水上さんの文化知識なんだけど。
想像だけど、昭和一桁頃ならゲン担ぎとしての昔の風習が確実に残ってたと思うんだ。昭和10年代頃もまだ地方行事は歴史と地続きで生き残ってるはず。
二次大戦頃からその辺カッチリと継承するのが社会情勢的に難しくなって、終戦後は日々生きるのに必死で、特に若い世代は祭祀どころじゃなかったと思うんだよ。それでも文化は地域住民の「繋がり」の象徴として細く継承されていく。
ところが昭和50年代前後の高度経済成長になってくると、そういう「古臭い」ものを軽視する影響で、いよいよ線が細くなる。最終的に平成中期から地方文化の継承や、単に地域のお祭りという事で宗教的な祭祀も一部復活するけど、その背景を知る老人も少なくなって草創期の自然信仰の側面は一度完全に途切れてると考えられる。
仮にこの流れが妥当だとして、それだと「水上さん」に信仰として直接市井の文化が伝わってきたのは昭和20年ころまで、それ以降は徐々に信心も減り、信仰自体も変質し、とどめに水害(昭和49年台風8号あたりが妥当かな)
https://www.data.jma.go.jp/stats/data/bosai/report/1974/19740529/19740529.html
で流失、完全に途絶える……と仮定を重ねることができる。
そうなると昭和20年ころまでに東北の山間部にまで波及していた近代文明については水上さんも知っているのではないだろうか。例えば終戦の詔はラジオ放送で、各戸の受信機がない場合は郵便局などにある公共ラジオで聞くように手配されていた。こんな山間部でも簡易郵便局はあったし、つまりラジオの存在は知ってるはず。近くに鉱山があった関係で列車もあるし、自動車、航空機は現物を見る機会は少なかったろうけれど、存在は知っているはず。空襲の火が赤々と空を照らす姿は山向こうの集落からも見えたという証言がある(信憑性はさておき)から、戦災も話としては知っているはず。地域から徴兵されて、遺骨になって帰ってきた若いのもいる(これはモデル地域の公式記録でたどれる)わけで、そういう悲しみと絶望の祈り、再生へのわずかな希望の中で彼/彼女の記憶は徐々に途絶えていく…そういう存在なんじゃなかろうか。
街の姿の認識も、ダム建設後に再興した地域だとすれば道なんて知らなくて当然、とはいえ農地の配置は利水に制限されるから、水の流れをたどればどこかには着くように町ができているはず。公民館クラスの大きな寄り合い所は農地にならず集落から徒歩圏内の離れた場所にできると考えれば、ギリ水没免れた設定で行けるのではないだろうか。
その場合、みなかみさんは場所を知っていても、「公民館」に類する施設が制度化された昭和21年文部次官通牒、昭和24年社会教育法施行の以降、寄り合い所をその制度を利用して整えたのが、この碁石地区公民館…だとすると、水上さんは場所は知っていても立派な建物があるのは知らんかもしれないなぁ…