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アワポン

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  • 2019年12月29日

    年内で非公開にします

    作品を読みに来てくださったみなさま、ほんとうにありがとうございます。 このかたちでオープンにしておくことを いったんやめたいという思いがありますので 年内で非公開にしたいと思います。 よろしくお願いします。
  • 2019年3月1日

    月が貸し与えるエネルギー

    月は力学的に通用するエネルギーを人間に貸し与えてくれる。 ただし、利子付きで、取り返しに来る。 Cancerは、やまいだれに品物の山 wiktionaryでおっかけると、循環をイメージさせる語源にたどりつくが、 問題はそれが人為的であり、潜象世界から切り離された領域のみで まわそうとする無理やり感をイメージするんだ。 https://en.wiktionary.org/wiki/cancer#Latin その循環に取り憑かれて生きることがただしいと思い込ませようとする、 黒い魔法に、世は満ち満ちている。 役に立つこと、良いこと、みんなが喜ぶこと、という一見ポジティブな スローガンはすべて、月へ奉仕する試みに回収されていく。 だから。 そういうこととはまったく違うなにか、に人生を使うことはとても大事だ。 ・・・・だが、そういうことすらも、経済にうまく絡め取って やりがい搾取、みたいにやる人が闊歩していることが猛烈に腹立たしい。 そこに反応してしまう私は、どこかでまだ、力学に取り憑かれている、 ただそれだけのことなんだ。
  • 2019年3月1日

    松花堂昭乗のこと

    ふと、松花堂昭乗のことを思い出した。 昭乗は、とても謎めいた人だ。 京都に住んでいた時、家の近所に昭乗が住んでいた庵を移築した 記念館があった。長く住んでいたのに入ったのは確か2度だけだ。 松花堂という名字に、多くの人が脳裏に描くのは弁当の方であろう。 あの松花堂弁当の元ネタである。 昭乗が愛用していた、画材入れを、弁当箱にしてみたらどうか、 とやってみたら偉い流行った、みたいなことらしい。 つまり、松花堂弁当と、昭乗その人の人生観、彼の魅力、 とは根本的になんの関係もない、否、ほぼ真逆、的な、、、 昭乗が住んでいた、男山の中腹の、庵の跡地はすごく好きで、 散歩がてら何度も訪れていたっけ。 メシアンが小躍りしそうなくらい、全方位から野鳥のさえずりがこだまし、 なのに、とても静まり返っている、落ち着いた豊かで簡素な場所。 その建物だけを、とってつけたみたいに、違う場所にたてて愛でたって、 昭乗が愛した世界とはまったく違うのだ。 なのに。 人はすぐ、「かたち」がリアルだと思いこむ。 確かに、空間に人は影響される。多大に、影響される。 だけど、それに引きずられて生きるだけ、では、人間として虚しくはないだろうか。 千利休が、権力者に重用されつつも、最後は殺されてしまった、あの感じ。 ステーキの横の、決して食べられることなくロンダリングされ続けるパセリのような位置を生きることは、確かに力学に守られて安泰かもしれないが、 常に生きた心地がしないのである。 そのことをあらためて思う。
  • 2019年2月28日

    ディアウォール

    ディアウォールという、SPF材をつっぱるための部材があるのだけど、 あっけないほど簡単に、材を部屋に突っ張ることができて感激している。 天井の高さを測るときに、間違えたかなーと思っていたのだけど、 1枚だけ付属の板を中敷きに上げ底しただけで、ぴったり突っ張ってくれた。 これで心置きなく釘が打てる。棚が作れる。 そして、リサイクル店で衝動買いした、 黒いアイアンの足のダイニングテーブルとチェアのセット。 ネジをはずして分解できるのも引っ越し向き。 そして、組み立てるとかなり安定感があって、やっと部屋が立体的になった。 いやー、、4H太陽期もろ、な感じですね。 カットしたSPF材が6本あるので、どこにつっぱろうか悩み中。 週末のお楽しみだな、、テーブル組み立てて、夕飯食べたらもう電池切れだ。
  • 2019年2月27日

