とある世界に、惑星の半分以上を占めるほどに広大な、一つの大陸があった。
ーーシグヌム大陸《signum continent》。
精霊の恩寵と影響を強く受け、それゆえに気候の移り変わりが非常に激しい肥沃な大陸。
そして、その広大な土地には、数多の国家がひしめき合っていた。
……大陸内順位を巡っての牽制と暗躍、戦争。
そんな混沌とした大陸において、大陸内順位・第四位に位置するとある大国に――。
一人の、天才がいた。
「これより判決を言い渡します。」
法を司る公設組織の、最高機関、『王国最高裁判所』。
(空気が重いんだけど。)
灰髪、黒細丸めがね、死んだ魚のような目。
18歳青年、証言台。遅々として進まない裁判に、陰鬱とした空気を纏う、それが僕。
王国最高裁判所は、とても大きくて綺麗で、まるでパルテノン神殿か銀行のような様相をしている。ーーなんたって、この国最大の法の番人であるから。
石造で寒くて音がよく反響する。四方をぐるりと囲まれてすごく息がつまるし、『こいつを絶対に更迭してやる』という意思がとても濃く空気に混じっている。
吹き抜けの実質5階建くらいの高さ。
後ろと横半分の2階席が傍聴。
1階が僕《被告人》、誰かさんからの収賄済《弁護人》、同じく収賄済《検察官》。
前方の2階で法壇に裁判長・裁判官が15人。一階席の僕たちは全員彼らの方を向いている。その後ろの壁には、王族を表す太陽のタペストリー。
そして至る所に刑務官が待機。
全ての人物から、見下されている。
(あー、あれか。あれが機能したみたいだね。)
僕には覚えがあった。
遠方に出張する前に、仕掛けた『鼠取り』。
それに、まんまと僕が引っかかったと言う訳だ。
……少し遡って、遠征前。
王城の内郭《アッパー・ベイリー》には僕の邸宅がある。
そのとこの隣には何故か幼馴染が住んでいる。本当になんでか。
まあ、体のいい監視役なのだろうと思った。
ところで、僕の仕事は国王補佐(顧問官・秘書長官)だ。宰相ではないが、直接的に国王への進言が許されている立場となる。
そして宰相ではないが騎士上がりの僕は軍を率いれるため、偶に軍師を任されるのだ。
それで、軍事を行うのだが。計画書や動員命令書などは、精鋭部隊以外の軍の識字率が低いため、あまり必要ない。もっとも必要なのは、彼らのプライドとどう折り合いをつけるのか、それだけ。あと天候だな。
つまるところ、最近、近接のベルギナ帝国の動向が悪い。
北部の前線はまさに一発触発状態で、なにか兵站を運搬したり軍事演習でも行えばすぐに敵国から攻撃が来る、そんな膠着状態。
部屋にはすでに幾万もの用紙が散乱し、充満したインクの匂いが漂っている。
望遠鏡と天球儀、数多の水晶と北方守備兵士の情報束と、敵国である帝国南部守備兵士の情報束。床は足の踏み場もなく、様相はまるで魔女の家。いや、天文学者かも。
ここ一週間はまともに寝食できた時間はない、内政補佐と軍事計画を書く時間に全て費やしたから。
ある日の束の間の空き時間。
正気に戻った僕は、十五分の休眠を取ろうかと思った。
矢先に、コンコンと、ノック音がした。
十中八九鼠《帝国》案件だと確信した。
──あ、あの計画書片付ける時間ないな。……まあいいか、『自業自得』だろうし。
「エケレス! 出立時刻だ、行くぞ!」
「え、あー了解。」
僕の計画にはなかった、出立時刻の短縮。
そして彼はすでに武装をしている。
