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  • @kakeduki
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  • 5月26日

    【所感・疑問】ウィル・スミス平手打ち事件から思う、所感と疑問【善悪観・古すぎ】

    本記事は前回から引き続き今更ウィル・スミス氏の件です。 ◯「言葉の力」と「物理的な力」について アメリカではウィル・スミス氏を批難する際に、 「侮辱は言葉の暴力ではあったが、ウィル・スミスの行ったのは次元の違う行いだ」 という主張で彼の行いを糾弾しました。 全く持ってその通りです。 「言葉とは、誰もが複製可能な手軽なツールであり、状況さえ整えば簡単に再現可能である」点など、 まさに「彼が行った物理的な力による暴力とは、次元が違う暴力性がある」と言えるでしょう。 (皮肉) これは、事はウィル・スミス夫妻だけの問題ではなく、 「同様の状態にあれば、誰もがアカデミー賞を再現出来る」という事になります。 社会がこれを良しとすれば、先の事件は 「諸々の条件が整えば、再現して良い」 先例になるということです。 (例:自分たちが決めたルールの下に行うホームパーティー等) そしてその時、 「その言葉の対象となった人物は耐えられるのか分からない」 という事も注意しなければなりません。 (あと、個人的な疑問なのですが、「アカデミー賞のブラックユーモアは、社会的な下位から上位へのものなので許されるべきだ」という趣旨のものをお見受けしましたが、「特定の立場や職種の人間に、当人の意思や事情を無視して何かを強要する」というのは差別やハラスメントではないのでしょうか?私にはそれらの構造にしか見えないのですが…。 それを踏まえて更に追加の疑問で、 あのウィル・スミス氏の家族の尊厳を守る行動をみて「あの様な行いをする人間と同じ様に見られ、『やっぱり黒人は野蛮なんだ』と思われるのが嫌だ」という考えを黒人コミュニティは持っているようですが、「白人と一緒に差別を楽しむ人たち」という目で見られる可能性についてはどう思うのでしょうか? それとも「黒人は家族が侮辱された時にその人達と一緒に笑う」優しい人達と思われたほうが嬉しいのでしょうか?それは優しいのではなく都合が良いの間違いでは?) ◯加害性について 物理的な力は、当たり前ですが怪我を負います。 肉体が丈夫な人であれば被害は少なくなるかもしれませんが。重篤な被害であれば後遺症などのリスク、運が悪ければ死亡等もあります。 では言葉はどうでしょうか? 言葉は記憶にとして焼付き、人を苦しめます。 精神が丈夫な人であれば、自力で持ち直すかも知れません。ですが、当人にとって深刻な問題と密接であればあるほど、長く苦しみは続きます。そして自ら死を選ぶこともあります。 言葉による力も、物理的な力も、どちらも同様に人を死に至らしめる事が可能であるということです。 ◯当時の状況について ウィル・スミス氏は妻への侮辱に際し、まず状況の判断をし、その判断のもと「警告」をしました。 警告は「言葉による力」です。 彼はまず「相手と同じ次元で」問題の対処を行いました。 そして問題が解決できないと判断し、「物理的な力」という別の次元からのアプローチで問題の解決に図りました。 本当に彼は(激情の只中で)相手に対し「誠実な振る舞い」をしていないのでしょうか? 私には侮辱のされた際に、かつ「民意が無い状態」で、彼はちゃんとプロセスに乗っ取り、自己の振る舞いを決定していた。と思います。 彼があそこまでの行動を起こしたのは、 「アカデミー賞という高名なセレモニーの場で、面白さという感情を優先し、他者の侮辱を際限無く許可した民意」 にも原因があったと思います。 そしてあろうことか、彼を止められる立場にあった人間たちはこぞって彼を批難しました。 あそこで誰か、ウィル・スミス氏以外の人間が、「言いすぎだ!」と(多少ユーモラスにでも構いません)言えなかったのでしょうか? 誰か、あるいは集団で、ウィルの反応から「あの司会者は一線を越えた」という判断を出来る人たちがいれば、あの事件はあそこまでセンセーショナルな事件にはならなかったのでは無いでしょうか? 「言葉が暴力になる」のであれば、同じ様に「夫妻を救う力になった」のでは無いでしょうか? そんな風に思います。 了
  • 5月25日

