てたんだ?」と思われた方がいらっしゃったかもしれません。理由は簡単。クリミア戦争の敵対国にはイギリスとフランスという近代国家が含まれていたのに対して、露土戦争では純粋にオスマン帝国だけが敵対国家だったからです。  すると、今度はこう思われるかもしれません。「あれ、クリミア戦争って聖地管理権問題が原因で、ロシアがオスマン帝国に戦争吹っ掛けたんじゃなかったっけ?」「そこでなんでイギリスまで絡むんだ?」と。  これはかなりお詳しい方ですね。聖地管理権というのは、キリスト教の聖地イェルサレム(現在のイスラエルの首都)をどこの国が管理できるかという権利です。中世では、この街を巡って十字軍がたびたび・・・というか200年にもわたって遠征されつづけてきたわけでして、この地がキリスト教圏とイスラム教圏の間にめんどくさい火種を生み出しかねないことは、当時この土地を支配下に置いていたオスマン帝国もよくよく理解していたのです。そのため、オスマン帝国はこの土地の管理権を、伝統的に仲の良かったフランスのブルボン家(ルイ14世がヴェルサイユ宮殿を作ったりしたあの王家)に預けていたんですね。上手いやり方です。  ところがフランスで革命が起こり、ブルボン家という管理者がいなくなってしまった。そこを突く形で、ロシア皇帝アレクサンドル1世(連載15回目で出てきた、「神聖同盟」掲げてヨーロッパから煙たがられた人)が、この管理権を取得しちゃったんですよ。言わば、ローマ・カトリックから正教会へと管理権が移管してしまった。しかし、そこから更に半世紀ほどが経った1852年、フランスのナポレオン三世(有名なナポレオンの弟の三男)が、国内のカトリック教徒から支持を得る目的で、「やっぱり聖地管理権返せ」と言い出します。当時、近代化(タンジマート)を推進する上で、フランスの資金や技術を欲していたオスマン帝国は、これを承諾。メンツを潰されたロシア皇帝ニコライ1世は、これを口実として・・・すなわち、イェルサレムの正教徒を保護するんじゃというお決まりの《ルーシ保護理論》を提唱して・・・オスマン帝国領のドナウ川流域を占領します。全然イェルサレムと違う場所に進軍しているのは、もちろんロシアの本音が不凍港の獲得だからです。(こうしたやりとりからわかる通り、この戦争はロシアがオスマン帝国にしかけた侵攻ですので、露土戦争のひとつです)  というわけで・・・当時、ロシアとフランスの仲がバッチバチに悪かったことはわかるのですが、「なんでイギリスまで?」って話なんですね。当時のイギリスは、ロバート・ピール首相が率いていたのですが、彼は外相時代にロシア寄りだったこともあり、少なくともすぐに戦争するような雰囲気ではなかったのです。  し・か・し。  こういうときに大悪手を指してしまうのがロシアという国でして。1853年11月、それまでロシアの過大な要求に警戒心を募らせながらも、戦争へ参加は見送り続けていたイギリスとフランスを、参戦に舵切りさせてしまう失敗をやらかします。「シノープの虐殺」です。  黒海艦隊がシノープ港に停泊していたオスマン艦隊を奇襲したこの海戦は、オスマン艦隊の大失策が原因でロシアの圧勝に終わるのですが、決着がついた後も海で助けを求める兵士に砲撃加えたり、港湾施設や市街地まで徹底的に破壊したりと、やりすぎてしまったんですね。そして、この虐殺の様子がヨーロッパで広く報道されると、英仏世論は一気に参戦へと傾いてしまったのです。いらん虐殺で周辺国家の反感を買い、対立を深める失敗の典型・・・カテゴリーBで見た光景ですね。はい。  ロシアという国は、強い己に酔うからか、正教徒解放という宗教的正義を掲げているからか、はたまた少数民族を戦闘に駆り出しているからか・・・まあ理由は色々あるんでしょうが、その行き着く先として、民間人を巻き込むことを何とも思ってないように見受けられます。その様はさながら十字軍。あれも宗教的正義を掲げて、軍隊の暴走を止める人がおらず、時には無関係の土地を侵攻してるのに、それでも勝利に熱狂してたりするじゃないですか。戦争犯罪に対する感覚が数百年単位で遅れているのです。この時代遅れ感覚も、現代まで立派に引き継がれています。  そんなこんなで、オスマン帝国だけを相手にしていれば(露土戦争同様)勝利することもできたはずなのですが、自らの残虐性を示したことで軍隊の近代化を済ませていた英仏二国を戦争に引き込んでしまったのが決定打。ここからのロシア軍は、既に時代遅れであることを突きつけられることになります。数字から見ていきましょう。(資料ごとにバラツキがあるため参考値です) オスマン帝国軍・・・死者数12万人/戦力23.5万人 イギリス軍・・・死者数2万人/戦力10万人 フランス軍・・・死者数10万人/戦力31万人 ロシア軍・・・死者数50万人/戦力200万人以上  というわけで、ひとつだけ桁の違う国がございますね。はい。  この戦争の結果、ロシアは黒海艦隊そのものの保有を禁止されるに至ります。(1856年パリ条約) 祖国戦争でヨーロッパ最強に名乗りを挙げたプライドは、わずか半世紀後にズタズタに引き裂かれました。  この戦争も色々とツッコミどころは多いのですが、装備の遅れ(=近代化の遅れ)としてわかりやすいのは、英仏海軍が蒸気船だったのに対して、ロシア黒海艦隊は帆船だったことでしょう。アレクサンドル2世が農奴解放令を出して産業革命を起こそうとした(けど結局起こせなかった)のは、これが直接的な原因でしたしね。  これは余談になりますが、最近のロシアでは「敗戦も悪いことではない」という論調が一部で出回り始めており・・・これはウクライナ戦争に負けることを想定し始めた人たちがいるってことなのですが・・・その根拠のひとつとして、クリミア戦争では負けたおかげでロシア軍は近代化できたって言説がございます。クリミア戦争で近代化など進んでいなかったことについては、歴史が証明しているんですが(後述)。  また、装備の遅れ以上にひどかったのが、兵站(特に輸送網)の貧弱さです。モスクワからクリミアまで陸路で物資を運ぶより、英仏海軍がパリ・ロンドンから海路でセヴァストポリまで物資を運ぶ方が、遥かに効率的だったと分析されていますから。もっとも、英仏軍も上陸後の未整備な道路や、泥濘期の悪路には散々苦しめられるのですが、それはロシアの国土の問題ですからね。ちなみに、モスクワからセヴァストポリまでの陸路は1900km、一方のパリからセヴァストポリまでの海路は7000kmほどもあります。ロシア軍の輸送能力がどれほど低かったのかがわかるでしょう。  実際、当時のロシアは産業革命から出遅れており、鉄道網が未発達。馬車が輸送手段のメインだったんですよ。なのに、道路の舗装はされぬまま。おまけに春と秋には泥濘期がやって来るという、悲惨な気候条件です。これは、ロシアという広大すぎる領土を持つ国が、輸送路確保の重要性を日常生活レベルで理解できていなかったことの証でもあります。  この物資の不足を如実に表している数字が、ロシア軍の死者数とその内訳。直接の戦死者はわずか82000人と見積もられていることです。では、残りの死因はというと、コレラや赤痢などの感染症死、あるいは防寒具・燃料・食料の補給不足による栄養失調や凍死。これらが40万人以上の命を奪ったことになるわけです。こうした死因自体はフランス軍などでも共通していましたが、それはそもそもクリミア半島全域がそういう場所(物資の調達ができない寒冷地)だったからですね。当時のフランス軍は世界有数の衛生意識を獲得しており、野戦病院や兵站にカトリックの修道女を導入するほどの先進国でした。イギリスからは有名なナイチンゲールが看護師として参加しており、赤十字の精神を作り上げました。こうした点が、ロシア軍とは決定的に違うんです。  この兵站(後方支援)の軽視というロシア軍の欠陥は、ロシア戦争史で幾度となく繰り返された最も深刻な弱点のひとつでもあります。日露戦争でも冬戦争でも、そして現代のウクライナ戦争に至っても、まったく同じ失敗を繰り返してますからね。(逆に祖国戦争や大祖国戦争といった防衛戦争だと、軍は後退していくだけなので、この欠陥を表に出さずに済みました)  ついでに、この戦争を主導したニコライ1世についても少し。  彼は現場の隅々にまで口出しし、指揮官の裁量権を奪ったことで有名です。自らが作戦を直接指揮しなければ気が済まず、現場の権限や柔軟な判断を許さなかったことが、敗戦に大きく寄与したことは周知でして、特に、実績のある将軍からはバルカン半島への深入りはやめるべきだとの進言を受けていたにも関わらず、自らの威信と宗教的使命感のためにこれを無視して進軍させたことは罪深いとされます。実はクリミア戦争直前の1848年、ロシアはオーストリアでのハンガリー独立運動鎮圧に軍を派遣しており、オーストリアに貸しを作っている状態でした。なので、ニコライ1世としてはロシアの南下政策にオーストリアは賛同するはずだと読んでいたわけですよ。しかし、オーストリアはドナウ川を渡ってバルカン半島に深入りしてきたロシアに警戒心を顕わにし、どちらかと言うと英仏を支持する武装中立を表明してしまったのですね。現場指揮官から見れば当たり前に読めていた流れが、皇帝には見えていなかった。ロシア軍がドナウ川流域から徹底せざるを得なくなり、戦場がクリミアへと移動したのは、こうしたオーストリアの対応が原因です。すなわち、皇帝の先見性欠如や現場軽視こそが元凶だったのです。そんな彼は交戦中の1855年2月に肺炎で死亡。自殺説もあります。後を継いだのがアレクサンドル2世です。  というわけで、ロシア軍の後進性をこれでもかと露呈してしまったクリミア戦争の解説でした。前回もちょろっと書きましたが、「兵士は畑で採れる」という言葉が生まれたのはこの戦争からだといいます。この惨憺たる結果を受け、敗戦時の皇帝アレクサンドル2世は、国家の近代化に乗り出すことになります。それが1861年の農奴解放令であったことは既に述べましたが、ここで目指されたことは、土地に縛り付けられていた農民に移動の自由を与え(つまりは貴族による囲い込みをやめさせ)、徴兵しやすくしたり、工業に転職させたり、自作農に転職させて徴税対象としたり、市場経済を確立することだったわけですね。まあ要するに、さすがに国家存亡の危機を感じたから、貴族の反発を押し切って制度改革した・・・改革せざるをえなかった・・・ということです。その甲斐あってか、20年後の露土戦争では、何とかオスマン帝国軍に勝利できたと。(連載13回目参照)  この農奴解放令から約40年後の1897年、ロシア帝国初となる国勢調査が実施されました。このくだり、連載3回目で書きましたけど、農奴身分の名残とも言える農民は、まだ国民の77.8%という巨大すぎる数字を示していたのです。近代化とは一体何だったのか・・・という哲学を考察する間もなくやって来てしまったのが、1904年の日露戦争となります。  というあたりで長くなってきたので、一旦ここで切りましょう。次回は日露戦争でございす。
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    モスクワでもガソリン購入制限

    https://www.nefterynok.info/novosti/nestacha-palnogo-v-rosii-pogirshutsya-u-moskvi-pochali-obmejuvati-prodaji-na-azs 制限とはいってもガソリンで60Lまでなので、普段使いにそこまで困るとは思えません。ただ、モスクワにまで波及しているってことは、地方は推して知るべしです。 なお、日本のナフサなんかと同じで、パニック買いが起きている模様。あんたら産油国だろうに。
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    ロシア精神史⑯(戦争分析編その4)

     今回は大祖国戦争(独ソ戦)と冬戦争(フィンランド侵攻)です。  来てしまいましたね。語るのが怖いよ・・・。(書き終わった後で読み直すのすら怖い)  大祖国戦争の方は本当に悲惨を極めているというか、多分20世紀最悪の戦争(すなわち人類史上最悪の戦争)と言っていいものでして、今さら私ごときが説明するまでもないと思っております。なので、そんなもん知ってるよって方は、いっそスキップして冬戦争まで飛んじゃって下さいませ。ホラーですから。  さて、この戦争はドイツのバルバロッサ作戦で開始されたものですが、スターリンは開戦直前に(KGBから)「ドイツ軍が侵攻準備を整えている」と何度も警告されていました。しかし、彼は自身がヒトラーと結んだ『独ソ不可侵条約』の方を信じ、この警告を放置したため、開戦直後にから兵士数百万人が捕虜となります。  大事なのことなのでもう一度書きます。開戦と同時に兵士数百万人が捕虜です。  もうひとつ忘れてはならないのが、1937年から始まっていた『大・粛・清♡』でした。スターリンは優秀な軍人が自分の地位を脅かすことを恐れ、彼らを次々と処刑してしまっていたのです。戦争開始時点で既に、ソ連軍には優秀な指揮官などいなかった(それどころかむしろ、優秀な指揮官から優先的に殺されていた)わけですね。この点が、優秀な指揮官が辛うじて残されていた祖国戦争との違いと言っていいでしょう。  こうしてまともな指揮官のいない軍に出された究極の命令が、1942年7月の国防人民委員指令第227号、通称「一歩も下がるな」指令です。この指令に基づき、現場では『督戦隊』が組織され、後退しようとした味方を背後から射殺するという、異常な組織が出来上がりました。この『督戦隊』文化は、もちろん現在まで引き継がれています。さすがとしか言いようがありません。  実際、大祖国戦争の成果がいかに誇れないものであったかについては、スターリン自身が証明してくれています。何しろ、戦争終了からわずか2年、すなわち1947年には戦勝記念日を祝日から外してますから。  これはスターリンが、国民の間で軍を過大評価する動きが出てくることを嫌ったからとされていますが、裏返すとスターリンが自分自身の力で国家を勝利に導いたわけではないと自覚していたことの告白でもあります。実際、この時ソ連に勝利をもたらしたものは、膨大すぎる一般国民の命でしたからね。ロシア軍に対しては、クリミア戦争時代から「兵士は畑でとれる」という超絶ブラックジョークが存在するのですが、その指摘がただのジョークなどではなく、むしろ事実の摘示であったことを、これほどまでに証明してしまった戦争はありません。この戦争の本質は、「スターリンの超超特大失態を、国土の炎上と国民の命で帳消しにした」ことなのです。  ここも大事なのでもう一度書きますね。この戦争の本質は「スターリンの大失態を、国土の炎上と国民の命で帳消しにした」ことです。  ちょろっと調べて出てくる程度の数字で恐縮ですが(独ソ戦は闇が深すぎて、専門家でも正確な数字を出せないのです)、そのことを数字で確認しておきましょう。たとえば双方の被害者数は以下の通りです。 ドイツ側・・・軍人300万~400万人/民間人200万~300万人 ソ連側・・・軍人1400万~1500万人/民間人700万~1500万人  桁がひとつ違うんですが・・・。これ、数字だけ見せられてどっちが戦勝国ですかと問われたら、当然ドイツだと思っちゃいますよね。でも、これで正しい数字なんですよ。ええ。すなわち、スターリンが真に恐れたのは、2000万人を軽く超える被害者遺族たちの結託なのです。勝因が国民に正しく理解されることを、彼は何より恐れたのですね。ゆえに、彼はその記憶を封じ込めようとした。  逆に言うと、戦勝記念日に対する政府の祝賀ムードは、時代を追うごとに高まっていくことになります。すなわち、祝賀ムードは犠牲者が(寿命などで)減ってゆき、戦争の記憶が薄らぐのと反比例して高まっていったのです。それは時代が経つにつれて、プロパガンダに利用されやすくなったということ。それでもなお、国家の威信をかけた軍事パレードが開催されるようになったのはプーチン時代に入ってからのことであり、それまでは「退役軍人を称える日」程度の祝い方に留まっていました。それくらいこの日は、国民にとって傷が深い日でもあったわけです。(以前、コメント欄に《焦土作戦という身を切る辛さを『勝利』(と呼べるかは知らん)という『言葉』によって上書きした。》と頂いているのですが、戦勝記念日に対するこうした扱いの変化を見ると、このご指摘は正しいように思います)  というわけで、こんな戦術を遂行しなければ軍を勝たせられない指導者たちが、優秀な軍略家であったかと言えば、断じてそんなことはないわけでして。ここでおさえておいて頂きたい事実はただひとつ。ロシア軍の本質は(前回説明した)1800年頃と何一つ変わっていなかった。進化したのは武器だけで、独裁者(皇帝)の無能を土地と人命で埋め合わせるという戦術自体は、150年近く経っても進化していなかった。それだけです。(配下の指揮官が有能だった分・・・すなわち大粛清がなかった分・・・祖国戦争の方がマシな結果に終わってるとか、アレクサンドル1世は聖戦論だったけど、共産主義者のスターリンは宗教とは無縁だったとか、違いといえばそんなもんです)  それでは今回のメイン、ロシア上層部の戦争下手っぷりがこれでもかというほど露呈した、冬戦争の方を見ていきましょう。ええ、大祖国戦争以上に悲惨なんですよ、こっち。理由は簡単。防衛戦より格段に難易度の高い侵略戦争だったからです。なお、こちらも1939年の戦争ですので、スターリンの大粛清による影響などは完全に共通していることを、先にお断りしておきます。  まずは国力比較から。当時のフィンランドは国民370万人。対するソ連は1億7千万人です。えっと・・・50倍くらい違いますね。なんでこれで負けられるんだよ?(困惑)  次は被害者数比較。 フィンランド軍・・・死者25000人/負傷者43000人 ソ連軍・・・死者最低12万人から25万人以上とも言われる/負傷者264000人から60万人  ソ連軍の投入した兵数は45万人+α、戦車2380両+α、航空機は670機+αにも上ります。対するフィンランドは兵士16万~30万人、戦車30両、航空機130機。具体的な数字にはブレがありますので、『兵士3~4倍/戦車100倍/航空機5倍』とおさえておいて下さい。  この圧倒的な数的優位と装備的優位を得て、かつここまでの犠牲(キルレシオ約1:5という特大の軍事的非効率)を出しても、フィンランドの主権を奪うことはできずじまい。現在のフィンランドがどれほどロシアを嫌悪しているか見てしまえば、多少の領土を奪った程度では、軍事作戦が成功したとは到底評価できないわけです。ちなみに国際連盟からも追放されました。最終的にはモスクワ講和条約によって、フィンランドの領土1割がソ連に割譲されたので、形式的にはソ連の勝利となっていますが、内容的には圧・倒・的・敗・北でしょう。  なんでこんなことになったのか。本質的な理由は大祖国戦争とまっっったく同じです。すなわち、初手の失敗を兵士の命で埋めようとしたこと。違いと言えば、大祖国戦争ではドイツに先制攻撃を許したことが初手の失敗でしたが、冬戦争は侵略戦争ですから、初手はソ連が握っていたわけでしてね。つまり、戦争の構想段階で既に致命的な欠陥を抱えていたことになります。実際、作戦の立案が完全に机上の空論で、失敗したときのことを一切想定しておらず、装備も補給もいい加減・・・いえ、デタラメでした。  そもそも、開戦方法からして頭がおかしいです。フィンランドは言語体系が明確に違うことからも明らかなように、ルーシ(スラヴ語族)でありませんので、《ルーシ保護理論》が使えません。そこで自軍に砲撃加えて兵士を殺害し、これをフィンランドのせいだと言い張って侵攻を開始したんですよ。(1999年のモスクワでも同じような光景を目にした気がするのは気のせいだと思いたい)  戦闘開始のタイミングも最悪でした。1939年11月30日という北欧の冬。開戦からわずか5日後の12月5日、フィンランドの待ち望んだ雪が降ります。この日まで、戦術的撤退を繰り返し交戦を徹底的に避けていたフィンランド軍は、ここから白い迷彩服・白い迷彩塗装装備にスキーを駆使して、ヒット&アウェイに出るんですね。対するソ連軍は、季節も地形も考えず人海戦術で突撃しました。そして当然のように、(自分たちも冬の厳しさは知っているはずなのに)マイナス45℃にも達する寒さのせいで戦車も銃も役立たずに。  ソ連はこの戦争を、(これまたどこかで見た光景ですが)数日で終わらせられると踏んでいたんです。そのため、極寒の地であったにもかかわらず、防寒対策も補給も軽視していたんですね。ゆえに、地獄が始まります。  フィンランド国境は針葉樹森の雪原でして、通れる場所なんてごく限られている。そこに、雪原をまともに走行できないような、迷彩塗装もされてない戦車で突っ込んで、車列が一列に伸びきったところで横から待ち伏せくらったり、ダメになった戦車から逃げ出した兵士達が森の中で迷った挙げ句、迷彩服のフィンランド兵に殺されたり、そうならなくても凍死したり。結果、わずか350人のフィンランド兵が、ソ連軍20000人を足止めしたなんて戦歴が残されていたりします。  なぜこんな戦い方をしてしまうのか。理由は中央集権的な軍隊構造です。現場の判断で動くことが許されず、言われた通りの戦い方をするしかできない。なのに、その指示を出す当の指揮官(将軍クラス)は安全な後方に控えているだけで、雪景色など見てもいない。おまけに、大粛清が吹き荒れた直後で、その指揮官たちは無能揃い。結果として、有効な打開策など出てくるはずもなく「戦車で突撃して数で制圧すればいいじゃないか」という机上の空論を繰り返すんです。フィンランド軍の指揮官はマンネルハイムという超有能な英雄でしたが、こういうところが決定的に違うんですよ。  ちなみに、白い死神として有名なシモ・ヘイヘはコッラー川の戦いで大活躍したスナイパーですが、このときの戦力差はフィンランド軍5000に対してソ連軍は20000~40000とされます(資料でバラツキがあります)。シモ・ヘイヘの部隊に至っては、わずか32人で4000人のソ連兵を相手にしなければならなかったのですが、終戦の日まで陣地の丘を守り抜きました。戦争が終わった時、彼が倒した兵数は500を軽く超えており、このキルレシオは世界記録となっています。結局ソ連兵は、最後まで人海戦術で突撃を繰り返す以外の戦術を持っていなかったんです。(あれ、やっぱりどこかで見た光景だぞ?)  といったところで、そろそろお気づき頂けたでしょうか。ロシアの指揮官って、いつの時代もまったく同じ行為を繰り返しているということに。これについてはいずれまとめますが、ここらで一度考えてみて頂けると、ロシア軍が抱える病理をより深く理解する助けになるのではないかと思います。  次回からはカテゴリーD(大・敗・北)「クリミア戦争、日露戦争、第一次世界大戦、アフガニスタン侵攻」をお届けします。  つづく
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    ロシアがベラルーシの石油に依存している話

    https://www.kommersant.ru/doc/8690707 先日、コメント欄にちょろっと書いたのですが、数字が出てきましたので一応ご紹介しておきます。ロシアは現在、産油国であるにも関わらず、国内で使用するガソリン供給すらできておらず、ベラルーシに頼っているというお話。実際、ロシアのガソリン不足は既にモスクワ以外のあらゆる地域で確認されていますが(サンクトペテルブルクで発生している時点でお察し)、一番ひどいのはクリミアです。 なお、そのクリミアではガソリンが月20Lまでしか購入できないよう制限がかけられており、それでもガソリンスタンドは販売停止に追い込まれたりしているようです。 https://news.yahoo.co.jp/articles/b77de8a84907834795ab006faff84325844ebe7b
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  • 6日前

    ロシア精神史⑮(戦争分析編その3)