    生きた日常

    今日は、以前からずっと視界に入っていたのに、 一度も足を踏み入れたことがなかった八百屋さんに寄ってみた。 若い溌剌とした、土が近い暮らしをしている人独特の生き生きした 雰囲気を全身で発散している店主さん、に 玉ねぎを熱烈におすすめされて、言われたとおりにグリル焼にして頂いて、 岐阜の暮らしを久しぶりに思い出して幸せな夜です。 やっぱり畑と料理やりたい。 ちっちゃな店やりたいんだよなやっぱり。 一度店潰しているけど。 そして、飲食店が甘くないことも知ってる。 まして、わたしの好きなベジ料理は基本潰れる。 美味しい店ほど潰れるのはよく知っている。 だからこそ、半分、商いではないポリシーで、 場の運営ができないだろうか? とりあえず近々、週末だけの一日店長、みたいなのを、 どこかの店をシェアさせてもらってやりたいと思ってる。 これは前からずっと思っていたことで、東京ならでは、かもしれない。 釜ヶ崎にいたときに、わたしが食事当番の日は、 安心して美味しいものが食べられる、とノンベジの子達に 信頼されていたっけ、、 ケの日のベジ料理を出す試みを、やりたい。
  • 2019年2月26日

    役者さん

    そこのみにて光輝く、の舞台挨拶の動画をみつけた。 https://youtu.be/crEXSEKehyY 物語の中では寡黙な雰囲気の綾野剛さんと、チャラいキャラ菅田将暉さん、 人間の醜さを思いっきり体現していた高橋和也さん、 これらが全部覆される映像。 しみじみ、演じるということの物凄さを感じる。 映画をみた後にこれを見ると余計に、演じていたキャラクターと、 まったく違う佇まいが、どちらも彼ららしさそのもの、なところがあって、 ああ、役者さんとは凄いなあとしみじみ思う。 映画と、この舞台挨拶のギャップ、、 演出としての、華やかさやポジティブさの舞台裏は、基本むっつりと、鬱屈したような沈黙と、無力感に満ちている。虚飾と虚無感はセット。 それに対して、嫌というほど人間の醜さや愚かさや弱さを描く演出の裏側には、 自然にそれぞれが、自分の持つ、力学でない強さ、をインスパイアするのではないだろうか。 悪役をしっかりと演じることができない人の、天使の役は、説得力がないんだよなー、、、 そのもどかしさを他の誰でもない、自分に感じてきたことで、 どれほどまで、自分を責めてきたことだろう、なんてあらためて思う。 もう、責めなくていい、、
  • 2019年2月26日

    代弁。

    今日は、ほんとうは半分クレームのような電話だったのに、 えんえんと耳を傾けていると、ほぼわたしがいつも思っていることを、 そのまま代弁してくれる内容で、つい笑ってしまった。 録音して上司に聴かせたいくらいの内容だったが、 ボス達には内容の詳細は言わなかった。 結構な剣幕で、えんえんと話をしており、しかも、わたしが「申し訳ありません」とか返答しているから、あとで「大丈夫?」とか聞かれたけど、 「大丈夫?」とか聞く前に、もっと心配した方がいい領域があるだろう、 そして、そこは、社風として絶対に心配しない、というポリシーなんだろう。 いろんなサービス業を経て、感情労働的な凄まじさ含めいろいろみてきた中で思うことは、気持ちだけなだめすかすコミュニケーションほど、腸が煮えくり返るものはない、ということだ。 前職の友人と、腐った組織では、「事実」を指し示して、これをどうにか解決できるように考えたり、工夫したらどうでしょうか、と発案することを「わがまま」「悪口」「不平」「ネガティブ」と捉えてあしらわれるよね、と話していたっけ。 それは、単に「事実」を指し示しているだけであって、その事実によって引き起こされる感情が、ネガティブであったときに、そう感じるほうが悪い、と麻痺させてほんとうにいいのか? 心理学やスピリチュアルが猛烈に腹立たしく感じられる時はまさに、この「事実」からの逃避を助長させ、偽の優しさが発動している時。 今日わたしをつかまえてえんえんと話していた関西弁のおっちゃんは、 たぶん今まで何度も、まともに共感してもらうことなくあしらわれつづけたのだろうと推察できる。 その感じが、今の日本の政治とフラクタルなんやなーとしみじみ思う。 政治は、普通の人々の集合無意識の結晶。 今日わたしが、たぶん、おっちゃんと心が通じ合ったということと、 それは同時に、わたしのような感性の人間が中枢部にいるということが、どれほどまで疎まれるかということ、両方を指し示している。 池脇千鶴さんの演じる姿を見るのがなぜ好きなのか、 というのともたぶん同じことだ。 どう感じるか、は、それがどんな感情であれ、100%正しい。 それが内的ストーリーを生きる人の核だ。 そのことを棄てさえしなければ、それでいいとほんとうに思う。 気持ちが良くないのに気持ちが良いフリもしないし、 自分がそうされる所以がないときに、唐突にご機嫌を取られることを 楽しみに生きない。 そういえば、あの映画の綾野剛さんの役柄で、スナックかどこかに入ったときに、そばに侍るママさんがすっと差し出した煙草の火を、物凄くあたりまえのように、ナチュラルに要らない、と遮っていたのが印象的だった。 わたしは綾野剛のファンではないが、そういう誠実さというものが、 何もかもが売買される世だからこそ、その貴重さをしっかりと意識できるのかもしれないと思う。
  • 2019年2月24日