    【所感】ウィル・スミス平手打ち事件から見る、日本人と世界の正しさの認識の違いについて【考察・善悪観・古すぎ】

    えっと色々な意見があると思いますが、個人的な所感を述べさせてもらうと、 『日本人はウィル・スミス氏が「罪を犯していない」とは思っていない(=やったこと自体は罪ではあると思ってる)』 という所が、認識の大きなすれ違いなのかなと思います。 おそらくですが、アメリカの言う正しさが「法や教義、あるいは秩序」であるならば、 日本人の言う正しさとは「個人の持つ矜持(Kyouji)や美学、あるいは大義(Taigi)」だと思います。 犯罪が有史以前から消えないのは、法や教義、道徳や倫理は、「個人の持つ矜持(Kyouji)や大義(Taigi)」より下位の概念だからです。(尊さではなく、あくまで当人の優先順位においてです) ※更に面倒なのは、ここでいう「矜持(Kyouji)」が英語だと「Pride」に訳されるだろう所とかが、ニュアンスの難しさだなぁと思う今日このごろ。 日本語においても解釈に突っ込みが入りそうではありますが、 日本語では「Pride」は「傲慢(Gouman)」とも訳されるので、 ここでは 「矜持(Kyouji)」=「個々人の倫理規定」 とします。させて下さい。 ※もし翻訳の元これを読む方がいたとして、これ以降出てくるPrideや「個人的正義」は全て「矜持(Kyouji)」と思って下さい。 そして、武士や軍人、どんな国でも大義があれば人殺しという罪を犯した人間であれ称えられる様に、日本人は「法」や「事象そのものの正しさ」よりも「個人の価値観や大義」を重要視していると思います。 (Bushi is not Samurai.いいか翻訳機、私はBushiと書いたぞ?) では何故、そんな日本人が法を遵守しているかというと、あくまで 「当人の中の美学が、たまたま法と合致している」 からだと思います。もちろんこれは個人的な意見です。 (ですが、歴史を紐解けば革命なんて物はざらにあるわけで、本質的にはどこもそうなのかもしれませんが) 結局は日本人の犯罪率が低く、法を守るのも 「その仕組みを気に入ってるから守っている(美学)」 あるいは 「法を違反する自分という存在が気に食わないから守る(矜持)」 に過ぎないのかもしれないと思います。 とはいえ 「正しいとはいえ、公の場で、しかもお目出度い場で平手打ちをするのはちょっとやりすぎか…?」 と思ってる人も日本に居たとは思うので、 もし仮に(その後の顛末についてはうろ覚えですが) 「ウィル・スミス氏が平手打ちをした後に、すぐさま自身の行いを、法の下に顧み、警察署に出頭し自首した」 としたならば、その振る舞いも含めて多くの日本人は称賛した、と思います。 間違っても 「お前は正しいことをしたから自首なんてせずに堂々としていろ」とか、 「ウィル・スミス氏が無罪にならないのはおかしい」 とかは言わなかったんじゃないかな?と思います。 なので、日本人は 「ウィル・スミス氏は罪を犯した犯罪者ではあるものの、それはそれとして(矜持と美学の元に)正しい」 というのが本音というか、実態だったと思います。 という訳で、日本人は、 画一的で普遍的な「正しさを持つ法」よりも、 多種多様で精神的な「個人的な矜持」を尊重する国民性だった というだけの事だったのかなと。 面白いのは、 普段「自由」を愛するアメリカだからこそ、それの維持に必要となる「秩序」を構成する為の「法」を重視し、 普段「和を以て貴しとなす(Wa wo motte toutoshi to nasu)」という聖徳太子の十七条の憲法から続く考えを持つ日本は、それを逸脱せざるを得ない状況になった「矜持」を尊重した、というところです。 こうしてみると、 どちらの国も普段自分たちが重視してるもの故に、不足しがちな物を重視した最終結果といえるのか?とか あるいは、日本人は「(本人が律しているのは当然の上で)我慢できない程の憤りであったのだろうな」と同情的な見方をするのかな~?とか。 人種差別の問題などもあって、黒人という総体の現時点での理想とされる振る舞いからの逸脱なども、世界的に根が深そうだと思いました。 この辺りは思う所がない日本人には同じ温度感では分からない部分です。 夫が妻の名誉ために人を殴る事は罪ではありますが、(過剰でないならば)注意や反省を促される事はあれど、批難される事では無いとは思いますし、味方が誰も居ないのであれば自分が立ち上がるしか無かったというのも悲しく、だからそこ勇気がいる話だと。 などと思いました。
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  • 10月23日