     今回から見ていくのはカテゴリーC。「国が壊れるほどの犠牲を払ってようやく勝利した戦争・実質的には敗北した戦争」に分類される戦争です。対象となるのは、第一次チェチェン紛争、祖国戦争、大祖国戦争、冬戦争の4つですが、第一次チェチェン紛争(実質的に敗北した戦争に部類)については特に語ることもないので、ここでは残りの3つに焦点を当てたいと思います。  一応お断りしておくと、第一次チェチェン紛争も大概ひどいんですよ。「1個連隊で2時間もあれば終わる」とか豪語していたくせに、いざやってみたらゲリラ戦に引き込まれ、開戦からわずか2ヵ月で民間人を25000人も無意味に殺害し、最終的には5~10万人の民間人死者を出したとされています。そうやって、数十万人規模の難民を生み出した挙げ句、結局(チェチェン独立派の壊滅という)目的は果たせず痛み分けに終わっちゃいました・・・みたいなひどい戦争だったんです。見通しの甘さ、戦闘プロセス、政治的対応、すべてにおいてダメダメであることは明らかです。形式的に見れば引き分けですが、国力や軍隊規模、国家の威信に対する傷を考えたら、実質的な敗北でしょう。ただ、こんなのですら他の3つに比べれば断然マシに見えてしまう(なのに形式的にはどれひとつとして『敗戦』には分類されない)というですね。どうなってるんだ、この国の戦争?  さて、カテゴリーCのうち残り3つについて、先に分類しておきましょう。言うまでもありませんが、祖国戦争と大祖国戦争が防衛戦争、冬戦争は侵略戦争となります。防衛と侵略では戦い方が変わってきますので、以下ではこの順番(防衛→侵略)で見ていきます。  防衛戦争となった祖国戦争と大祖国戦争では、どちらも「焦土作戦」という常軌を逸した戦術で勝利したことは有名だと思います。この特異性を理解するためにも、まず最初に「ロシアの焦土作戦」が「他の焦土作戦」とどう違うのかを見ておきましょう。  焦土作戦自体は歴史的に見れば何十回か確認されており、そこまで珍しいものではありません。特に、一度交戦した後で軍を立て直すために「戦略的撤退」を選んだ場合、敵にとって利用価値のあるものを陣地に残すことは、むしろ論外です。橋を落として追撃を防ぐなんてのは、その典型。そういう意味での「焦土作戦」はむしろ合理的と呼ぶべき戦術であって、事例も数多く確認されています。  他にも、この戦術が合理的と言えるケースがあります。作戦の舞台が自国でない場合です。実際、焦土作戦と呼ばれるものの何割かは帝国時代のイギリスやフランスが植民地で行ったものであり、あるいはアメリカ軍がインディアンの土地を奪う目的で行ったものであり、南北戦争時代の北軍が南軍の地で行ったものなのでして・・・逆に、これらの国であろうとも、自国の地でやった事例ってのは極めて少ないはずなんです。私自身、焦土作戦の専門家ではないので、間違っていたらごめんなさいなのですが、欧米系の国だとスペイン・イギリス・ポルトガル連合軍が、マドリードでナポレオン軍相手にやっているのが、ほぼ唯一の事例だと思われます。あとは日中戦争中に国民党軍が「堅壁清野」という方針を掲げ、黄河決壊事件と長沙大火というふたつの大規模作戦を実行しているのが目立ちますかね。  ところが、ロシアの軍事思想においては、この戦術こそが防衛の「究極の切札」と位置づけられているんですね。戦略的撤退の中でやむなく用いられる戦術ではなく、戦略的撤退それ自体が焦土作戦ありきで組み立てられている。他国領だから採れる作戦というわけでもなく、むしろ自国の大都市であっても躊躇なくやってしまう。ここが非常に特殊なんです。実際、あまり知られてませんが、日露戦争でもこの思想が見え隠れしていたくらいでしてね(連載18回目で少しだけ触れます)。  なぜこんな作戦を、防衛思想の中核に据えることができるのか。ひとつには、ロシアという国の広さと場所です。広大な土地があるので、多少燃えても構わない(これは中国の「堅壁清野」も同じ感覚だったと思われます)。また、極寒の地で補給を断たれた敵に与える破壊力が、他に類を見ない。そしてもうひとつの理由が・・・これは私の勝手な思い込みであると自白しておきますが・・・ロシア軍のもつ特殊すぎる精神性です。緩衝地帯など自分たちを守る盾でしかないという歪んだ世界観により、その土地に住む人の命や街それ自体すらも、使い捨ての消耗品に見えているとしか思えません。すなわち、ロシアという国の土地柄と精神性が、焦土作戦という自爆戦術と恐ろしく相性がいい。  そして、ロシア自身がそのことに気づいてしまった戦争こそが、今回採り上げる祖国戦争と言えるでしょう。それが彼らにとって、果たして幸せだったのか不幸だったのか。以下ではこのような戦術を獲得するに至った経緯を、順を追って見ていきましょう。まずは数字から。 フランス側・・・死者38万人 ロシア側・・・死者21万人  キルレシオ2:1。これこそが「ロシア流焦土作戦」の威力です。これだけ見ればロシア軍の圧勝なんですが・・・この戦争はそんな簡単じゃないんですね。  まず、この戦争を指揮していた両軍指揮官ですが、フランス軍は言わずもがなのナポレオン。対するロシア軍は当初こそ皇帝アレクサンドル1世でしたが、途中で職業軍人にその立場を譲ることになります。(以下に詳述)  アレクサンドル1世はナポレオンの存在を襲位当初から強く危険視していた皇帝でして、1801年3月に帝位を継ぐとすぐにイギリスと同盟。更には神聖ローマ皇帝(1804年にはオーストリア皇帝に移行したのでややこしいですが、要するにハプスブルク家当主)と同盟。プロイセンとも同盟。これらはいずれも、ナポレオンに対抗するためのものでした。  こうした外交の数々は、1805年に第三次対仏大同盟として結実します。アレクサンドル1世によるナポレオン包囲網が完成した瞬間でした。そしてこの年の12月、有名な三帝会戦(アウステルリッツの戦い)で両軍が戦うことになるわけです。(三帝会戦とはフランス皇帝・ロシア皇帝・オーストリア皇帝が一堂に会した戦争という意味です。念のため)  長くなるので解説は控えますが、この戦いでナポレオンは「戦術の傑作」とすら称される天才的な用兵を見せ、快勝。このときの損害は、フランス軍8500に対し、露墺連合軍35000。キルレシオは1:4以上にも上りました。この戦いで何より問題だったのは、ロシア軍の歩兵大将であったクトゥーゾフが決戦回避を進言していたにも関わらず、アレクサンドル1世は勝てると踏んで決戦を挑んでしまったこと。この敗戦でショックを受けたアレクサンドル1世は、以後自ら陣頭指揮を執ることを避けるようになります。  つづく1807年には、アイラウの戦いでフランスとプロイセン・ロシア連合軍が再び衝突。結果は一応フランスの勝利(ほぼ引き分け)。同じ年に、今度はフリーラントの戦いでフランスとロシアが衝突。結果はフランスの圧勝(死者10000人:20000人程度で、ロシア軍は兵士の40%を失ったとされる)。職業軍人に委ねても、やっぱりフランスの方が強かった。こうした流れで7月に締結されたのがティルジット条約です。アレクサンドル1世は、対仏大同盟を主導したにも関わらず、フランスと講和し協力関係を築かねばならなくなったわけですね。(そのため、このティルジット条約は、ロシア国内で強い批判を浴びることになります)  というわけで、1812年の祖国戦争に至る直前、ロシア軍はフランス軍にボッコボコに負かされ続けて来たんですよ。というか、一度として勝てたことなどなかった。どこからどう見ても・・・「用兵」「戦術」「軍略」「組織」「士気」といったあらゆる観点において、ロシアがフランスを上回っていた点は何一つありませんでした。その中でも最大の敗戦は何であったかと言えば、それは文句なしに三帝会戦だったのであり、その将はアレクサンドル1世自身だったのです。言い換えるなら、ロシア軍とフランス軍の最大の差は、頂点に立つ二人(アレクサンドル1世という愚将と、ナポレオンいう歴史に名を残す天才)の力量にこそありました。この連載の趣旨ですので改めて強調しておきますが、ロシア皇帝は全員が全員、戦争下手なんです。  こうして迎えた1812年、ロシアがフランスの発令した大陸封鎖令(イギリス貿易品の禁輸命令)を守らずイギリスからの輸入を続けたことを理由に、フランス軍はロシア国境のネマン川を渡ります。そして、まともに戦っては勝てないことを理解していたロシア軍は、ここである決断を下すことになるわけです。それこそが「焦土作戦」の採用。この作戦を立案・遂行した総司令官は、皇帝アレクサンドル1世ではなく(←ここ大事)、歩兵大将のバルクライ・ド・トーリ(以下バルクライ)でした。  先にも述べましたが、軍隊が撤退するに当たり、敵に利用価値のあるものを残さないことは、戦争においては基本となる重要思想です。いわゆる通常の戦略的撤退ですね。しかし、バルクライが構想していた作戦は、そんな生やさしいものではありませんでした。彼は「そもそもフランス軍とは戦わない」という方針の下に、作戦を立案したのです。  実際、当時のロシアにとってはこれこそが最善の防衛策だったでしょう。直接戦闘で勝てないことがもう判明している以上、これしか残ってないんですよ。ただ、万が一にもナポレオンがその狙いに気づいて、あと2~3週間早くヨーロッパに引き返していたら、ロシアに残ったのは莫大な損害だけというギャンブルでもありました。加えて、このギャンブルの参加費用は首都モスクワの炎上という、「国が壊れるほどの犠牲」なのです。このおそろしい痛みを伴う起死回生の一撃を狙わないと、もう勝機すらなくなっていたのがこの戦争だったんですね。  それでも、ロシアはこのギャンブルに勝ちました。ロシアにとって運が良かったのは、バルクライとクトゥーゾフという二人の有能な将が、この作戦の遂行に当たったことです。  というのは、バルクライの行った焦土作戦は、軍の主力を温存する正しいものでしたが、これに対して消極的すぎる、もっと戦えという声があちこちから上がったんですね。実際、スモレンスクの戦いなどでは、彼はフランス軍を攻撃することに無理矢理同意させられてしまいます。結果、この戦闘では(焦土作戦ではなく)フランスの砲撃によって街が壊滅してしまいました。1812年戦役でも最も血なまぐさい戦闘のひとつとされます。おまけに、バルクライのこうした努力は周囲から認められることはなく、彼はこの戦いの直後に解任されてしまいました。有能な将校の足を、周囲が引っ張った形です。  ロシアの内部はこんな体たらくでしたので、ロシア軍の命運はここで尽きていてもおかしくなかったんですよ。ただ、その後任となったクトゥーゾフ(三帝会戦で決戦回避を進言した人)もまた超有能だったんです。彼はバルクライの戦い方が消極的すぎるから、もっと積極的に戦えと言われていたにも関わらず、バルクライの正しさを理解し、その戦術をきちんと引き継ぎました。それでもモスクワ直前のボロジノでは(宮廷、軍隊内部、ロシア国民からの突き上げで)決戦を強いられ、両軍共に4万人近い死者を出す痛み分けとなっていますので・・・ほんと優秀な将校の足を引っ張るのが好きなお国柄。そして、この痛み分けの後に、彼はモスクワ炎上作戦を申し出るのです。この時の説得「С потерей Москвы не потеряна ещё Россия. Главнейшею задачею поставляю сберечь армию.(モスクワを失ってもロシアを失うわけではない。私の最優先目標は軍隊を維持することである=軍を失えば国が滅びる)」は、彼が戦争の意味と目的を正しく理解していた証と言えるでしょう。  というわけで、ロシアが「国が滅びるほどの犠牲=首都炎上」を受け入れる道を選び、何とか祖国戦争に勝てたのは、バルクライとクトゥーゾフという二人の名将の力であったと断言します。彼らは「国が滅びること」と「国が滅びるほどの犠牲」に明確な線を引き、国が耐えられるギリギリのラインで作戦を決行したのです。そしてこの選択は、後世のロシア人に強い愛国心と宗教的信仰心を根付かせました。  これは断じて皇帝の力でありません。というか、アレクサンドル1世なんかに陣頭指揮を任せていたら、決戦挑んで敗戦を重ねていただけですからね。三帝会戦でボロ負けしたのに、バルクライにもクトゥーゾフにも無理な決戦を挑ませ犠牲を拡大した時点で、指揮官としては無能以外の何者でもありません。  以上、ロシア軍に「防衛=焦土作戦」の遺伝子が刻み込まれた瞬間のロシア情勢でした。  あ、そうそう。前回の最後でも触れた戦争美化について少し。  ロシア国内では、この焦土作戦に対し「焦土作戦と呼ぶな」論があります。「祖国防衛」「聖戦」などと呼ぶことは認められても、戦いもせず自ら街に火を放って敵の補給を断ち切ったなどという自爆戦術は、彼らの精神的に認めがたいのでしょう。あくまで「戦って勝った」ってことにしたいみたいです。歴史的には、これほど極端で典型的な焦土作戦もないんですけどね。これは祖国戦争にも大祖国戦争にも共通しています。(でも、少なくとも日本だと、焦土作戦=モスクワ炎上&独ソ戦でイメージが固まっていると思う)  また、この戦争を主導したアレクサンドル1世の戦争美化傾向は際立っており、彼はナポレオンがいなくなった後のヨーロッパ秩序を決定するウィーン会議で「自分はヨーロッパの救世主である」的振る舞いをぶちかましてしまいます。一応は、最強だったフランスを撃破した彼が、ヨーロッパ最強ってことになってましたからね。  で、そんな彼が提唱したのが「神聖同盟」構想なのでして、まあ要するに「これからのヨーロッパはキリスト教国同士、キリスト教の精神で統治していきましょう」って考え方でした。11世紀の大シスマとか踏まえてこんなこと言ってたのか、正気を疑う発想です(ローマ・カトリックと正教会は11世紀に相互破門し合った間柄)。当然、現実派の列強首脳はこんなものに頼ることなく、四国同盟(イギリス・プロイセン・オーストリア・ロシア)を別枠で結びます。これには後にフランスも加わり、五国同盟となりました。こちらを主導したのはイギリス外相のカススルーでして、イギリスには神聖同盟など役立たずだということを、最初から見透かされていたんですね。実際、アレクサンドル1世の宗教的姿勢は列強からかなり嫌われており、裏では嘲笑されるか、あるいはロシアが覇権を確立するための画策に過ぎないと警戒されまくっていました。  え~・・・このまま大祖国戦争と冬戦争もまとめるつもりだったのですが、長くなりすぎたので分割します。すみません。ちなみに、この両者は今回の祖国戦争(首都炎上)とは比較にならないくらい悲惨です。だから笑えないんだってばよ。  底だと思ったら実は上げ底でした的絶望感・・・ つづく (おまけ) 普通の戦争では、首都陥落は敗戦を意味します。首都が陥落しても、なお勝利できた戦争は多くありません。そのひとつはここに書いた祖国戦争なわけですが、他にも同様の焦土作戦で勝利した事例があります。 本文最初の方に書いた「スペイン・イギリス・ポルトガル連合軍が、マドリードでナポレオン軍相手にやっている」のはまさにその例。この戦争を半島戦争といいます。ナポレオンは1808年12月にマドリードを陥落させましたが、その後はゲリラ戦に引き込まれ、結局1814年に敗戦しました。逆に言えば、当時はヨーロッパ列強であっても、焦土作戦くらいしかフランス軍に対抗できる有効な戦術がなかったことの裏返しです。 他には、モンゴル軍(元軍)相手に、陳朝ヴェトナムが焦土作戦で首都を燃やした戦いもありますね。この首都は当時の名前で昇龍、現在はハノイです。1288年の白藤江の戦いなどが有名。こちらは亜熱帯での焦土作戦となりましたが、食糧の腐敗や疫病などで深刻な影響をもたらしたようです。 これらと並べてみると、祖国戦争はカテゴリーAでもよかったのではないかという気もしてきますよね。形だけ見れば、立派な戦勝です。しかし、ロシア戦争史でお伝えしたいことは、あくまで最高指導者の戦争下手っぷりでございますので・・・その視点ではやっぱりCでいいかなと。 もし、まかり間違ってアレクサンドル1世が三帝会戦で善戦しちゃってたりしたら、どうなっていたか想像してみて下さい。間違いなく焦土作戦ではなく、本土決戦を挑んで負けてます。ロシアにとって最高の幸運とは、アレクサンドル1世が三帝会戦でボッコボコにされたお陰で、最も大事な戦いの時には一線を退いていたことだったのですよ。 ま、それがナポレオンに勝利した途端、パリ入城とかで再び軍を率いるようになった(1813年~1814年)のですから、現金なものです。本人は至って真面目に「ヨーロッパの救世主」を気取ってましたが、傍から見ればただの勘違い野郎ですからね。逆に言うと、こういう無能なトップが最後まで居座り続けてしまったのが、次回の大祖国戦争や冬戦争、更にその次で語るカテゴリーD群だったりするので、その戦争が国に与えた被害は比較にならないわけですよ。 ここまで書いてきて、それなら戦果別カテゴリーにするのではなく、トップの無能度でカテゴリー分けしてもよかったなと思ってしまいました。ま、それも連載中にまとめようと思います。
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  • 6月3日

    ロシア精神史⑭(戦争分析編その2)

     今回見ていくのは、カテゴリーBの第二次チェチェン紛争とクリミア併合です。これらは国際社会から支持されなかった戦争(すなわち、戦略的に勝利と呼べるか甚だ疑問符)に分類されます。  第二次チェチェン紛争は、1999年のモスクワ高層アパート連続爆破事件で、犯人をチェチェン独立派勢力だと決めつけたところから始まった紛争です。時代的にはエリツィン政権末期ですが、当時既に首相となり後継者の立場を固めていたプーチンが、実質的な最高指揮官となります。  この事件が自作自演を疑われているのは以前書いた通り。一応軍事的にはロシアが勝利を収めましたが、決着がついたのはなんと2009年。国土のわずか0.1%の地域に10年も時間をかけ、民間人を多数犠牲にしたため、国際社会からは著しく孤立を深めていった時期でもありました。ビル・クリントンから「重い代償を払う」と言われ、息子ブッシュには「限度を超えた」と言われ、イギリス外相からは「ジェノサイド」と言われましたね。ただし、この時点ではまだ経済制裁などは科されませんでした。「チェチェン独立派はテロ組織」というプーチンの主張が一定程度配慮された(モスクワ高層アパート連続爆破事件の自作自演が今ほど疑われていなかった)ためですが、こうした国際社会の黙認(口先だけの対応)姿勢がロシアに成功体験を与え、調子づかせてしまった面は否めません。それでも、この虐殺行為への不満は着実に蓄積されており、次のクリミア併合で一気に噴出することになります。明確な事実的因果関係は示されておらずとも、欧米の心理的限界値を突破させてしまう底上げ(ようするに「またやりやがった」という感情を生み出すキッカケ)という意味では、確実に寄与していたでしょう。  というわけで、この観点では2014年のクリミア併合が大きな転換点となります。国際社会が「黙認」から「行動」へとフェーズをシフトさせたからです。  この侵攻が「クリミア・コンセンサス」を生み出し、プーチンの支持率を爆発的に押し上げたことは以前にも書きました。また、武力行使の進め方や出口戦略といった点では、侵攻前の予定通り進んだと思われますので、少なくとも国内向けには大成功だったんです。しかし、そのやり口は国際社会からの一層の孤立を招くこととなり、資産凍結・禁輸・輸出入制限などの経済制裁が発動されることとなりました。これは10年以上経った現在でもなお継続中です。加えて、現在ではクリミアを維持する理由(黒海艦隊による黒海の制圧やNATOへの圧力)が完全に失われてしまい、それにも関わらず膨大な量の防衛資産を費やさねば空爆に耐えられない地域と化してしまっているため、維持コストがとんでもないことに。結果から見ると、長期的利益という点では疑問視せざるを得ない戦略であり、当初の予定通りに進んでなおこうなってしまったということは、戦争の設計それ自体に無理があったのではないかと思われます。この意味で、確かに勝利ではあるけれど、そもそもその勝利自体が(現代的な戦争の意義に照らして)無価値だったのではないかと思われてしまうのが、このクリミア併合ですね。『戦争に勝って政治で負けた』の教科書事例にすらなりかねない。もっとも、この戦争の評価はあと20年くらい後になってみないとわからない部分があると思います。  以上、カテゴリーA・Bでは、「ロシア過去200年の歴史で、最大級の成功はコレだ!」って感じの四つの事例について見てきました。これを素晴しい戦果だと称えるか、ショボすぎねーかと呆れるか、あるいはこの先読むのが怖くなってくるかは、すべてあなた次第です。  いえ、本当に手放しで称えられるような鮮やかな勝利があればそういうお話もさせて頂くんですが・・・ないんですよ。どこにも。この間何十回と戦争しているのに、この四つがピークなんです。でまあ、そんな数少ない戦勝体験から生み出された成功物語が《ルーシ保護理論》であることもおわかり頂けたかと思います。いつまで150年前の理論に縋り付いているつもりなのかという気もしますが、他にないんでしょう。また、この国では伝統的に武力行使へのハードルが異様に低いことや、周辺国からどのように思われるかをあまり考えていないことも、読み取って頂けたかと思います。  中でも個人的に特筆すべきだと思うのは、「戦争は交渉手段である」「目的を達成できなければ、たとえ軍事的勝利を上げても政治的勝利とは呼べない」と考える近代戦争論的な観点がなく、むしろ戦争を力の誇示や己の美化に用いる傾向があるということです。戦争を交渉手段であると考える国であれば、相手国民への攻撃を可能な限り避けて禍根を残さないことが重視されます。しかし、ロシアの戦争には「従わないなら殺せばいい」「俺様の強さを誇示できればいい」みたいな残虐な価値観を感じるんですよね。そのくせ、勝利を美化して己を正当化することには余念がない。実際、民間人を多数巻き込む戦い方しかやっていないにも関わらず、宗教観や民族的勝利の物語によってこれらを正当化しようとするその様は、どこか十字軍的時代錯誤を感じさせます。  まあ、その辺はこの先の戦争史を見ながら、随時「そういえばあの戦争でも似たような話があったな」と思い出して頂ければ幸いです。 つづく
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  • 6月2日

    ロシア防空vsウクライナドローン

    https://x.com/1usc_army/status/2060274485056389336 (上段はBGMあり、下段はBGMなし。下段がお勧め) 場所はノヴォロシスク港。以前もお伝えしましたが、クリミアのセヴァストポリを追い出されて避難した先の港です(そのときは潜水艦が水上ドローンで攻撃されました)。この東には、やはり石油基地が直撃を受けたトゥアプセ港くらいしかありません。つまり、黒海艦隊にはもう逃げ場がありません。(この話、ちょうどこの直前に投稿した『戦争分析編その1』で、まったく同じことを指摘していたのでいいタイミングでした) 直撃を受けたのは黒海艦隊のフリゲート艦『アドミラル・エッセン』(frigate Admiral Essen)。この艦が狙われた理由は、カリブル巡航ミサイルの発射母艦として使われていたからでしょう。 なお、同じ映像はあちこちで拡散されてますが(ニコニコ動画にもあったのは笑いました)、ここでご紹介したものが画面左下のロゴ主(https://x.com/Exilenova_plus)からの直結になりますので、おそらくこれがオリジナルです。ウクライナ戦争の情報収集グループであり、ウクライナ軍から直接の情報提供も受けているものと思われます。
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  • 6月2日

    ロシア精神史⑬(戦争分析編その1)

     今回から戦争分析本編に入ります。分析のカテゴリー分けや順番については、予告編で書いておきましたので、そちらをご参照下さい。  まずはカテゴリーAから。ロシアがまともに勝利できた戦争として、露土戦争とジョージア戦争を挙げておきました。露土戦争(1877年~1878年)から見ていきましょう。  露土戦争(ロシア・トルコ戦争)の歴史は滅茶苦茶古く、それこそロシアという国がシベリア進出を開始したイヴァン4世の時代には、もう最初の戦争(1568年~1570年)が記録されています。1670年以降は本当に絶えることなく戦争を続けており、約200年の間に10回以上の戦争と条約締結を繰り返しているほどなんですよ。たとえば、有名なクリミア戦争(1853年~1856年)も露土戦争の一種なのですが、それは別枠で扱うとして、今回見ていくのは第一次世界大戦の布石ともなってしまった1877年のものです。(一般に露土戦争と言うと、この戦争を指すことが多いです)  このときのロシアの参戦目的は、もちろん不凍港の獲得でした。ロシアと言えば不凍港。これは常識。裏返せば、不凍港を獲得したロシアは周辺国の大きな脅威となることが、広く認識されていたわけです。当然、そんな野望を表立って晒してしまうと各国の反発を食らうのは目に見えていたので、彼らは「正教徒支援」や「汎スラヴ主義」を掲げ、セルビアの独立支援などを口実として侵攻を開始しました。  この露土戦争は、ロシア・ルーマニア・ブルガリア・セルビア・モンテネグロの連合軍とオスマン帝国の戦争でした。双方の被害者数も約10万人同士で拮抗しており、数字的には一方的勝利と言える内容ではありません。  実はこのときのオスマン帝国は、「ロシアの戦争下手」とはまた違う・・・しかし本質的には似たような・・・理由によって同程度に戦争下手でした。すなわち、軍隊それ自体が特権階級化して政治参加し始め、既得権益の確保に奔走し、戦闘意欲をどんどん失っていったんです(『イェニチェリの腐敗』などで調べればすぐ出てきますので、詳述は控えます)。戦争分析編のメインテーマでもあるので簡単に触れておきますが、権威主義国家における軍隊とは本質的に権力構造維持のための暴力装置であり、それゆえに様々な制約を抱えています。これが戦争下手の根源にあるという点では、両国共通なんです。ただ、ロシアはこの直前に戦ったクリミア戦争(1853年~1856年)で、近代化の遅れを痛感してからちょうど20年が経過した、言わば多少の改善が見られた時期であり、権威主義国家同士の軍隊という括りで見れば、まだオスマン帝国よりはマシだったんですよね。  逆に、この頃のオスマン帝国は、帝国の末期とも言える時期に差し掛かってまして・・・17世紀末には第二次ウィーン包囲(1683年)の失敗とカルロヴィッツ条約(1698年)でハンガリーを失ったというのに危機感が生まれず、18世紀前半(1718年~1730年)には国土喪失の和平で得た「チューリップ時代」と呼ばれる平和ボケ時代を迎えて、貴族達は皆チューリップの栽培と観賞に夢中になりました。その後も近代化が進むことはなく、その半世紀後(1787年~1791年)にはエカチェリーナ2世に戦争を仕掛けられてクリミアを失い(日本だと第二次露土戦争とか呼びます)、ナポレオンにはエジプトを占領され、1821年からの戦争ではついにギリシアの独立まで許すことに。1839年になって、ようやく近代化(タンジマート)に着手しますが、すべてにおいて手遅れでした。ちなみに、露土戦争直前の1876年には、近代化を推進しようとしたミドハド憲法の制定などがなされましたが、これは露土戦争の開始と同時に非常事態条項によって無効化され、スルタン独裁体制が継続することなります。  というわけで、露土戦争当時のオスマン帝国がどれほどのものだったかは推して知るべし。こんなのに勝ったところで、さほど誇れる話ではありません。ぶっちゃけ、どっちもどっちというか、現代目線で言えば、まともに近代化できていなかった軍隊同士による、旧世代国家間の抗争です。  ともあれ、オスマン帝国に勝利したロシアは1878年にサン・ステファノ条約を締結し、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立を承認しました。しかし、ブルガリアの独立だけは認めず、ロシアの保護国扱いにしたんですね。もちろん、ブルガリアには黒海に面した不凍港があったためです。  こうしてロシアは念願の不凍港を獲得した・・・ように見えたのですが、これに即座に反応したのがイギリス首相ディズレーリ。彼は地中海に艦隊を派遣し「ブルガリアを手放さなければクリミア戦争をもう一度やる」と迫ります。これこそが、軍隊を真に近代化していたイギリス(欧州列強)と旧世代国家ロシアの差。ロシアに勝ち目はなかったんです。ここでドイツの名宰相ビスマルクが登場し、その年のうちにベルリン条約をまとめ上げました。結果、ロシアはブルガリアをオスマン帝国に返還することとなり、一体何のために戦争やったのかという結果に。そして、このとき不凍港を獲得できなかったことが、後の第一次大戦への参戦動機へとつながっていきます。  既に何度か書いてますが、現代における戦争とは外交目的を達成するための交渉手段のひとつです。この理論を唱えたクラウゼヴィッツは1800年頃(ナポレオンと同時代)の人ですから、当時既にこの事実は周知でした。それどころか、彼の戦争観が広まったのは1870年頃でしたから、まさに時代の最先端理論だったんです。そして、この理論に照らしても、不凍港獲得という目的を果たせなかった以上、たとえ戦勝国であろうと「戦争に勝利した=戦争の目的を達成できた」と言うのは難しいんですね。それでも、ロシアの戦争史的に見ると、これほど「まともな」勝利は他に見当たらないレベルでの大勝利なのですよ。  というわけで、この露土戦争はロシア国内における成功体験として語り継がれます。ポイントはふたつ。ひとつは「汎スラヴ主義」だの「正教徒解放」だのといった《ルーシ保護理論》(※)を使えば侵略を正当化できると(悪い意味で)知恵をつけてしまったこと。そしてもうひとつは、ロシアでこの戦争と理論が美化されたこと。ドストエフスキーがわかりやすいのですが、彼は『作家の日記』という評論作品の中で「スラヴ系正教徒を解放・統合することこそがロシアの歴史的使命である」と説きます。この戦争を「正教徒の聖戦」とみなし、露土戦争を「神聖かつ清浄な功業」と書き綴ったんですよ。まあ要するに・・・現代ロシア人の物語は、こんなところにも根を張っていると。 ※現在ではロシア語を話す人(強制的に言語を奪って話させるように仕向けた人含む)や、ロシアと同根文化をもつ人を持つ人で構成される「ロシアの世界(ルースキー・ミール)」という世界観があり、その源流となるのがこの時代の「汎スラヴ主義」です。 ※正確にはこの直前にも、クリミア戦争(1853年~1856年)で似たような論理展開(=正教徒保護という《ルーシ保護理論》)を提唱して、侵略やら内政干渉やらを正当化しようとしているのですが、その時は思いっきり惨敗しましたので、成功体験として国民に浸透することはありませんでした。この辺はカテゴリーDで書きます。念のため。  先日、 > 文化的な積み上げがなく、伝統が借り物である国々にとっては、国民の欲求は『現在の価値基準』に大幅に依存する という鋭いコメントを頂戴しましたが、やっぱりロシアの戦争観って薄っぺらいんですね。露土戦争を成功体験として語り継ぎ、「少数民族の解放」「正教徒の解放」といった物語で侵略を正当化してしまう。後の回(多分連載15回目)で触れる予定ですが、祖国戦争に勝利した皇帝アレクサンドル1世にもそのような(聖戦論的)傾向が見られます。そして国民は、それが事実であるかどうかを確かめる術すら持っていないのに、純朴に信じているんですよ。しかも、その裏で真に重要な戦争目的が達成されたかについては評価していない。  たとえば2014年のクリミア併合でも、表向きの目的は同胞解放でしたが、真の(地政学的)目的は黒海の制圧やNATOへの威嚇にあったはずなんです。しかし、その後のウクライナ戦争で艦隊はセヴァストポリから撤退させられ、ノヴォロシスクでも攻撃に晒されてしまった時点で、もうクリミアを維持する意味なんて失われているんですよ。けど、彼らはクリミアを手放そうとしない。それが薄っぺらい勝利の記憶として刻まれているがゆえに。これは「国民自身が(時には指導者までもが)戦争とは何かを理解できていない」という残酷な現実を浮かび上がらせています。  つづいてジョージア戦争について。この戦争は2008年8月7日に開戦され、同月12日には停戦合意がなされていますので、5日間戦争などとも呼ばれる電撃戦です。経緯はちょっと複雑で、1921年にソ連赤軍がこの地域を侵攻し、グルジア民主共和国としてソ連邦に組み込みました。これが1991年のソ連邦解散宣言によって独立し、グルジア共和国となります(ちなみにグルジアはロシア語読みであり、日本は2015年に共和国政府から要請を受けてジョージアという呼び方に変更しているので、現在ではジョージアと表記されます)。このグルジア共和国の中に、南オセチアという旧ソ連の自治管区も含まれていたんですね。(自治管区って何よという方は、連載6回目をご確認下さい)  で、国際法的には南オセチアはジョージアの領土ということになっていたのですが、南オセチアでは親ロシア派が強く、独立機運が高まったんです。そして2008年8月、当時のジョージア大統領であったサーカシヴィリが、この南オセチアを武力制圧しようと進軍。おまけに彼は、ジョージアをNATO加盟国にしようと働きかけている最中でもありました。このとき、お得意の《ルーシ保護理論》を掲げて軍事介入したのがロシアです。結果、ロシアは南オセチアを実効支配することに成功し、現在でもこの地は親露政権の未承認国家という扱いになっているわけです。(そして、こうした内紛状態を抱えていることで、ジョージアのNATO加盟も進められていません)  その一方で、ロシアは電撃的な軍事介入に成功した(=親露派の実質的な分離独立を支援した)に留まり、サーカシヴィリ率いる反露政権国家を残してしまったという、ちょっと苦い失敗を残した勝利でもあったのです。これには、(当時EU議長国でもあった)フランスのサルコジ大統領による介入が大きかったと思いますが、ロシアにしてみれば進軍の初手で、首都のトビリシではなく南オセチアを選んでしまったことも影響しており、こうした反省からかウクライナへの奇襲では首都キーウが狙われました。(《ルーシ保護理論》に忠実であるなら、ウクライナで先に奇襲すべきはドンバス地方ですが、先にキーウを狙った理由は推して知るべしです)  まあ、構図としては《ルーシ保護理論》の成功例でして、これに関しては先に武力行使したのがジョージア側だったこともあり、一定の理解を示すこともできるでしょう。露土戦争の成功体験は、こんなところに受け継がれているのです。もっとも、国際法上は完全に内政干渉なんですけどね。中国の天安門事件やイランの民主化運動に対する武力弾圧に対して、周辺国が市民保護を名目に軍隊派遣して介入してよいかといえば、それは大問題になるぞってのと同じ話。しかし、ロシアという国ではこれこそが正義だと(上から下まで)信じられているですよねぇ。困ったことに。 つづく (おまけ) 公開が遅れ倒した理由について、お詫びも兼ねて言い訳させて頂きます。 戦争分析編を概ね書き上げて、矛盾が出ないようにしておきたかったのがひとつ。それと《ルーシ保護理論》の部分で適切な言葉が見つからなかったことがひとつです。特に後者。 ロシアの主張は毎回びみょーに言い方が違っており、しかしその根底にある考え方は「ルースキー・ミールこそが世界の正しい在り方である」で一貫しています。このルースキー・ミールを実現するために「同胞解放」だの「正教徒解放」だの「少数民族保護」だのを口にするわけですが、これらを統合するいい言葉が見当たらないんですね。私は当初《同朋解放理論》という言葉を使おうと思っていたのですが、日本でこの言葉を使うと部落差別問題なんかの方が引っかかってしまってややこしいことに。意味は通じると思うんですが。だったら、学術的に地位のある『汎スラヴ主義』でもよいのではと考えたものの、そうすると「保護」「解放」といった侵略口実のニュアンスが若干弱くなる。で、最後は《ロシア民族保護理論》にするか《ルーシ保護理論》にするかで悩んでました。この連載をここまで読んで下さっている方であれば、ルーシで通じるだろうと思って、ルースキー・ミールとの親和性の高い後者を選んでいます。(逆に、初学者相手を想定していたら前者を選んだと思います) この言葉は、現代のロシアが侵略の口実として使うロジックという意味で、今後の連載でも幾度となく出てきますが、『汎スラヴ主義』のように学術用語として確固たる地位を持つ言葉ではありませんので、外で迂闊に使ってしまわないようご注意下さい。
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  • 5月31日