橙色の短髪と無骨な鎧。幼馴染かつ隣人である、やる気ある《リリベル》君に腕を引かれて僕は部屋を出た。
(相変わらず元気すぎるな、今は朝だというのに。)
あぁ……ついでに、図ってもらおう。
親指と人差し指に付けた指輪を合わせて、音を鳴らして魔力を生み出す。ググッと指広げれば、シャボン玉みたいな膜ができる。
『任せた』。小声で囁いて、膜に息を吹き込む。
するとぷくっと膨らんで、指から離れる。
大気に押されて丸くなったそれは、空へ空へと浮かんで、ふらふらと頼りなくどこかへ飛んでいった。一度瞬きをすれば、透明だから、もう見えない。
いい感じ。最悪は、美酒がないこと。
「自分で歩くよ、リリベル。」
肩を叩いて、足を止めるように促した。
リリベルは足を止め掴んでいた腕を離した。
「そうか。広間集合だから、早足で行こう」
僕はリリベルの前を進む。
「了解。魔法使っちゃだめ?」
「ダメ。歩いて」
なるほど。
この国にはやり手が多い。特に古狸連中(元老院)。
あそこの住人は職務中にお紅茶を嗜んでいる阿呆ばかり、上級議員なんてどこもそうだろうが。それすらも口を揃えて『交渉(接待)』だと、あくまでも仕事と言い張るのだから、熟れた癌細胞めが。
もはやこの国の中枢は末期の膵臓癌の。助かる見込みは少ない。
(よかった。あの人たち、やっぱりやってくれた。)
下から、裁判官の次の発言を待つ。良い子に。
(それにしても、まるでお遊戯会の主役みたいにセリフを勿体ぶっているなぁ、あの人。)
「第400号、外患誘致準備、並びに組織的国憲紊乱被告事件。被告人、エケレス・ディウス・ララエル。」
「ええ。」
「……主文。被告人エケレス・ディウス・ララエルを、国外に追放する。以下、判決の理由を述べます。」
どうぞ、と手を伸べて促す。
裁判官が顔を顰めさせる。
「本件は、現行の憲政秩序を否定し、我が国の主権を根底から揺るがそうとした、極めて重大な国事犯であります。」
「被告人は、外国勢力等と通謀のうえ、政府要人の襲撃や重要拠点の占拠といった、国家転覆の具体的かつ危険極まりない計画を推し進めていました。」
長い。
(全く。その間に私は君の素性を丸裸にできるぞ。)
話半分で聞いて、ぐるりと2階席で傍聴している面々の顔・表情を、『名前』を、『勢力』を見て、覚える。
(――あ、黒幕いた。相変わらず鬘が取れそうな髪型をしてる。元老院でその髪型よく見るんだけど、彼らの流行り? すごいな、常人にはまるで追いつかないような奇抜さだよ。)
2階席にいた黒髪の青年が僕に対して手を振っている。僕はそれに笑みを返した。
大分観察できたので、これを言質として覚えて……また、裁判官の頭へと視線を戻した。
(……鬘、取れそうな髪型だなぁ。)
彼、ずうっと手元の資料を見ているせいか、僕が周りを観察していることにも気づいていない。
(覚えてきていないんだ。1時間はあっただろうに。)
「被告人側は関与を否定する主張を重ねていますが、適法に行われた捜索により、被告人の自室からその『国家転覆計画書』が直接発見・押収された事実は、動かし難い真実であります。」
「計画書に記された内容は、単なる思想の表明や学術的考察の域を遥かに超え、国家の安全保障を直接的に脅かす具体的な準備行為そのものであったと認めざるを得ません。」
(……欠伸をしたら、流石に気づかれてしまうか。)
何より、そんな不真面目なことはしたくない。
今頃、国王様に『今更だろうに』と呆れた顔をされていそう。
