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  • @kakeduki
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  • 10月23日

    【推論】「クオリアとは色盲の話か?」という疑問について【見解・素人】

    ◯前置き クオリア自体の概要についての説明は差っ引きます。 (超簡単に言うと、貴方のリンゴの赤と私のリンゴの赤は同一じゃないかも?って話) 先に結論置いときます。 【結論の概要】 人体において、(PCのGPUやモニター等の様な)パーツの劣化や型番、性能の違いや、アルゴリズムが違うから、 同一のデータやプロンプトを入力しても、PC(脳)内で出力されたファイルが違うので、他人のファイルと自分のファイルは同一じゃないかも?みたいな話 ちんぷんかんぷんですよね? 以下が、見解になります。 【クオリアは色盲か】 ①前提 多分、クオリアは「『目』そのものにどう写ってるか」や「それをどう言葉で表現するか」はあまり問題では無いし、「それがそもそも間違っている」事では無い。 (※例:視力が低い、相対的あるいは抽象的表現の差異、リンゴという名の犬) 脳内で処理された結果の『情報体験(=感覚)が同一ではない可能性』が問題の本質。 ②解説 一度味覚で説明しますと、 『貴方が甘いものを食べた時の味:A』≠『貴方が苦いものを食べた時の味:B』 があるとします。 もちろんこれらは甘い苦いと表現されるわけですが、 これが僕の脳内では 『僕が甘いものを食べた時の味:B』≠『僕が苦いものを食べた時の味:A』 という、逆の処理の結果で出てきていることもありうるという、 「処理結果の同一性」が本題です。 僕が甘いケーキを食べた時、脳内で 『"僕が甘い"ものを食べた時の感覚:B』=『"貴方が苦い"ものを食べた時の感覚:B』 だった場合だったとしても、 二人でケーキを食べたら『ケーキを食べた以上、「甘い」と表現される』わけですが、 前提通り『脳内の感覚としては入れ替わっている処理結果になっている』というのがクオリアという話の面倒くささだと思います。 今回の場合、僕が「うへぇ…これ甘すぎない?もうちょっと控えめな甘さだったらなぁ…。」とか言って、 貴方が「まぁこれくらいで良くない?なんならもうちょい甘くても良いけど?」みたいな話の原因になってるかも? 僕と貴方が、『君の名は。』よろしく「私達入れ替わってるー!?」とかやってケーキ食べたら「あれ…?なにこれ…?」ってケーキの味に絶望する可能性があるって事です。 視覚なら、お互い256色問題なく見分けられるけど、脳内のモニターで写ってる色がお互いズレてる(それでも問題なくお互い色を言い当てられる)ので、脳内の処理結果の色(色彩のクオリア)が違っても問題なく会話することが出来る(し、脳内の処理結果の味(味のクオリア)が違っても同様に)っていう話です。 極論、『生まれてから色彩が完全に反転しているモニターをお互いの脳内でずっと使っていても、それが反転していることには、脳内を直接見ないと気付けない』という事です。 ③結論 なので、 『前提:だれかの入力器官 (網膜(レンズ)のようなハードウェアだけではなく、視覚野から続く脳内のソフトウェア、あるいは価値観や好みというアルゴリズムも含めた他人の器官) で処理された情報体験のファイル(感覚)は、』 『仮定:違う景色が広がっているかも?』 『結論:それを『クオリア』と呼ぼう』 って話です。 ちょっと表現が古いですが『Windowsのメモ帳で普通に読めるテキストファイルが、Macに持ってったら文字化けするみたいな現象』が、人間でも起こるかもって事。 MacPC君的には「Windows君のテキストファイルキモすぎるよ!これが日本語の訳なくない?…もしかしたらWindows君って頭おかしいかも!?」ってなっちゃうかも。 でも、Windows君がテキストファイルをスクショしたらMac君も普通に文字が表示される訳で、そしたらWindows君が正気なのが分かります。 このPC間におけるスクショでのやり取り(共通規格へのファイル変換、データのパッケージ化)は、人間で言うコミュニケーションにあたります。 という話なので、先置きした結論の 情報処理的に言うなら、(GPUやモニター等の)パーツの劣化や型番、性能の違いや、アルゴリズムが違うから、 同一のデータやプロンプトを入力しても、PC(脳)内で出力されたファイルが違うので、他人のファイルと自分のファイルは同一じゃないかも?みたいな話なのかなって思います。 素人意見なので間違っている部分もあるかと思いますが、概ねこんな感じなのかなって思います。 これをもって『クオリアの違いにより色が違って見えている可能性の話は、色盲とはまた違う』という事が分かれ、ば、良いなぁ…。
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  • 5月17日

    【推論】人を感動させるには。感動とは何か?【定義・分析・哲学】

    ◯前置き [感動とは] 感動とは、 どのように認識し、どのように考え、どのようにアプローチすべきかという、 「自己基準の取捨選択から溢れた何かの取得方法」その「取得方法の提示」、 それに高い評価値をつけたことにより起こる「自己基準の更新」である。 つまり、 1.ある鮮烈な事象によって引き起こされた「方法論」により、 2.「自己基準によっての取捨選択」で捨てられていた、あるいは見過ごされていた「取得出来なかった物」が、 3.「取得できるようになった瞬間の事象、あるいはそれによる行動選択の変化。」 である。 ◯解説 つまり、 ・「駅前で困っている人を誰かが助けた」に感動したのであれば、  「評価値と方法論の更新、それによる取得、取得の可能性の提示」 ・「生き物の死」というテーマの物語に感動したのであれば、  「今まで見過ごしていた日常の、   再評価や方法論の更新、それによる取得、取得の可能性の提示」 ・「芸術での感動」であれば、  「認識していなかった評価値との出会い、あるいは技術」それによって引き起こされる  「新たな評価値や方法論の取得」 ・チームスポーツの「スポーツ観戦」であれば、  「(逆境など)状況への対処」という「方法論の提示」 ・個人競技(例えばフィギュアスケート)の「スポーツ観戦」であれば、  「身体や精神、その制御や訓練」という「方法論の提示」 である。 ◯結論 であるならば、人を感動させるには ・新たな評価値、評価基準の提示 ・弱まった認識の評価の再提示 ・方法論の提示 という3つの方法があるといえる。 この推論により、誰かが感動することを願い、哲学を終了する。
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