    どうなるのこれ?

    https://www.bbc.com/japanese/articles/cvgz7yrvp3yo ルーマニアってNATO加盟国なんですけどね。NATOはこれでも機能しないんでしょうか。しないんでしょうね。(諦) ロシアにしてみれば、ウクライナで行き詰まった以上、ヨーロッパに喧嘩吹っ掛けるしか「強いロシア」をアピれる場所がないってことなんでしょうか。どこからどう見ても正気な国ではないというか、狂犬みたいな国というか。 > 「ウクライナは戦争状態にあるが、ルーマニアは平時だ。我々はウクライナの領空に向けて発射体を発射することはできない」 これは空爆を受けたガラツィという地点がウクライナやモルドバとの国境近くにあり、ルーマニアは法律で隣国の領空に影響を与えるような防空システム運用を禁じているため、対処できなかったことを示唆した発言ですね。 > ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は後に、ドローンが果たしてロシア製なのかと疑問視した。 いや、製造国は中国でしょ。ロシアが自前でドローン製造できず、中国にベッタリ依存している(そしてその結果中国からは属国のように扱われている)ことは、周知の事実ですよ。本質は、どこの国が作ったかではなく、どこの国が運用していたか。こんな稚拙な論点ずらしでも、それに騙される人がいるから使われているんでしょうけど、あほらしい。
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  • 5月30日

    プーチンさんのヨーロッパ愛

    毎度のことなんで、見慣れた光景ではありますが。 プーチンが、自分の子どもには西側の家庭教師(イギリス・ドイツ・オーストリア)を多数つけて、最高水準の教育をしているという面白ネタ。 https://ru.themoscowtimes.com/2026/05/28/detyam-kabaevoi-nanyali-guvernantok-iz-evropi-vopreki-zayavleniyam-putina-chto-na-zapade-tsarit-satanizm-a196573 以前(プーチン宮殿の話をした際)にも書きましたが、これがルーシエリートの発想なんですよね。国民にはヨーロッパを敵視するよう洗脳しておきながら、自分たちはヨーロッパ文化の上澄みを存分に享受するというダブルスタンダード。コンプレックス丸出しです。 ま、似たようなことは日本でもありますけどね。公立校の先生が、自分の子たちは私学に通わせる、みたいな。
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  • 5月30日

    ロシア精神史⑫(戦争分析編予告)

     今回からはここまでの流れを踏まえつつ、ロシアという国の指導者がどのような精神性を持っているかに向けて話を進めようと思います。そして、その精神性を最もよく表しているものと言えば・・・はい、もう言うまでもありませんね。戦争です。彼らの戦争への向き合い方を見ていると、その精神性がよくわかってしまうんです。  というわけで、今回から始まる戦争分析編のお題はこちら。  「なぜロシアは、1.常に戦争に備えているのに、2.いつまで経っても戦争が下手なのか」  この理由を見ていくと、自然とロシア指導者の思想が見えてきてしまうんですねぇ。  毎度のごとく結論から書いてしまいますが、1の答えは既に示されています。「境界のない国」という心理状態が働いているからですね(連載第2回参照)。周囲の何者も信じられず、常に外部への境界拡張を考えていないと安心できない精神性の産物と考えていいでしょう。この、周囲の何者も信じられないという心理状態は、独裁者と親和的であることもここで指摘しておきます。というわけで、メインの考察は2となるわけですが、そちらの答えも実は簡単。権威主義国家だからです。この構造的欠陥がもたらす「戦争下手くそ病」は、過去すべてのロシア指導者に共通していると言っても過言ではなく、そこから生じる用兵・戦術から失敗談に至るまで、わざとやっているとしか思えないほど一貫して変わっていません。以前から何度か「ロシア軍の価値観は第一次大戦止まり」と書いて来ましたが、このたび改めて学んでみたところ、第一次大戦どころか200年前から見ても変わってなかったかもしれないと、ある種の感動すら覚えてしまいました。人間って、こんなに進歩しないでいられるものなんだなというか・・・。ここからの数回では、具体的な戦役を分析しつつ、その事実を証明できればと思います。(そして、それらをすべて踏まえた上で、歴代指導者に共通の精神構造を明らかにします)  とはいえ、ロシアは強国だと思いこんでいる方々(それはまさにロシアのプロパガンダにはまっているってことなんですが)もいらっしゃるでしょうから、予告編の今回は、ロシア軍がいかに弱いかという事実だけでも、大雑把に確認しておきましょう。  近代ロシアを見ていく上では、啓蒙君主であったエカチェリーナ2世の変貌後からで十分だと思いますので、とりあえず1800年以降からでよろしいですかね?(よろしいと言って下さいおねがいします)  1812年・・・祖国戦争(ナポレオン戦役)  1853年~1856年・・・クリミア戦争  1877年~1878年・・・露土戦争  1904年~1905年・・・日露戦争  1914年~1918年・・・第一次世界大戦  1939年~1945年・・・大祖国戦争(独ソ戦・第二次世界大戦)  1939年~1940年・・・冬戦争(フィンランド侵攻・第二次世界大戦)  1979年~1989年・・・アフガニスタン侵攻  1994年~1996年・・・第一次チェチェン紛争  1999年~2009年・・・第二次チェチェン紛争  2008年・・・ジョージア戦争  2014年・・・クリミア併合  2022年~・・・ウクライナ戦争  どんなペースで戦争しとんねんって感じですが、この他にもポーランド、イラン、中国、最近ではマリなんかでも軍事行動起こしていますので、年がら年中戦争しているって感じです。実際、『ロシア 1800年以降 戦争していない期間はどれくらい?』と検索かけると、 > 1800年以降の約226年間で、ロシア(ロシア帝国、ソビエト連邦、ロシア連邦)が外国との大規模な戦争や軍事介入、革命による内戦状態に一度も巻き込まれずに「完全に平和だった期間」は、合計でわずか40年程度と推定されます。戦争をしていない最も長い平穏な期間は、1856年のクリミア戦争終結から1877年の露土戦争開戦までの約21年間です。 と出てきましたので、この200年以上、実に8割超の期間は何かしらの戦争しているわけですよ。というわけで、上記1(常に戦争に備えている)への反論は認めません。戦争への心構えや武力行使へのハードルが、我々とは根本的に違うのだという事実を、ここでご確認下さいませ。  裏返すと、ロシアの戦争をすべて網羅することは不可能に近く、ここで採り上げた以外にも戦争があることは承知しております。ただ、キリがないんでこれくらいでカンベンして下さいと。私としては、上記2(なぜロシアは、いつまで経っても戦争が下手なのか)を検証する方がメインなので、まずはこれらの戦争を戦果別にカテゴリー分けしておきます。多分に主観が混じっていることは承知しておりますが、以下ではこの分類に沿って分析を進めさせて頂くことをお許し下さい。 A.普通に勝ちと言えそうな戦争 ・露土戦争 ・ジョージア戦争 B.勝利したけど国際社会からの孤立を招いた戦争(=長期的戦略視点では疑問符がつく戦争) ・第二次チェチェン紛争 ・クリミア併合 C.国が壊れるほどの犠牲を払ってようやく勝利した戦争・実質的には敗北した戦争 ・第一次チェチェン紛争 ・祖国戦争 ・大祖国戦争 ・冬戦争 D.大・敗・北・戦・争 ・クリミア戦争 ・日露戦争 ・第一次世界大戦 ・アフガニスタン侵攻 E.継続中の戦争 ・ウクライナ戦争 こんな感じでしょうか。 今回はAとBくらいまで見ていけたら・・・と思っていましたが、ここまででも結構な分量になってしまっているので、ここで一旦ぶった斬ります。悪しからず。 つづく
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  • 5月28日

    間を持たせるだけの情報消費

    次回からロシアの近代戦争を見ていく回に入るんですが、調べ直していたら結構考えておかねばならないことが多く、ちょっと手間取りそうです。そのため、日本では知られていないロシア関連の最新ニュースを適当に流してお茶を濁させて頂きます。すみません。 一番目。 https://www.instagram.com/reel/DYztCI5nKda/ 鳥さんの回避行動すげー。 ロシアのドローンが、コウノトリさんをウクライナ軍のドローンだと勘違いして射撃体勢に入った映像です。鳥をドローンと間違えるとか、どうなってるんだロシアのAI? 二番目。 https://x.com/bassanets/status/2058814227855413761 ロシア兵が戦場について語る映像です。全編ロシア語ですので、AIによる文章抽出と翻訳、意味の通りにくいところについては注釈をつけておきました(正しいかはわからない)。ロシア兵が戦場を語る動画は基本的にプロパガンダ映像なのですが、果たしてこれはどちらでしょうか? Я на войне потерял много товарищей. 戦争で多くの仲間を失いました。 Из начинающих человек пятидесяти батареи, в которой я находился, осталось пять человек в строю и пять человек инвалидов, а остальные-- остальных не осталось. 私が最初に参加していた50人のうち、5人の男性が残り、5人の障害者、残りは去っていました。(←生存者全員が障害を負ったという意味だと思われます) А дальше в других подразделениях, там, где я был связистом, штурмовиком, наводчиком, водителем, я устану перечислять, скольких штурмовиков я видел. そして、私が信号兵、攻撃機、砲手、運転手を務めていた他の部隊では、見た攻撃機の数を挙げるのに疲れてしまいます。 Это две-три тысячи, это с которыми я за руку здоровался, с которыми за одним столом сидел, ел, общался. これは二千、三千人で、私が握手を交わし、同じテーブルに座り、食事をし、コミュニケーションを取った人たちです。 Позывных я не вспомню. コールサインは覚えていません。(←信号兵として無線通信するための、混線防止識別用コールサインと思われますが、別の意味・・・たとえば個人を特定するための姓といった意味かもしれません) Да я и живых не помню позывных. 生きている人のコールサインすら覚えていません。 Когда мы встречаемся, всегда: 私たちが会うときはいつも: "Напомни, не помню". 「思い出させて、覚えてないんだ。」(←名前などに関する記憶障害を起こしていることを示唆したものと思われます) Память пропадает на ухнарь вообще. 記憶は完全に消えてしまう。 Иногда даже задумываюсь 時々、そのことを考えることさえあります 三番目。 https://t.me/s/sytosokrata こちらのMay25で語られている内容。全文翻訳したものも一応載せておきますが、それは興味のある方のみお読み下さい。概要は以下で解説します。(記事にないことも多少付け加えておきます) 簡単に言えば、ベラルーシへのウクライナ参戦圧力が高まっているという話です。これはウクライナ東部戦線で行き詰まりを見せたロシア軍が、ベラルーシの参戦によってウクライナ兵をベラルーシ国境(北西部)へと移動させ、この兵力分散によって東部戦線を打開しようという意図で働きかけているものです。 御存知の方も多いと思いますが、ベラルーシのルカシェンコといえばヨーロッパ最後の独裁者と言われる大統領でして、1994年から32年間この国のトップに君臨しつづけています。彼の政策は一貫しており、「ロシアとソ連ごっこを続けとればええねん」でした。これが市場経済に舵取りしたエリツィン・ロシアより上手くいってしまったんだから、世の中わかりません。(ベラルーシの歴史については、気が向いたらそのうち書くかもしれませんが、そんな大したものでもないので今回は割愛します) 盤石に見えるルカシェンコですが、実は2020年の選挙で独立系メディアから「支持率3%」と報道されたほど、国内の基盤は脆弱です。特にこの選挙では、不正疑惑に対する抗議デモに対して3万人もの市民を拘束、更に彼らを暴行・拷問・虐待してしまったため、国内からの反発はすでに限界に達しています。それでも政権がもっているのは、ロシアからの支援のおかげなんですね。要は、ロシアの忠実な「緩衝地帯」を演じることで、莫大なカネを横流ししてもらい、それで権力を維持しているという構図です。(これはチェチェンのカディロフなんかも同じです) この構図がある以上、ルカシェンコはプーチンに頭が上がらないわけですが、このたびそのプーチン様から「ウクライナを攻めろ」とお達しが来てしまったと。では、ベラルーシが参戦すると何が起こるか。 ①国民のこうした怒りが爆発し、革命に至る可能性がある(ちなみに国内で暴動が起こったとき、ロシアが軍を派遣してまで助けてくれる余力は、多分ない) ②国民はウクライナに悪感情を持っておらず、むしろウクライナ国内に親戚がいるのに、ロシアが戦争起こしたせいで会えなくなったなどの不満を抱えている。逆に、ルカシェンコを支援するロシアには悪感情すら持っている。このため、治安部隊内にさえ、親ウクライナ感情を持っている者が多く、下手したら脱走や寝返りの可能性がある。 ③ベラルーシ軍は実戦経験もなければ士気も低く、ぶっちゃけ弱い。そもそも、ベラルーシが持っていた装備の大半は、既にロシアに送ってしまった。NATO軍すら演習で圧倒しつづけているウクライナ軍に、勝てる道理はまったくない。 ④ウクライナ軍のドローン部隊は、既にベラルーシの国内に500の攻撃目標を設置したと明言しており、参戦と同時に攻撃される。ベラルーシ国内では石油の雨が降る。 ⑤EUは当然ウクライナ支援側なので、ベラルーシの参戦があれば経済制裁が科され、ヨーロッパで孤立する。 こうした事情から、ルカシェンコは参戦するも地獄、参戦しなくても地獄という悲惨な板挟みになってしまったわけですね。その辺を解説してくれているのがこの記事になります。ルカシェンコはどちらを選ぶと思いますか?
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  • 5月27日

    オレシュニクはこんなもん

    24日、キーウ大規模空爆が行われまして、その中でオレシュニクという弾道ミサイルが使われたことが大きな反響を呼んでいます。現在、『オレシュニク』で検索かけると、この記事ばっかり出てくるんですよね。日本の全メディアがロシアのプロパガンダに協力しているのか踊らされているのか知りませんが、遺憾の極みでございます。 https://www.instagram.com/reel/DKiTjZWIvAO/ 昨年の7月、こちらの動画をご紹介して、この兵器は使い物になるようなもんじゃないってお話を書かせて頂いたんですが、覚えておいででしょうか。私は正直、今回の報道を受けて「え、オレシュニクの発射が成功したの?」という、むしろ別の意味での驚きを感じておりましたので、世間様との温度差が凄かったんですよ。 さて、今回のオレシュニクですが、やはりというべきか続報が出て参りました。日本のメディアはこっちをガン無視。これだから日本の報道も信頼できないんですよねぇ。 https://t.me/eRadarrua/93606# はい。今回発射されたオレシュニクは2基あったというお話です。うち1基は既に報道されている通り、キーウに着弾しましたが(といっても、郊外の民間施設みたいなところだったらしいので、何を目的にしていたのかは不明)、もう1基は上記の動画のようになっております。え、普通に着弾しているじゃないか?翻訳載せときますね。 > 2発目のオレシュニクミサイルは、ドネツク郊外のアウディーイウカまたはヤシヌヴァタ地区にある、一時的にロシアが支配している地域に着弾しました。この地域では、自軍部隊を誤って攻撃した可能性もあります。 だ・か・ら、オレシュニクは使い物にならないんです。というか、ロシアの弾道ミサイル全般が使い物にならないんです。発射成功率が低すぎるんですよ。(日本のメディアがこれを報じていないのは、着弾地点の裏取りに時間がかかっているだけかもしれませんし、そうであると信じたいものです) では、大陸間弾道ミサイル(オレシュニクより更に長距離射程)のサルマトはどうか。おわかりだと思いますが、距離が長くなって安定度が向上するはずもありません。 昨年11月末の動画がこちら。覚えておいでですかね? https://x.gd/Sy3n1 で、実は5月9日の戦勝記念日直前(確か5月6日)、プーチンは軍事パレードに合わせたと見られるサルマトの発射実験も行っているんですよ(ついでに、潜水艦プラットフォームのICBMであるブラヴァの実験も計画されていた)。成功した暁には、パレードで大々的に成果報告するつもりだったんでしょう。諸般の事情(笑)により、ほとんど報道されてませんけど。 実験の情報を掴んでいた西側諸国からは、実験失敗という観測が強まっていた中、クレムリンは突然「サルマト発射成功」を宣伝し始めます。その際公開された映像は「発射シーン」「上昇中のサルマト」「成功報告をする指令官」のみでした。 しかし、ロシアは実験に成功した場合、必ず定型的に「模擬弾頭はカムチャツカ半島のクラ射爆場に着弾した」という文言や映像を添えているんです。今回の成功発表にはそれがない。そこに、2基目のオレシュニクが自陣を誤爆していたという、(知る人ぞ知る)情報を付け加えてみて下さい。どう考えるのが正解だと思いますか? ちなみに、サルマト唯一の成功発射事例は2022年4月の1回だけで、その後最低でも5回は追加試験が行われたのですが、いずれも発射失敗です。 そもそも、弾道ミサイルの本来の役割というのは、精密爆撃ではありません。核弾頭を搭載して広範囲に大きな被害を与えることです。それがこの成功率で、実戦使用に耐えると思いますか?仮に今回のオレシュニク2基に、いずれも核が搭載されていた場合、6発はキーウに着弾ですが、もう6発は味方陣地に着弾ですよ(オレシュニクには最大で6発の核弾頭が搭載されます)。昨年11月のサルマトみたいなことになったら、発射基地で全弾大爆発なんですよ。しかも、サルマトの成功率なんて20%もないから、圧倒的に失敗する公算の方が大きい。 加えてオレシュニクは、最大でも10基しかないとされる激レア兵器です。ウクライナ戦争でも何度か使用され、普通に考えれば残弾数は5発を切ってます。少なくとも、西側部品を使ったものは、もう残ってないでしょうし、今から生産できるものは、完全なロシアンクオリティです。 率直に言って、オレシュニクを怖がっている人の感覚も、その恐怖を煽るような報道を繰り返す日本のメディアも、私には理解できません。ちょっとでも理性的な司令官なら、狙った場所に届く前に自国領で自爆しちゃうようなミサイルに、核弾頭を搭載するなんておっかないこと、できるはずがないからです。ましてや、西側諸国との「核の撃ち合い」になったら、勝てる見込みがないロシアンルーレットになることなど、わかりきっているじゃないですか。報道するなら、キーウへの成功だけでなく、自国領誤爆の報道も同時にすべきだと思うのは、このため。今度、こちらの報道も出てくるといいんですけどね。 余談ですが、ロシアがキーウを狙う理由は現在「自国の弱さを隠す」「ロシア空爆から目線を逸らさせる」「国内世論の不満に応える」「国内の不況から関心を逸らす」「和平プロセスを妨害して戦争を終結させない」などがあります。日本での報道を見る限り、対外的な目標の方は、ものの見事に機能しているなぁと嘆息せざるを得ません。ただし、今回オレシュニクが着弾したのは集合住宅やら給水施設やらであり、(民間への被害は与えたものの)軍事的ダメージを与えたとは言いがたく・・・要は戦争犯罪なんですが・・・ロシア国内では不満の声が高まっているようです。このミサイルに、一体何を期待していたのやら。(もし今後、オレシュニクが重要軍事拠点に損害を与えていたという追加情報が出てきたらすみません)
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  • 5月27日

    ロシア精神史⑪(国民洗脳編その2・ロシア国民にとっての戦争とは何か)

