ふぁっ!? しばらくチェックしないでいた間に「恋愛脳なギャルJK」のPVの表示が10.0K……K!? 初めて見ました!!
これ、一話の字数が少ないっていうのもあるのですが、それにしてもすごいですね、ラブコメ。底辺の私でもこんな数字が拝めるのですから。
もう一か月以上も更新が停まっているので、ありがたいやら、申し訳ないやら。
すみません。続きはもう少しだけ待っててください。あと少しだけ。
セカンドステージ、アゲアゲで参りますので!(自分を追い込むスタイル)
https://kakuyomu.jp/works/1177354054897697934「抜き差しならない俺たちの関係」と「それはキッスで始まった」もしばしお待ちを(T_T) 再開ラッシュを目指しますので。
さて、読書メモです。今回はさっくり二冊。
『クローディアの秘密』E.L.カニグズバーグ作 松永ふみ子訳(岩波少年文庫050)
言わずと知れた児童文学の名作ですね。
今回、大人の私が読んで気付いたのは、これってやっぱり大人の「フランクワイラー夫人」の語りなのだよなあという、とってもあたりまえのことなのです。終始大人の目線なのですよね。
でも、これを読んでる子どもたちはそんなことは意識しない。家出をしてきた姉弟たちと同じ目線で美術館生活を楽しむのだと思うのです。
児童文学とは、大人「が」子ども「に」読ませたい本のことです。選別するのは大人なんです。なのでフランクワイラー夫人がサクソンバーグ氏にあてた手紙という、大人が大人に子どもの物語を語る構造は大正解。大人が読んでもおもしろい。
かつ、しっかり子どもを楽しませることもできる。それが名作の条件なのだろうとしみじみです。
『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』ウンベルト・エーコ/ジャン=クロード・カリエール 工藤妙子訳(阪急コミュニケーションズ)
フランスの脚本家カリエールとイタリアの中世学者、小説家のエーコによる対談集。
タイトルには絶滅と冠されていますが、書物は滅びることはないだろうという前提で、古書収集家であり愛書家であるふたりの知性の対談は進みます。
序盤でびっくりするのは
「聞いた話では、日本人は、携帯電話で小説を執筆して、それを携帯電話で配信したりもしているそうですね。」(p33-34)
なんて発言が飛び出したこと。この対談は2009年。ケータイ小説のことですかね??
「傑作が傑作であるためには、知られるということが大事です。(中略)知られざる傑作には読者が足りなかったんです。充分に読まれなかったし、充分に解釈されなかった」(p223より)
他の芸術作品でもそうなように、傑作が後世に残るためには目利きの存在が必要なのですね。
耐久メディアがいかに儚いか、書物をフィルタリングすることの功罪、歴史上むしろ書物は焼かれるものだった、古書との出会いと運命、自己顕示、人類は半分は天才で半分は馬鹿である、などなど。豊富な知識と体験によって、書物や情報に関する対談が続きます。
「昔の農民たちが自分たちの愚かしさを隠していたわけではありません。教養があるということは必ずしも頭がよいということを意味しません。しかし、今日では、誰もが自分の考えを人に聞かせようとするので、どうしても、単純な愚かしさが露呈してしまう場合があるんです。ですから、言ってみれば、昔の愚かしさは人目に触れることがなく、認知もされなかったのに対し、最近の愚かしさはやたらと大声で喚きたてるんです。」(p309より)
アイタタタタ。
一口に本を読む、といっても、本そのものが好きなのか、読むという行為が好きなのかに分かれるとか。確かに~。読書依存症(活字中毒?)のタイプの人もきっと多いわけで。
一方、本棚の本をすべて読んでいなくたっていいじゃないか、なんてお話も。新刊はすぐに読まなくちゃって強迫観念があるのだけど三年後に読んだっていいじゃないかと(笑) 積読があったっていいんですよ!(うちでもいっぱい埃をかぶってます……)
それと、自分の好みをわかってくれてる、自分以上に見る目のある「目利き」の友人がいるといい、的な発言も面白い。
貴重な古書を所蔵してるのだから窃盗の心配もあるけど、イタリア警察の書画骨董専門捜査部門は優秀とか。へえー。
400Pを越えるなかなかのボリュームの本ですが、対談なので読みやすかったです。