この街、ルント市……。
あの何もない部屋で目覚めてから、もう随分と時間が経ったはずなのに、時折、ここが現実なのかどうか分からなくなることがある。
空気の匂いからして違うのだ。市場から漂うパンの焼ける香ばしい匂いや、家畜の匂い、木材や土埃の匂い……そして、裏路地に漂う、あまり衛生的とは言えない、むせ返るような生活の匂い。私のいた世界とは、何もかもが違う。
石畳の道は歩きにくく、すり減った靴の底を通して凹凸が直接伝わってくる。
家々は、木組みの壁や、漆喰のようなもので塗られた壁がごちゃごちゃと隣り合い、不揃いな瓦屋根が連なっている。
貴族や大商人が住む地区は、さすがに道も建物も立派だが、一歩路地に入れば、人々の暮らしの厳しさが垣間見える。
それでも、この街には活気がある。特に広場に面した市場は、朝から晩まで人でごった返し、売り手と買い手の喧騒が絶えることがない。
野菜や肉、布地といった生活必需品から、職人たちの作った道具や武具、そして真偽不明の薬草や怪しげな護符まで、ありとあらゆるものが取引されている。
ここで使われているのは、銭貨、銅貨、銀貨、金貨……そして、大金貨や大白金貨といった、目も眩むような高額貨幣。私は、ここで日銭を稼ぐことの困難さと、そして、あの本——|命脈の書《ルート・オブ・ライフ》が要求する価値の、あまりの隔絶を最初に思い知らされた。
この街の医療は、はっきり言って、ないに等しいレベルだ。中心となっているのは、広場の東側に大きな建物を構える聖ルカ施療団。彼らは祈祷や、気休め程度の薬湯で人々を「治療」しているらしいが、私が関わった難病患者たちの多くは、そこで匙を投げられていた。
最近では、その施療団も内部で揉めているという噂だもある。保守的な者、理想を掲げもっと人々の病気と向き合いたいという革新的な治療師も多い。
街には他にも薬師や民間療法師がいる。その中でも、誠実だが知識の限られた薬草店もある。だが、深刻な病や怪我に対して、彼らが提供できるものはあまりにも少ない。簡単な感染症や、本来なら治せるはずの怪我が、ここでは命取りになりかねない。
だからこそ私の「仕事」が成り立つのだ。他の誰もが諦めた症状に対し、私は結果を出す。そして、その対価として莫大な価値を得る。それが、今の私がこの街で生きる方法であり、目的でもある。
街の人々が私をどう見ていようと構わない。「悪徳医者」?結構だ。私は私のやり方で、価値(ミラン)を集め、本の力を解放し、最終的には——。
……このルントという街は、私にとって、ただの活動場所だ。過去も未来もない、異邦人としての私が、目的を達成するためだけに身を置く場所。それ以上でも、それ以下でもない。
……今のところは。