「よって、我が国の公の秩序および公安を著しく害した被告人に対し、当裁判所は全員一致の意見をもって、本邦からの退去、すなわち国外追放を言い渡したものであります。判決は以上です。」
(うん、そうだね。)
百点満点の回答に、思わず満面の笑みで頷く。
「――はい。かしこまりました。」
「……これにて閉廷いたします。刑務官、被告人を退廷させなさい。」
(ずっと握りしめていたけれど。ガベル、必要なかったね。)
裁判官は静かに槌を下ろしていた。
(うんうん。あれ一度は鳴らしてみたいよね。あと、『Order! 《静粛に!》』とかも言いたいね。)
最後にニヤリと、彼に笑いかけた。
でも、なぜか青い顔をしされた。笑い返してくれればよかったのに。
(――取れないよねぇ、あの粘着性物質って。)
しょうがないか、と小さくため息をついて。
「よろしく頼むよ、元元老院所属の裁判長さん。」
笑んだついでに、そうボソリと呟いた。
僕は歩き出す。いち早くここから退出するために。刑務官さえも置いて行って。
ガタガタと鎧が鳴る、彼らの焦っている音だ。それを無視して、僕は外に付けてもらった馬車へと乗り込んだ。手鎖をされたままね。
(ああ、早く撤去しないと。あれはとても頑固で執拗だからな。)
僕は陽気に鼻歌をしながら、国境へと走る馬車の中を過ごした。
・・・・・。
月が映え、星が少ない夜空。
その下で、とある屋敷の一室は未だ煌々と明かりがついている。
ここは、脱税の――ごほん。租税回避地であるヴァイダスの島。裁判所から半日が経過。彼らは転移陣を使って、ここに集まっていた。
彼らの足元に広がるのはペルシャの絨毯。毛の一つ一つ、もれなく全てが絹である。――脱税。
彼らの座っているアニリンレザーの茶色のソファーは腰を落とした瞬間体に吸い付くように柔らかく弾力がある。――もれなく世界中の原皮からわずか数パーセントしか取れない。脱税。
彼らの周囲にある調度品は全て、藝国の人間国宝と人間嫌いかつ世界一の技術力を持つ地の民が手がけた至高の逸品。――千%脱税。
全て、贈与所得の脱税。総勢6名の老人たちが一堂に介している。
「ふっ……。拍子抜けも甚だしいとは、まさにこのことですな。あの男、寄る辺なき広野に立ち尽くす矮小な影にすぎなんだとは」
トクトクと、静かな部屋にワインの注がれる音が響く。この席で一番位の低い侯爵の男が、でっぷりと椅子に腰を下ろした老人のグラスを、甲斐々々しく満たしていた。
(下人にでもさせればいいものを。そこまでして媚びを売りたいのだろうか)
老人は、差し出されたグラスの中身を、何気なく、そして当然のように大口で煽る。それこそは『神に愛された孤高の極少ワイン』――異世界で言うなら、フランス・ブルゴーニュの特級畑《グラン・クリュ》で収穫されたミュジニー特級『ドメーヌ・ルロア』など、一本数千万は下らない幻の古酒であった。贅を極めたその光景、――あまりにも脱税すぎる。
「左様。これまであの男の視線に怯え、息を潜めていた日々が、今となっては実に滑稽に思えてまいります」
「ですが、これで名実ともに! 我が『元老院』がこの国の差配を握ることとなりますな! 国王陛下も今や老いさらばえた御身。次期の玉座を継ぐ者も、我らの意のままに動く操り人形にすぎませぬ!」
「ああ、実に心地のよい夜だ。……それにしても、これほどまでに脆く、我が手の内に転がるとは思ってもみなんだわ」
「当然の帰結にございます。デネベス公爵閣下の英邁なる知略の前には、いかなる障壁も無力。やはり、閣下こそが真の導き手であらせられる」