    【推論】「クオリアとは色盲の話か?」という疑問について【見解・素人】

    ◯前置き クオリア自体の概要についての説明は差っ引きます。 (超簡単に言うと、貴方のリンゴの赤と私のリンゴの赤は同一じゃないかも?って話) 先に結論置いときます。 【結論の概要】 人体において、(PCのGPUやモニター等の様な)パーツの劣化や型番、性能の違いや、アルゴリズムが違うから、 同一のデータやプロンプトを入力しても、PC(脳)内で出力されたファイルが違うので、他人のファイルと自分のファイルは同一じゃないかも?みたいな話 ちんぷんかんぷんですよね? 以下が、見解になります。 【クオリアは色盲か】 ①前提 多分、クオリアは「『目』そのものにどう写ってるか」や「それをどう言葉で表現するか」はあまり問題では無いし、「それがそもそも間違っている」事では無い。 (※例:視力が低い、相対的あるいは抽象的表現の差異、リンゴという名の犬) 脳内で処理された結果の『情報体験(=感覚)が同一ではない可能性』が問題の本質。 ②解説 一度味覚で説明しますと、 『貴方が甘いものを食べた時の味:A』≠『貴方が苦いものを食べた時の味:B』 があるとします。 もちろんこれらは甘い苦いと表現されるわけですが、 これが僕の脳内では 『僕が甘いものを食べた時の味:B』≠『僕が苦いものを食べた時の味:A』 という、逆の処理の結果で出てきていることもありうるという、 「処理結果の同一性」が本題です。 僕が甘いケーキを食べた時、脳内で 『"僕が甘い"ものを食べた時の感覚:B』=『"貴方が苦い"ものを食べた時の感覚:B』 だった場合だったとしても、 二人でケーキを食べたら『ケーキを食べた以上、「甘い」と表現される』わけですが、 前提通り『脳内の感覚としては入れ替わっている処理結果になっている』というのがクオリアという話の面倒くささだと思います。 今回の場合、僕が「うへぇ…これ甘すぎない?もうちょっと控えめな甘さだったらなぁ…。」とか言って、 貴方が「まぁこれくらいで良くない?なんならもうちょい甘くても良いけど?」みたいな話の原因になってるかも? 僕と貴方が、『君の名は。』よろしく「私達入れ替わってるー!?」とかやってケーキ食べたら「あれ…?なにこれ…?」ってケーキの味に絶望する可能性があるって事です。 視覚なら、お互い256色問題なく見分けられるけど、脳内のモニターで写ってる色がお互いズレてる(それでも問題なくお互い色を言い当てられる)ので、脳内の処理結果の色(色彩のクオリア)が違っても問題なく会話することが出来る(し、脳内の処理結果の味(味のクオリア)が違っても同様に)っていう話です。 極論、『生まれてから色彩が完全に反転しているモニターをお互いの脳内でずっと使っていても、それが反転していることには、脳内を直接見ないと気付けない』という事です。 ③結論 なので、 『前提:だれかの入力器官 (網膜(レンズ)のようなハードウェアだけではなく、視覚野から続く脳内のソフトウェア、あるいは価値観や好みというアルゴリズムも含めた他人の器官) で処理された情報体験のファイル(感覚)は、』 『仮定:違う景色が広がっているかも?』 『結論:それを『クオリア』と呼ぼう』 って話です。 ちょっと表現が古いですが『Windowsのメモ帳で普通に読めるテキストファイルが、Macに持ってったら文字化けするみたいな現象』が、人間でも起こるかもって事。 MacPC君的には「Windows君のテキストファイルキモすぎるよ!これが日本語の訳なくない?…もしかしたらWindows君って頭おかしいかも!?」ってなっちゃうかも。 でも、Windows君がテキストファイルをスクショしたらMac君も普通に文字が表示される訳で、そしたらWindows君が正気なのが分かります。 このPC間におけるスクショでのやり取り(共通規格へのファイル変換、データのパッケージ化)は、人間で言うコミュニケーションにあたります。 という話なので、先置きした結論の 情報処理的に言うなら、(GPUやモニター等の)パーツの劣化や型番、性能の違いや、アルゴリズムが違うから、 同一のデータやプロンプトを入力しても、PC(脳)内で出力されたファイルが違うので、他人のファイルと自分のファイルは同一じゃないかも?みたいな話なのかなって思います。 素人意見なので間違っている部分もあるかと思いますが、概ねこんな感じなのかなって思います。 これをもって『クオリアの違いにより色が違って見えている可能性の話は、色盲とはまた違う』という事が分かれ、ば、良いなぁ…。
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  • 2025年5月18日

    【推論】人を感動させるには。感動とは何か?【定義・分析・哲学】

    ◯前置き [感動とは] 感動とは、 どのように認識し、どのように考え、どのようにアプローチすべきかという、 「自己基準の取捨選択から溢れた何かの取得方法」その「取得方法の提示」、 それに高い評価値をつけたことにより起こる「自己基準の更新」である。 つまり、 1.ある鮮烈な事象によって引き起こされた「方法論」により、 2.「自己基準によっての取捨選択」で捨てられていた、あるいは見過ごされていた「取得出来なかった物」が、 3.「取得できるようになった瞬間の事象、あるいはそれによる行動選択の変化。」 である。 ◯解説 つまり、 ・「駅前で困っている人を誰かが助けた」に感動したのであれば、  「評価値と方法論の更新、それによる取得、取得の可能性の提示」 ・「生き物の死」というテーマの物語に感動したのであれば、  「今まで見過ごしていた日常の、   再評価や方法論の更新、それによる取得、取得の可能性の提示」 ・「芸術での感動」であれば、  「認識していなかった評価値との出会い、あるいは技術」それによって引き起こされる  「新たな評価値や方法論の取得」 ・チームスポーツの「スポーツ観戦」であれば、  「(逆境など)状況への対処」という「方法論の提示」 ・個人競技(例えばフィギュアスケート)の「スポーツ観戦」であれば、  「身体や精神、その制御や訓練」という「方法論の提示」 である。 ◯結論 であるならば、人を感動させるには ・新たな評価値、評価基準の提示 ・弱まった認識の評価の再提示 ・方法論の提示 という3つの方法があるといえる。 この推論により、誰かが感動することを願い、哲学を終了する。
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