     今回はロシア国民に対する個人的な見解を。もちろん根拠は示しますが、国の外側から見た分析に過ぎませんし、そもそもロシアという広大な土地に住む多様な民族のすべてを網羅した見解を示すことは、専門家でもない限りほぼ不可能ですので、あくまでここまで語ってきたルーシエリートに対する私見ということになります。その点をまずご承知置き下さい。  前提として、私は国家と国民は厳格に分けて分析する対象だと考えています。その逆を行くのが「国」という言葉。国会議員や官僚の発言を見ていると、彼らは意図的に「国」という言葉を使っており、それが行政機関を表すのか国民を表すのかを曖昧にしています。彼らは「国」という言葉に対して民衆が反射的に思い浮かべるものが「国民」であることを知っており、この曲解を意図的に利用しているのですね。  たとえば「国を豊かにする政策」という言い回しです。この説明を聞いたとき、我々は反射的に、自分(国民)の生活が潤う政策なんだと考えます。ですが、国庫を黒字にしようとした「国家」にとって、最も手っ取り早い政策は増税なんです。「国の借金」も同様です。国民一人一人に借金があるかのように説明されますが、借金を抱えているのは行政機関であって、しかも貸主の大半は国民ですので、国民が手にしているのは借金(債務)ではなく貸付(債権)です。  閑話休題。そういう次第ですので、私はロシアという国家(プーチン体制)とロシア国民も分けて考えるべきだと思っています。この両者は決して不可分一体のものではなく、時にその利害が対立しうる別個の存在と言うべきです。そして、ここまでの連載で書いてきたことの多くは「国家」に焦点を当てたものでしたが、それだけでは片手落ちであろうというのが今回の趣旨になります。  では、地理的にも文化的にも思想的にもロシアという国家の外側にいる我々にとって、現在のロシア国民を理解する上で最も重要な手がかりは何か。それは、「ロシア国民にとっての戦争」だと思うのです。というのは、(次回あたりで書きますが)19世紀以降こんなに戦争を繰り返している国ってそうそうないのでして、普通の国の国民なら戦争疲れを起こしています。戦いたくないけど防衛のために仕方なくとか、民族の存亡がかかっているから仕方なくというのが普通なんです。しかし、ロシアという国に限って言えば、(少なくとも国外から見れば侵略目的の)戦争に対して、国民が肯定的な姿勢を維持している。 ※『ロシア国内 戦争支持率』で検索かければ出てきますが、今年の4月時点で65%~67%だそうです。水増し分を差し引いても、半数程度の支持はあると見てよいでしょう。開戦から丸4年が経過して、しかも進展が見られないのになおこの数字、異常だと思いませんか?  そしてこの度、ロシアという国の歴史や国民感情を勉強し直した結果、この「ロシア国民にとっての戦争」がいかなるものなのかも見えてきました。というわけで、今回はプーチン体制下で洗脳を受け続けたロシア国民がどういう戦争観を持っているのか、解説していこうと思います。(ただし冒頭に述べた通り、ロシアに住むすべての民族を網羅することは不可能であるため、あくまでモスクワに住むようなエリート市民や、政権によって洗脳されてしまった市民を対象としていることを、再度強調しておきます)  まず一点目。ロシア国民にとっての戦争とは、自分たちの強さを表現する手段です。彼らは勝利が大好きです。己が強者であると実感するのが大好きです。このアイデンティティを決定づけたのは、ヨーロッパコンプレックスを克服したソ連の(一時的)成功であり、特に大祖国戦争(独ソ戦)の勝利であったことは既に述べました。嘘だと思われる方は『ロシア 国民性 勝利が好き』あたりでAIさんに質問でもしてみて下さい。理由もつけて解説してくれます。便利な世の中ですね。 ※※これは次回か次々回で詳述しますが、大祖国戦争は本来勝利と呼べるようなものではなかったため、エリツィン時代までは大々的に戦勝を祝うこともありませんでした。軍事パレードが行われたのは20周年(1965年)や40周年(1985年)といった節目の年のみで、これが恒例化するのは50周年(1995年)からとなります。5月9日の戦勝記念日を国威発揚に利用できるようになったのは、実質的にプーチン時代に入ってからと言ってよく、軍事パレードはこの時代に大規模化し、洗脳の一環に用いられました。(事実確認したい方は『大祖国戦争 祝典 規模の推移』『大祖国戦争 祝典 洗脳』などで検索してみて下さい)  二点目。ロシア国民にとっての戦争とは、「境界」か「その向こう側」で起こるものです。ロシアが「境界」のない国であり、「境界の向こう側」からやって来る恐怖と戦い続けてきた国であることも既に述べましたが(連載2回目)、だからこそ彼らは「安全な後方」神話を信じています。「境界=危険地帯」はあくまで「干渉地帯」と呼ばれる広範な辺境であり、中心部であるモスクワは攻撃されない場所であると信じているんですね。(なお、政権もそのように宣伝しています)  三点目。ロシア国民にとっての戦争とは、「他人事」です。二点目とも関連するのですが、まず、国民(というかモスクワなどのエリート市民)の大多数にとって、自分たちは安全地帯にいるので、戦争は遠くの出来事に感じられるという傾向があります。この他人事感をさらに加速させているのが、実際に戦場で戦っている兵士の大多数は、強制的に徴兵された異民族であるという異常な状況です。これについても、既に書きました。(連載5回目参照) ※※※これに関する補足があるのですが、話の流れが悪くなるので最後に書いておきます。 ※※※※この「境界」「他人事」感覚については、連載8回目のコメントで「(モスクワ空爆によって)絶対安全としてた信頼が揺らいだ可能性がある」というご指摘を頂戴しておりますので、そちらも合わせて頂ければ、以下の内容理解にもお役立て頂けるかと思います。  以上まとめると、(プーチン時代に入って以降)ロシア国民にとっての戦争とは「国の中心からは遥か遠くで行われているという空間的距離があり、実際に命を賭けているのは少数派の異民族であるという心理的距離があり、なのにその勝利の果実だけは自分たちが総取りできる」という、ローリスクハイリターンなギャンブルだったんですよ。  言い換えるなら、知識としては知っている。けれど、それが実生活に負の影響を及ぼすようなものだとは実感しておらず、むしろよい影響をもたらすものだとすら思っている。少なくとも、自分たちの生活は戦争とは無関係に安泰であると確信できている。加えて、前回お伝えしたように、自分たちの生活が脅かされる場面になれば、核を撃ち込めばいいと本気で考えている(当局もそのように核の優位性をプロパガンダしてきた)。これがロシア国民(特にモスクワのエリート層)です。  ここまで連載を読み、彼らの歴史を知って下さった方であれば、ロシア国民のこの精神性についてもご納得頂けるものと期待します。特に二点目(境界)と三点目(他人事)については、数百年にも及ぶ歴史的必然なんですね。逆に言えば、現代ロシアに特有の核心部分は、一点目にこそあります。ロシアという国に市民ナショナリズムも民族ナショナリズムもないことは既に書かせて頂いてますが(連載3回目参照)、そんな彼らに「勝利大好き」という共通の価値観を与え、愛国心を高揚させることに成功した人物がいるんですよ。もちろんプーチンです。  チェチェンで勝ち、ジョージアで勝ち、クリミアコンセンサスを形成した現代のロシア国民は、実は戦争の勝利によって愛国心を育まれているという一面を持ちます。かの国が「強いロシア」というアイデンティティを捨て去れないのは、それが市民ナショナリズムや民族ナショナリズムの代わりを果たしているからです。それはシンプルに、プーチン時代に入ってからロシア国民がどれほど危険な思想に染まっていったかという話でもある。そして、(エリツィンではなく)プーチンの思想を選んだのは、紛れもなくロシア国民自身だったのです。  裏返せば、現代ロシア国民のアイデンティティは、戦争に敗北することで砕け散る程度のものでしかありません。二点目と三点目が脅かされれば・・・すなわち、戦争に対する物理的・心理的距離がゼロになり、実は己こそが戦争の当事者であり、戦争が生活を直接的に脅かすものであるということを学習してしまえば・・・「強いロシア」でいられることは不可能となります。むしろ、戦争のできない臆病な国民性へと移行するでしょう。自分たちの選んだ道が誤りであったと気づいたとき、国民は「ロシア人」というアイデンティティそのものに困惑することになるのです。  そして不幸なことに、このアイデンティティの崩壊と生活基盤の崩壊は、同時多発的にやってきます。なぜならロシアは、既に持てる経済力・生産力のほとんどすべてを戦争(軍産複合体)につぎ込んでしまったから(オリガルヒの粛清によって、この特殊で持続不能な経済体制を整えてしまったのもプーチンであったことは既に説明しました)。すなわち、ウクライナ戦争に(核を使用せず)勝利することができなかった場合、ロシアは今後数十年にわたって悲惨な未来を迎えることが、ほぼ確定しているのです。  その兆候は既に現れています。たとえばつい先日、プーチンが訪中しましたが、得られた戦果はゼロでした。それどころか、ロシアの天然ガスを、現在価格の1/5に値下げしろと言われたり、「シベリアの力2」という、ロシアと中国を結ぶ天然ガスパイプライン建設を「そんなもんは後回し」みたいにあしらわれたりしています。ちなみに「シベリアの力2」は、ロシアがヨーロッパへの輸出を断ち切られた結果、その輸出能力を中国へと振り替えるべく進めてきた巨大プロジェクトであり、ロシア国内の市場でも期待がもたれていた交渉事項だったんですが、中国はいつ制裁対象となるかもわからんようなエネルギー源に依存するつもりはないってことなんでしょう。この結果を受けて、ロシア国内ではガスプロムの株価が3.5%も下落しました。いわゆる「失望売り」というやつですが、ロシアにはもう、大国としての待遇を受けられるような交渉力が残ってないことの証です。それどころか、ロシアと接近しすぎることがリスクですらあるとすら受け止められ始めていることが表面化したと言えるでしょう。  ウクライナ戦争では、既にロシア軍の死傷者が150万人近くに上っており、若い男性(すなわちこれから数十年の国内市場を支える労働力)の3%が失われたとされています。おまけに、そもそも資産のあるエリート層は、開戦直後に数十万人が海外に逃げ出しました。これからは、戦場から戻ったならず者たちが武器を持ち、治安が悪化し、あるいは国会にすら特別議席が用意されているという、トンデモ社会が待ち受けています。物資はなく、インフレが加速し、重税が課され、それでも社会保障は受けられない。エリツィン時代の悪夢が再びやって来ることが、もう確定なんですね。加えて、経済は石油と軍需産業以外壊滅しており、増税を繰り返したせいで廃業者が続出しました。これは、仮に前線兵がロシアに戻って来ても、もう職場それ自体がなくなっていることを意味します。すなわち、経済が復興する見込みはありません。今から戦争をやめたところで、ロシアの産業が戦争前の状態に戻ることはあり得ないのです。  では、そんなロシア国民に自分は同情するか?(ロシアという国家ではなく、ロシアに住む国民一人一人に同情するか?)  しませんね。エリツィン(民主主義)ではなくプーチン(独裁的全体主義)を選んだのは彼ら自身だからです。しかも、独裁的全体主義(ソヴィエト共産党)の失敗を一度経験してきた世代が、あるいはその独裁的全体主義(ナチス)に散々辛酸をなめさせられてきた記憶を持つ国民が、それでもなお昔の方が良かったといって独裁者(プーチン)を歓迎した。そして、そんな思想を引きずったままウクライナに戦争ふっかけ、またもや無辜の市民を大量に殺害し、マイナス20℃の季節にエネルギーインフラや暖房施設を狙うなどという戦争犯罪にまで手を染めながら、自分たちに従属させようとしたんですよ。その結果がどれほど苛酷であろうと、彼らが選んだ道なんです。  全体主義国家の末路など、歴史で幾度となく繰り返されてきた必然。1945年には戦勝国として、1990年には国家の解体によって、そのことを目の当たりにしてきた彼らが、結局何も学習していなかった。この上まだ、核を打ち込んででもウクライナを黙らせろとか寝言を言ってるロシア国民に、同情する余地は見出す方が難しいです。せっかく手に入れた民主主義を自らの手で葬り去ってしまった時点で、もう救いようがありません。  ロシアはチェチェンをテロリスト呼ばわりして、対話の通じない相手だと断定しましたが、本当に対話の通用しないテロ国家とは、ロシア自身(正確にいえばモスクワやサンクトのルーシエリートや、自ら突き進んで洗脳されにいった市民で支持された強固なプーチン体制)であると感じます。これは政治体制のみならず、それを支える国民の学習能力の低さも含めて、もう話ができる相手ではないと言わざるを得ない。少なくともそれが、ロシアの歴史をさらいなおしてみた自分の結論ですね。学習能力の高さを見せつけたドイツとの決定的な違いがここにあります。今後、ロシアから独立できる地域は是非独立して、対話関係を築ける国家になってほしいものです。  というわけで、二回に分けて国民のメンタルを分析してみました。次回からは指導者のメンタルを分析していこうと思います。 つづく ※※※以下、本文中「三点目」として書いた「ロシア国民にとっての戦争は他人事」という特徴についての補足です。この事実を裏付けるニュースが政策レベルで出てきましたので、これは紹介しておかねばと。ロシア政府が新たな防空網を構築する資金を、地方に移管してしまったというお話です。 https://x.com/rucriminalinfo/status/2057835054269673598 ロシアの戦争がいかにして実行されているかを考えてみて下さい。地方から見れば、中央政府が勝手に戦争を始め、中央政府の作戦で軍が動き、その結果前線が形成されるのも地方なんです。当たり前ですが、前線付近の国境線には、強固な防空が築かれていなければなりません。ならば地方を守ることは、最低限の中央の義務。 しかし・・・このたび、ウクライナに攻撃されて防空体制が削られた分は、自分たちで整備しろという丸投げが発動されました。もう中央は地方を守らない。しかも、その地方政府の知事は、先日書いた通り大統領が直接任命していますので、中央の意向に逆らえばクビ。下手すると窓際や高速道路に気をつけて下さいという世界なんですね。 では、これが地方にとってどれくらいの負担か。近距離防空の主力となる自走式近距離対空防御パンツィリS-1が25億円程度。S-300地対空ミサイルシステムは200億円弱。S-400長距離レーダーの価格は5000億円以上。これに消耗品としてミサイルや対空機銃の弾薬代、メンテナンス費用がのしかかる上、システムとして最低でも数台はセットで揃えなければなりません。 更にひどいのは、いずれも生産速度が月産3台で限界だということ。S-400に至っては月産0.5台くらいが上限ですので、結局お金を払っても配備されないという未来が確定しています。しかも、西側部品が手に入らなくなったから、今作られているものは開戦前のものほど性能が出せない可能性が高い・・・。(それがここ最近の損耗率を高めている一因とも言われている) そして、とどめとばかりに絶望的な現実。最近のウクライナ軍は、これらの防空システムをドローンで毎日のように撃破しています。ロシア軍による防空システムの生産速度は、年間で十数基(どう足掻いても二十には届かない)ですが、ウクライナ軍による防空システムの破壊速度は、月間でさえこの量を超えています。つまり、地方で小規模なシステムを購入したところで、一度破壊されたような場所では再び破壊されることが目に見えているんですね。(嘘だと思われた方は、AIさんにでも「ロシアの防空システム破壊速度と生産速度、どっちが速い?」とでも質問してみて下さいませ) Q.救いはないんですか? A.ありません。
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  • 5月26日

    クリミアが陸の孤島になりつつあるという話

    連載⑪は書き上がっているのですが、⑫がまだなので今日は休みがてらあちらの最新ニュースをお届けします。はい。手抜きですごめんなさいごめんなさい。 気持ちよく懺悔したところで始めましょう。 マリウポリという街があります。黒海の更に奥にあるアゾフ海の海岸沿いの街で、ここから高速道路(P280号線)がクリミアに向かって続く、交通の要衝です。この場所と交通網につきましては、Google Mapのスクリーンショットを添付しておきましたので、そちらでご確認下さい。 で、つい先日なんですが、こんなニュースが出てきました。 https://ukrainetoday.org/russians-officially-admit-ukraine-controls-land-corridor-to-crimea/ このクリミアへの道路が、ウクライナの射撃管制下におかれ、ロシア当局によって閉鎖されたというものです。すなわち、この道路を一般車両が通行することは、現在不可能となっています。 この射撃管制下というのがどれほどのものか、私はわかっていなかったのですが、それが確認できる動画が昨日出てきました。それがこちら。 https://www.pravda.com.ua/news/2026/05/25/8036288/ 軍用車両や石油輸送車が次々狙われているのがわかると思います。この監視体制は、既に24時間体制で確立されており、ここを通るのは命がけ。しかも、ロシアはこの道路を軍用車等の専用線としてしまいましたが、それってウクライナにしてみたら、攻撃対象の識別すら必要なく、すべて軍用車として攻撃していいってことにならないんでしょうかね?よくわかりません。 ロシアさんの考えはさておき、ポイントはこの道路が走る地点(ドネツク州・ザポリージャ州)が、もともとウクライナ領だったところに、ロシアが侵攻して実効支配している場所だということでしょう。つまり、ウクライナ軍はこの地を奪還できたわけではないのです。しかし、兵站輸送路としては機能しなくなっている。それだけウクライナのドローン部隊が優秀だということです。 さて、こんな調子で高速道路を攻撃されたら、ロシアはクリミアをどうやって守ればよいのでしょうか?レーダーなんかの軍用車両も燃料輸送車も、外見的に隠しようがありませんので、ただのカモです。 え、クリミア大橋があるじゃない? 添付画像の目的地はケルチという場所でして、ここにかかる全長18kmの橋をケルチ海峡大橋と言います。別名クリミア大橋。 この橋、2022年の10月に、橋の上でトラックが炎上したんですよ。もちろんウクライナの工作で。この際の熱で鉄骨が劣化しており、強度が出せなくなっています。また、道路の片側が崩落しており、大型輸送車は既に通行不可なんですね。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%A2%E5%A4%A7%E6%A9%8B%E7%88%86%E7%99%BA というわけで、この橋を使った輸送路は、現在まともに機能していません。 え、陸路がダメなら海路を使えばいいじゃない? ロシア海軍は2014年のクリミア併合以来、クリミア半島に多数の軍艦を置いて黒海を制圧していましたが、2022年頃のウクライナ侵攻直後からウクライナの海上ドローンに追い詰められ、次第に東へ追いやられていきました。最初はセヴァストポリ港が主な拠点。そこで旗艦「モスクワ」などが沈められ、2023年後半から2024年前半にかけてノヴォロシスク港に撤退しましたが、このノヴォロシスク港でも潜水艦が沈められたのが昨年の12月です。で、これ以上東に逃げてもトゥアプセ港くらいしかないんですが、ここもつい先日「黒い雨」が降った場所でして、既に射程範囲なんですね。更に東に行くと、もうジョージア(異国)です。つまり、ロシア海軍には行き場所すらない。 結果、ケルチ海峡大橋の護衛には、数隻の戦艦なんかを配備するみたいな体制で何とかしようとしていたのですが、それもつい先日ドローンで沈められました。戦死した兵士には勲章が与えられたんじゃなかったかな。(ちょっと調べたら4月30日の夜間に、無人ドローンでの攻撃が成功したとありました) というわけで、海上輸送も限界です。 実は、上記Wikipediaの記事には、次の一文があるんですが・・・ > またロシアはクリミアから北上させた軍と、ウクライナ東部攻勢で西進させた軍によりアゾフ海北岸全域を占領して陸上回廊を確保している。 添付の地図で確認して頂ければわかる通り、この「陸上回廊」というのが、他ならぬP280号線のことなんですよ。つまり、クリミアへの輸送路は、これでほぼすべて詰んだことになるのです。 今後、ロシアがどうやってこの場所を維持していくのか、注目ですね。 (補足) グーグルマップで見ると、上記の高速道路P-280はM-14・E-105・E-97などの名前で表示されます。おそらく、ロシアの命名とウクライナの命名で違うためだと思われます。「трасса P-280」で調べると、ちゃんと当該高速道路が出てくると思います。 (おまけ) ロシアで現在最も検索されているワードがやべーです。「動員命令とは何か?」だそうで・・・ええ、まあ、はい。( ̄人 ̄)
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  • 5月24日

    ロシア精神史⑩(国民洗脳編その1・洗脳報道とその末路)

     前々回と前回では、プーチンによる独裁体制の構築と国民洗脳について見てきました。トランプはこの手腕を非常に尊敬していると言われており(事実、プーチンのことを「天才的」と称賛しています)、それは間違いのない憧憬であり崇拝である思いますが、では、実際にロシア国民がどれくらい洗脳されちゃっているのか・・・そのヤバさがわかるニュースがありまして。今回はそれを二つご紹介しようと思います。  https://x.com/i/status/2056077513407730038  こちらはザルビン記者vsペスコフ報道官の一幕を捉えた動画です。ザルビン記者というのはかなり有名な愛国系記者さん(クレムリンの番記者みたいな人)らしいのですが、その人が「人々が誰しも思うであろうことを質問する」と前置きして、国の報道官に次のように詰め寄っています。  核保有国ロシアが、なぜちっぽけなガキ(=ウクライナ)にドローンで攻撃されることを許しているのか。あのガキを懲らしめる方法は他にもあるはずだ!  方法は他にもある・・・すなわち、核兵器を使え発言です。  世界の中心はモスクワ、周辺地域は自分たちの盾、盾が言うこと聞かないなら核兵器使ってでも言うこときかせればいいじゃないかという世界観。これがモスクワの基本思想です。この世界観があるからこそ、「人々が誰しも思うであろうこと」と断言できてしまう。彼は自分こそが市民の代弁者であると、自認しているのですね。彼らのアイデンティティがどういうものか、こうした報道からも垣間見えると言えるでしょう。(なお、プーチンに核を使う気はないと思いますが、「強いロシア」のアイデンティティのために国民が核使用の圧力をかける展開は、今後大いにあり得ますね)  さすがに報道官も返答に窮したらしく、口を噤まざるを得なかった模様。  お次はこちら。(記事の概要は以下で解説してますので、別にリンク先を見なくてもいいですというか、先にクイズにチャレンジしてみて欲しいです)  https://www.dialog.ua/russia/v-rf-na-bessmertnom-polke-zhurnalistka-pozdravila-mat-bez-vesti.html  ロシアでは『不滅の連隊 Бессмертный полк(ベスメルトヌイ・ポウク)』という市民による追悼式が伝統化しています。5月9日の大祖国戦争戦(独ソ戦)戦勝記念日に、戦死者たちの遺影を掲げて行進する行事です。表向きは国を守った英雄への感謝と哀悼を捧げる儀式ですが、普通に考えれば、戦争の痛みを忘れないための反戦運動の側面も持っていると見るべきでしょう。(ただし、表立っての反戦運動は弾圧対象でありできないことは、既に書きました)  ロシア辺境でも北朝鮮でも最近同じような発言が聞かれますが、「私は黒い袋に入った英雄などいらない」(故人を生き返らせてくれ)というのが普通の市民感情なんですよ。  しかし、これがロシアの報道機関にかかると、そういう理解にはなりません。  このニュースでは、ある女性が大祖国戦争で失った夫と、ウクライナ戦争で行方不明になってしまった息子さんの二人の写真を掲げて行進していたところに、女性キャスターがインタビューします。で、事情を聞いたキャスターは・・・女性に何と言ったと思います?当てられたら天才か狂人のどちらかだと断言できますよ。  正解は「二重のお祝いですね」。(「二重の喜び」「二重の祝福」といった訳語もある模様)  何の悪意もなく、ナチュラルにこの言葉が出てくるイカレっぷり。どう足掻いてもついて行けません。テレビ局もさすがにまずいと思ったのか、この動画は削除されたようです。  ま、ロシアという国では、洗脳を真に受けて一番危険なことを言ってるのが、実は洗脳を広める現場の人間であるというお話でした。これ、体制によるコントロールが失われ、過激すぎる「愛国者」が誕生しつつあることの現れでもあります。そして不幸なことに、こうした現場の人間とプーチンによる直接的な発言以外、国民へは情報が入っていかないように操作されている。  というわけで、次回は(こうした洗脳を受け続けた)ロシア国民というものを少し深掘りしてみましょう。 つづく
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  • 5月23日

    流行の最先端は窓際ではなく道路だった(謎)

    今日は連載を投稿する気力がないので(執筆済みではあるのですが読み直して校正する気力がないので)、日本では報道されていないニュースでお茶を濁します。ちなみに、ロシアの現地ニュースを扱っている人たちの間では、間違いなくトップニュース級のインパクトを持っている内容です。 (簡易版) https://m.vk.com/wall-49684148_6230768 (詳細版) https://x.com/rucriminalinfo/status/2057524562477084831 ロシアで石油輸出を手がけるバルト燃料会社の共同所有者兼取締役員であったミハイル・スミルノフ氏(要するにオリガルヒの一人)が、サンクトペテルブルクの高速道路を「な・ぜ・か」バイクで走行中、対向車線から来たSUVと衝突し、死亡しました。救急車が来た時点で、既に死亡していたとのことです。目撃者なし。 53歳の大富豪ともあろう方が、なんで自らバイクを疾走させていらっしゃったのか、誠に不思議ではありますが、きっとそういうお国柄なんでしょう。 あと、これは独り言になりますが、スミルノフ氏は2024年時点で純資産を77億9000万ルーブル(日本円で170億円くらい)持っていた模様。しかし、「な・ぜ・か」半年ほど前にすべての役職を辞任して、資産のすべてをサンクトペテルブルク銀行の関係者と、マトヴィエンコ財閥の関係者に譲渡したとか何とか。ちなみにマトヴィエンコというのは元サンクトペテルブルクの知事であり、連邦評議会(アメリカでいうところの上院)議長でもあったヴァレンティナ・マトヴィエンコの系譜でして、その息子セルゲイ・マトヴィエンコがこの銀行の創業主の一人ってことらしいです。 こちらは訂正というか補足。前回のコメント返信で、レーニンの名前は都市名からは消滅したと書きまして、これ自体は間違いではないのですが、州名ではレニングラード州がいまだに健在でしたので、追記しておきます。
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  • 5月22日

    返信を一部独立させます

    和泉将樹@猫部様から、なかなかに面白い視点をご指摘頂きまして。それは、 > 文化的な積み上げがなく、伝統が借り物である国々にとっては、国民の欲求は『現在の価値基準』に大幅に依存する というもの。事実かどうかはさておいて、価値観の根が弱ければ、その上に立つ木も倒れやすいであろうことは間違いないでしょう。その結果、多くの支えを必要とするであろうことも。 というわけで、ちょっと調べてみました。国や文化の起源をどこに求めるかは一概には決められませんが、参考にしてみて下さい。 ・中華人民共和国(1949年~)⇒77年 ・漢民族国家(劉邦が漢王朝樹立紀元前206年~)⇒2232年 ・ロシア(ソ連成立1922年~)⇒104年 ・ロシア(ツァーリによる辺境拡張路線開始1547年~)⇒479年 ・ロシア(ノヴゴロド国862年~)⇒1164年 ・イタリア(イタリア王国成立1861年~)⇒165年 ・イタリア(843年ヴェルダン条約と870年メルセン条約によるフランク王国解体~)⇒1156年 ・ローマ帝国(紀元前27年~)⇒2053年 ・ドイツ(ドイツ帝国成立1871年~)⇒155年 ・ドイツ(843年ヴェルダン条約と870年メルセン条約によるフランク王国解体~)⇒1156年 ・アメリカ(独立1776年~)⇒250年(7月にやってくる独立記念日は建国250周年を兼ねており、現在トランプにとって悩みの種) ・アメリカ(ピルグリムファーザーズ1620年~)⇒406年 ・イギリス(ヘプターキー統一829年~)⇒1197年 ・イギリス(イングランド王国成立927年~)⇒1099年 ・フランス(843年ヴェルダン条約と870年メルセン条約によるフランク王国解体~)⇒1156年 ・インド(独立1947年~)⇒79年 ・イスラム関係国(ヒジュラ622年~)⇒1404年 ・仏教国(ブッダ誕生紀元前5世紀頃~)⇒約2500年 ・日本⇒多分皆様の方が御存知 > 私は『歴史コンプレックス』などということもありますが。 > 元々アメリカがこれは顕著だと思ってましたが、一連でロシアも似たところがあるのだろうとは気づかされました。 こうして比較してみると、アメリカは明らかに文化的・民族的起源が浅いですね。まあ、植民地が原住民を駆逐してしまったパターンだと、大体そうなっちゃいますか。オーストラリア(1770年にイギリスが領有宣言)とかも、決して文化的背景が豊かとは言えないと思いますが、あそこは生態系が独自路線すぎて、それが何らかの一体感や満足感を国民にもたらしている気もします。 逆に植民地でも原住民を駆逐できなかったインドなんかは、文化が継承されていますね。ただし、インドとパキスタンみたいな戦争の火種になったり、アフリカみたいにとんでもないことになっている地域も多数。 あとはまあ・・・ユダヤ人とイスラエルという、人類最古クラスの宗教観をもつ人たちをどう見るべきか・・・。(怖)
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  • 5月22日