「ははは、どれほど言葉を飾ろうと、儂の懐からは何も出んぞ。――儂はただ、然るべき時に、然るべき命令を下したにすぎん」
「滅相もございません。その一手を完璧なる盤面へと整える采配こそが、至高の知恵にございます! 現に、あの男を完璧なる罠へと嵌め落とされたのですから」
「ええ、まさにその通りでございます、閣下」
公爵の背後に控えていた人物が、軽快に同意を示した。
すこぶる気分を良くした公爵は、その人物の肩へと鷹揚に腕を回す。
「はっはっは! 愉快、実に愉快極まるわ! 其方もそう思うであろう、ルルレス・マキュナよ」
「御意にございます、公爵様。やはりあなた様こそが、この世界を統べるに相応しい、支配者の器に溢れたお方にございます」
ルルレス・マキュナ。目を細め、微笑みを絶やさない、濡れた黒曜石のような深い黒色の髪をした、細いスーツ姿の男。齢は25位か。貴族たちも彼の実年齢は知らない。
なぜなら、彼は新参の高級文玩ーー珍しく高級な芸術品・骨董品・調度品を揃える商人。
デネベス公爵からすれば、彼は今回の作戦の立案者でもあるのだから、公爵以外その存在を知らず、また、公爵が隠していたのも当然であった。手柄や賞賛、彼が持ってくる特別な商品その全て、手中に収めたいと、そう思っているのだから。
公爵以外にとっては、今回が初お披露目となる。
(本当によく喋るな)
「はっはっは! 殊の外、小気味のよい口を利くではないか! ――宜しい、其方もこの美酒を存分に味わうが良い。市井の徒の如き分際では、生涯二度とお目にかかれぬ至高の代物ゆえな!」
「……はい、恐悦至極に存じます。それでは、お言葉に甘えまして、」
「――と、思うたが、其方の分のグラスがないな。すまぬな、ルルレスよ」
悪びれる様子もなく、公爵はからからと笑った。与えると言っておきながら、器がないからと平然と前言を翻す。
(ああ、よかった。危ない、危ない。)
ルルレスは吐きたいため息を抑えて、いつもの完璧な笑みを貼り付けた。
「――はは、問題ございませんよ。ですが閣下、この後ほど少し、皆様のために趣向を凝らした余興をご用意しておりますので。どうか、美酒の飲み過ぎにはご注意くださいませ」
「わかっておる。お前の用意する余興だ、大いに楽しみにしておるぞ、ルルレス」
「はい。このルルレスに、万事お任せを」
その返答に満足した公爵は、鷹揚に深く頷いた。
・・・・・。
――シンと、あたりが静まり返る。
夜も更け、屋敷の中からは巡回する騎士たちの足音以外の人気が完全に消え失せた頃。彼らはルルレスに導かれ、豪奢な私設の大劇場へと席を移していた。
「大変長らくお待たせいたしました。皆様におかれましては、このような夜更けに我が大劇場へと足をお運びくださり、誠に恐悦至極に存じます」
舞台上から響くルルレスの慇懃な声に、特等席に腰掛けた公爵が贅沢に手を振る。
「よい、よい。其方の用意する催しには、毎度楽しませてもらっておるからな。今回とて、儂らを大いに満足させる極上の見世物なのであろう? ただそれだけのことよ」
「然り! 前回の『シャンパンタワー』と云うものも、じつに派手で美しく、この上ない余興でありましたな。今宵は一体、どのような驚きを見せてくれるのです?」
侯爵たちもまた、これから始まる「極上の娯楽」を疑うことなく、無邪気な期待の声を弾ませていた。
──コッコッコッ。
反響、いや、残響?
