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「右園死児報告」を読んで

「右園死児報告」を読み終えたのは、オフィス19階にあるカフェスペースの窓際の席だった。読むことに没頭してしまい昼休みを大幅に超過していたが、午後のMTGまでにはまだ時間があったので気にしていなかった。

一息ついて顔を上げると、眼下には東京のビル群が広がっていた。ふいに寂しさがこみ上げてくるが、この感情の正体がはっきりしない。特大サイズのカフェラテを飲みながら考えてみると、答えは意外なほど簡単に見つかった。
寂しさの正体は、没入していた怪奇の世界から、突然規律正しく整頓された現実の世界に舞い戻ってきたからだ。東京では、禍々しい呪物も、謎の怪奇現象も、打ち捨てられた祠も入り込む隙間がないように見える。

オフィスビル群の合間にも、古い祠や何を祀っているかもわからない神社、古くからある地蔵は確かに存在している。それらは外観こそ古びているが、思いのほかきれいに掃除され、管理され、時折手を合わせている人を見かける程度には親しまれていた。
仕事中毒の社会人と外国人観光客とストリーマーしかいないこの街は、ゾッとするほど混沌としているが、霊的にはあまりにも整然としすぎているように思える。

今私がいるこのビルだってそうだ。33階建てのこのビルは、真新しく、隅々まで明かりが灯り、管理会社によって完璧に維持されている。ChatworkとGoogle Driveに完全に支配され、規律正しく整然としている中で、どうやったら怪奇現象が発生するというのだろう。

そう思うのは、私がオカルトマニアではないからかもしれない。だが、会社のカフェで安いコーヒーを飲むことを唯一の楽しみにしている社会人だって、怪奇の存在をぼんやりと信じていてもいいはずだ。
そこまでいかなくとも、ふいに異形の存在を確信し、ビクビクしながら暗がりの給湯室を覗き込んだりしたことがあっただろうか。
ふと、チャットのDM欄や出しっぱなしになっている付箋に「右園死児」の文字が浮かび上がるよりも、エレベーターが止まった方が怖いな、と考えてしまい、がっかりしてしまった。
どう考えても「右園死児」の方が怖いはずなのに。

寂しさや釈然としない気持ちが、苛立ちに切り替わるのがはっきりとわかった。
なぜエレベーターの故障程度で私は怖がるのだろう。本来なら、異形の存在や呪われた名前の方がずっと恐ろしいはずなのに。この完璧に管理された環境に慣れすぎている自分が情けなかった。
怪奇小説を読んで感動しているくせに、呪の存在など全く気にしていない自分に幻滅した瞬間、この整理整頓された世界への反発心が湧き上がった。
明るすぎるオフィス、おしゃれで快適なカフェ、動作するシステム、理知的なチャット、そのすべてを壊してしまいたくてたまらなくなった。

今こそ書き始める時ではないか?

VSCodeの拡張機能「novel-writer」を思い出した。VSCodeはプログラミングで使用するコードエディターだが、novel-writerはSF作家の藤井太洋さんが日本語ライティング専用に開発した拡張機能だ。
さっそく手元のMacでVSCodeを起動し、novel-writerをインストールしてみる。
今こそ書き始める時ではないか?

午後のMTGまではまだ時間があった。
よし、まずはこのビルにいる人間を恐怖のどん底に落としてやろう。祠も壊してやる。呪いを撒き散らし、死体を増やし、もちろんエレベーターも停止させる。整然と穏やかに管理されている人々を混乱させるのだ。
普段はプログラミングに使用するVSCodeに日本語がつらつらと表示されているのは、なんだか違和感があった。それも時期に慣れるだろう。

私はキーボードを叩き始めた。



※この近状ノートはフィクションです

右園死児報告
https://kakuyomu.jp/works/16818093081705564239


novel-writer
https://marketplace.visualstudio.com/items?itemName=TaiyoFujii.novel-writer

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