多数決とは、枝葉は保留し大枠での一致を形成しようと試みる、割と成熟した意思決定スタイルだ、とみることもできる。
少数意見とは、特殊な環境・知見・発想等から生じた、集団に於いては見落としがちな事象を足場とする警鐘的意見である、とみることができる。
集団における決定は、構成員一人一人の利得、集団としての利得、その両方を考える必要がある。両者は一致し得えて、相反し得る。
つまり、めちゃめちゃ粗く纏めたとしても、以下四つの対応が考えられる。
A:個人として賛成だし、集団としても賛成
B:個人として賛成だが、集団としては反対
C:個人としては反対だが、集団としては賛成
D:個人として反対だし、集団としても反対
即ち、多数決をする際には、意識的無意識的であるとを別として、上記四類形のいずれかを足場とし、その賛否を表明しているはずだ。
AとDはよしとして、重要なのはBとCだ。
つまり、個人と集団との利得が一致しないことを認識した上で、しかしそのどちらかを優先させ決したケースだ。
ここで重要なのは、そのどちらかを優先し選んだ「理由」である。
自己にとって、その生存戦略上、個人も集団も非常に大切だ。その利得はなるべく一致させたいが、それが叶わない場合、どちらか一方を選択せざるを得ないとき、自分はどちらを選ぶのか。
その際、何らかの「理由」に則って、選んでいるはずなのだ。
多数決の最大の問題は、この「理由」が見えないことにある。賛否という表層しか見えない。しかし、その賛否をより解像度高く見ていけば、結果的に反対票を投じながら「個人としては賛成だが」「集団としては賛成だが」というものが混じっていることが分かるはずだ。
そして、相反しつつそのどちらかを優先し選択した「理由」が解かれば、それは相互理解の土台となるはずである。
つまり、多数決の「結果」だけでは集団に分断を生む危険性があるが、その選択に至る「理由」までが共有されれば、集団内部の「相互理解のためのツール」として機能し得ることになる。
その意味で、多数決は前提的作業に過ぎないといえる。ある課題に於ける構成員一人一人の現時点での一定の結論、およびそれに至った理由を明らかにするための作業であって、話し合いの足場を作るためのものである。本来的作業は、「話し合うこと」にあるのだ。
(なお、意思決定時の「理由」は、「決断時における評価基準」や「選択時の癖」を基にしていることが多いと思われる。
集団に於いては、この構成員の「決断時に於ける基準」「選択時の癖」を把握しておく必要がある。何故なら、これら「決断時に於ける基準」「選択時の癖」が、選択のたびごとに発揮され、集団の将来を左右する可能性が高いからだ。ときには、その「決断時に於ける基準」「選択時の癖」を改善・補修していくことも必要になるだろう。)
多数決を実施した結果みえてくる少数意見は、前述のとおり集団に対する警鐘的な意見である可能性が高い。
その意見は、ときに先見性を有し、示唆に富むものであるかもしれない。多数決の本来機能の一つは、この「集団にとっては宝となるかもしれない意見」の収集にもあるのだ。
それぞれの少数意見を一つ一つ吟味し、集団の補修改善に役立てることができるか否かを議論する。つまり、一旦は少数意見者の「意見」と「意見者」とを分離する。「意見」のみをまず取り上げ、情報として扱い、その有用性を吟味するのである。
次いで(これがより重要ではあるのだが)、「意見者」の処遇をどうするか、これを議論していくことになる。
意見者が提示した意見が、集団にとって有用だと判断された場合は難しくない。当該意見を活用するための、具体的対象として処遇すればよい。
問題となるのは、意見者の意見が集団にとって有用ではないと判断された場合である。その意見は、結果として無視されることになるかもしれない。しかし、意見者までもが無視されてよいのか、という問題である。
ここで、民主主義というものを考えたい。社会は、構成員の集合体として成立するものであり、構成員一人一人を守り尊重することが、社会を守り尊重することになる、という思想が基礎にあるのだと思う。
即ち、他者の尊厳が侵害されない限りに於いて、個人は尊重されねばならない、という考え方であると思う。
そして、「人は、思想も行動様式も一人一人違う」ことを、認める思想でもあると思う。
つまり、「違う」ということを以て、他者を排除し無視することは、民主主義を標榜する以上、決して【有ってはならない】ことなのだ。全く【あり得ない】ことである。
設問に立ち戻るなら、集団にとって有用とはされない意見を保持する意見者を、その意見を保持することを以て、集団から排除し無視することは許されず、他者と同様に構成員一個人として尊重しなければならないこととなる。もっとも、その尊重は「他者の尊厳が侵害されない限りに於いて」という限定がつくのは、当然のことである。
つまり、当該意見者が他者を侵害しない限りに於いて、当該意見を主張し行動することは許容されなければならないが、現に他者を侵害し、また侵害するおそれがある場合には、当該意見の主張やそれに基づく行動は、制限されることになる。
そして、侵害の有無や可能性に関しては、議論を尽くして明らかにしていく必要がある。
…このようにみていくと、我々の社会に於いては、議論、即ち「話し合うこと」が必要不可欠であることが解った。
如何なる理由があろうとも、「話し合うこと」を拒否し怠ける以上は、個人の尊厳も社会の安全も保持し得ないだろう。
目下、我々の急務は、より多様・多層な集団での「話し合い」の場を、構築していくことにある。
と。今回は硬めの論調で仕上がってしまった次第である。
次回はそう、「ブレーキ役」というものを考えねばならない。できるかな?
世界が不安定であればあるほどに、考えるべし。力によっても、思考は奪われない。止まることはない。
考えるべし!
今回は、硬派なのだべし!!