    ロシア精神史⑨(内向編その7)

     前回はエリツィンとプーチンの軍事的成否を比較しました。今回は内政的成否の比較です。  まず押さえるべきは大統領権限と政治体制・経済体制の変遷です。エリツィン時代は民間資金であるオリガルヒと協力しながら寡頭政治を行う体制だったわけですが、プーチンは自分に従わないオリガルヒを粛清(国外追放・投獄等)で排除し、独裁体制を整えます。これは自由主義経済を標榜していながら、実のところ大統領が経済界を完全に掌握していること(言い換えれば戦時体制を強制しやすいこと)を意味します。  民主主義体制と地方の弱体化という点でも違いが見られます。エリツィン時代は割とまともな民主主義体制でした。以前、ロシアには89の行政区が存在すると書きましたが、これらの行政区で地方自治の中心を担っているのが知事です。従って、これらの知事を住民が選べるかどうかは、民主主義の根幹に関わるわけですよ。で、エリツィン時代には知事が選挙で選定されていたんです。まあ、普通ですけどね。ところがプーチンは、これを大統領による任命制に変更してしまいました。2004年のこと。日本で言えば、都道府県知事を地元住民が選べなくなったようなものです。  こうして国内の自由経済と民主主義は破壊され、ロシアという国は全体主義へと先祖返りしていきます。2010年頃、その基盤を(悪い意味で)盤石にしてしまったプーチンにとって、唯一の面倒事が大統領の任期上限という憲法上の制約でした。彼はこれを回避するため、2008年から2012年まではメドベージェフに大統領の座を譲り、首相という立場から最高権力者として振る舞っていましたが、やはり大統領の座で好き勝手やりたかったんでしょう。まずはこのタイミングで、大統領の任期を4年から6年に延長しています。そしてすべての準備を整えた2020年、彼の勝利宣言とも言える憲法改正が行われます。前回のノートでもコメントを頂戴しましたので、まずはこの憲法改正がどんな意味を持っていたのか、私なりにまとめてみようと思います。  結論から書くと、プーチンはこの憲法改正によって、国内の政治体制を『競争的権威主義』から『覇権的権威主義』へと移行完了宣言したのだと、私は見ています。  耳慣れない言葉だと思いますので説明しておきますが、プーチンの対抗馬となるような政治家や政治団体を「出る杭」としたとき、敵対勢力が「出ない杭」になるよう法律や選挙をコントロールしているのが『競争的権威主義』、仮に(選挙で)「出る杭」が現れてもそれを(選挙以外の)超法規的手段によって確実に無効化できる体制を構築しているのが『覇権的権威主義』でしょうか。体制に与しない政治的勢力は、民主主義という国家の対外的体裁を整えるために、お飾りとしてのみ存在することを認められているのが覇権的権威主義と言ってもよい気がします。  具体的には、タイの軍政なんかが典型的な覇権的権威主義ですね。あの国、民主主義を名乗ってはいますが、実権を握っているのは軍部・王族・官僚という非民選勢力であり、仮に選挙で政権交代など起ころうものなら、司法クーデターが駆使されて政権が解体させられるという仕組みが完全に機能しちゃっています。今話題のイランも典型例であることは、情勢を見ていらっしゃる方には説明不要でしょう。  こう書くと、「ロシアはいつから『競争的権威主義』になったんだ?」という疑問が湧きますよね。というわけで、一旦エリツィン体制からプーチン体制へと引き継がれた2000年頃に時代を戻しましょう。  冒頭にも書きましたが、エリツィン時代は(西側目線では)まだ健全な自由経済と民主主義の時代でした。経済体制は、現在でいうと韓国に近い印象ですかね。一部の財閥がもの凄い力を持っていて、それが国家経済を支えていると同時に、大統領の監視にも一役買っているみたいな。プーチンはまず、ここにメスを入れます。2000年の7月という非常に早い段階で、オリガルヒ(新興財閥)の政治介入を阻止する方針を打ち出しているんです。そして、自分に従おうとしないオリガルヒを本当に排除していきます。結果、ある人は国外追放され、ある人は逮捕され、ある企業は解体ののち国営化という末路を辿りました。これが大体2000年から2003年までのこと。こうして市場経済は形骸化され、ソ連時代の統制経済に近い形へと逆行していくことになります。(もっとも、エリツィン時代のオリガルヒも民間からの搾取やインサイダー、国家資産の山分けなど相当な悪行を繰り返していたので、短期的にはむしろ経済が好転しちゃった・・・具体的には国家財政が安定し、貧困率改善に寄与した・・・のは皮肉としか言いようがありません)  つづく2004年、今度は民主主義の一角が破壊されます。比較対象となるエリツィン時代では、共産党候補にすら負かされて政権が危うくなったくらいですから(連載七回目参照)、普通に民主主義が機能していたんですよ。冒頭でも述べた通り、行政区の知事を地元住民が選んでいたという点でも健全でした。しかし、プーチンはこの公選制を廃止し、知事を大統領任命制にしてしまった。西側諸国の市民なら暴動モノでしょうが、ロシア国民はこれも受け入れました。理由は後述。  こうして、エリツィン時代の西側的な体制は次々先祖返りしていきます。プーチンがこの古くて新しいシステムを定着させて、『競争的権威主義』を導入していったのが2010年頃まで、その後更に15年かけて『覇権的権威主義』へと移行していったと、私なんかは見ているわけです(他の分析もあるとは思います)。  そして迎えた2020年の憲法改正こそは、プーチンが覇権的権威主義への移行を隠さなくなった瞬間(すなわち、いかなる敵対勢力も超法規的手段によって駆逐してみせると宣言したに等しい瞬間)でした。明らかに「法の名を借りた無法」でしたからね。ロシアが法治国家であることをやめ、完全な人治国家へと堕落した瞬間とも言えるでしょう。  この(覇権的体制への)移行については、ナワリヌイ氏の暗殺が一番わかりやすい象徴事例だと思います。彼はプーチン宮殿の闇を暴いた反体制派の指導者でしたが、2018年には公金横領罪で被選挙権を剥奪され、その後は毒物で暗殺未遂に遭い、最後はロシアの刑務所で収監されたまま死亡してしまいました。偉大な政治家だったと思います。慎んでご冥福をお祈り申し上げます。  で、このナワリヌイ氏の暗殺未遂事件(飛行機内で毒殺未遂、その後ドイツの病院に緊急搬送された事件)が2020年の8月なんですよ。プーチンの任期をリセットする憲法改正関連法案が通過したのが2020年の3月。国民投票が実施されたのが2020年の7月。時期が完全に一致しているんです。怖いですね。氏の暗殺が国民投票後に回されたのは、そのニュースが世論に与える影響を考慮してのことと推測され、暗殺計画それ自体は以前から「いつでも実行できる」状態になっていたと思われます。なので、私個人の見解としては、2020年をひとつの区切りとして、『競争的権威主義』から『覇権的権威主義』への移行が完了したと考えてよいのではないかな、などと愚考しておるのです。(繰り返しますが私見です)  ちなみに、2024年の選挙では、このやり口は更に露骨になっており、ウクライナ戦争への反対を掲げた立候補者たちは、署名の不備などを理由に中央管理委員会が『選挙に参加させることすらなく排除する』といったレベルにまでエスカレートしています。  もちろん、『覇権的権威主義』とまで言われるからには、超法規的手段による政敵の排除だけでは終わりません。『競争的権威主義』的手法(つまりは政敵に勝ち目のない戦いしか許さない方法)もバッチリ完備しています。というわけで、お次は選挙不正を見ていきましょう。  選挙の公正さを分析する簡単な手法のひとつに、シュピルキン解析というものがあります。興味のある方は『シュピルキン解析 プーチン』で調べてみて下さい。以下の説明は、その解析結果の見方です。  シュピルキン解析とは、簡単に言えば、 1.ある投票所における投票率vs(プーチンの)得票率を割り出し・・・(たとえば東京都千代田区の投票所における投票率と、その投票に占める政権与党の得票率を割り出すようなものです) 2.投票率を横軸・得票率を縦軸とした座標平面上に 3.投票所をひとつの座標だと思って無数にプロットしてゆく・・・(たとえば、与党の地盤が強い地域の投票所を表す点は上の方にプロットされやすく、逆に地盤の弱い地域の点は下の方にプロットされやすい) という解析方法です。(ここが要点なので、理解できるまでごゆっくり、ひとつずつお考え下さい)  普通は投票所によるバラツキはさほどないので……つまり、投票率も得票率も一定範囲内に収まるので……楕円っぽい図形が現れます。具体的には、横幅は(投票所の場所による)投票率のバラツキを表すので、投票に熱心でない地区の点が左に、投票に熱心な地区が右にプロットされることになり、日本なら20%~70%くらいのバラツキに収まるでしょう。同様に、熱心な支持者の多い投票所は上の方に、少ない投票所は下の方に分布します。これらがトータルで楕円形・・・どちらかというと、やや右上に傾いた楕円となることが多いようです。これは熱心な支持者の多い投票所の方が、そうでない投票所より有権者の関心が高く、投票率も上がりやすいからだと思われます。  でまあ、ロシアの場合は投票率の高い投票所に限って、プーチンの支持率が著しく高いと申しますか・・・実物見ればわかりますが、投票率100%・得票率100%付近(つまりは右上)にやたら沢山の点が集中しちゃっているわけです。はい。(実際の解析結果は以下のリンクより御覧下さい) https://meduza.io/feature/2024/03/20/eto-byli-samye-nechestnye-vybory-v-istorii-rossii https://theins.ru/politika/234549  おまけにロシアの選挙では、なぜか投票率がピッタリ同じ整数値になる投票所が多数乱立します。日本で言えば、広島も大阪も東京も神奈川も北海道も福岡も高知も、なぜか投票率が一律85%みたいな整数値で一致するんです。不思議ですねぇ。笑えるのはベルゴロド州スタリオスコルの事例でして、この地区では136の投票所すべてで、投票初日の15時における投票率が47%で完全一致していたという、もはや隠す気もねーだろという異常事態。あ、2024年3月の事件です。こういうニュースは日本語だと一切引っかかってこないのですが(仮に『スタリオスコル 選挙不正 47%』などで検索かけでも、まず出てこないと思います)、現地ではそれなりに(窓から突き落とされない程度のテンションで)報道されています。  https://zona.media/news/2024/03/17/oskol  また、この2024年の選挙では、2200万票の水増しがあったとか言われている模様でして(上記リンクのひとつに2020年の選挙で2500万票の不正票を指摘している記事がありますので、そちらも参考までに)、これまた凄い数字と言わざるを得ません。AIさんに「日本で2000万票ってどれくらい?」みたいな質問すると『国政選挙における与党第一党が全国の比例代表で獲得するレベル』とか返ってきます。これが全部水増し票というね。(なお、ロシアの総人口は1.4億人、日本の総人口は1.2億人で、有権者数は似たり寄ったりです)  しかし、ここで大事なことは、プーチンが選挙不正を行っているってことじゃないんですよ。むしろ大事なのは、こうした不正を取り除いた数値とされるものを見ても、ロシアにおけるプーチンの支持率は70%ほどあると見られているという衝撃的な事実の方。支持率、高いんですよ。とっても。不正なんてする必要がないくらい。それはなぜか?  ひとつには、「強いロシア」の復権を果たした大統領がプーチンであったということ。これは既に見てきました。そしてもうひとつ注目しておきたい理由が、経済復興や社会基盤の立て直しにあります。  復習になりますが、1991年に登場したエリツィンの影響で、ロシアは地獄の10年間に突入しました。インフレ率は1年で2600%、GDPは1年で14.5%減(最終的にはソ連時代の60%まで減)、年金未払い、給与未払い、失業者の増加、犯罪の蔓延。これがエリツィンのもたらしたものでした。理想はどうあれね。  ところが、プーチン登場の2000年から見ると、GDPがもの凄い勢いで急回復してるんですね。2008年(=リーマンショックの年)まで、年平均7%という恐ろしい成長率を叩き出します。平均給与が8倍も増え(80ドル→640ドル)、貧困層は社会全体の30%から半数以下の14%まで減少。年金や給与の未払い問題も解決されました。2007年には、ソ連時代のGDPを上回るところまで回復しているんです。そりゃ、人気出ますよね。そして、この時代の印象が今の中高年層には強く突き刺さっており、(自分たちは戦争に行かなくてよいという安穏とした立場も手伝って)根強い支持を継続しているわけです。  ただ、ここで注意しなければならないのは、2000年代の好景気が、ホントにプーチンの手腕によるものだったのかということ。  違うんですよ。ロシアの経済が上向く理由なんて、原油高しかありません。すなわち真の原因は、中国経済の急激な伸び。当時、中国が急激に経済規模を伸ばし、世界の工場と呼ばれるようになり、GDPでは日本を抜いて世界2位に躍り出たこと(2010年)をご記憶の方は多いと思います。このとき、中国が大量のエネルギーを消費するようになったことで、石油価格が跳ね上がったんです。更に2008年のリーマンショックでは、世界でめぼしい投機商品が見当たらなくなり、石油に投機マネーが殺到したなんてこともありました。  というわけで、この時のロシアであれば、誰が大統領やっていようが好景気は維持できたと思われます。それこそ、エリツィンが大統領であってもです。以前、「エリツィンは色んな意味で登場が10年早かった」と書きましたが、それにはこういう意味も含んでいます。(バウチャー民営化の価値が、たちどころに理解されたと思われますのでね)  ここに挙げた以外にも、プーチンの支持率が高い理由は色々あります。たとえば、有力な政治家が軒並み潰されてしまい、まともな投票先がない(まともな候補者は立候補前に潰される・組織だって行動すると弾圧対象となる・野党の利用していた選挙支援アプリが検閲に引っかかって停止される)ことなども一因でしょう。まあ、これ以上は踏み込んだところで結論が変わるわけでもありませんので書きませんが・・・ロシアってつくづく運の悪い国だよなぁと思わざるを得ません。 つづく
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  • 5月21日

    ロシア精神史⑧(内向編その6)

    前回も書いた通り、プーチンはエリツィンの失敗をよく見ていました。今回と次回では、プーチンがどのようにして軍事行動を正当化したのか、どうやって国内世論をまとめていったのか、その手腕を見ていくことで、彼の本質を浮き彫りにしたいと思います。(なお、当初は今回で書ききるつもりでいましたが、長くなりすぎたので2回に分けて書きます。やっぱりプーチンについては書くことが多かった・・・すみません)  まずは軍事面から見ていきましょう。1994年、(比較対象の)エリツィンが第一次チェチェン紛争に踏み切ったことは連載6回目で書きました。当時の国防相であったグラチョフは、開戦に先立ち「空挺連隊1個を使えば、2時間でチェチェンの首都グロズヌイを制圧できる」という有名な妄言を残しています。結果はどうなったか。首都を落とすだけで3ヵ月もかかり、そのまま街を舞台としたゲリラ戦に引きずり込まれて、戦闘は1996年まで継続。死者1万人(公式発表5732人~推計1.4万人まで幅があります)を出す大惨事です。ロシアという国家の、わずか0.1%の面積しかない場所でこれですからね。そりゃ反戦世論も高まるというもの。デモが相次ぎ、こうした反戦運動が選挙にも影響して、(反戦はしつつチェチェンの独立は認めずに交渉すべきという立場をとった)共産党に大善戦を許してしまったことも、既に書きました。  それでは、これを見ていたプーチンが、第二次チェチェン紛争をどうやって戦ったでしょうか?  彼はまず、反戦世論が高まることで、指導者の地位が危うくなることを学習していました。そこで、国民洗脳と言論統制を徹底するんですね。その道具として利用されたのが、ロシア国内で発生した連続アパート爆破テロ。『ロシア高層アパート連続爆破事件』です。当時は犯人不明でしたが(そしてそのため、ロシアの言い分を国際社会も受け入れていたのですが)、現在ではロシアによる自作自演との見方が強いと思います。なぜそう言われるのかは、調べれば簡単にわかるのでここでは触れません。  真偽はさておき、プーチンはこれをチェチェン独立派のしわざであると決めつけ、「チェチェン独立派は野蛮なテロリストである」というレッテルを貼りました。問題は、その証拠が一切示されていなかったにも関わらず「野蛮なテロリストとは対話など成立しない」と論理を飛躍させたことでしょうね。証拠を提示せず一方的な決めつけをするような国家こそ、対話の通じない野蛮な国であると言うべきです。そして、これを象徴する言葉こそが「我々はテロリストをどこまでも追いかける。空港にいれば空港で。そして、もし便所にいれば、便所で始末するまでだ」という、通称「便所に追い詰めてぶち殺す」発言。しかし、「強いロシア」を渇望していた国民は、これに熱狂してしまいます。こうしてプーチンは圧倒的な支持を得て、開戦にこぎ着けるのです。  ここまでなら、まだ国民洗脳でしかありません。すなわち「チェチェン独立派はテロリストだから、対話などできず、力でわからせるしかない」という思想を吹き込んだ段階に過ぎません。それでもなお、理性的な対話を求める国民は、どんな国にも一定数必ず存在します。では、彼らをどうするか。その答えが言論統制でした。  メディアを管理し、国会や議員の反戦運動をなかったことにし(与党が過半数を占めていたことも効きました)、デモを禁止し、実行すれば逮捕する。反戦論には「テロ支援」「非愛国主義的行為」というレッテルを貼り、反戦活動は「過激派の活動」「国家転覆の扇動活動」と称して取り締まる。ここでも証拠なんてありませんしいりません。この時点で、賢い国民ならこいつやべーなと気づくでしょう。しかし、この国民洗脳と言論統制という二段構えによる反戦弾圧は見事に功を奏し、エリツィンを追い詰めた反戦運動の高まりはまったく見られませんでした。こうしてプーチンは、戦争に踏み切る理論構成や国民支配の方程式を手に入れたのです。  ちなみに、戦場においてもエリツィンの失敗は教訓として活かされました。エリツィンが掲げた戦争の名目は、あくまで「独立阻止」です。このため、当事者をターゲットとした地上戦が選択されたんですね(もっとも、それで実際には万単位の民間人が虐殺されたのは、ロシアンクォリティですが)。これに対して、プーチンが掲げたのは「対テロリスト戦」であり、グロズヌイは「対話のできないテロリストの巣窟」とされました。このため、開戦当初から「住民の駆逐」が始まっているんです。具体的には、ミサイルや航空機による市民への無差別空爆ですね。すなわち「対テロリスト戦」という口実は、市民虐殺を実行するための免罪符でもあったのです。(この手口は実のところ、どこかの誰かさんと全く同じだったりします)  軍事面ではこの他、2008年のジョージア戦争でも大勝を収めています。このときは電撃戦が成功し、わずか5日間でジョージア新欧米派政権が敗北。ジョージア国内にいた少数のロシア系住民(親ロシア分離独立派)を支援して、国を分割させました。もっとも、これを成功と見るか失敗と見るかは判断が難しく、戦争まで仕掛けたのに新欧米派政権を消滅させることはできなかったと見ることもできます。それでも、少なくとも国民の自尊心をくすぐる「強いロシア」の面目を保ったことは確かでしょう。  そして、この「強いロシア」を決定づけたのが、2014年のクリミア併合です。国際社会からは非難囂々だった武力による国境線の変更ですが、ロシア国内ではこれが熱狂的に支持されました。この侵略は、「クリミアコンセンサス」という言葉を生み出したほど、ロシア国民(正確にはモスクワ周辺のルーシエリート層だと思いますが・・・)を団結させたんです。興味ある方は「クリミアコンセンサス」で検索かけてみて下さい。もちろん、NATOやアメリカを仮想敵国として国民に刷り込み続け、ロシアは侵略者ではなく防衛側であるという洗脳も完了済みです。まあ、国外の敵に対して団結するというよくある手法が採り入れられたわけですね。  というわけで、ここまで軍事的側面から、エリツィンの失敗とプーチンの成功を比較し、プーチンの掲げる「強いロシア」が支持される理由を見てきました。大統領就任から約15年の出来事です。しかし、彼が支持されたのは、こうした軍事的成功だけが理由ではありません。次は彼の内政を見ていきましょう。といったところで・・・ つづく(もともと次回とまとめて一話完結にすべき内容を、長さの都合で分割しましたので、次回と合わせて内容を繋げて頂ければ幸いです) (私信) ここ数日・・・正確に言えば数ヵ月単位なんですが・・・体調を崩しておりまして、医者から検査を受けるよう指示されてしまいました。まあ、検査結果は異常なしだったんですけどね。というわけで、ちょっと読書と更新が止まっておりましたが、また復帰しますのでぼちぼちよろしくお願い申し上げます。なお、自分の小説は難所にぶち当たって苦戦している模様。一日数百文字しか書けませぬ。(っていうか、最新話付近でキャラが勝手に動き出したせいで、また最初から検討しなければならなくなり絶叫しております。はい)
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  • 5月16日

    よい読者ってなんだろう?

    最近、執筆する気力が湧かないので、近況ノートや読書活動に逃避中なのですが、その中でふと思うことがあります。 ――――よい読者って何だろう?―――― はい、タイトル回収。ここで終わってもいいんすが、あまりに出オチなのでもう少しだけなんか書きます。 応援マークだけつけていく読者はよい読者か? 星だけ投下する読者はよい読者か? 褒めるだけ褒めて作者のモチベに貢献する読者はよい読者か? 欠点を指摘するだけの冷酷な読者は、何のコメントも残さない読者よりマシなのか? こういうことをあれこれ考えてしまうんです。はい。 一応私の中で基準はあって、作者様のレベルや経験、目指している場所によって、読者としての目線を変えることにしています。趣味で書いている人と、職業人を目指すような人とでは、求められている感想それ自体が変わってくるのが必然だと思うからです。 ぶっちゃけ、高みを目指していらっしゃる方には、厳しい指摘をさせて頂くことが多かったりしますし、それすら超越してツッコミを入れる場所すらないような素晴しい作品を書いておられる方もいらっしゃいます。ただ、こういうことをやっていると、最後は自分でもわからなくなって「やっぱり何のコメントもしない方が波風立たないな」と達観してしまう。そうすると、応援と星だけの読者になってしまう。(私も割とそういう傾向がある) 読者はどうあるべきなんでしょうね。わかりません。
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  • 5月15日

    ロシア精神史⑦(内向編その5)

