割と昔からSFのネタにもなっている人工知能、最近ではAIとも言うのでしたっけ? 自分の記憶するに一番古い物で、手塚治虫の火の鳥”未来編”の中に出て来る、人工知能の支配する社会を描いたものがあった様に思います。
果たして、政治的、社会的判断を人工知能に委ねてよい物か、と云う、割と定番のネタであるのですけど、昨今のAI周りの議論を見る限り、そのテーマは今の時代に於いても有効であると見受けられます。
以前から飽く事無く繰り返されるこの手の話題に、自分はずっと不思議に感じていました。何故って、人間の事は人間が決めるのが当然でしょう? 違うの? と云う思いが在ったからです。どこぞのコミュ障の水の柱の剣士も言ってたでしょう、”生殺与奪の権を他人に握らせるな!!”と。
まあ、現在話題になっているのは、そんな御大層なテーマではなく、創作活動に限定されたものである様ですが。それにしたって、大して変わらない、一言で終わる。だって、自分の言葉で語れない奴の言う事なんて、何一つ信用出来ない。それだけの話でしょう。
と言って、自分の言葉、自分の言葉、と言葉にするのは簡単ですが、それを紡ぎ出すのが如何に困難か、という事も充分理解している積りです。かつて、何とか自身の内にある物を言葉にしようとして、机に向かい、その姿勢のまま二時間、三時間と固まったまま、何の成果も得られませんでしたぁ! となった経験を持つ自分としては、上手く言えない、言葉に出来ない、説明出来ない、などの言い草に軽い苛立ちを覚えながらも、一概に否定する気になれない。だってそれ等はかつて自分の通って来た道なのだから、と。
今まで散々ボロクソに言って来たAI、前記の様な悩みを抱く人達にとって、それが格好のツールに成り得る事は否定出来ません。要は使い方の問題でしょう。”こんな風に思っている、感じている”という事に対して、フムフム……、それは……、エーイ! ”それは、……が、……となって、……であるだろう!” 「こんなん出ましたけど~(裏声)」と云う風に、謂わば占い程度、助言程度に使うのが現在に於いて理に適った、と云うか適切な無理のない使用ではないかと考える訳ですがどうでしょうね(しかし、我ながらネタが古いな)。
創作活動に於いて、AIに全てを委ねるのでなく、AIを使ったらこう出た、それに対し自分は、という風に、AIを自分の代弁者にするのではなく、自分の創作を促す為の対話相手、として扱う事で、自身の言葉を見付ける際に大いに助けになるだろう、と。そんな使い方が、今の自分にとって最もしっくりくる答えとなりそうです。
長々とすいません。何となく思い付いたので、この場を借りて語ってみました。