芸術作品において、「明らかな欠点があるけど魅力もある作品」と「欠点はないけど魅力もない作品」のどちらが評価されるか。これは明らかに前者です。
わかりやすいのはボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』あたりでしょうか。サイゼリヤに行くと、大抵の店舗で壁に飾られているあれ。人体デッサンを囓ったことのある人ならすぐにわかると思いますが、骨格的にはかなりデタラメ。私は、人体ってのはあるがままで十分すぎるほど美しいと思っていますので、あの絵には結構違和感も感じるんですが、それでも魅力があることは間違いありません。人体だけ見ればもっと上手い絵は掃いて捨てるほどあるにも関わらず、それらが『ヴィーナスの誕生』より高く評価されるわけではないのです。(なお、あの絵をちゃんと理解するには、あれが描いている場面に対する基礎知識も必要だったりします)
ベートーヴェンの管弦楽曲なんかもわかりやすいですね。オーケストレーション(要するに楽器の使い方)がそこまで熟れていませんので、無骨な感じがあります。曲によっては(当時の)楽器の音程上限を超えた指示とか出しちゃってますし。その点、モーツァルトやラヴェル、ベルリオーズあたりはもの凄く上手い。そういう方向の魅力はないのです。ですが、ベートーヴェンの作品には、ベートーヴェンの作品でしか摂取できな魅力があるのですね。彼が表現しようとしている人間の苦しみと救済というテーマの選択、それを達成する構想力・構成力が凄まじい。彼の場合は、自分の描き出したいテーマ(魅力)を最優先にした結果、それが楽曲の構造という形に結実されており、オーケストレーションが二の次とされて欠点のように見えていると言うべきでしょうか。やろうと思えば、オーケストレーションを優先した楽曲を作ることもできたと思われます。ただ、彼はそうはしなかった。
小説の世界だと、たとえば太宰治。あんなの、作者自身が欠点ですから。あれほどのクズが私小説を書いて、それが魅力的なんですから困っちゃいます。『走れメロス』とか、冷静に読んじゃうとツッコミどころしかない作品なんですけど、なんなんですかね、あれ。
漫画だと『ちびまる子ちゃん』かな。どこからどう見ても絵は下手です。それでも作品としては成立している。日常を観察し、分解し、作品として再構築する作者の能力が、恐ろしく高いからでしょう。ただ、ボッティチェッリやベートーヴェンは、克服可能な欠点を敢えて放置した、あるいは、魅力を引き立たせるために敢えて欠点を採り入れたという感じですが、さくらももこについて言えば、本当に画力がなかったんだと思います。
で、自分の作品はどうなってるかなと考えるに、どうも校正を重ねるたびに、魅力を引き上げているのではなく、欠点を解消しているように思えるのですね。それって、作業方向を間違えているんじゃないかと。
いえ、欠点なくすのは大事だと思いますよ。個人的には。第一、カクヨムをはじめとした素人作品の投稿サイトには、目に余る欠点を放置したままの作品が多すぎます。ただ、欠点をなくすより魅力を底上げすることの方が(少なくとも読者様にとっては)大事なんじゃないかと思うようになってきたと言いますか、自分のやっていることに自信が持てなくなってきたと言いますか・・・。それは、欠点をなくそうとするって思考そのものが、既存の枠組みに囚われた発想だから。絵画で言えば「写実的であることが良い絵である」という観点から欠点を削っていこうとすると、『ヴィーナスの誕生』みたいな絵は決して描けなくなります。ましてやキュビズムなんて出てきません。
今書いている作品が無事終わったら、今度は欠点に囚われず、魅力を強調する方向で書きたいように書いてみたいと思います。そんな時が来てくれるのかはわかりませんが。
以下余談。
現実世界の人間について、「明らかな欠点があるけど魅力もある人間」と「欠点はないけど魅力もない人間」のどちらとお付き合いするべきか、これを芸術作品のように安直に考えてはいけません。「明らかな欠点があるけど魅力もある人間」(芸術作品としては優れている人間性)を極めると、不倫と離婚を繰り返す芸能人とか、女子アナを家に連れ込んでPTSDを発症させて退職に追い込んだタレントみたいなことになるのです。