    今回はプーチンの話を書こうと思っていたのですが、プーチンを理解するにはもう少し下準備が必要だと考えを改めました。というのは、プーチンはエリツィンの失敗をよく見ていたからです。プーチンを理解するためには、エリツィンを理解しておくことが必要不可欠なんですね。そこで今回は、前回に引き続きエリツィンの失敗を深掘りし、次回のプーチンにつなげようと思います。 エリツィンはソ連を崩壊に追い込んで、西側の経済理論や政治体制を採り入れた新しいロシアを作ろうしていた大統領です。それこそ、ソ連を維持しようとしていたゴルバチョフに対し、改革が生温いと批判していたほどの超急進派です。(念のため補足しますが、ゴルバチョフの改革「ペレストロイカ=市場経済と民主主義の導入」「グラスノスチ=情報公開」「新思考外交=米ソ冷戦の終結やアフガニスタン撤退」は、十分すぎるほど急進的であり、ソ連はその余波に耐えきれず崩壊したようなものです) そんな思想の持ち主でしたので、彼はロシアの大統領に就任するや、西側の資本主義経済を一気に採り入れました。そのスピード感たるや、ペレストロイカ(刷新・再構築の意味)など取るに足らんと言わんばかり。「ショック療法」とか呼ばれたくらいですからね。言うなれば、それまでの計画経済から市場経済に(段階すら踏まず)全取っ替えしちゃったんですよ。その核心は、国営企業の民営化と、価格統制を撤廃して自由主義経済を全面導入すること。ロシアをヨーロッパの一部であると位置づけ、民主化と新欧米路線を突き進もうとしたのがエリツィンって大統領です。この時代を知る人々からは、「ロシアはソ連崩壊によって、自由主義陣営に参入するのだと思っていた」といった声が聞かれるのも当然でしょう。 この意味において、彼はロシアエリートの中では珍しく、ロシアとソ連の失敗を直視できていた人物であったと推測されます。ただ、彼の改革はあまりに急進的すぎました。理想に目が眩んでいたとでも言うんでしょうか、過程を考えずゴールだけを追い求めてしまった。現実を無視した自由競争の導入は、国(税金)に守られることに慣れきっていた(すなわち無駄や浪費や賄賂が文化として蔓延っていて、西側との価格競争などできる体制ではなかった)大多数の企業には厳しすぎ、一部のエネルギー産業や輸出企業(現在でいうオリガルヒ)だけが暴利を貪る、超巨大経済格差を引き起こしてしまったのですね。ソ連が備えていた手厚い社会保障はことごとく破壊され、ハイパーインフレで国民の貯蓄は紙くず同然に(1992年は消費者物価が2600%増!)。GDPはマイナス14.5%を記録し、これらすべてが波状攻撃となって、公務員や年金生活者らの生活を直撃しました。 こうして、ソ連が崩壊し西側の経済原理が導入されれば、西側のような生活が送れるに違いない・・・という国民の期待は、見事に裏切られてしまったのです。彼は、(国民に言わせれば)競争についていけない国民は死んでも構わない、むしろそれこそが自由主義だとでも言わんばかりの政策を打ち出してしまったのですね。改革の方向性、進むべき道が間違っていたとは思いませんが、国民が到底ついて行けないペースで西洋化という名の山を駆け上ろうとしてしまったこと(本来なら法と社会制度という名の登山ルートを整備し、山に潜む数々の危険を教育するところから始めねばならなかったのに、それすらせずに樹海や獣道を突き進めと命令したようなもの)が、彼の失敗だったと思います。 もっとも、守られることに慣れきっている国民(弱者)を、弱肉強食の自由主義社会に解き放てば、こうなるのはわかりきっていた話でもありますので、穿った見方をすれば、彼はオリガルヒへの利益誘導をしたかっただけなのかもしれませんし、そのような批判も実際に存在します。たとえば、一部の企業にばかり国家資産を不当廉売してますし、親族と側近で山分けなんかもしていますからね。それゆえこの失敗は、「エリツィンは欧米の手先」という国民感情を生み出してしまいました。 ただ、彼を擁護するわけではありませんが、せめて国民への教育が行き届いていればなと思わずにはいられません。彼はすべての国民に対しても、ちゃんと国家の利権の一部を手渡していましたからね。「バウチャー民営化」って御存知でしょうか。この経緯を見る限り、彼がそこまでひどい(国民を人とも思わないような)指導者であったとは思えないのですよ。 バウチャーとは、ロシアの国営企業が民営化された際の、実質的な株式でした。わかりますか?今、世界を席巻しているエネルギー産業、それこそロスネフチなんかの株式が、全国民に大量配布されたんです。とんでもない投資価値があったんです。すなわち、エリツィンがやろうとしたことは、国民自身が(旧国営巨大企業の)株主となり、投資家となる自覚を持たせること。それによってロシアに市場経済を導入することでした。プーチンなら絶対にやりません。 しかし、当時のロシア国民は西側諸国の豊かな文化に憧れるだけで、その豊かさの根源にある競争、すなわちカネの奪い合いたる投資活動について、何一つ知りませんでした。その紙(バウチャー)を正しく使えば、どれほどの富になって返ってくるかを知らなかったんですね。結果、バウチャーの価値を知る者だけがこれを格安で買い漁り、無知な国民は意味もわからず捨ててしまったと言います。道端にバウチャーが舞っていたなんて話すらあるくらい。もうこの時点から、絶望的な情報格差や知識格差があったんです。 私自身、そこまで詳しいわけではありませんので、調べてみた印象でしかありませんけど、彼最大の失敗は、自分の思い描く未来を実現するのに必要な知識量や情報量が、国民にも備わっているという前提で動いていたことに思えます。あるいは、オリガルヒがそういう風に彼を利用したようにも見えますね。(識者はご教示下さいませ) こんな感じでツッコミどころは多々あれど、一応はロシアをヨーロッパの一員とすることこそが正しい道だと信じていた彼なので、(後から振り返れば)この瞬間こそがロシアを西側陣営の価値観に引き入れる、最大最後のチャンスだったと思われます。前回のコメントでもツッコミ頂戴しましたが、西側諸国がもうちょっと彼をサポートしてやってくれていればと思うのは、これ以降にそのチャンスが閉ざされてしまうからですね。 それはさておき、西を目指した彼なので、過度な情報統制は行いませんでした(大統領権限を拡大しようとして失敗はしてますが)。彼に対する批判はロシア国内で普通に行われており、1996年6月の大統領選では、なんと共産党候補のジュガーノフにさえ遅れをとったほど。決選投票で辛うじて巻き返しに成功し、大統領の座をなんとか失わずに済んだってレベルの大苦戦でした。この2ヵ月後に何があったかは、前回ノートをご確認下さい。こうした流れが、チェチェン紛争に対する反戦運動を盛り上げることになります。ただ、念のため私見を述べておくと、この姿勢は健全です。平和的デモに銃弾で応じた「血の日曜日事件」や、数千万人を地獄行きにした粛清男に比べれば、どれほど「まとも」かという話ですよ。 残念ながらと言うべきか、それとも当然だと言うべきかはわかりませんが、彼のこうした方針は結局実を結びませんでした。彼の指導に対して国民が感じていたことは、端的にいうと「期待を裏切られた」「ロシアという国が弱くなった」「ロシアらしさが失われた」といったものです。そして、こうした国民感情を巧みに利用したのがプーチンだったと言えるでしょう。 プーチンが就任当初から一貫して掲げていたことは「強いロシア」の復権です。エリツィン体制下でロシアの弱体化を見せつけられてきた国民に、このスローガンはぶっ刺さりました。そして、そのことを形として見せつけたのが、第二次チェチェン紛争だったのです。 つづく
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  • 5月14日

    続報かな

    半月ほど前、ロシアのドローン部隊就職説明会がハッキングされたというニュースをご紹介しましたが、そのハッキング内容そのまんまの事例が出てしまったというニュースが、このたびウクライナで報道されました。 https://militarnyi.com/uk/news/na-luganshhyni-likviduvaly-rosijskogo-studenta-yakogo-zaverbuvaly-do-vijsk-bpla/ 23歳の学生さんが、ロシアのドローン部隊に入隊し、ハルキウで戦死したというニュースになります。出身はブリヤート共和国。バイカル湖の東ですよ。読んでいて切なくなる記事ですね。 ウクライナ戦争に参加した以上、ウクライナ人を殺傷する覚悟は持っていたのでしょうから、こうなることも仕方がなかったとは思います。ただ、未来ある学生さんが優先的に亡くなるのは、どう考えても間違っている。それより先に命を投げ出すべき人々が、モスクワには掃いて捨てるほどいるでしょうに。ご冥福をお祈り申し上げます。 ロシア人・・・というかモスクワ人と言うべきだと思いますが、自分たちだけは安全圏で、異民族の若者を侵略戦争に駆り出すような国に、まともな未来があるとは思うなよって思いますね。はい。
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  • 5月14日

    Shotgun Drone

    今日は【ロシア精神史】の方はお休みします。単純に書く気力がないだけ。すみません。 代わりにはならないと思いますが、こんなものを見かけました。たった1機が20機もの敵ドローンを撃ち落とすの図。 https://www.youtube.com/watch?v=swoqwyJhLaw 迎撃型ドローンの最先端がコレって感じですね。特徴は ・自動で敵ドローンに対して最適な狙撃ポジションを確保する ・一機撃墜しただけでは終わらず、弾か燃料が尽きるまで連続して迎撃任務を遂行できる ・任務完了後帰還して再利用できる だと思います。 これ以前のドローンは、迎撃するごとに一機消耗が基本でした。要するに体当たりが基本戦術だったわけです。これは敵と味方のコスト交換比が(ドローン同士に限って言えば)ほぼ1:1であることを示しており、その現状を放置すると、物量を多く抱えた側の勝利となります。構図だけ見るなら、<ロシアの国力+中国の支援>vs<ウクライナの国力+EUの支援>で勝負しているような感じでしょうか。まあ、だから膠着せざるを得なくなっているんですけど。 そしてこの膠着を打開するのは、コスト交換比を改善する新技術ということになります。本動画の、一機で敵を何機も破壊できるドローンなんてのは、まさにその典型なんですね。(ちなみにFPVドローンではドローン1機に操縦士が一人必要ですが、そういうところも本機は改善されていることになります。ただし、高高度ドローンや超高速ドローンは迎撃できないなどの限界も、当然あります) アメリカがイランを攻めあぐねている理由のひとつもこれでして、現在のアメリカの海上戦力では、イランのドローンをPAC3で迎撃などという、暴挙にも等しいコスト交換比で応戦せざるを得ないんですね。500万円の兵器を千発単位で撃ってくる相手に対して、一発6億円の兵器で迎撃していたら、資金がもつはずがありません。おまけに、生産速度面でもそれくらいの差がある。(日産数3~6発vs日産数100~1000発みたいな世界です) ウクライナ戦争はコスパ戦争の側面を持っています。それは技術革新を起こした方が勝つ戦争なのでして、ロシアが最も苦手とする分野でもあります。数回後に理由も含めて書く予定ですので、それまで頭の片隅にでも留めておいて頂けると幸いです。
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  • 5月13日

    ロシア精神史⑥(内向編その4)

    今回からは(多分3回かけて)、ロシア指導者や国民の言動、更には(ロシアにとっての)周辺国の動きを概観し、ここまでの分析を現代ロシアに投影しながら確認していこうと思います。当初2回でまとめる予定でしたが、意外と書くことがあって増えちゃいました。すみません。 ソ連崩壊によって、それまで「ロシアの周辺」「属国」扱いされてきた地域は、独立のチャンスに恵まれました。その中でも特に上手く立ち回ったのがエストニア・ラトヴィア・リトアニアのバルト三国。彼らはソ連崩壊直後の、ロシアがまだ財政的にも軍事的にも余裕のないタイミングでEU加盟に乗り出し、2000年代前半には無事加盟を成功させます。この見切りの早さこそが、現在泥沼の戦争に引きずり込まれているウクライナとは、決定的な明暗を分けたと思います。 一方、この流れに乗らなかった国々(具体的には西から南回りに、ベラルーシ、ウクライナ、モルドバ、ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャン、カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギスの11カ国)は、ロシアを中心に独立国家共同体(通称CIS)を結成することになりました。1991年12月のことです。このうち、ジョージアとウクライナはその後に離脱(それぞれ2009年と2018年)、トルクメニスタンは2005年に永世中立国と認められたことで準加盟国に移行、そしてつい最近(2026年4月)にモルドバが脱退を表明するといった感じで、こちらは着実に結束が崩れつつあるのが現状です。 まあ、理由は簡単でして、ロシアはソ連崩壊によっても、彼らのアイデンティティを放棄しなかったんですよ。すなわち、CIS加盟国を独立した主権国家とは認めず、主権を持たないロシアの緩衝地帯(すなわち従属地域)だと見なしたんです。言い換えれば内政干渉を繰り返した。もちろん国際法でそんなことは通りませんが、ロシアはソ連の継承国として拒否権持ってますからね。言わば、彼ら自身が国際法だと。少なくともロシア指導者は、そういう考え方を持っていると言われても仕方のない言動を繰り返してきました。で、その本性が明らかになるにつれて、CISに身を置くのは危険だと、多くの国々が感じ始めたわけですよ。 では、その歴史を見ていきましょう。 ソヴィエト崩壊直後、ロシアを率いることになった大統領はエリツィンでした。そして、彼が行った最も大きな軍事作戦が、第一次チェチェン紛争(1994年~1996年)です。 チェチェンの場所は是非地図でご確認頂きたいのですが、ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャンといった地域に隣接します。具体的にはジョージアの北に出っ張った瘤状の土地がチェチェンです。首都はグロズヌイ。以前ご紹介した、アゼルバイジャン航空8243便墜落事故の飛行機が向かっていたのがこの街であり、この事件をきっかけにしてアゼルバイジャンは反ロシアへと舵を切りました。この辺の地域がいかに不安定かわかるでしょう。 地域性をご理解頂いたところで、1991年11月の情勢に目を向けると、ソヴィエト連邦の崩壊が色濃くなったこのタイミングで、チェチェンはソヴィエト連邦離脱法を根拠に独立を宣言しました。国歌のタイトルは『死か自由か』。もうこの時点でお察しですよね。 彼らは1944年にソ連によって文献その他の歴史的資料をすべて廃棄されてしまった民族です。いわゆる強制同化政策の被害者。そんな彼らは、独立を機にチェチェン文化の復活を目指し、キリル文字からラテン文字への回帰も試みました(チェチェン語ではアラビア文字→ラテン文字→キリル文字と表記が強制的に移行され、ロシア語を第一言語とする同化政策が進められてきました)。以前、ロシアの上流階級ではフランス語を公用語としていたといったエピソードをご紹介しましたが、文字と公用語というのは民族の根幹なんですよ。当時のロシアがいかにヨーロッパに憧れていたか、こうした独立運動との比較でもおわかり頂けると思います。1994年にはソ連時代からの国名であったチェチェン共和国を名乗ることもやめ、チェチェン・イチケリア共和国と改名しました。どれだけロシア支配を脱しようとしていたかが伝わってきますね。 しかし、ロシアにとってこの動きは死活問題でした。というのは、ロシアという国は「境界のない国」であり、その境界の内側を支配域とすることで安全保障と考えてきた国だからです。その結果、シベリアなどという不毛の土地にまで侵攻し、数多くの少数民族を併合してきた歴史があるのです(連載第二回参照)。すなわち、ロシアはその内部に、膨大な数の「ルーシではない民族」を抱え込んでしまっています。そして、それらもひっくるめて同朋であるという論理を振りかざして同化を促し、自分たちの一部(=緩衝地帯)に取り込む口実として利用してきた国なのですね。 ちなみに、これは日本ですら無関係ではありません。2018年にプーチンは「アイヌ民族はロシアの先住民(すなわちルーシ)である」という考えをはっきり明言しています。こういう理論でその地域はロシアの周辺地域であると一方的に認定し、民族解放を謳って戦争をしかける。これがロシアエリートの数百年にも及ぶ伝統なのです。そして、その現代版事例とも言えるのが、現在進行中のウクライナ戦争(における同朋解放理論)です。 このロシアン理論を形の上でも示しているのが、ロシアには「共和国×24」「州×48」「クライ×9」「自治管区×4」「連邦区×3」「自治州×1」といった具合に、行政区が89も存在しているという事実です。(数字に多少の前後はあるかもしれませんので、念のため)以下ではこれらが何を意味するのか見ていきましょう。 「州」はロシア系住民が多いので、まあそこまで危険視されてません。「自治管区」はこの州の内部にある、特定の民族を保護するための地域という位置づけです。 「連邦区」は際だって発展している都市に与えられている特権です。モスクワ、サンクトペテルブルク、セヴァストポリ(クリミア半島の南端)にのみ認められており、都市単体でありながら「州」と同じ権限を持っています。 「自治州」は東端にあるユダヤ自治州のこと。ヒトラーとは違うんだというアピール地区ですね。実際に住んでいるのはロシア人とウクライナ人で、ユダヤ人は3%ほどしかいないそうです。 「クライ(Krai/Kraj)」は辺境という意味をもつ言葉でして、ロシアの中心から離れた場所にある広大な土地といった感じです。日本語だと「地方」と訳されることが多く、前回紹介したレポートの中だと「ザバイカル地方」がまさにこれです。中味は「州」とほぼ同義。カムチャツカ、ハバロフスク、クラスノダールといった有名どころなら耳にしたことがあるかもしれません。ちなみにウクライナは後述の「共和国」扱いでしたが、ウ「クライ」ナという言葉からわかるように、彼らはウクライナを「周辺地域」と認識していたことが、こうした事実からも読み取れるのです。 でまあ、問題は「共和国」なんですね。ロシアが併合・同化してきたタタール人(連載第一回参照)やチェチェン人(上述)のための特別な地域で、憲法や公用語も制定できます。これらは、ロシアの拘束が緩んだ途端、独立していくだけのポテンシャルを十分に秘めている行政区です。こんなもんが24もある。 もし現在、ロシアが本当に解体されてそれぞれの民族が独立できたら、そこに誕生する国家は100を超える可能性すらあると言われます。実際にそれだけの国が独立できることはまずありませんが、それだけの火種を抱えているのです。ソ連時代の目線で見れば、その筆頭格がバルト三国であり、CIS加盟国であり、チェチェンなどの共和国だったんですね。 といったところでエリツィンに戻りますが、彼がチェチェンの独立を認められる立場だったかと言えば、そりゃ無理なんです。認めちゃったが最後、だったら自分たちもと蜂起する自称独立国が後を絶たないとわかっている。多方面での独立運動が加速して、国中に戦力が分散されたら、もう手に負えなくなってしまいます。 だからこそエリツィンは、彼らを抑えつけることのできる武力を、国内外に見せつける必要がありました。1991年11月、内務省治安維持部隊の派遣は、まさにそのお披露目とも言えるものでした。そして失敗します。チェチェン独立運動に対する最初の鎮圧活動は、あろうことか敗北に終わってしまったのです。 迎えた1994年、エリツィンは二度目のチェチェン鎮圧に乗り出します。これが第一次チェチェン紛争です。しかし、ここでも想定外の大苦戦。国内での反戦世論も高まり、1996年の8月に休戦条約が結ばれ、1997年には完全撤退に至りました。 こうしてロシア軍の壊滅的な弱体化を世界に晒してしまったエリツィンは1999年12月31日に退陣。かつて世界第二位の軍事大国だったソ連の後継者としてあるまじき大失態と言わざるを得ませんでした。このままでは、ロシアが内部の独立勢力を抑えきれなくなるのは時間の問題。アイデンティティ崩壊の危機。そんな空気感の中で彼の後を継いだのが、「強いロシア」の復権を掲げて登場したプーチンだったのです。 つづく
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  • 5月11日

    ロシア精神史⑤(内向編その3)

    対ヨーロッパコンプレックスを払拭し、世界のリーダーとして振る舞い始めたロシアにとって・・・少なくともロシアエリートにとって・・・冷戦時代はプライドが充足されつづけた時間でした。何しろ「資本主義の間違いをヨーロッパに教えてやる」という立場で、アメリカと世界に二分する立場へ躍り出たのです。世界中が、ロシアの一挙手一投足に注目していたのです。世界のすべてが、ロシア抜きには何も決められなくなったのです。 この「人生の絶頂」状態を手に入れるに当たり、ロシアは国のすべてを賭けた二度の大博打に、オールイン(いわゆる全ベット)で連勝しました。前回最後に触れた世界恐慌と第二次大戦ですね。 世界に覇権思想は数あれど、それが実質を伴ったものは、決して多くありません。ロシアはその地位まで登り詰めることに成功したのです。残った最後の敵はアメリカ。この場でアメリカにも勝利できれば、世界で最も優れた民族はルーシであることの証明となるでしょう。こうして最後の大博打、すなわち冷戦へのオールインが始まりました。 しかし結果は御存知の通り。社会主義陣営大敗北の末、ソヴィエト連邦は消滅です。わからせるつもりが、わからされてしまった。人類の未来を先取りしていたはずのロシアは、実は道を踏み外していただけであり、「教えてやっている」はずのヨーロッパの方が、まだマシな選択をしていたことが、はっきりしてしまったのです。(個人的には、資本主義が正しいと言うつもりはありません。ロシアが世界に突きつけた、資本主義の矛盾それ自体は正当な批判です。ただ、その対案たる社会主義が、資本主義以上に大きすぎる欠陥を抱えていたというだけ・・・) ですが、(ロシア精神史的に見れば)本当の問題はここからです。ロシア国民が、ロシアエリートが、この現実を受け入れることが果たしてできるのでしょうか? できるはずがありません。それを受け入れれば、ロシアはソヴィエト連邦巨大経済圏の盟主ではなく、ましてや世界のリーダーでもなく、モスクワ周辺を支配する田舎国家に逆戻り。すなわち、「モスクワ大公国」にまで時代を逆行することになるからです。 先日のコメント欄に > 現代の飛行機が飛ぶ世界観でその感覚で緩衝地帯を設定しようとするのはナンセンス と頂いているのですが、彼らが緩衝地帯(=ロシアの周辺地域)をなくせないのは、軍事的理由(外向精神理由)だけではありません。むしろ、内向精神理由にこそその本質があります。緩衝地帯を失うということは、世界の中心にいるロシアとその取り巻きという世界観を失うことと同義であり、ましてやその周辺国がEUへと擦り寄ることは、積年のコンプレックス対象(=ヨーロッパ)の方がやっぱり正しかったと再評価されることそのものであり、それはせっかくロシアが手に入れたアイデンティティ(詳しくは前回参照)を喪失することになるからです。 いえね。客観的に考えれば、そんなアイデンティティなんてもうどこにもないんですよ。信じているのはロシア人だけ。社会主義は失敗であり、ロシアという国には世界が真似したい(こういう国になりたい)という魅力がなく、要するに、もはや誰も世界の最先端(すなわち人類国家の進むべき未来を体現した国)だなんて思ってないんです。むしろ、世界のお邪魔虫だと思われている。けど、そんなロシアの姿をロシア国民やロシアエリートが直視できるかと言えば、それは断じてノーなんです。今現在のロシアの姿は本来のものではなく、ソヴィエト時代のロシアこそが正しい姿だと信じているのです。たとえそれが、幻想どころか妄想のレベルであったとしても。(実際、ソ連時代を知っているロシア国民の中には、あの頃に戻りたいという人が一定数いますし、その辺のいきさつについては次回から3回かけて書く予定です) この確信を如実に示しているセリフが、「(ソ連崩壊は)20世紀最大の地政学的悲劇」というプーチンの言葉。2005年の年次教書演説で語られていますね。彼の頭の中にあるロシアは、ソヴィエト連邦という巨大経済圏の盟主として各国に「教えてやる」「導いてやる」という、偉大なるルーシ民族国家の姿でしかないのです。だから、それが失われてしまった過去が悲劇に映る。そして、その栄光を取り戻そうとする。ソ連崩壊という事象そのものが、(ロシアエリートにとってみれば)歴史のバグなんですね。 その一方で、実は彼らも理解はしているのです。ロシアという国に、人々を惹きつける魅力などないのだということを。少なくとも、その魅力においてヨーロッパに劣っているのだということを。民族ナショナリズムも市民ナショナリズムもなく(連載第三回参照)、あるのはモスクワ中心のエリート選民思想だけ。辺境の少数民族から兵士を無理矢理かき集め、力尽くで戦場に駆り出し、後退などしようものなら後ろから銃を撃つ。そうやってモスクワ(=ルーシエリート)のために命を捧げさせる強権国家に、魅力なんてあるわけがない。暴力による脅しは、魅力のない者が弱者を従えるための人間性放棄でしかありません。 https://www.npi.or.jp/research/data/cfaa5ff055b125f14f31eb3e3b757781114b092c.pdf 一例ですが、このレポートに報告された以下の数字が一体何を意味するか。2024年段階ですらこれですからね。詳しく確認したい方は、リンクからお飛び下さい。 ①トゥバ共和国(シベリア連邦管区) 死者 48.6 人(全人口 30 万人) ②ブリャート共和国(極東) 36.7 人(98 万人) ③ネネツ自治管区(北西) 30.0 人(4 万人) ④アルタイ共和国(シベリア) 26.5 人(20 万人) ⑤ザバイカル地方(極東) 26.2 人(115 万人) ※サンクトペテルブルク市(北西) 2.5 人(539 万人) ※モスクワ市(中央) 1.0 人(1267 万人) だから、ロシア(というかモスクワ)から離れてヨーロッパに近づこうとする人々は(少なくとも相対的には)正しい。しかし、それをロシアエリート目線で見れば、「ヨーロッパ文化に誑かされた裏切者」とか「ヨーロッパと結託して偉大なるロシアに敵対する脅威」とか「ヨーロッパという敵対勢力を招き入れようとする愚か者」とか、そういう理解になってしまう。一度克服したかのように思われた対ヨーロッパコンプレックスは、自らの失敗によってヨーロッパをより強大な敵として再構築してしまったのでしょう。 たとえば、ウクライナ(コサックに起源をもつ民族国家)がEUを目指しているのは、ロシアよりヨーロッパの仲間になりたい(そちらの方が魅力がある)という判断に他ならないわけですが、それはロシアから見ると「ヨーロッパのせいで、末端が本体を無視して意思を持った」と解釈される。手足が脳を無視して動いた的な。あるいは、吸血鬼に魅了されてあっち側についたみたいな。そこにはもう、かつてヨーロッパの一員になろうと必死に足掻いていたロシアの面影すらありません。今やヨーロッパは、「ロシアが目指す世界」の敵対妨害勢力(いわば吸血鬼一族)にまで変質してしまったのです。 ですが深層心理においては、ロシアエリート自身ですら、ヨーロッパ文明に対する憧れを、未だに捨てきれずにいるのです。その象徴とも言えるのが、ゲレンジークのプーチン宮殿ってやつですね。 1400億円かけたとされるこの宮殿、内装を手がけたのはイタリア人です。アクアディスコ付きのプールにカジノ、テイスティングルームにアイスホッケー場、更にはレストランまで完備している超高級ホテル並みの設備群。しかしならが、近代スイミングプールの起源イギリスですし、アクアディスコ(照明・噴水つきプール設備)は1980年代のイタリアなどで普及したもの。カジノの起源はベネツィアであり、近代カジノの聖地と言えばモナコやラスベガスでしょう。黒海を見下ろすテイスティングルーム、ワインはフランスの文化ですね。あ、敷地内にはブドウ畑とワイナリーも当然のように誂えられてますよ。その広さ、なんと300ヘクタール。プーチンが大好きなアイスホッケーはイギリス発祥です。 ちなみに、贅沢の極みとしてロシア国民の注目を集めたのはトイレブラシとトイレットペーパーホルダーでして、トイレブラシ1本のお値段は700ユーロ、ペーパーホルダーは1000ユーロ。700ユーロという金額は、当時のロシア地方都市における平均月収を超えていました。これらも当然、内装に揃えたイタリア製であり、決してロシア製ではありません。エカチェリーナ宮殿ではスコットラント人が活躍していましたが、ロシアエリートが贅を尽くすとき、その提供元はなぜかロシアにならないのですよ。ここに、ルーシのトップでありながら、ルーシという民族それ自身を心の底からは信じ切れない鬱屈した指導者の姿が見え隠れしています。 こうして自分たちだけが豊かなヨーロッパ文化の上澄みを享受し、国民にはその姿を決して見せないよう情報統制とプロパガンダに奔走する。そして、この情報を暴露したナワリヌイ氏(すなわち彼らより遥かに情報開示とか権力批判といったヨーロッパ文化を正しく採り入れたロシア人)はきっちり殺す。この矛盾した姿勢こそが、彼らのコンプレックスの根深さを象徴しているのです。 つづく
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  • 5月10日

