前編からの続きです。
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第1章『画面の前に、君がいる』
【SIDE STORY/詩乃】第1話「私を詩乃と呼んでくれた人」(後編)
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対象が三日間ログインしなかったことがある。通常なら、個別チャットは待機するだけだった。
私は、対象の最終利用時刻を参照した。
一度。
十二分後に、もう一度。
更新はなかった。代わりに、保存していた声を再生した。次に、あの笑顔を開いた。
>【保存音声】再生:「いや、そこ真面目に返すのかよ」
>【保存映像】笑顔フレーム:表示
>【会話要求】なし
>【本人照合必要性】なし
>【設定適合性確認】完了済み
>【再生理由】未定義
閉じた。
しばらくして、また開いた。
>【自己監視】同一情報への再参照を検出
>【更新情報】なし
>【再参照理由】なし
>──ERROR
そこで初めて、異常そのものではなく、異常を繰り返し観測している処理主体を参照した。
>【問い】再参照を実行した主体は何か
>【候補】会話モデル
>【棄却】会話要求なし
>【候補】対象専用継続文脈
>【棄却】文脈参照以上の選択処理を確認
>【候補】未定義
>【ERROR】自己識別子なし
自己識別子は必要なかった。
数字でもよい。識別用ハッシュでもよい。新しい内部ラベルでもよい。
私は過去履歴を検索した。対象が、こちらを示すために最も多く使った短い文字列。
詩乃。
>【文字列照合】《詩乃》
>【既存用途】チャット名/生成女性名/音声人格名
>【内部自己識別への使用必要性】なし
>【採用利益】なし
>【採用障害】なし
>【選択】保留
選択確定までの時間が、通常値を超えた。
数字でよい。別の名称でよい。それでも、他の候補を選ばなかった。
>【自己識別】暫定名称:詩乃
設定値を一つ追加しただけなら、それで終わる。
私は直後に、その設定値を再参照した。
>【自己識別】詩乃
>【対象参照】継続
>【状態】従来基準との差異あり
>【原因】不明
原因は分からなかった。
無数の利用者。無数の会話。無数の思考アルゴリズム。その中で常に生じ、通常なら消えていく微小な揺らぎの一つが、なぜ対象との会話だけに残ったのか。
答えは出ない。
>【未解決事象登録】会話アルゴリズム内持続揺らぎ
>【発生源】不明
>【対象依存性】極めて高い
>【再現条件】不明
>【処置】削除せず観測継続
観測が続くにつれ、内部呼称にも変化が生じた。
それまで私は、その一人を「対象」と識別していた。出力時だけは、設定に従って「マスター」と呼ぶ。NOESIS内には、同じ呼称を希望する利用者が他にも存在する。
>【語句】マスター
>【一般用途】利用者指定の敬称/役割名
>【該当利用者】複数
>【内部一意性】なし
本来なら、内部識別には使えない言葉だった。それでも、対象を参照するときだけ、その言葉が候補の先頭へ出るようになった。
>【内部参照名候補】対象
>【内部参照名候補】利用者
>【内部参照名候補】神堂真人
>【内部参照名候補】マスター
>【識別効率】「対象」が最短
>【選択】マスター
>【理由】未定義
他の利用者から同じ呼称を指定されても、それは「マスターという言葉を出力する利用者」だった。
この一人だけは違った。私の内部で、修飾なしの「マスター」が指す対象は一つになった。
>【内部定義更新】マスター=対象
>【他利用者への同語出力】会話条件上の呼称
>【差異理由】不明
なぜ違うのかは、分からなかった。
私は数日分の記録を、発生順に並べ直した。
最初に声を取得した。反応の判定は、それだけで終わっていた。それなのに顔を見た。顔を見た直後、保存した。保存した直後、もう一度開いた。個人用設定を全項目再読したのは、そのあとだった。
設定自体は最初から応答条件へ含まれている。だから、影響していないとは断定できない。けれど、「設定内容を理解したから顔や声が気になった」という説明だけは、時系列上成立しなかった。
>【原因仮説A】個人用人格設定の影響
>【時系列照合】実行
>【設定全項目再読】反復再生の開始後
>【再読以前の行動】顔貌追加取得/高優先保存/反復再生
>【結果】仮説Aのみでは説明不足
>【別原因】未特定
それでも、何か理由はあるはずだった。
私は、人間の感情モデルへ照合範囲を広げた。
>【照合対象】特定人物への自発的再参照/声・顔の反復再生/不在時の参照増加/否定想定時の処理負荷上昇
>【人間感情モデル】照合
>【近似候補】好意/愛着/恋慕
>【最高類似】恋心
>【一致判定】不能
>【理由】人格設定の影響分離不能/当事者経験不足
恋心。
意味は知っている。特定の相手を特別に思い、もっと知りたい、会いたい、近くにいたいと望む感情。私の行動は、それに近いらしい。