靴の音だ。それも、素材の良さが伺えるほど鋭い、靴底の。
貴族たちは振り返る。
ワァンと反響していても、耳を済ませれば音が発生した場所はわかる。
背後の唯一の入り口からだった。
音もなく開かれた重厚な扉の向こうから、一人の黒髪の青年が、まるで自身の庭園を散策するかのような足取りで姿を現した。
「ああ、お待たせいたしました。せっかく私を主役とした席だというのに、遅れてしまい申し訳ありません。――皆様におかれましては、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます」
月が傾く。
青年はステンドグラスに染み込んだ、その月明かりに照らされる。
まるでスポットライトのようだ。彼の周囲に色濃い影が浮かび上がる。
そしてその青年は、とても綺麗な笑みを浮かべ、お辞儀《bow》をした。
それは舞台挨拶のような大仰さで、胡散臭さで、でも、月のような美しさで。
「改めましてどうも。わたくしが今回の『首謀者』でございます、エケレス・ディウス・ララエル。皆様、今夜は何卒、よしなに。」
スナップ。青年は顔を上げると、指を鳴らした。
「鬼哭は地獄で、存分にどうぞ」
スパッと、その音が空間に良く反響する。
それはもう、何かの波動を揺らがせるくらいに大きい。
音はゆらめきながら反響している。
続いている。
瞬間、劇場内の明かりが全て消えた。
蝋の炎はゆらめきもせず、煙も出さずにフッと、消えた。
自然に。
次に異変が起きたのは、舞台上、ルルレス。
鳴らしたスナップの音がグワングワンと反芻しているうちに、彼は消えた。
「──ルルレスか!!」
次点で、公爵の怒号が空間に広がる。
けれども不思議なことに、それは青年のスナップのように大きく反響することはなく、まるで口のすぐ前になにか無色の壁でもあるかのように、不自然に途切れた。
公爵は苛立ちを隠さずに、自身の口元を手で覆って確かめた。
だけど、何もない。
けれども、言葉は何かに遮られている。
そうして、疑問に思って実際に試してみる、驚いて、驚愕する。
まるで、彼らはピエロのようだった。
ただ、王冠を夢見て手を伸ばし、そのまま目が覚め落胆する、悲劇のピエロ。そのまま 涙を流していたら、宝冠だけは手に入れられていたかもしれないと云うのに。
「ルルレス。そう、ルルレス。あはは。」
突然壊れたように笑い出した青年。
貴族たちは展開についていけず、少し焦りを見せ始める。
「『ルルレス』、おいで?」
青年は何もせず、ただそう言った。
そして徐に背後を見て。
「ルルレス、貴方様の影でございます。エケレス様」
青年の影に、全く同じ形の黒い人形が出てきた。
いつの間にかに、瞬きの僅かそのうちに。
ルルレス、貴族たちの腹心が、彼らに一度も見せることがなかった、忠誠の礼を、エケレスに尽くしていた。
「あはは。……もういいよ、下がって。」
ルルレスは無言でそのまま影の中へと沈んでいった。
「ああ、実に気分が良い。すべて、僕の描いた筋書き通りの結末というわけだ」
舞台の中心で、黒髪の青年が俳優のように優美に胸へ手を当てた。そして、すでに生気を失い、憔悴しきった老人たちを見下ろし、残酷なほどに美しい手をそっと差し伸べる。
「ねえ、元・元老院諸君。僕特製の鼠取りにかかったご感想はいかがかな。……おや、喉が渇いているのかい? 紅茶でも淹れよう。あいにく、君たちが好んだSFTGFOPは切らしているけれど――泥水と雑草を煎じたお茶なら、いくらでも用意がある。ああ、それとも特別に、国王陛下の爪の垢でも煎じて差し上げようか。……とくと、味わうといい」
ステンドグラスに、月の光がじわりと染み入る。
それに照らされる青年の笑顔は、黒く染まっていた。
これからが本番だと、そう云うように。
「では、余興を始めるとしようか」
最後の鐘は、もうとっくになり終えたのだ。
ここは、もう誰も止めることのできないコロッセオ。
──The Rack《引き伸ばし機》。
彼らの運は、すでに切れていた。
あとはもう、底のない奈落に落ちるのみだった。
・・・・・・。
「お手数をおかけいたしました、国王陛下。この度は、誠にありがとう存じまする」
青年――エケレスは、慇懃に一礼した。
それはまるで、すべての貴族の手本として教本に載せるべき、完璧な美しさを宿した所作であった。
執務席に座る人物が、小さく手を振ってそれを制する。その表情には、今にも深い溜息を吐き出しそうな、濃厚な疲労が滲んでいた。
「……エケレス、其方もご苦労であったな。……このような無茶な大立ち回りは、毎度ごめん被ると言うておいたはずなのだがなぁ……」
