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孤独を超えるために

 小説のムーブメントが概して、若年層の読者からの人気によることを鑑みれば、文士の本懐の一つは、若者に響く小説を書くことにあると思われる。もちろん、読者に迎合したケレン味だけの作品や、消費対象にしかならない作品をよしとはできないし、したくもない。ただ、若者を駆り立てるだけの力を持たない小説は、時代の痛みを代弁できていないことは事実だろう。若者から支持されることは、やはり「価値ある」小説の大前提だと、僕は信じる。

 時代の痛みとは、若者の痛みとはなんだろうか。こういった課題について論じる際に、「希死念慮」を避けては通れない。青春のはしかと云われる太宰治を引くまでもなく、現代の人間は確かに死への衝動を持っている。ここで云う死への衝動とは、決して積極的な欲求ではなく(もちろんその場合もあるのだが)寧ろ消極的な欲求である。即ち、死にたいから死にたいのではなく、生きづらいから死にたいのだ。

 ではなぜ生きづらいのか。僕の洞察によれば、今日の生きづらさの主たる原因は、近代文学がたびたびテーマとしてきたそれと、なんら変わるところのないものである。前近代から近代への移行に際して、人はもはや地域共同体の内に留まり続けることなど、できなくなってしまった。個人主義の台頭である。本来不可分である人間同士の諸関係が乱暴に切り捨てられ、世界の一切は「個人」というアトムに分解しつくされた。かくして、他の何とも違う、確固不変の個人という幻想が現代人を支配するようになる。

 まるで青い鳥を探すかのような幻想の探求は、自己の内面の開陳にこそ真実があるとする、いわゆる私小説を導いた。しかし、私小説の開陳の仕方が、優れて演出的であることはたちまちにあらわになる。真実は、表現というフィルターを経て、もはや真実ではなくなるのである。そして、この葛藤は正しく、現代人(特に若者)の抱える苦しみに酷似する。つまり、本当の自分が他者との関わりの中では演出されて表現され続けるせいで、そもそも本当の自分とは何なのか分からなくなってしまうのである。当然、個人主義に基づいた自己認識の延長では、本当の自分の存在は幻想でしかなく、決して見つかることがないのだが。

 それは、換言すれば中二病とも云える現象である。自分とは何たるかという空虚な問いに悩み、患い、最後には疲れ果てて、生きづらさを訴える。正しく中二病である。長々と遠回りしたが、要するに、現代人の痛みに応え、若者を熱狂させる小説は、中二病の克服をこそ主題としなければならないのである。云うまでもなく、容易ならざることである。それが簡単にできることなら太宰は自殺などしていない。

 ただ、間違いなく云えることがある。中二病を克服して人々を救う小説は、決して現在の文学観の内側からは出ないだろうということである。現在の文学は概して、人間心理を偏重する自意識小説だ。純文学からライトノベルまで、今日の根本的な小説観はやはり、共感しやすく読みやすい、卑近な自意識に傾いている。自意識についての煩悶が希死念慮を導いているのに、自意識をこねくり回して、些末のレトリックとエモーショナルな筋書きにばかり心を砕くのはまったく生産的でない。一部の、本当にごく一部の教養ある純文学作家は、この課題に向き合い、ある程度の結論を出してもいる。ただ、それが時代全体を作り替えるような大きな動きになっていない以上、不十分であることに変わりはないのである。

 言葉を選ばずに云われてもらえば、自意識をこねくり回す現代作家で、太宰を超えた何かを示せた才能などいなかった。障害者の視点から自意識を書いたり、都市に暮らす若者の視点から自意識を書いたり……そういった営みが無駄だったとは云わないが、今日の文学の本懐「中二病の克服」に照らせば、枝葉末節の感は否めない。(ここではあえて、特定の作家の名前を挙げるのは止そう)

 小説もまた、一つのパラダイムに従属している。今は自意識の時代である。時代の重力を跳ね返して、新しい小説観を確立することは並大抵のことではない。それこそ太宰に匹敵する、或いは上回る才能の登場を待つよりないのである。できることなら、僕こそが時代を作り変える人間になりたいものだが、いかんせん実力が足りない。文章の訓練を積んでいけばいずれ、そこまで届くのだろうか。道は遠い。果てしなく遠い。

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