    訂正の補足みたいな話

    *************** *************** 【ロシア精神史③】の冒頭に、訂正とお詫びを書かせて頂いたのですが、その続報です。思ったより長くなったので、連載の隅っこに載せるのではなく、近況ノートとして独立させました。日本のメディアが報じないロシア経済に興味のある方だけ御覧下さい。 なお、元記事はアメリカの大手金融メディアであるブルームバーグが報じたものなのですが、(おそらく有料記事ですので)その内容をフィナンシャルポストがまとめてくれたものの方をご紹介します。 (元記事) https://www.bloomberg.com/news/articles/2026-05-08/russia-s-budget-gap-widens-to-record-despite-oil-revenue-boost (フィナンシャルポスト版) https://financialpost.com/pmn/business-pmn/russias-budget-gap-widens-to-record-despite-oil-revenue-boost 以下が記事の要点をAIで翻訳したもの。 > イラン戦争の混乱により、ロシアの4月の石油収入は6カ月ぶりの高水準に達した。しかし、2026年最初の4カ月間の石油・ガス収入総額は、2026年初頭のロシア産原油の大幅な値引きが重荷となり、前年同期比で38%減少した。 ちなみに、上記記事はロシアの予算全体を俯瞰したものですが、石油に焦点を当てたこんな記事もあります。 (モスクワタイムの関係記事) https://www.themoscowtimes.com/2026/05/06/russias-oil-and-gas-revenues-miss-expectations-despite-higher-crude-prices-a92699 というわけで、イラン戦争によってロシアの石油収入は好転に転じる傾向を見せたものの、2026年最初の4ヵ月間というスパンで見ると、まだまだ減収という状態のようです。 もう少し詳しく見ていくと、ロシアの財政赤字はこの4ヵ月間だけで5兆8800億ルーブルに達しており、これは年間予算の3兆7900億ルーブルを、早くも超過していることになります。このペースが続くと、赤字は年間15~18兆ルーブルになりますので(しかもロシアで特に赤字が増える12月を残している)、予算の4倍くらいまで膨らむことになりますね。 内訳として、税収が前年比4.5%減(増税しているのに減収なのは不況の影響です)、石油・ガス収入38.3%減、非石油(貴金属・資産没収等)収入10.2%増、支出(福祉を削減して戦費に回している)15.7%増となっています。非石油収入以外いいところなしですが、この規模自体が石油に比べて圧倒的に小さいので、全体への寄与は大きくありません。 これまでのロシアは、こうした赤字を国民福祉基金(NWF)の切り崩しによって賄ってきました。しかし、それも残り4割を切っています。この辺もちょっと調べると出てきますが、開戦前が1415億ドルに対して、2026年4月現在は約478億ドルだそうでして、これはあくまで「ロシアの公式発表」ですからね。どこまで信じるかはあなた次第な数字です。 余談ですが、現在のロシアでは経済分析に対して箝口令が敷かれており、食料・ガソリン価格の高騰が続くという予測は「出すな」とされています。(以下元ネタ) https://ru.themoscowtimes.com/2026/05/06/rossiiskim-ekonomistam-zapretili-prognozirovat-rost-tsen-na-produkti-i-benzin-a194709 野菜類(特にロシア人の好きなキュウリとか)は、日本の米みたいになってるんですけどね。出せば刑事罰や精神病棟行き、あるいは窓からの転落が待っている世界。同様に、経済成長がマイナスになるという予測も出すことができません。そんな空気感の中で、政府系のマクロ経済分析・短期予測センター(CMAKS)はウクライナの空爆による石油収入減を認めており、「経済成長率が半減する」(たしか1.1%見込みが0.5%になった、みたいな感じだったはず)と公表しました。 イラン戦争による石油価格の高騰でこの収支が改善するか(1/3時点で年間予算赤字を上回る赤字を叩き出しているのに、それを取り戻せるか)については、皆様で御判断下さいませ。 *************** ***************
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  • 5月9日

    ロシア精神史④(内向編その2)

    前回はロシアの対ヨーロッパコンプレックスについて、その歴史を解説しました。特にロシア帝国時代にそれが強化されてしまったところを詳述しましたが、今回はそのつづき、彼らのコンプレックスが払拭される瞬間についてです。 もうおわかりだと思いますが、千年続くコンプレックスの末に、彼らがようやく掴んだアイデンティティこそが「社会主義」だったんですよ。その栄枯盛衰の歴史と、その途上で生まれてしまったロシア固有のメンタリティこそが今回のテーマです。 ロシア帝国末期と言えば、クリミアで負け、極東(日本)で負け、国家のプライドはボロボロ。遅々として進まぬ農奴解放に経済は冷え込み、そんな国家と貴族支配に対する国民の怒りは頂点でした。 日露戦争の最中に発生した「血の日曜日事件」(1905年1月)は、労働者の権利、彼らの待遇改善、立憲政治の実現、自由の拡大などを、皇帝ニコライ2世に訴えたデモ行進で起きた惨劇ですが、この要求内容は、まさに国の西欧化そのものなのです。国民は「自分たちもヨーロッパに追いつきたい」「ああいう国になりたい」と願っていたわけですね。デモ自体は平和裏に行われたものだったのですが、皇帝側はこのデモを武力鎮圧。発砲により数百人~千人(ただし当局発表では百人)の死者を出した凄惨な事件となります。 この事件の核心は、国民側にあった希望を完全に打ち砕いたことでした。国民が「皇帝ニコライ2世を相手に」訴えを起こしていた理由は、彼らの中に「自分たちを苦しめているのは貴族や官僚であり、それを救ってくれる唯一の権力者こそが皇帝(ツァーリ)である」という幻想があったからです。これが最悪の形で打ち砕かれたことは、ツァーリズム終焉の始まりとなります。 こうして、数百年つづいたツァーリへの(幻想的)信仰は終わり、労働者は自分たちの政府を作り出さねば殺されるという危機感を抱くことになりました。そんな重苦しい空気の中、9月にポーツマス条約が結ばれてロシアは日本に敗北。翌月にはニコライ2世の名前で「10月宣言」が出され、市民の参政権が認められるとともに、国会(ドゥーマ)の開設が約束されましたが、遅きに失した感があります。この9月から10月にかけて、各地では評議会(ソヴィエト)が設立され始め、これが次なる革命の伏線となりました。 ここで当時、血の日曜日事件を聞きつけて激怒した一人の革命家が、その言動を急速に激化させていったことに、触れないわけにはかないでしょう。ロシア社会民主労働党のレーニンです。彼はこの事件を契機に市民に武装することを呼びかけ、その暴力を政府に向けることを訴え始めました。もっとも、この時点でのボリシェヴィキ(後のロシア共産党)はまだ圧倒的少数だったため、レーニンも監視対象程度の扱いに留まっていました。 1914年7月、ロシアは不凍港を得るべく第一次世界大戦に参戦。しかし戦況は奮わず敗色濃厚(死者160万人!)な上に、国内では深刻な食糧不足が発生します。ツァーリへの幻想も消え失せていた国民は、今度こそ(皇帝への陳情ではなく)皇帝廃位そのものに向けたデモを開始。これが1917年の二月革命です。2月27日、ニコライ2世は退位し、弟のミハイル大公に譲位しようとしましたが、ミハイルがこれを拒否したため、ロシア帝国は終わりを迎えました。 この後を継いだ臨時政府では、内政的には国内の要望に応える民主化政策を打ち出したものの、外交的には戦争継続路線をとったことが致命傷となり、同年10月に労働者や兵士たちの離反を招きます。これが十月革命。実質的にはレーニン率いるボリシェヴィキによるクーデターですが、これでついに社会主義国家が実現してしまいました。反戦労働者と反戦兵士の手で作り上げられた国が、戦争継続などできるはずもありません。ロシア帝国は第一次大戦に参加したことによって国ごと消滅し、レーニンを指導者とするロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国として生まれ変わったのです。そして、そのレーニンの後継者となったのが(レーニンは決してこいつを後継者にしてはならないと語っていたようですが)、スターリンでした。 こうした流れを見てくるとわかると思いますが、この体制(社会主義体制)は、ルーシがはじめて「下からの意思と力」で獲得した国家体制だったのです。輸入文化でも外圧でもない、国民自身が力を合わせて作り上げた、世界初にして唯一無二の国体です。そして、この革命には精神的に非常に大きな意味がありました。それが、「ヨーロッパ文明の失敗を正す」ことでした。 経済史的に見れば、社会主義革命とは資本主義の矛盾を正すものだと言われます。しかし、これをロシアの精神史的観点で見ると、これは千年にわたるコンプレックスを上書きする、千載一遇のチャンスでもあったのです。これまで甘んじてきた「ヨーロッパの後進国」という立場を逆転させ、「ヨーロッパ資本主義の失敗を正して、彼らを教導する最も進んだ国」へと躍り出ることを正当化する理論こそが、社会主義思想だったからです。 結果どうなったか。 前回の冒頭にも書いた通り、自分たちこそが世界の中心だと勘違いし始めちゃったんですよ。自分たちが頂点、周囲は属国。中味だけ見れば中国の華夷思想に似ていますが、これを指導者だけでなく国民までもが共有しちゃったんですね。こうして、ベラルーシもウクライナもチェチェンもアルメニアもカザフスタンもウズベキスタンもエストニア・リトアニア・ラトヴィアも、すべては偉大なるロシアの属国(周辺地域)という考え方に染まっていく。この考え方は、「ヨーロッパと関係して世界の歴史に関与できるルーシの国はロシアだけであり、周辺地域は周辺地域に過ぎない(=独立した国家意思を持ってはならない)」という結論を導きます。これこそが、ソヴィエト連邦によって獲得され、現代ロシアにも引き継がれているアイデンティティそのものなんですね。彼らが手に入れたアイデンティティは、「ロシアこそが世界の進むべき道を指し示すリーダーである」という魅惑的すぎる麻薬だったわけです。こうしてソヴィエト連邦は、世界の歴史に華々しく名乗りを上げました。 運がいいのか悪いのか、ソヴィエト連邦は当初快進撃を続けます。まずは世界恐慌時代。資本主義陣営が(勝手な自爆で)不況に苦しむ中、計画経済(第一次五カ年計画)を推進していた社会主義連合は、この不況の影響を受けずに、重工業を発展させることができました。そして直後に始まった第二次世界大戦。先日コメントにも頂きましたが、ロシアは焦土作戦と自国の兵士を消耗品のように使い捨てるという無茶苦茶な戦術を駆使して戦勝国へと躍り出ます。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/19/Yalta_Conference_1945_Churchill%2C_Stalin%2C_Roosevelt.jpg この写真を見たことのある人は少なくないでしょう。チャーチル、ルーズベルトという欧米のリーダーに並んで写るスターリン。ヤルタ会談のこの写真こそは、ロシア国民の承認欲求が満たされた・・・すなわち、世界第一線のリーダーとして認められたロシア人という、ロシア千年の夢を実現した瞬間の記録だったのです。 つづく
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  • 5月8日

    ロシア精神史③(内向編その1)

    *************** *************** 訂正です。 以前、イラン戦争によってロシアが原油高の恩恵を受けていることに対して、ウクライナからの港湾設備空爆による損害でその恩恵は帳消しになっているのではないかと書いたのですが、最近カーネギー国際平和基金から統計結果が出まして、ロシアは原油高でかなりの得をしているようでした。石油収入が2月から3月で倍くらいに跳ね上がり、3月の収入は190億ドルとされてますので(つまり2月は100億ドル程度だったと推定される)、開戦前後で100億ドルほどの増収を得た形です。これに対して、ウクライナによる石油施設への空爆が与えた損害は数十億ドル規模と推定されており、これを差し引いても数十億ドル得してますね。今後ウクライナが更に石油関連施設を叩き、月額100億ドルの損害を与えるところまでいけば、増収分が吹き飛ぶ計算です。お詫びして訂正致します。 *************** *************** 今回からは、ロシアという国が内向きにどんな感情を抱えているかをまとめて参ります。結論を最初に書いておくと、ヨーロッパへのコンプレックスを拗らせまくり、その反動で自分たちこそが世界最高の民族であるという自意識過剰から抜け出せなくなってしまった残念集団、それがロシアのエリートです。 自分たちこそが世界の中心という思想は、別にロシアだけのものではありません。選民思想を掲げるユダヤ人、産業革命期のイギリス、そのイギリスから生まれた現在のアメリカ、あるいはナポレオン時代のフランスにも見られますし、漢民族の「華夷思想」、更にはその影響を受けて朝鮮半島に広まった「小中華」にも近いものがあるでしょう。しかし、ルーシの覇権思想にはこれらと決定的に違う点がありました。今回はその辺に注目しながらお読み下さい。 連載1回目で解説した通り、ルーシの起源は9世紀です。もうこの時点で、キリスト教に対してさえ800年以上の遅れをとっているわけですね。宗教(東方正教会)も輸入品であり、彼らに固有のものではありません。ルーシの文化は、そのスタート地点からヨーロッパにかぶれていたのです。 この点において、(正当性はさておき)独自の歴史観を持つ「華夷思想」「小中華」とは、民族的なバックボーンが異なります。すなわち、漢民族には儒教・道教といった道徳観、科挙などの官僚体制、漢字文化といった共通項が(よくも悪くも)独自に醸成されていったのに対して、ルーシのそれは輸入品だったわけですよ。ユダヤ教で結束されているユダヤ人のような強さもありません。遠いご先祖様の時代に、内から生まれ育った宗教・文化には民族ナショナリズムを支えるだけの強さがありますが(この点では日本も同様)、ルーシの東方正教会にそれはないんです。力で制圧してから宗教を輸入して宥和を図り、原住民との同化を果たしていったそのプロセスは、民族ナショナリズムの国家として成立する難しさ(基盤的脆弱性)を最初から抱えていました。 かといって、市民ナショナリズムを醸成できたかというと、そちらの道にも困難を抱えていました。市民ナショナリズムの成功国とは、上述の例で言えばイギリス、アメリカ、フランスなどです。市民ナショナリズムの根幹は、そこに暮らす者たちがそれぞれ同等の自由・平等・権利を享受することで生まれる連帯感にあるわけですが、これを達成するには経済的な豊かさ、すなわち社会全体で循環する資金の流れ(=富の分配)が必要不可欠です。ロシアの土地は貧しかった上に、不凍港(すなわち海上輸送路)を持てず、経済を発展させる余地が小さかったせいで、この構造を作り出すこともできませんでした。 こうして、ロシアはヨーロッパへのコンプレックスを強めていくことになります。ヨーロッパの真似に突き進むんですよ。異国文化の真似という意味では朝鮮半島の「小中華」にも近いところはありますが、「小中華」は漢民族が満州族に制圧されてしまったという失敗を目の当たりにして生まれた思想(すなわち中国に見切りをつけて生まれた思想)であったのに対し、ロシアのコンプレックスはヨーロッパの成功を見せつけられ続けた結果であった点が、決定的に異なります。 連載第一回で、 > 「ロシア・ツァーリ」時代と「ロシア帝国」時代で最も大きく変わったことについては、連載三回目で書く予定 と書きましたが、この答えは、ロシア帝国時代に入りヨーロッパへの憧れが色濃く出たという点に尽きます。たとえば18世紀から19世紀(日露戦争の頃まで)のロシアでは、上流階級で使われていた言語はフランス語です。この頃のロシア(帝政ロシア時代)は、ヨーロッパの真似に奔走していました。何しろ、産業革命や帝国主義が成功し、ヨーロッパ諸国が世界の中心にいた時代です。自分たちもその制度や文化を採り入れようと必死だったんです。すなわち、彼ら自身が「欧州列強」の一員であることにアイデンティティを求めていたということです。 わかりやすいのが、18世紀のエカチェリーナ2世(在位1762年~1796年)でしょう。彼女は西欧人を多数招き入れ、自国への取り込みを図りました。スコットランド人の建築家チャールズ・キャメロンを招いて有名なエカチェリーナ宮殿に「瑪瑙の間」を作らせ、文化人を気取って楽器演奏したり、フランスの思想家であるヴォルテールと書簡のやり取りなんかまでしていたわけですよ。これが俗にいう「啓蒙君主」ってやつ。教育現場では「国民の教育や法制度の近代化に力を注いだ」程度で済まされちゃう話ですけどね。そこにはヨーロッパ文化に対する強烈なコンプレックスが滲み出ているのです。 結果、どうなったか。1773年にプガチョフの反乱(いわゆるコサックの反乱)が発生し、これ以降は国民への弾圧へと舵を切ることになります。民族ナショナリズムも市民ナショナリズムも育つ土台のない国土では、高度な教育は独立機運の上昇にしかなりません。ヨーロッパの真似をしようとして、見事に失敗しちゃったわけです。そして学んだことが「国民に知恵をつけさせてはいけない」「国民に自由を認めてはいけない」。啓蒙活動は誤りだったと反省することになり、近代化は極めて中途半端な状態で放置されることになります。 こうしてロシアには、貧困と近代化の遅れがそのまま残り、ヨーロッパ(すなわち世界)の歴史の流れから取り残されていきます。その象徴が農奴制の残留でした。国民は、職業の自由も移動の自由も教育も十分に与えられないまま、土地に縛り付けられ続けました。それは軍隊を近代化できないということ。ヨーロッパの軍隊が近代化した一因は、農村から都市に移動してきた人員による労働力が、工業を促進したことですからね。貴族の利権のために農民の移動を制限していたロシアでは、近代化など起こりようがないのです。そんな農奴を徴兵してイギリス・フランス連合軍に挑んだクリミア戦争では、必然的に惨敗。この敗戦から近代化の遅れを痛感させられた時の皇帝アレクサンドル2世は、1861年にようやく農奴解放令を出すのです。 それから約40年後の1897年、ロシア帝国初となる国勢調査が実施されました。結果、農奴身分の名残とも言える農民の割合は、なんと77.8%。安西先生がいれば「まるで成長していない」と絶望を吐露する場面です。そして1904年から始まる日露戦争で、再び惨敗。1700年代からずっと、ヨーロッパの産業革命を目の当たりにして、それを採り入れようとしてきた国家が、1850年を過ぎてからようやく近代化に乗り出した極東の新興国に、まさかの敗北を喫してしまったのですよ。 近代国家を自認していながら、その実体はまるで伴っていなかった後進国ロシア。憧れ続けたヨーロッパから、「野蛮」「田舎者」「非ヨーロッパ」「時代遅れの専制君主国」と後ろ指をさされる屈辱。いつまで経っても見えてこないアイデンティティ。ここに、彼らのコンプレックスは頂点を極めることになります。 つづく
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  • 5月6日

    ロシア精神史②(外向編)

    前回で世界史的なことは説明し終わったので、今回から現代ロシアに連なる精神的な歴史について話していこうと思います。ただし宗教について語りたいわけではありませんので、そちらについては前回で大雑把に語らせて頂きました。現在の東方正教会は、もはやそこらのカルト宗教以上にイカレた発言を繰り返しておりますが、深入りする予定は今のところありません。この連載では、ロシアが歴史的に育んできた(というかそうならざるを得なかった)外向的・内向的精神作用が、ウクライナ戦争とどう結びついているのかを分析することを目的としており、そこに対する東方正教会の寄与は、プロパガンダ機関以上の意味を持つとは思えないからです。 さて、今回のテーマは「広大すぎる不毛な土地」です。世界最大の国土、その大半が雪原というこの特殊な環境は、彼らの精神に何をもたらしたのでしょうか。 答えを先に書きましょう。「境界のなさ」です。 どこまで行っても同じ景色が続く土地ということは、これといった目印がないってことと同義なんですよ。おまけに、ウクライナの穀倉地帯のような豊かさもないため、農耕に不向きなんですね。ということは、田畑を作るわけではないので、自分の領域ってやつを明確化するインセンティブもありません。現在では石油や貴金属といった資源に目をつける人がいるのは当然ですが、当時は永久凍土の下にそんなものが眠っているなど、知る由もなかった。 これを彼らの目線で言えば、「どこまでを自分の縄張りと言えるか」が曖昧になるということです。というか、そもそも縄張りを広げることにあまり意味がないようにすら見える。 そんな彼らの精神構造に、大きすぎる影響を与えたと思われる事象が存在します。それが「タタールの軛」です。(わからんって方は前回のノートに戻って下さい) モンゴルの騎馬民族がどうやって現れたか。「どこまでも同じに見える地平線の向こうから」「ある日突然」現れたんですよ。それを可能にしたのは、当時世界の最先端をゆくモンゴル軍の騎馬運用があったわけですが、それは趣旨が外れるのでここでは語りません。知りたい方は調べるなり、調べるなり、調べるなりして下さい。 ひとつ確実に言えることは、当時のモンゴル軍とキエフ大公国とでは、「距離感」が違いすぎたということです。モンゴル軍の馬は非常に丈夫で粗食にも耐え、樹木の葉っぱですら食糧にできました。その様子を見たヨーロッパ人が、草しか食べられない自分たちの馬と比較して驚いたという記録が残されています。この馬は武装した兵士を乗せてなお、1日20~30kmを走ることができたのでして、この馬をフル活用した軍隊と情報機関、物流網を整備した人物こそが、チンギス・ハンとその息子オゴタイです。キエフ(現在のウクライナの首都キーウ)のあたりで農耕に勤しんでいた人々とは、「近場」の意味も「遠方」の意味も根本的に違ったのです。 こうして、ウクライナのあたりで農耕に勤しんでいたルーシは、「地平線の向こうからやって来る敵」というトラウマを植え付けられることになります。そして、モンゴルの脅威が去った後のルーシには、ひとつの難題が突きつけられることになるのです。 それは「この広大すぎる土地のどこまでを支配すれば安心できるのか」でした。 先にも書いた通り、この土地には境界がありません。どこまでも針葉樹林(=生物多様性の乏しい緑の砂漠)と雪原(生物自体がほとんどいない凍土)が広がるのみです。しかし、放っておくと、いつかまたモンゴル軍のような侵略者が、「ある日突然」「地平線の向こうから」やって来るかもしれない。 そこで彼らも決断せざるを得なくなります。ここに誕生してしまった精神性こそが、「安心できるまで境界線を遠ざけよう」です。2022年、プーチンはウクライナ侵攻に当たって「守るための拡大」という安全保障理論を展開していますが、その根源はまさにここにあります。 この精神性は、ロシア史においても、すぐ目に見える形で現れました。それが16世紀のイヴァン4世に始まる「ロシア帝国(ロシア・ツァーリ国)」という国家観であり、これを実行したのが1581年に始まるシベリア遠征でした。この精神性は脈々と受け継がれ、ロシアの国土は19世紀にはアラスカにまで到達してしまいます。海を越えてなお支配地を広げようとした(境界線を遠ざけようとした)わけですね。 現代の言葉で説明すると、ロシアにとっての安全とは、他国と協定を結んで境界線を明確にすることではありません。すなわち、ルールを構築してそれを遵守することではありません。彼らにとっての安全とは「境界を遠ざけること」、言い換えるなら支配領域を広げられるだけ広げ、そこに住む者の主権を奪い、従属させ、もって緩衝地帯とすることです。境界の向こうからは危険しかやって来ないという恐怖心。そして境界は明確に線引きできるものではなく、太い帯のようになっているという世界観なんでしょう。 プーチンがウクライナのNATO加盟を拒絶して侵攻を開始したのも、ウクライナという緩衝地帯が消滅するのを恐れてのこと。これは「ウクライナの主権は認めない。お前たちの存在意義は、ルーシのための緩衝地帯として本体を守ることだ」という世界観に他なりません。そしてそのために、ロシア本土を守る従属国の樹立を目指し、独立派(親EU)のゼレンスキーを排除して、親ロシア派のヤヌコーヴィチを返り咲かせたかった。それが(失敗に終わった)キーウ電撃戦の目的でした。 といっても、ウクライナはソヴィエト崩壊でロシアと同時に主権が認められ独立した国家であり、ロシアとウクライナは国際法的に完全に対等な主権を有します。少なくとも、ロシアがウクライナに内政干渉できるルールは存在しません。あくまでロシア人的世界観に基づいたマイルールでしかないのであって、その本質は「ウクライナはロシアと同じルーシの国であり支流のようなものなのだから、緩衝地帯としての責務を全うしろ」というジャイアニズムでしかないんですけどね。「俺の国は俺のもの。お前の国も俺のもの」です。ただ、これを彼らの理論に翻訳すると「ウクライナは俺のものだから、ウクライナがNATOやEUに近づくことを防ぐのは、(ウクライナへの攻撃ではなく)自国の防衛だ」という風に変換されちゃうわけです。 では、これがプーチン(ロシアエリート層)の被害妄想かというと、実はそうとも言えないのが厄介なところ。ロシアは近代以降、ヨーロッパから二度の侵略を受けているからです。ひとつはナポレオン、もうひとつはヒトラー。現在のロシアでは、それぞれを祖国戦争、大祖国戦争と呼んでいます。特に5月9日は大祖国戦争の戦勝記念日でして、ここ最近では毎年のように軍事パレードが行われることになっています。(今年はどうなることやら) つづく
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  • 5月5日

    ロシア精神史①(基礎知識編)

