翌日、3人の姿はシェフィールドのウィンコーバンクにあるブランドン・メルゲルジムにあった。
イギリスに来て早々にアポを入れるのは困難だが、スポーツの世界はどこかでつながっている。
瑞江が予定を伝えたところ、マンチェスター・ユニオンに所属しているボクシング好きがジムに対して「ワールドカップチャンピオンにもなった日本のフットボーラーが訪問するから案内してあげてほしい」と要請を出してくれたらしい。
そのためあってか、「日本から来た」というだけですぐに案内してくれた。
「イギリスのボクシングジムってこんな感じなのか」
陽人も瑞江も、中に入って驚く。
もちろん、2人ともそれほど日本のボクシングジムを知るわけではないが、多くのサンドバッグが天上からぶら下げられ、下のマットには円を基調とした模様のようなものが書かれている様子は見覚えがないのだろう。
お互いに「これは何だ」と首を傾げている。
ジムの人間が何か言おうとしたところで、稲城が模様の上に乗った。
「ハキーム・アマドが代表的ですが、こうした円の動きを得意としたボクサーを作ろうとしているんだと思います。アマドの場合は、こうノーガードで回りつつ」
稲城が解説しながら回っている。
傍目から見るとスタスタと下のラインに沿って歩いているだけのように見えたが、見物していた者から「おぉ?」という驚きの声が出た。
「ガードをあげることなく目の動きで見切って、カウンターを決めるスタイルだったわけです」
アッパーとフックの中間のようなパンチをサンドバッグに当てた。強烈なパンチにサンドバッグがグラグラと激しく揺れる。
「Oh……」
様子を見ていた大柄の男が声をあげた。
周りで練習していた選手達も手を止めて様子を見ている。
そのうちの1人……稲城よりやや小柄な体格の選手が奥にあるリングを指さして稲城に対して両手のグローブをバンバンと合わせる。どうやらスパーリングでもやろうということらしい。
「いやいや、ちょっと待って」
いくら何でもスパーリングなどは危ないだろう。陽人と瑞江は揃って止めに入る。
大柄の男も、「カーン、やめておけ」と制止するような声を出した。そのうえで稲城に近づいてくる。
「父が生きていればこう言っただろう。おまえはすぐにでも世界王者になれる、と」
父というのがイギリスの伝説のボクシングトレーナーで王室からの勲章ももらっているブランドン・メルグルだろう。この男は息子のようだ。
「父がいない今、どうなるんです?」
瑞江が問いかけると、息子メルグルは少し考えた。
「2年あれば世界王者になれる。足に筋肉がありすぎるから、それを半年かけて落として、あとは経験を積むだけだな」
「2年かよ……」
瑞江が苦笑した。
考えてみれば、稲城は高校でサッカーに入って2年でワールドカップ制覇チームの一員になっている。メルグルの言うことが本当なら、そこからボクシングの世界王者にも2年で戻れるらしい。
「……何が凄いんです?」
客人に対するリップサービスもあるのだろうが、そこまで言う根拠が今一つ見えない。
瑞江が問いかけることは、陽人にも頷ける話だ。
「彼の動きを見ていると、アマドの見様見真似とかスタイリッシュなところをまねているわけではない。アマドのスタイルの中で、もっとも効果的な攻撃と防御へのアプローチを理解している。しかも無意識的に、だ。誰にでも出来ることではない。いや、選ばれた者にしかできない」
「そ、そうなんですか……」
「カーンとスパーリングでもさせようものなら、大変なことになるのはカーンの方だろう。彼のパンチを軽量級のカーンが食らったら、今後のキャリアを台無しにしてしまうかもしれない」
ましてや、日本から来た素人と舐めて考えれば、よりまともに食らうことになり、真剣に命すら危ぶまれることになりかねないという。
「……高校3年ブランクがあってそれかい……」
陽人が絶句する。一方、瑞江も頷きつつも違う視点も挟む。
「攻守のバランスとかそういう部分はサッカーからも得たものがあるのかもしれない」
「なるほど。あいつも地味にサッカーから得ていたかもしれない、と」
稲城がボクシングの経験から分かることを高踏の選手に教えていたことは皆が知るところである。
しかし、一方でサッカーという競技を経験したことで、ボクシングに関する部分が磨かれたところもあるのかもしれない。
「ボクシング界の鬼神は、サッカー界のマッドサイエンティストと出会って、更にパワーアップを遂げたということだな」
「おい、こら」
陽人が瑞江の言葉に突っ込みを入れたりしている間、息子メルグルが以前呻いている。
「……こんなにセンスのある少年とは……少なくとも父が亡くなって以降、会ったことがない。フットボールだけにとどめるには惜しい逸材だ……」
2年というのはリップサービスでは無さそうだ。
メンタルヘルスの結末編は10/1くらいに……