    活字を読まない効果

    自動で流れてくる活字を読まない環境にすると、 なにかやりたくなるよね、というのをジュリア・キャメロンが言ってたけど。 ほんとにそうで、今日はずっとやりたくて放置していた、 DIY関係の資材を手に入れ、あれこれやっていた。 やっとわりと近場で、木材などを買えて宅配が無料なホームセンターをみつけた。 今日は木材カット依頼と、あとは、家にあった100均の板達で、 職場で使うレターラックをつくってみた。 京都時代から、地味に必要に迫られて鍛えてきた手ノコ技術、 微妙ながら、ある程度柔らかい木材ならまっすぐに切れるようになった。 そして、こちらにこしてきて岐阜との歴然とした違いを感じているのが、 棚受け金具など、DIY関連の部材が100均になさすぎるということ。 そりゃそやわな。壁に打ち付けられないから、売れない。 そういうわけで、岐阜で買って持っていたアイアンの黒い部材が 今のわたしにとってかなり貴重なのであった。 かなり郊外まで出たらあるのかもな。。 DIY関連のものは、ある程度感触をつかめば通販でもいいけど、 実物がないとわからないものばかりだ。サイズ感覚とか、質感とか。 それにしても、基本の「枠」をきちんと切ってネジや釘で止めるという 非常にシンプルな作業ですら、結構難しいなとあらためて感じた。 小屋や家を建てるというのも、この基本の延長なんだよね。 とりあえず、100均の板では相当遊べることが判明したので、 地味に小さな家具をたくさんつくりたい。 ばらせるの前提で。
  • 2019年2月24日

    循環

    今後最大に誰もが問われてくるポイントは、 鏡の裏返し、なシチュエーションに置かれたとき、どうふるまうか 地上でのミッションは、そこに集約されるように思う。 立場が変わることで、何が変化するかというと、 力学ストーリー内部において扱える物的量と、力の強弱だ。 貨幣に象徴される、経済のお約束の結界の内側でしか通用しない、 この「立場」という切り分けに依存しているだけで、 手にしている強さや豊かさというものは、 俯瞰した世界からみつめると、非常に脆弱である。 立場によって、扱える結界の広さが設定されており、 その内部に入る権限があるかないか次第ですべてが決まる世界 というものと、AI的な世界の親和性は非常に高い。 だがそれは何を意味するかと言うと、結界が破られ、のっとられれば、 あっというまに自分の代わりが誰でも可能、という世界なのだ。 そのことに恐れる人々が自分の念力で生み出しているものが、 「ほ」に象徴される、弱い力が持つ強い力、なのだと思う。 そこのみにて光輝く、では、この「弱い力」から逃げ回る人への 容赦ない描写がなされていたように思う。 映画のレビューを検索していたらひっかかった、 関内関外日記さん。 くいいるように他の記事も読んでしまった。 ・・・年がわたしと変わらない。やはり。 http://goldhead.hatenablog.com/ この、マージナルな世界へ触れてもまだ生き延びている人、生き延びられなかった人。 絶対に足を踏み外さないように逃げ回る人。人を蹴落としても平気なふりでいようと自分に言い聞かせている人。 踏み外したことで卑屈になり、 そのことを原動力にがむしゃらに生き、さらに支配的な生き方に反転する人。 いろいろな人がいる。 踏み外すか踏み外さないかは、宇宙がもたらす、賽でしかない。 だが、そのことで自分が豹変するのかしないのかは、 わたしが決めること。 AI的技術の飛躍的な進化と、そのことによる恩恵は 思っているよりはやく行き詰まるように思う。 問われるのは、その先だ。 立場を失ったときに、自分も一緒に損なわれるのか。 そうでないのか。 玉虫的でなく、ほんとうに輝いて活躍している人は、 立場があっても、このマージナルな世界への敬意と、 自分がいつそうなってもいいという覚悟があるように思う。 これからも、ウケるかウケないかを度外視して、 この、言葉に出来ない1点だけを見据えて、生きていきたいと、思う。
  • 2019年2月24日