    最近、ロシアの歴史(特に近代史)をざっと学び直してました。その中で特に印象に残ったことを中心にまとめておこうと思います。まあ、備忘録ですね。 今回は(次回以降書く精神史の下地を整えたいので)世界史的なことをざっとまとめていきたいと思います。 ロシアの先住民はスラブ系民族、フィン・ウゴル系民族、バルト系民族などです。6000年前の人の痕跡が発見されているようですね。基本的には狩猟民族だったと思われますが、5世紀頃から徐々に東スラブ人が定住を拡大させ、6~7世紀には農耕社会が形成されます。この頃は多部族混成の部族社会と思われます。 世界史的にロシア(ヨーロッパの東方)が注目され始めるのは9世紀。862年にリューリクというノルマン人がこの地に進出し、先住民のスラブ人を支配して新国家を樹立するに至ります。これが「ロシア領域初の国家」であり、現代ロシアの起源とも言われるノヴゴロド国です。(ちなみにここでいうノルマン人とは、いわゆるヴァイキングのことですが、特にロシア方面に進出してきたヴァイキングをヴァリヤーグと呼びます。侵略された側のスラブ語では、ヴァイキングをこのように呼ぶため、特にこの時代の侵略者を限定してこの名前が割り当てられているようです) 882年にはノヴゴロド公オレグがキエフ(現在のウクライナの首都キーウ)を占領し、これで「キエフ・ルーシ」とか「キエフ大公国」と呼ばれる時代の基礎が整います。ここで初登場した「ルーシ」とは、当初は上記のヴァリヤーグを指す言葉だったようですが(諸説あり)、その後彼らは現地の東スラブ人らとの同化を果たしていくことになります。このため、現在用いられる「ルーシ」という言葉は、この時代に成立したキエフ大公国(あるいはノヴゴロド国)の子孫的意味合いが強いように思われます。なお、ロシア(Russia)、ベラルーシ(Belarus)などの国名は、この「ルーシ」が語源です。 10世紀末(998年)にはキエフ大公ウラジミール1世が東方正教会(ギリシア正教)からキリスト教を受け入れました。(現在でもロシアの宗教が東方正教会なのは、この時代の遺産です)このキエフ大公国時代は13世紀まで続きますが、ここでモンゴルの侵略を受けて、ルーシ支配が一旦途絶えることになります。1200年代前半と言えば、チンギスの全盛期からその後継者達が暴れ回っていた時代ですからね。どうにもなりません。この、モンゴルに臣従せざるを得なくなった時代(概ね13世紀から15世紀まで。14世紀頃には直接支配は終わっており、従属国的な立ち位置となります)を「タタールの軛」と呼びます。 「タタールの軛」直前の12世紀頃から、キエフ大公国は分裂を始めてました。西方でポーランド王国とかリトアニア大公国なんかが成立したのも、大体この時代ですね。そんな中、「タタールの軛」という受難の時代にモスクワの地で成立した国家が、モスクワ大公国でした。 モスクワ大公国もまた、「タタールの軛」の中で抑圧されてきたわけですが、15世紀にはそれも終わります。そして迎えた16世紀、この大公国最後の国王にして、「ノヴゴロドの正統後継者」「現在に連なるロシア領の皇帝」的な立場を形成することに成功したのが、有名なイヴァン4世(イヴァン雷帝)です。 彼はモスクワから東に領土を拡大し、タタール系のアストラ・ハン国やカザン・ハン国をモスクワに組み込みました(後述)。これらの国が滅んだのは、それぞれ1552年と1556年のことでして、この直前の1547年1月に、イヴァン4世は「モスクワ大公国の大公」を改め、「全ルーシの王(ツァーリ)」を名乗っていました。自らの呼称や国号を改めたことと、その対外政策には、ちゃんと関係があったわけです。すなわち、この1547年1月をもって、モスクワ周辺の国王という時代は終わり、ロシアという広大な土地の支配者としての絶対王政的な時代が始まると見なすことができるため、これ以降を「ロシア・ツァーリ国」時代などと呼びます。この時代に成立した、ロシアに特有の専制君主体制を「ツァーリズム」と呼び、第一次世界大戦まで続くことになります。 上で少し触れましたが、(ノヴゴロド国やキエフ大公国の正統後継者という意味での)ルーシが領土を急拡大させたのは、まさにこの時代になります。1500年頃にはモスクワ周辺の支配者に過ぎなかった彼らは、イヴァン4世の時代あたりから急激に領土的野心を実行に移し始めており、1600年頃にはウラル山脈を越えてシベリアへと侵攻。1700年頃にはカムチャツカ半島近くにまで到達し、1800年代に入るとベーリング海峡を越えてアラスカにまで東征しています。このことは、ロシア精神史において極めて特徴的な意味を持っていますので、頭の片隅にでも留めておいて下さい。 ちなみに、「ツァーリ」という言葉は翻訳が難しく、本来は東ローマ帝国の皇帝やら聖書に描かれる王様を指す言葉でした。このため、イメージ的には皇帝という訳語を充てたいところなのですが、ロシア語には「インペラートル」という皇帝を指す言葉が別にありますので、ロシアのツァーリはそういうものだと割り切って下さい。 で、ルーシの君主がツァーリを名乗るのが当然だった時代に、初めてインペラートルを名乗ったのが、1721年のピョートル1世です。ここから「帝政ロシア」あるいは「ロシア帝国」と呼ばれる時代に分類されますが、ピョートル1世自身はロマノフ家の人間であり、ロマノフ家自体は1613年に最初の国王(ツァーリ)を輩出していますので、実のところこの辺の移行は結構曖昧ですね。「ロシア・ツァーリ」時代と「ロシア帝国」時代で最も大きく変わったことについては、連載三回目で書く予定ですが、領土的野心を燃やし続けた専制君主時代であったことについては変わりがありませんでした。ちなみにこの時代の東方正教会は非常に優遇されてました。 あとは皆様御存知の通り、20世紀初頭に第一次世界大戦が起こると、専制君主制は革命(二月革命)によって葬られ、ソヴィエト連邦(ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国)が成立しました。共産主義では宗教は「人民の麻薬」ですので、東方正教会には受難の時代。この時代に各家庭の中で細々と正教会の教えを受け継いだのは、お婆さん層だったと言います。ひっそりとイコンを保管し、孫たちに洗礼を受けさせ、信仰や文化を維持していたわけですね。このソヴィエト連邦は1990年頃から崩壊し、1991年にはロシア連邦として現在に引き継がれているわけですが、東方正教会は新体制の下で復活を果たし、政権の強力な支持基盤となっています。 つづく
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  • 2月26日

    投稿小説の非公開化について

    昨日につづき、受験生の皆様のご健闘をお祈り申し上げます。 さて、今投稿している作品(先月は31日間毎日更新しました)が特に読まれている気配もないので、一旦店じまいしようかなと考えていたところ、昨日はなぜかPVが一気に増えてまして、「うわ、マジか(タイミング悪っ)!?」と思っていたりします。現在の投稿時点で第二章までは完了しており、次話からは第三章に進むため、店じまいにはいいタイミングなので、様子見してたんですよね。あ、参考までにPVの様子を添付画像で載せておきます。閑古鳥ですな。 実のところ、2月末まで変動がなければ店じまいという予定でいましたので、「すげーびみょーなタイミングでPV変動来たな」という印象でしたが、以下の理由により予定通り店じまいすることに致しました。 その理由ですが、「書くのは面白いけど投稿はやりたくない」状態だからですね。毎度のことながら、数字で読まれていないことを突きつけられると、自分が面白いと思っていても、書くことそれ自体へのモチベーションにまで悪影響が出てしまう。これが最大の理由です。 だったら宣伝すればいいじゃんとも思うのですが、自分には無理。面倒。億劫。けど、読者様が増えない(というかいない)ことにはストレスが溜まる。だったら執筆が完了するまで触らない方がいいかなと。そもそも、完結してから一気読みした方が(多分)面白いタイプの作品なので、現在お読み下さっているような方々には、完結してからまとめて読んで欲しいと思っていたりもしますしね。 今のところ、100話を超えるところまで執筆が進んでいるので、執筆完了次第投稿再開するとは思います。自分で言うのもなんですが、他作品の数倍は頭使っているので(当社比)、お蔵入りにはしないはず。たぶん。盗賊ちゃんの話なんて、これに比べれば1/100くらいしか頭使ってませんからね。(その差が読者様に伝わっているかはわかりませんが) 再開は多分、年末あたりでしょうか。タイトルは(もう少し今風というか、読者ウケを狙ったものに)変えると思いますが、興味があればそちらで続きをお読み下さい。次回のカクヨムコンに間に合えばいいなくらいのつもりで書くつもりです。
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  • 2024年9月21日

    近況ノート終了のお知らせ

    タイトル通りです。 具体的な事情は伏せますが、近況ノートへの投稿を終了します。少なくともこれまでのような更新頻度で日々の所感やネタを投下することは当分ありません。一応「当分」という言葉を使っておりますが、気分的には「二度と」ですね。数日間じっくり悩んで決めましたので、衝動的というわけでもありません。 小説は今後も書き続けますが・・・まあ、色々とお察し頂けるとありがたく。 ちなみに、ID再取得後の近況ノートは、いつ間にか30万字近くも投稿しておりました。ボツや未公開の書き溜めも含めれば30万字を軽く超えています。なのに小説の方はマイナス成長という。何かがおかしい。おかしいので、よい機会だったと思っておきましょう。 今後の投稿に関しましては、これまで通り白紙です。暫く何の動きもしなくなると思いますが、裏で活動はしていると思って下さい。冬眠中とか蛹化中とか、そんな感じにご理解頂ければ。生存報告代わりに、時々応援メッセージくらいは書き込ませて頂くかもしれません。 というわけで、近況ノート目当てでフォローして下さっている方々は、さっくりフォローの解除をお願い致します。フォローバック狙いの方々も以下同文(といっても読んでないだろうけど)。 これまで駄文にお付き合い下さった皆様方には、篤く御礼申し上げます。 苔の奥底でひっそり暮らす、緩歩動物のようになりたい。水に漂うだけのプランクトンとかもいいよね。
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  • 2024年3月18日

    近況ノートは書いて消す/投稿しないから推挙する(他力本願な作品推薦)

    【近況ノートは書いて消す】(2024年3月18日投稿) 私なりの近況ノートの使い方、注意事項について書き留めておこうと思います。(2024年3月18日現在) 「いいね」を押して下さる方々には申し訳ないのですが、近況ノートはストレス解消の場として、《愚痴を垂れ流しては消す》みたいな方向性でいこうと決めました。なので、コメントもオフですし、わざわざお読み下さる価値もないですよと。 言うなれば、愚痴を垂れ流すことで自分の置かれた状況を整理しつつ、指針を得るための作業場として使うということです。あとはまあ、頭の体操。当然、人によっては腹立たしくなることも書くでしょう。 結局のところ、誰にも読まれなくて構わないというか、むしろ誰にも読まれない(読まれる可能性がある)くらいが、適度な緊張感を保ちつつ余計なストレスを抱え込まなくて済む平衡点なのですね、自分の場合。期待に応えようとか、人様のお役に立つことを書こうとか、そういうのがあかんのですわ。かといって、何のアウトプットもしないでいるのも、それはそれでストレスになる。タイトルにある利用法に至った理由を自分なりに分析すると、たぶんそういうことなのです。はい。 【投稿しないから推挙する】(2024年5月20日投稿の近況ノートを移動させました) 昨日のことなんですが、投稿していた頃の私を知るある方に「投稿してたやつアップロードせんかい、オラオラオラ!(意訳)」と言われてしまいまして。そう言って頂けることは大変ありがたいと申しますか、私ごときにそのようなお言葉を頂戴してしまい恐縮しきりなのですが・・・う~ん。 私は文章を書くのが好きです。正確には、知識を得ることと頭の中を整理することが好きなのだと思います。で、(自分にとって)頭の中を整理するのに一番適した方法が文章を書くという行為なので、文章を書くのが好きなのでしょう。 それ即ち、私が文章を書いているのは、誰のためでもなく自分のためであるということ。人様のお役に立とうなどという考えは、基本的に捨てています。なぜなら人付き合いが苦手だから。(まあ、この結論に至ったのは比較的最近なんですけどね) そんな姿勢で書いているものを、わざわざお時間とらせて読んで頂くなんて烏滸がましい話なので、現在作品公開をしていないのでして。「読んだところで時間の無駄だよ」と、毎度のように宣言させてもらっている通りです。これが時間をとらせない絵や漫画なら、構わず投稿しちゃっていた気もしますけど、駄文を長々と読ませてハズレだったというのは、良心の呵責があるわけです。 カクヨムには、私なんぞより優れた作品を投稿されている方が山のようにいらっしゃいます。私が読んだ中で一番凄いと思うのは、@jundesukedomo 様。ペンネームすら登録されていらっしゃらないので、何とお呼びしてよいのかもわかりませんが、この方が挑んでおられる「嗅覚と聴覚の共感覚を、文章という視覚入力で表現する」という試みのレベルを見てしまうと、自分なんてゴミカス以下でしてね。「(発想力が)貧弱貧弱ゥ!」「無駄無駄無駄!」と言われてしまった気がします。香水と音楽に関する知識は極めて深く(といっても私は香水に詳しくありませんが)、クラシックなんかだと「そこ突いてくるかぁ!」と唸らされる曲が次々と登場します。おまけに、ヨーロッパ(特にフランス)の街並みがこれでもかというほど生き生きと描かれている。これ、現地を詳しく知らないと書けない描写です。なんでこんな御方が、日本のフリー小説投稿サイトでひっそり活動していらっしゃるのか、わけがわかりません。この人の作品が出版されたら普通に買いますよ、私。女性向け作品らしく、登場する人物は圧倒的に女の子が多いですが、皆可愛い。主人公は育ちがよく、ふわふわしていて押しに弱いのに、会ったこともない憧れの老調香師が絡むと人が変わって面白いです。惚れる相手を間違ってますよ、お嬢様。唯一の欠点は、予備知識がないと楽しみが半減してしまうことかな。けどそれは、この作品を理解する力量がない読者の方が悪いです。いい加減な知識と妄想全開で書かれた「わかりやすいけど穴だらけ」な作品と、きちんとした知識で書かれた「勉強が必要な」作品。個人的には後者の価値が高いと思いますが、WEB小説界では逆なんですよねぇ。曲を知らなければ動画サイトですぐに聴ける時代なんですから、それくらいの手間かければいいのに。 というわけで、私の作品を読む暇があったら、もっと優れた作品は沢山あるのでそちらを読みましょうというお話でした。@jundesukedomo 様、勝手に名前を出してしまって申し訳ありません。(あとで謝りに行かねば) せっかくなので、現在私が読ませて頂いている作者さんを(これまた勝手に)紹介させて頂きましょうか。もっとも、読み専としての私はスコッパー気質ですので、メジャー作品はほとんど読まないのですが・・・以前からお付き合いさせて頂いている和泉将樹@猫部 様が、いつの間にやら★四桁稼ぐメジャー作家様になってしまわれ、びびっております。まだ読めてなくてごめんなさい。(自分の性格的に「竜殺し」に行くのは最後だと思います) 大和成生 様・・・「桃色武装」が最高に面白いです。作者様曰く「書きたいことを書いてるだけの作品」だそうですが、そういう作品に限って面白いのは鉄則ですね。涙と笑いの陰に、卓越した人間観察を潜ませていらっしゃる作家さんだと思います。 ばやし せいず 様・・・誠実な恋愛作品を多数投稿されていらっしゃいます。カクヨム界隈では文学寄りかもしれません。 立藤夕貴 様・・・幻想的で色彩感溢れる描写をされる方です。美しい文章は大変勉強になります。登場人物の名前のつけ方とか、やけに美味しそうな食事風景とか、細かなところにもこだわりがあって面白いです。(本日投稿の最新作「立夏の空の下に花は咲く」なんかは、一話完結でこの作者さんの個性がよく出ていると思います) 夜方宵 様・・・短編メインですがどれも秀逸。「アンダーハンドパス」の健全な百合っぽい世界観から「スノードーム」のひんやりとした世界観まで、非常に表現の幅が広いと感じます。 今優先的に目を通させて頂いているのは、この方々ですね。なかなか時間がとれずモタついておりますが、御容赦下さい。他にも読ませて頂こうと思っている方々は沢山いらっしゃいますので、また機会があればご紹介させて頂きます。 【立藤夕貴様の『記憶の海の渡り人』】(2024年6月19日投稿の近況ノートを移動させました) 先週、故あって〇〇〇〇様の『〇〇〇〇〇〇〇〇』という大っ変失礼な表記をさせて頂いた小説について語ってみます。立藤夕貴様、本当に申し訳ございませんでした。 立藤夕貴様につきましては、過去にも何度かご紹介させて頂いたことがあるのですが、風景画のような文章を書かれる作家さんです。日常の風景だけでなく、空想上の風景も含めて卓越した表現力で描写されます。食事がやたら美味しそうなところも特徴ですかね。それでいて、物語を書かれる時には人物描写にピントを当てて、各人の心模様をしっかり描き出されます。その筆力は素直に羨ましい。わたくしめにも分けて下さいお願いします。 そんな立藤夕貴様がファンタジー調のヒューマンドラマに挑戦された作品が『記憶の海の渡り人』、リアル調のヒューマンドラマに挑戦された作品が『夢喫茶でまた会いましょう』、短編でその個性が存分に発揮された作品が『立夏の空の下に花は咲く』であると、個人的には受け止めております。まだ読めていない作品もあるので、そちらについてはまた追々。 今回は全120話・30万字超の大作『記憶の海の渡り人』を読破しましたので、良いところも気になるところも含めて、その特徴を語ってみます。 第一の特徴は登場人物が多いこと。これ、読者さんを挫折させてしまう最大の要因になるんじゃないかなと思ってますので、先に書きますね。同じ人物が名字で呼ばれ、名前で呼ばれ、暫く登場していなかった子がいきなり会話の中にひょっこり名前だけ出てきたりするんですが・・・読者の中では覚え切れていないことも多く、読み解くのに結構苦労させられます。実は、私自身ちゃんと把握できていた自信がありません。なのに、脇役に見える人たちが、割と端々で大事な役割を果たしていたりするんですよ。というわけで、これから読まれる方は、人物整理をしながら読まれることをお勧めします。人物把握ができてくると、伏線の張り方や回収が実に見事であることに気付かされますが、逆にそれができないと、何が何だかわからないということに。この点は本当に要注意。 第二の特徴は、物語の濃淡が次第に濃くなってゆくということですね。まあ、長編らしい特徴と言えます。作品概要にも書かれている程度のネタバレでまとめてみると、子どもの頃から他の人には見えない「透明な魚」が見えていた主人公が、ある日その魚に触れることで、非日常の世界に巻き込まれてゆき、そこで彼と同じものが見える人たちと出会うというストーリー。ここでいう「透明な魚」というのはファンタジー的な記号ですので、実のところ他のものであっても良かったわけですが、そこで「透明な魚」という幻想的な光景を想起させる要素に辿り着けてしまうのが、立藤夕貴様固有のセンス。しつこいけど分けて下さいぷりーず。この魚が見える人は次第に増えていくわけですが、それに応じて描かれる内容も少しずつ変化してゆき、出揃う頃に次のステージへ・・・といった感じです。 第三の特徴は、登場人物の設定がしっかりしていて、それらが人間模様や伏線にちゃんと反映されていること。きちんとした情報整理が出来ている作者さんでないと、これはできません。頭の良い方なのでしょう。友だち想いの人、冷静に物事を見つめる人、感情をコントロールしきれない人・・・各人に背景があり、役割があり、そうした設定の緻密さが物語をきっちり支えている印象です。 第四の特徴は、登場人物たちのヒューマンドラマが主軸でありつつ、作品全体としては謎解きや異能バトル、時には残酷描写なども採り入れた欲張りセットとなっていることでしょうか。ファンタジー小説なので、推理小説のように謎解きできるわけではありませんが、それでも衝撃的な展開が待ち受けており、ところどころで「やられた」と思いながら読むことになるかと。こうした作風を活かすためか、基本はシリアス路線でギャグ要素はほぼありません。作者さんが書きたかった要素が、ほぼすべて組み込まれているのではないかと思われます。 最後に読み終えて思うこと。振り返ってみると、一貫したテーマがちゃんと物語の根底に流れていたことに感銘を受けています。それが何であったかはネタバレになるので書きませんが、長編小説としての柱はしっかりしています。タグに「ヒューマンドラマ」「青春」とあるのも、看板に偽りなしです。 総評としては、「書かれていることをちゃんと追いかけることができれば」とてもよく出来た作品だと思います。それを妨げる最大の要因は、第一の特徴で挙げた登場人物の多さであり、次なる要因は第二の特徴で挙げたゆっくりめの展開ってことになるんでしょうか。その展開も、謎が暫く謎のまま放置されて先に進んでしまいますので、頭の片隅にそのことを留めながら読む必要があり、情報整理は結構大変でした。初読の人と設定がわかって読む人とで、受ける印象はかなり変わるだろうと思われます。後半から終盤にかけての追い込みは、WEB小説で好かれそうな展開なのですけど、そこまで辿り着ける読者さんが少なくても、不思議はありません。作者様の作品が持つ、独特の空気感が気に入った方であれば、読み続けるのは苦でないと思うのですが、作者様の筆力の高さを感じ取れない読者さんだと、途中で投げ出しちゃうのも致し方ないのかも、と。そういう意味では、まず『立夏の空の下に花は咲く』あたりの短編から入ってみる方が無難かもしれません。 WEB小説の読者さんは、とにかく「第1話からクライマックス」みたいな作品しか受け付けないところがあって、緩急つけながら盛り上がっていくタイプの作品は流行らないという印象があります。食事でいうと、いきなりステーキみたいなのが好まれているんでしょうか。コース料理のメインディッシュが出てくるまで待てないって人が多いように見受けられます。本作は、どちらかと言えばコース料理に寄っているので、じっくり読みたい方向けになるかと思います。 なお、これは個人的な恨み節になりますが、WEB小説時代の読者さんって、飽食の時代の若者に似ている気がするんですよね。一口食べて美味しいと思えなければ吐き出すみたいな。まあ実際、無料の小説が大量に転がっているんですから、そうなるのも当然といえば当然なんですけど、味覚が未成熟というか、食材を美味しく食べる方法を知らないというか、はっきりした味付けじゃないとわかってもらえないというか。万人受けする小説などないことが示すように、同じ文章でも受け取り方は読者に委ねられるわけですが、WEBではそうした感受性の多様性が失われている気がします。流行以外のものを味わえる読者さんが極端に少ないと言いますか、作者に流行り物ばかり書かせるような圧力がかかっていると言いますか。なので、立藤夕貴様のような作者さんには頑張って頂きたいなと思います。 【大和成生様の『桜梅桃李シリーズ』】(2024年6月21日投稿の近況ノートを移動させました) 今回も前回の〇〇〇〇様(立藤夕貴様)に引き続き、□□□□様の『□□□□□□□□』と表記させて頂いた方をご紹介させて頂きます。大和成生様、失礼な書き方してしまってごめんなさいごめんなさい。 現在、私がお金を払ってでも読みたいと思える作品を書いておられる作者様は二人おりまして、そのうちのお一人にはギフトをお贈りさせて頂いております。 で、もう一人が今回ピックアップさせて頂いた大和成生様なのですが、ご本人様にはそういう野望が一切ないらしく、ギフト受付すらされていないという徹底ぶり。いやまあ、私もギフト受付していない(というより、そもそも小説公開の予定すらない)ので、お気持ちはとてもよくわかるんですが・・・お陰で現在、ギフトが1ポイント余っておりまする。どないしましょ? ま、それはさておき、このたび『桜梅桃李シリーズ』を読破したので、その魅力をネタバレなしで語ってみたいと思います。 このシリーズは石田家の三姉妹+末弟を中心に、彼らの幼い頃から大人になるまでの半生を、それぞれの視点で描いた連作です。恋愛成分多め。三姉妹の名前が上から順に桜・梅・桃であり、末弟が信であり、石田姉弟の従姉妹に当たるのが李(通称スーちゃん)ですね。なのにシリーズ名には信が入っていないという。男の子だからって仲間ハズレにしないであげて。(笑) この作品に「お金を払う価値がある」と思える理由は、人間の成長に必要な葛藤がズバッと描かれているからです。それも、かなりシビアな女性目線。そしてそれらは、それぞれの登場人物にうまく分散して配置されており、様々な角度から様々な人間像が浮かび上がってくる仕掛けになっています。更に面白いのは、そうした人間像の多くが、実は作者様ご自身の投影であり分身でもあるということ。すなわち、異なる人間像はひとつの人格に統合されたとしてもよいのでして、人間という矛盾に満ちた存在が見事に表現されています。 (ついでに言うと、作者様的に好きじゃないキャラが超重要ポジに就いていたり、あるいは作者様的に大嫌いであったはずのキャラがいつの間にか格好良く成長してしまっていたりするところも面白いのですが・・・作者様はその辺の情報を小説内で一切書かれていないというね笑) 全員が違う人格をもち、全員が違う人生を歩んでいながら、読者という一人の人間の中ではそれらすべてを教訓として糧にすることができる作りになっている。まったく同じ体験をしていながら、まったく違う選択をしてそれぞれの人生を歩む二人の姿が描かれていても、それらは「どちらもあり」と納得できる。こういったところが非常によくできています。 ただ、そのよくできている部分が「よく出来すぎている」きらいがありまして・・・複数のストーリーを読み進めることで、初めて見えてくるものが沢山あるわけですよ。「あの話のあれってそういうことだったのか!」みたいな。なので、単品で読むとなんだかアッサリ風味と言いますか、他作品との相乗効果でいきなり面白さが爆増すると言いますか、噛めば噛むほど味が出てくるスルメ的な魅力があると言いますか。それゆえ、早計な判断を下されてしまう可能性は、決して低いとは言えません。そういう意味では(立藤夕貴様の作品同様)じっくり丁寧に読む人向けなんですよね。ぶっちゃけ、作者様は設定集や解説書を書くべきレベル。多分、三回くらいは読み込まないと、情報を整理しきれません。(笑) なので、WEB小説のニーズに合っているかと問われると・・・すみません。自信ないです。せめて読む順番くらい指定して頂ければ・・・。 (ちなみに自分のお薦めは信→桜→梅→李→桃かな。信を最後に回すという読み方もアリですね。こんなこと書いてる私自身、梅を最初の方で読んで、この作者さんは只者じゃないと思った記憶があるため、結局はどんな順番でも構わない気がします。というか、読む順番にこだわりが出てくるのは、全体像が見えてきた2周目以降のことだと思うのです。なので、読んだことない人は、とにかく全部読み尽くすつもりで手当たり次第読んでみて下さいと申し上げておきまする。あと、外伝的な短編もいくつか用意されていますので、そちらもどうぞ) ともあれ、こればっかりは声を大にして言わせて頂きたいのですけど、「パッと見面白いけど中身スカスカ」な作品ばかりが読まれ、「パッと見地味だけど中身が詰まっている」作品はまったく読まれないというこの状況、ほんと何とかなりませんか。ちょっと顔がよくて口が上手いだけのヒモ体質DV男がモテて、地味だけど真面目に仕事をしている男は見向きもされない、みたいな?別に自分の見る目が確かだなどと言うつもりはないのですが、所詮は顔(タグとタイトルとジャンルと第一話)で決まるのかと思うと、色々とこう、アレでアレがアレなわけですよ。うがあぁぁぁ! すみません。つい鬱憤がダダ漏れになりました。 単品でどれかひとつと言われれば、桃を推します。先日のノートで□□□□様の『□□□□』という謎表現させて頂いたのは、これですし。こういう毒々しい作品は大好物でございます。じゅる~り。あと、武士君が何ともいえず格好いいんです。じゅるじゅるじゅる~り。ちなみに、読む順番で桃を最後に回しているのは、私が「お楽しみは最後にとっておく派」だからです。(おい) 梅と李に関しては、予備知識として「雪の女王」のあらすじだけでも知っておいた方がいいかな。注意点はそれくらいかと。 まあ、なんでしょう。流行とかテンプレとかに辟易していて、しみじみと「そうだよなぁ」と思えるような作品群に触れたい方、子ども時代の体験が人格形成に与える影響を、大人になった今だからこそ様々な角度から振り返らせてくれる、そういう作品群を読みたいという方々にお薦めでございます。ポジション的には、純文学に近いといいますか、純文学からWEB小説に読者さんを引っ張ってくることのできる作者さんというイメージを持っています。あとはこう・・・女社会のリアルみたいなものを、味付けなしに表現してくれているところもいいですね。天然天使ちゃんから嫉妬に狂った横恋慕ちゃんまで、色んな「女」がご登場なされます。はい。 こういう出会いがあるから、隠れた名作の探索はやめられないんですよ。いつも言ってますが、お星様なんて何の参考にもなりません。だって、売れたい売れたいと思ってる人より、自分の気持ちに素直な作品を書かれている作者さんの方が、優れた作品生み出すなんて当たり前じゃないですか。芸術ってのは、自分の内面の表出なんですから。 とはいえ、商業ベースにはない良さを持ったこういう作品が無尽蔵に眠っていることは確かであり、その場を提供して下さっていることについては、カクヨム運営様にはいつも感謝しております。自分に合った作品に出会いたければ、濫読するしかないっていうのは、仕方のないことなのかもしれませんね。 ではでは。
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