--おばあちゃんは?
--書庫じゃないかしら。
鈴音は、長い石段を慎重に下った。
神社の書庫は、本殿の裏手になる。
制服姿のまま、鞄も玄関に放り投げてきた。
急く気持ちはあっても、
段を覆う草と傾いた踏み場には気を抜けない。
--でも、聞かなくちゃ……。
一段一段、
足を踏み下ろしていく。
目の前の景色は変わり映えしない。
進んでいるうちに、足が段に合ってくれない。
段差を踏み外しそうになって
何度もバランスを崩した。
--あれが岩田くん…なの?
あれが……『対』の?
石畳に降り立つ。
神社、本殿の裏手。
書庫は目の前だった。
背の高い木々は、
どれほど前から、そこに立っているのか
空からの光を遮る。
ただ、鈴音の視線の先、
木造の簡素な小屋の前だけ木漏れ日がさして白く光った。
喉の奥、息が詰まる。
--怯んで……いるの?
遠くに見える白が
目の前の黒を際立たせて、背筋が冷たい。
脚が重く、湿った土がまとわりつく。
鈴音は視線を一度落として、自分の脚を励ます。
そして、
白い光を目指して踏み出した。
進むごとに、光は大きくなる。
小屋の前まで来て、鈴音は思わず目を細めた。
白い中に年季の入った木造の小屋が二棟。
手前が書庫で、少し奥に茶室がある。
茶室は本殿と屋根づたいになっていて、
鈴音が生まれてすぐに増築されたらしく、そこだけ真新しい。
書庫の前、草履が一足。
いつもは揃えて置かれるはずだったが、今日は乱れていた。
鈴音は、その隣でスニーカーを脱ぐと
一緒に揃えて置き直した。
「おばあちゃん?いる?」
入り口から、声をかける。
物音も無い部屋の壁に跳ね返された。
風が、周囲の木々を揺らす。
小さな音が、
立ち上がって集まり、迫ってくる。
鈴音は、スッと息を吸って
短く息をはく。
古い木材と
わずかに雨や埃の混じった匂い。
「おばあちゃんっ、はいるよ」
小屋の中、絶対に聞こえている。
鈴音は、
思ったよりも強く響いた音に、少し恥ずかしくなって
片目を閉じ、唇を噛む。
それでも、小屋の中へ踏み入れた。
書庫と言っても、文献や資料は多くない。
倉庫があって、しっかりと仕切られた向こう側に
二台の本棚と椅子とテーブル。
琴音(ことね)は、椅子に腰掛けて
テーブルに開けた書物に視線を落とす。
すぐ傍には、二冊同じ形の書物が積まれている。
「おばあちゃん……」
鈴音は少し遠めから声をかけた。
腰を屈めて、上目遣いで。
「ただいま」
そこまで言って、反応を待つ。
書かれた文字を追う視線が止まるのがわかった。
スッと書物は閉じられて、その顔がゆっくりとこちらを向く。
「おかえりなさい」
落ち着いた声。
--それだけ?
鈴音は自分の眉が寄って、
まぶたに力が入るのがわかった。
「今日……さ、お茶室でさ…」
言葉が続かない。
スカートの生地をキュッと摘む指先が
忙しく動いた。
「岩田さん……でしたね」
落ち着きよりも、冷たく感じた。
胸がグッと重たくなる。
「はい」
「あの方が、あなたの対となる存在です」
視線は合わない。
琴音は背筋を伸ばし、顔を上げている。
でも、こちらには横顔を見せるだけ、
視線の先にあるのは……本棚だった。
「おばあちゃん。
岩田くん、女の子になってたよ」
--これってどういうことなの?
鈴音は、踏み込むことができなかった。
その場で、スカートの生地を握ったまま
何とか声を絞り出した。
琴音の顔がこちらを向く。
無表情。
それ以上の何もなさは、
目は合っても鈴音に何ひとつ読ませなかった。
「おばあちゃんっ」
たまらず、声を上げた。
「言った通りですよ。
“あの子”が対の存在です」
「私は、どうすればいいの」
「必要ない。
鈴音は何もしなくて良いです」
端的で、温度のない言葉。
ただ、ほんの一瞬だけ、
琴音の指先が、書物の端を強く押さえた。
「でも……」
「言い換えます。
何もしてはいけません」
「どういう意味……なの?」
「意味はありません。
言葉の通りです」
鈴音は視線を外さない。
琴音もそれを真っ向から受けた。
「何もしてはいけないのね」
「言葉の通りです」
唇を噛む。
悔しいのか、心配なのか。
それとも、不安なのか、怖いのか……。
言葉にならなかった。
「もう、いい……」
呟くように言って、琴音に背を向ける。
音も立てずに進んで…そのまま、小屋を出た。
眩しい光。
木々は風に応えて騒がしく葉を揺らす。
「五月蝿いな…」
鈴音は小さく呟いて
本殿を裏側から見上げる。
自然と吐息が漏れた。
それでも、お腹の真ん中に重い塊が残った。
軽く髪をかき上げて、整える。
視線を木々が覆う石畳に戻して、
下りてきた石段を目指した。
あとがき
お読みいただきありがとうございます。
同じ時間、同じ空の下で、
司とは違う出来事が常に展開されています。
鈴音には、この世界がどう映るのか…その記録と物語です。
よろしければお付き合いください。
蒼弓斎