    今後のぼんやりした輪郭

    なんとかぎりぎりで、はてなダイアリーを移行したのだけど、 いろいろ整えてないので、もう少しちゃんとしたらURLなど公開します。 毎度毎度自戒してはすぐ忘れるのでメモしておきたいが、 twitterの使い方を自分でルールとして自覚して使わないと。 今の所まだ距離感をつかめていないのでまた登録するかはわからない。 基本的に書きたいことは記事できちんと完結してから、 リンクを貼るようにしたい。 それから、占星術用語と、一切用語を使わない表現と、 きっちり切り分けるようにしたい。 用語を使っちゃうと楽なんだけど雑なんだよね、、 これからは、用語を使わないで同じことを表現する ということに尽力したい、、
  • 2019年2月23日

    そこのみにて光輝く

    ASC蠍から、ふと思い出して、たどりついた映画。 ネタバレになるかな、いや、具体的には書かないけど、、 なんというか、この力学に対峙した牡羊座天王星期を象徴するような 映画に出会ってしまった。 石、山、海、神社、イカ。 これだけ揃えばもう何もいうことがない、、 アマゾンプライムで無料で見ることができたのも、 渡りに船、的な。 必要なことはいつもこうやって、すっと通っていくものだ。 レビューを先にちらっと読んで、酷評してあるのもあって。 のっぺりと起伏がないとか書かれてるのがあったけど、 そういう感想を持つ人々のことがわからないでもない。 マージナルな外の世界に、幸か不幸か一生触れることもなく、 逃げ切ることができている人には、この映画は響かないだろう。 人がどうして、狂っていくのか。 本能と、それに直結する力。その危なっかしさ。 池脇さんの蠍ASCが、その凄まじさを、見事に炙り出した作品、、 わたしはこの作品に希望を感じた。 生きているということの根底からの肯定を描いた作品。
  • 2019年2月23日

