この時代ではシニカルから始めて、シニカルへシニカルを向けて回し続ける態度でいるのが一番簡単だ。
サボタージュの天才である僕がそうしているんだから間違いない。
常に回し続けるんだから当然疲れるし擦り減るし壊れるし、なにより弱る。そうして出来上がるゴミ溜めの部屋と思考回路、それがイマドキな大流行の防空壕で武装で免罪符。
それをまったく肯定したくない僕は、14歳の素直なシニカルだけを「死んだほうがいい」と肯定したい。
逆に言うと、引用されることを前提としたシニカルに「生きたほうがいい」と否定したい。
僕が否定したいのはシニカルのサイクルであり、シニカルではない。たとえば、見栄えと都合と着心地の良いキャラをハッシュタグみたいに貼り付けて、他人をモブにする生き方はシニカルを回す連中よりも反吐が出る。
しかしこの吐き気が良い例で、シニカルとはそもそも反作用が原動力であり、シニカルサイクルを否定しシニカルを肯定するのは身勝手なエゴに過ぎないとも思う。
しかし僕はシニカルを愛していて、シニカルの回転に絶望している。
突き詰めればシニカルな態度とは独自の視点を持ちたいという、他人と上方向の差異を生む為に自分の輪郭を探す営みだ。
他人より自分が鋭く正確に物事を見ているという安心を持ち続けるには、いつでも現在地の逆に張れるような立場を選ぶ必要がある。
なぜならどれだけセンスを磨いても、どれだけ論理を重ねても、いつ、どこで、誰にそれを上書きする空気をスプレーされるか分かったものではないし、万が一注目なんてされてしまえば、擦り切れるまでコピペされて自分のものではなくなってしまうからだ。
こうしてサイクルは回り続ける。
回転を止めるのはシニカルを貫く一種の軸だと思う。
たとえ明日の自分は違うとしても、「今、この時の自分の態度」を冷笑や反証を恐れずに生きられるかどうか。
別に自分の生き方を卑下して嘲笑したって構わない。
自分の思考を似非哲学だと、自虐趣味だと否定する、その自己否定も「軸」たりうる。
「軸」が無い、サイクルを生むシニカルとは、他者によって揺らいでしまう、他者によって揺らぐことを前提としたシニカルだ。
自己否定だって、他人に笑われることや叱られることを恐れないで、自分の意思で変わりたいと願うまで確固たる拠り所と貫けるなら、それは真っ直ぐ斜めに曲がっている、回らないシニカルだ。
描きたいのは、そんな厨二でイタい主人公。