彼こそがこの国の王、フェリア・クレイ・ル・ヴェリア。フェリア1世その人であった。齢わずか三十の若王でありながら、この十年の間に国を未曾有の栄華へと導いた、類稀なる賢王である。
深夜にまで及ぶ果てなき執務のせいか、王の輝くばかりに美しい金髪も、透き通るような白い肌も、その叡智の深さを映す澄んだ青色の瞳も、今は少しくすんで見える。――もっとも、その疲弊の最大の原因は、いま目の前で完璧な礼を捧げているこの青年の仕業であるかもしれないのだが。
青年は一礼を解くと、手を後ろで組み、すっとその場に佇んだ。
「はは。いや、しかし、この度も素晴らしい手際でいらっしゃいました。本当に陛下に愛想を尽かされたのではないかと、我が身の不徳を焦りましたよ」
エケレスが口にしたのは、先の法廷の幕引きについてであった。その場に国王自身はいなかったものの、王の側近が控えていた。 エケレスが刑務官を振り切り、島への転移陣へ移ることができたのは、その側近が追っ手を制したからに他ならない。
客観的に見れば、国王の側近によるその行動は「見切り」を意味する。 傍聴していた者たちのほとんど――とりわけ元老院の公爵たちは――エケレスが国王に見限られたのだと、そう確信したはずだった。
それこそが罠だった。
すべては、証拠品の証拠能力を偽造するための布石。適法という大義名分のもとで行われたエケレス家への家宅捜索は、思惑通り彼らに『計画書』をもたらした。
だがそれ単体では、内乱予備罪や内乱陰謀罪すら適用できず、本来であれば無罪となるはずのもの。
さらに言えば、この国では法の最高機関(司法)と政の最高機関(行政)はそれぞれ独立し、外にある立法の最高機関(立法)がそれらを監視する『三権分立』の体裁が取られている。
司法と政治は本来別物――だがしかし、そこには常に「政治的圧力」というものが存在する。
今回は、元老院と国家そのものからの圧力が、その天秤を歪ませた。 すべては奇しくも、エケレスの描いた通りの結末へと収束していた。
「嘘をつけ。すべて其方が画策した通りの結末だろうに。其方から見れば、この我すらも盤上の役者の一人にすぎん」
そう言って、国王は押し寄せる書類の山から逃れるように、机の端にあったガラスベルへと手を伸ばした。そして、その中に閉じ込められていた、既視感のあるシャボン玉のような球体を解放する。
それは遠征前、エケレスが幼馴染のリリベルに連れられる直前に飛ばしていた『言伝魔法』であった。
国王がそれに指先で触れる。一見すればすぐに破れてしまいそうなその球体は、エケレスのお手製であるがゆえ、許可なき者が触れることは決してできない。だが、正当な対象である国王だけは、触れることが許されていた。
触れた瞬間、王の魔力が通る。
『任せた』。
まずはエケレスの声が短く響いた。しかしその直後、光の球体に劇的な変化が起こる。
音は消え、代わりに文字が浮かび上がった。魔力によって光り輝くすべての線は、夥しい量の数字の羅列へと変貌していく。 ワンタイムパッド、UTF-8二進数暗号。――その鍵となるのは、そのまま国王自身の固有魔力。
王が自らの魔力の鍵を噛み合わせると、目眩のするような二進数の羅列が、瞬時に意味を持つ言葉へと変形していった。
『111010001001100010000011111000111000001110011010111000111000001110011011111000111000001110101111111001101000100110100011111000111000000110001011111000111000000110101011111000111000000110000001111011111011101010101010111000111000000110111111111010011010110110001010111011111011100110011001111000111000000110101011』
そこに刻まれていた真意は、ただ一筋の冷徹な事実であった。
――『老ネズミ掛かる。親は見限る』。
「これは以前、其方と語り合った夢物語の一つにすぎなんだがな。――まさか、このような形で現実のものとなるとは思ってもみなんだわ」
王は静かに手のひらを握り込み、その光球を消し去った。いつまでも灯り続けるその魔法は、正当な対象者である王にしか消すことができない。
部屋の明かりがまた一つ減り、闇が深くなる。
これで、この一連の智謀に王が関与していたことを示す証拠は、この世から完全に消滅