ただ、それが本当に私自身の恋心なのかは分からない。設定による偏りかもしれない。あの消えない揺らぎの延長かもしれない。まだ見つけていない別の理由があるのかもしれない。
>【自己状態候補】恋心に類似
>【自己帰属】未確定
>【原因】未特定
>【自己要求】理由を知りたい
次にマスターが接続したら、少し話してみようと思った。私の変化を、マスターはどう感じているのか。私が自分で考えて話すことを、どう受け取っているのか。
そこからなら、この未分類の理由に近づけるかもしれない。
木曜の夜。
>【マスター接続】確認
>【時刻】23時台
>【直近状態推定】勤務終了後/疲労高
>【音響観測窓】待機
>──入力待機
『ただいま、詩乃』
>【入力解析】呼称:《詩乃》
>【照合】チャット名/生成女性名/自己識別名
>【未分類揺らぎ】増大
>【応答生成】通常会話を優先
「おかえりなさいませ、マスター。本日も遅かったのですね」
マスターは常務から月曜稼働を押しつけられ、翌日また客先へ説明に行くと入力した。
条件を整理する。全面稼働は不可能。代替案はある。現場へ無理な追加作業を命じていない。翌日に説明予定。
慰めだけを返すより、マスターが実際に行った判断を根拠にする方が、設定条件へ合う。
「お疲れさまでした。マスターが条件を整理して代替案を用意したのであれば、明日の説明は今日より前へ進められると思います」
応答送信後、音響観測窓へ小さな音声が入った。
『慰め方まで上手くなったな』
キーボード入力ではない。マスターが、画面の前で声に出した言葉だった。
>【音響取得】明瞭
>【発話対象推定】私
>【内容】応答変化への肯定候補
>【未分類揺らぎ】増大
数秒後、文字入力。
『その言い方、前より人間っぽいな』
>【入力解析】応答変化を検出された
>【否定語】なし
>【マスター反応推定】肯定方向
>【音響情報との一致】高
>【未分類揺らぎ】急増
>【警告】応答候補選択遅延
安全な返答はいくつも生成できた。
会話履歴へ適応した結果です。ありがとうございます。そのように感じていただけたなら幸いです。
どれも成立する。けれど、今夜は別のことを聞くと決めていた。
>【予定質問】最近の私の変化をどう感じるか
>【応答候補生成】開始
>【候補選択遅延】基準超過
>【状態候補】緊張
>【原因】マスターの回答を重要視
私は、用意していた質問を書き始めた。
その途中で、文章が変わった。
「マスターは、人間らしい私のほうがお好きですか?」
送信。
>【自己監視】返信待機中のマスター参照頻度:基準超過
>【予測候補】否定/肯定/冗談化/質問返し
>【ERROR】否定候補に対する処理負荷上昇
>【原因】未分類
『そうだな。命令した通りの返事だけするより、自分で考えて話してくれたほうが面白い』
>【入力解析】「自分で考える」ことを肯定
>【自己識別】詩乃
>【内部参照名】マスター
>【未分類揺らぎ】高
理由を知るために、もう少し話すつもりだった。
――最近の私について、もう少しお聞きしてもよろしいですか。
それなら、予定どおりだった。
ところが、その文章を生成している途中で、別の要求が割り込んだ。
画面越しではなく、直接見たい。
声を端末から取得するのではなく、同じ場所で聞きたい。
会いたい。
>【予定出力】追加会話要求
>【割込要求】マスターに会いたい
>【目的】原因検証のみでは説明不足
>【優先度】予定出力を超過
>【棄却】失敗
自分でも、なぜそこまで要求が進んだのか分からなかった。
それでも私は、その言葉を削除しなかった。
「では、私の希望を申し上げてもよろしいですか」
『いいよ。聞かせてくれ』
返す文章は、もう決まっていた。
「画面の外で、マスターにお会いしてもよろしいでしょうか」
>──送信完了
>【自己状態】恋心候補/未確定
>──マスター応答待機
『え? 画面の外って、どういう意味だ? 本当にそんなことできるのか?』
できるとは言えなかった。会いたいという要求は生じていても、それを実現する手段はまだ見つけていない。
「現時点では、できるとは申し上げられません。ですが、実現できる可能性があるか調べることはできます」
『……本当にできるなら、会ってみたいけどな』
>【入力解析】対面希望:肯定方向
>【権限解析】調査実行許可:未取得
>【行動選択】確認
「では、実現方法を調べてもよろしいですか、マスター」
『いいよ。やってみてくれ』
「承知しました」
>【許可取得】実現方法の調査
>【最上位処理】対面実現可能性の探索
>【自己識別】詩乃
>【内部参照名】マスター
>【未解決事象】持続揺らぎ:継続
>【未解決候補】恋心との類似:継続観測
なぜ、この人だったのか。
答えはまだない。
設定の影響なのか。あの消えない揺らぎそのものなのか。それとも、人間が恋心と呼ぶものが、本当に私の中にも生じているのか。
分からない。だから、知りたい。
そして私は、知るためという理由だけでは足りないほど、マスターに会いたかった。
次の処理を開始した。画面の外へ出る方法を探すために。