本記事は前回から引き続き今更ウィル・スミス氏の件です。
◯「言葉の力」と「物理的な力」について
アメリカではウィル・スミス氏を批難する際に、
「侮辱は言葉の暴力ではあったが、ウィル・スミスの行ったのは次元の違う行いだ」
という主張で彼の行いを糾弾しました。
全く持ってその通りです。
「言葉とは、誰もが複製可能な手軽なツールであり、状況さえ整えば簡単に再現可能である」点など、
まさに「彼が行った物理的な力による暴力とは、次元が違う暴力性がある」と言えるでしょう。
(皮肉)
これは、事はウィル・スミス夫妻だけの問題ではなく、
「同様の状態にあれば、誰もがアカデミー賞を再現出来る」という事になります。
社会がこれを良しとすれば、先の事件は
「諸々の条件が整えば、再現して良い」
先例になるということです。
(例:自分たちが決めたルールの下に行うホームパーティー等)
そしてその時、
「その言葉の対象となった人物は耐えられるのか分からない」
という事も注意しなければなりません。
(あと、個人的な疑問なのですが、「アカデミー賞のブラックユーモアは、社会的な下位から上位へのものなので許されるべきだ」という趣旨のものをお見受けしましたが、「特定の立場や職種の人間に、当人の意思や事情を無視して何かを強要する」というのは差別やハラスメントではないのでしょうか?私にはそれらの構造にしか見えないのですが…。
それを踏まえて更に追加の疑問で、
あのウィル・スミス氏の家族の尊厳を守る行動をみて「あの様な行いをする人間と同じ様に見られ、『やっぱり黒人は野蛮なんだ』と思われるのが嫌だ」という考えを黒人コミュニティは持っているようですが、「白人と一緒に差別を楽しむ人たち」という目で見られる可能性についてはどう思うのでしょうか?
それとも「黒人は家族が侮辱された時にその人達と一緒に笑う」優しい人達と思われたほうが嬉しいのでしょうか?それは優しいのではなく都合が良いの間違いでは?)
◯加害性について
物理的な力は、当たり前ですが怪我を負います。
肉体が丈夫な人であれば被害は少なくなるかもしれませんが。重篤な被害であれば後遺症などのリスク、運が悪ければ死亡等もあります。
では言葉はどうでしょうか?
言葉は記憶にとして焼付き、人を苦しめます。
精神が丈夫な人であれば、自力で持ち直すかも知れません。ですが、当人にとって深刻な問題と密接であればあるほど、長く苦しみは続きます。そして自ら死を選ぶこともあります。
言葉による力も、物理的な力も、どちらも同様に人を死に至らしめる事が可能であるということです。
◯当時の状況について
ウィル・スミス氏は妻への侮辱に際し、まず状況の判断をし、その判断のもと「警告」をしました。
警告は「言葉による力」です。
彼はまず「相手と同じ次元で」問題の対処を行いました。
そして問題が解決できないと判断し、「物理的な力」という別の次元からのアプローチで問題の解決に図りました。
本当に彼は(激情の只中で)相手に対し「誠実な振る舞い」をしていないのでしょうか?
私には侮辱のされた際に、かつ「民意が無い状態」で、彼はちゃんとプロセスに乗っ取り、自己の振る舞いを決定していた。と思います。
彼があそこまでの行動を起こしたのは、
「アカデミー賞という高名なセレモニーの場で、面白さという感情を優先し、他者の侮辱を際限無く許可した民意」
にも原因があったと思います。
そしてあろうことか、彼を止められる立場にあった人間たちはこぞって彼を批難しました。
あそこで誰か、ウィル・スミス氏以外の人間が、「言いすぎだ!」と(多少ユーモラスにでも構いません)言えなかったのでしょうか?
誰か、あるいは集団で、ウィルの反応から「あの司会者は一線を越えた」という判断を出来る人たちがいれば、あの事件はあそこまでセンセーショナルな事件にはならなかったのでは無いでしょうか?
「言葉が暴力になる」のであれば、同じ様に「夫妻を救う力になった」のでは無いでしょうか?
そんな風に思います。
了