    リセット中

    他人の流れてくるツイートを読まなくなったので、 (というか、もとからあまり読んでるわけでもなかったけど)、 その、ぼんやりとテレビをみてるのとかわりないやり方を一旦リセット中。 過去、メモしておいたが、放置していたお気に入りなど、 いろいろ整理することで少しずつ、いろいろ明確になっていく。 ずっと好きな女優さんとか、映画とか、食べ物とか、 そういうことのバリエーションを少しずつ思い出し始めている。 ひとつ行きそびれた映画があって。 試写会にあたったが、なんとあろうことか、道に迷って映画館にたどり着けなくなって見るのを諦めた。その後、再度お誘いいただいたのに、滅入っていたのと、その描かれているテーマについて、タイミング的に今一番見たくない、ということがあって、また見逃してしまった。 その、なんというか、個人的な身体感覚の好悪、に近いようなものについていろいろと考えてた。 そもそも、自分で望んで試写会に応募までしておいて、なのである。 昨日たまたま、グーグルのおすすめで竹内先生のブログ記事があがってきていたので、のぞいてみて、ああ、統計学ってこういうところに素晴らしさがあるよなと思ってしまった。 そう、以前から好きな池脇千鶴さんは、わたしと同じASC蠍だそうな。 なるほどねー。 https://nekochan-pion.hatenablog.jp/entry/2019/02/22/232859 他にもオキーフとか、ヘレン・ケラーとか、黒澤明とか、 わたしの好きな系統の方の名前が結構はいっている。 が、同時にあんまり好きじゃない人の名前もたくさん入っている (誰とは書かないけど、、) このあたりの愛憎入り交じるあたりが、肉体、キネシスとしてのASCだなと思う。 そして、地上で生きるということはそのことをどうしたって、ひきうけるしかないというか。 池脇千鶴さんの出ている作品は、きつい作品が多いので、何度も見たいとは思わない。今またもうひとつみようとしてるのがあるけど、大体想像がつく。。 そこまでして、それでもなぜわたしは彼女の演技をみたいのだろうか。 この天王星牡羊座シーズンにわたしが学んだことはいろいろあるけれど、 一番大きなことは、結界の内外のきわきわ、壁の内外エリアに立つ感覚だ。 池脇さんの演技には、その外側を知りながら、そのことに怖れない輝き、 のようなものを感じるから好きなんだ。 表層的に彼女の出ている作品を見ると、ただのフェティシズムや、死臭漂う耽美主義で終わりそうなものだ。だが、そこを越えた世界を見据えているからこそ、 かかわれる世界ということ。 そういうことを通った上での希望。 そのことをやっと、思い出し始めて。リカバリ中
  • 2019年2月22日

    リアルと現実のおとあそび

    逆月、の印象があまりにもわたしにとって強烈すぎる。 わたしの場合は個人的に、月冥スクエアだから余計に、その幻影度合いと、 そのことへの違和感が強烈になったのかなと思ったり。 リアルという綴りには、例のLとRが両方入ってる。 日本語の「ゲンジツ」にも、ゲとジという、言霊的に混線しやすい音が 両方入っている。 リアルの言霊をウィクショナリーで追っていくと、光を意味するレイの音を経て、 アラビア語の「鏡」につながっていく。 https://en.wiktionary.org/wiki/rey#Spanish https://en.wiktionary.org/wiki/%D9%85%D8%B1%D8%A2%D8%A9#Arabic ゲンジツ、という音に近いアルファベット表記でおっかけていくと、 ギャングとか、ガンジス川(ガンガー)などにつながっていく。 https://en.wiktionary.org/wiki/gengi 確からしければらしいほど、それは実体じゃない、というこの世のからくり。 このことは、最近急激にこまこまと忙しくなった職場で日常的にも強く感じている。 昔に読んだよしもとばななの小説で、そもそも、テレビを買ったときに、 届いたときの最初の箱の開封の仕方が悪かった、、、そういう話があったのを思い出す。 最初の設定というか、関わり方というもの、地上に杭をたててそこにまきつけていく、そう、貝の中の真珠の前の、石ころ、みたいなものが、いったいどういうつもりで置かれたのか、そういうことに人生はすべて左右されてしまう。 東京に越したこと全てが、というわけではないけれど、 わたしにとってはとても、山羊座月的な動機でここまで歩んできたなと 思い返している。 それを満たす環境を望み通り手にしたことで、わたしは空虚な心を取り戻してしまった。やればやるほど虚しくなる日々。完全に回転方向が誤っていることは自覚している。だが、急には止まれない。 あまりにも、本来のわたしと違う在り方に、自分を追い込んだことではっきりと気づくことは、もう、思っているのと全部裏返しのことをやればいいのではないか、というくらい極端な心境なのである。 地上はしみじみと、エネルゲイア的な在り方が全部、弱い力として裏目にしてしまう場である。だがそれは、月が支配する力学ストーリー内部ではそうなのだ。 毎日毎日、その弱い領域における特性を、すべて叩き潰せ、それがあるから迷惑だ、邪魔だ、と全方位から怒られ続けるような毎日で、 わたしはそれが実は全部ウソなんだ、ということに、どこかで気づきながら、 なんとか今週を乗り切った。 もうすぐ天王星が再度牡牛座に入り直す。 わたしにとっての天王星牡牛座入りは、なにをどうしたって隷従からの脱却(太陽射手からみて6H)と、相方的な存在についての根底的なビジョンの変革(蠍ASCのオポ)だろう。 それにしても、山羊月の幻影打破が、蟹的な要素の実践、というのは、太陽射手にとって非常になんともいえん配置なんだよね、、、うーむ まあ確かに、料理したり、手芸したり、家庭的なことは基本好きである。 そんなことばっかりしていたい。だが、あさはかな力学ゲーム内部においてバカ正直にそのままやってしまうのは、違う、ということは理解してる。 そのあたりへの挑戦。
  • 2019年2月20日

