董卓が洛陽に入城したのは昭寧元年八月辛未早朝。西暦だと189年9月25日です。
董卓が少帝を廃し献帝を即位させたのが永漢元年九月甲戊。西暦189年9月28日。
この四日間で起きるイベントは
・董卓入城
・大赦天下。改元昭寧
・鮑信の董卓逮捕案を袁紹が蹴る。鮑信帰る
・丁原も洛陽入城
・何進何苗の兵を董卓が吸収
・丁原が執金吾になるも呂布の裏切りで死ぬ。
・丁原の兵を董卓が吸収
・董卓が袁紹に少帝廃帝をもちかける。袁紹洛陽から逃亡
・董卓が百官に少帝廃帝を提案。盧植に反対される
・董卓が何太后を脅迫し、廃帝を認めさせる
・献帝即位
・大赦天下。改元永漢
・何太后追及(殺害は二日後)
ぎちぎちです。
呂布が丁原殺したのはこの期間でない可能性もありますが、三国志と後漢書の両董卓伝で少帝廃止の前に置かれているのでそう取っておきます。百官が廃帝騒ぎの際に丁原を利用した痕跡もないですしね。
ここから判るのは、袁紹は洛陽で絶大な警察力を持つ司隷校尉でありながら、董卓と政権を争っていません。むしろ即逃げです。
私はその理由を舞陽君の死に求めました。舞陽君は三国志董卓伝と後漢書何進伝では董卓に殺されていますが、後漢書皇后紀では乱兵に殺されたとあります。翌年の関東諸侯の蜂起の際に董卓に殺されるとしたら「乱兵」ではありませんから、この乱兵は袁術としか思えません。舞陽君殺害の責任者としては袁紹ということになります。
董卓も董卓で「霊帝が病床の中、洛陽周辺に駐屯して崩御を不気味に待ち、何進死後に宦官の殲滅された洛陽へ帝を奉じ入城した」的な語られ方をしがちですが単に袁紹に呼ばれたから近所にいただけで、何進暗殺宦官殲滅皇帝放浪なんて事態を読めるわけもないので、機会主義的に覇権を取っただけだと思います。
霊帝が死ななかったり、何進が生き残ったり、宦官が殲滅されなかったり、少帝が連れ出されなかったりしたら三千ぽっちの兵力で董卓はどうするつもりだったのか興味があります。
なお軽視されがちな丁原ですが、この話では「呂布と張遼をたばねる并州刺史が呂布より弱いとでも思ったか」的に評価をしています。
なお朝堂で盧植が董卓に抗弁し、殺されそうになるところを蔡邕の取りなしで助かる話が献帝紀にありますが、蔡邕は董卓に辟されてもなかなか来ようとしなかった人なのでこの四日間に居る筈がありませんね。