    ルナとの対峙

    マドモアゼル愛先生の占星術解釈について、すごく納得している。 彼の周波数の試みも、初期の頃に実際に音叉を購入して試したことがある。その後、わたしには必要がないと思って、知人に格安でお譲りした。 周波数を発生させる装置=安定的にある意識状態を外的ストーリー的に生み出す依代、的なものに頼ることがわたしとしては、型枠にはめられる感覚がある。 それは、わたしが散々、平均律の楽器を通して味わってきた違和感であり、それが平均律でなくなったとしても、方向が逆ではないかと思うのである。 その周波数にわたしが先にととのってから、音が鳴る。 音が鳴るのにひきずられてわたしがととのうのではないだろうと思うのだが、 愛先生、ここのとこはどう思ってらっしゃるんだろうか。 彼のブログでの、月光反転法の話は非常に腑に落ちる。 月がもたらす「ほんとうらしさ」についてわたしは非常に嘘くさく感じているからだ。ついったーを衝動的にちょっとリセットしたのもこのことが絡んでいる。 感情を正確に記述したつもりの言葉は、すべて外に対して反転して誤解を生む。 パラレルワールド=ばらばらに物質的に分岐した世界、という概念はちがうのではないか、という愛先生。わたしもそう思う。 うまく書けないが、霊的な世界のモノ扱い=ホメオパシー とも似ていて、 両者とも、微妙なところで扱い方を間違えれば薬が毒、という世界であるということだ。このセンシティブさに開いて生きている人はいったいどのくらいいるだろうか。 愛先生のブログを貼っておく。 http://www.love-ai.com/diary/index.php?id=1641 「逆月」、、これだ! この記事を読んでめちゃめちゃはっと気づいたことがあった。 よく、満月の光に晒してフラワーレメディなどを作るよね。 なんでか、という。 そしてだ。以前住んでいた京都の八幡から枚方の堺には、 もちろんあの石清水八幡宮があったが、その周囲にもいろいろないわくつきな 場所があるのだけど、地味だけど、謎な場所、それが鏡伝池だ。 結構な大きさの池で、名前の通り、昔はそこに映る月光を愛でていたはず。 だが、あの池、官営になっており、夕方で柵が閉じる。 月が見える時刻に中に入れないのである。 月が映るのを見られなくしてあるのである。 なんでかなとずっと思っていたが、納得である。 なるほどね、、、これから、満月には、器に月光を映して愛でよう。 「盃」に映すのでもいいよね。 ここしばらく、月に取り憑かれたように気持ちが滅入っていた。 毎年恒例の季節性の鬱のような、調子の悪さもそうだが、 完全にそれだけではない何か、世界に対する幻影感覚が最強に強かった。 そうか、このことに気づきたかったのか、、 ティピカルな星読みでは、わたしは今日、社会的な意味でのひとつの節目、 みたいなことになるのであろうが、 奇しくもまったくそういう意味とは反転したことが日中に感じられ、 そして夜には、こちら方向の大きな気付き。 この世のからくりについていろいろ思う。 愛先生のお店は、わたしの今住んでいるところから自転車で行ける範囲だ。 いつかお邪魔して、玉虫のからくりのお話をしてみたい。 ネットの記事で、わたしが今住んでいるエリアは、東京の中でも とても住みやすいエリアとしてランキングに入っていた。 月に憑かれた価値観における「住みやすさ」が、 まさに今わたしをエネルゲイア的に非常に苦しめている。 ありとあらゆる反転について、この際しっかりと感じきっていきたい。