noteに書いた創作論が「カクヨム対策14」の続きになったのでアップする。noteのタイトルは 、「創作論――旅とアマチュアと喜劇について」。ちょっと硬いかな。
『旅と日々』という映画を観た。
韓国からやってきた脚本家が、つげ義春の原作をもとに脚本を依頼され、映画を作るという物語だ。
最初のパートは、学生映画の卒業制作のような作りで、正直それほど面白いわけではない。けれども、観ているうちにこの“退屈さ”が映画全体の仕掛けになっていることに気づく。
観念的で、いかにも青春映画的な“行き詰まり”が描かれ、そこに創作の限界を抱えた脚本家の姿が重なる。
上映後には評論家が登場し、作り手視点の感想を語る。
上映会場も大学の講堂のようで、観客はほとんど学生。
質問も「どう撮ったか」「つげ義春の原作を映像にする困難さ」など、技術寄りのものばかりだ。
脚本家はそこに、自分の映画が“伝わっていない”ことを感じる。評論家はうまくまとめるが、そこにもどこか虚しさが漂っている。
そんな中、突然その評論家が死ぬ。
映画上映会のあとで、その評論家が落ち込んている脚本家に「旅でもしてみれば」と言う。この一言が物語の転換点になる。
評論家の双子の弟はカメラ愛好家で、部屋には捨てるほどのカメラが並んでいる。しかし、彼は一枚の写真も「作品」として撮っていない。ただ最新のカメラを買っては新機種がでると欲しくなる。
目的を失ったカメラのコレクション――それは“永遠のアマチュア”の姿そのものだ。道具を持つことで創作した気になってしまう、その錯覚。
彼は写真を撮るのではなく、「撮れる気がする自分」に酔っている。
脚本家は、そんな弟からコンパクトカメラを譲り受け、旅に出る。
行き先は都会でも観光地でもない。雪国の過疎地、冬に閉ざされた小さな集落だ。
孤独に暮らす男の家に泊まり、やがてその男との関わりが事件を起こす。その展開が、悲劇的でありながらも喜劇的で、どこか温かい。
雪に包まれた古い日本のような風景の中で、都会からやってきた脚本家は異邦人のように見える。その異質な出会いが、まさにつげ義春の世界そのものだった。
現代と近代が交錯する時間のズレ。笑いは、悲しみの反対ではなく、孤独と孤独が出会う瞬間に生まれる。映画はそのことを、淡々とした雪の映像の中で描いている。
最初の「学生映画パート」が観念的な悲劇だったのに対し、雪国での物語は、生活の中にある“笑い”と“哀しみ”の共存を描く。
その落差こそが、映画全体の構造であり、創作論でもあるのだと思う。
創作する人間は、いつも「道具」と「目的」のあいだで揺れている。カメラ、筆、言葉。どれも素晴らしい道具だが、それを持つことで何かを生み出した気になってしまう。
喩えばChatGPTやnoteのようなサイトの用に
映画の中のカメラ愛好家は、撮るよりも道具を集めることに執着する。その姿は滑稽でもあり、どこか他人事ではない。創作とは、本来、完成や成功とは無縁の営みだ。
「うまくやろう」「評価されたい」という思いが入り込むと、途端に“日々”が死んでしまう。
『旅と日々』の脚本家は、そんな迷いの中で旅に出る。創作とは、旅をするように生きることなのだと思う。
目的が先にある旅は観光になる。物語も同じで、結末を先に決めてしまうと、途中の“日々”が死んでしまう。
雪国の暮らしには、結末のない時間が流れている。寒さ、沈黙、湯気、雪。それらが脚本家の中の“観念”を少しずつ溶かしていく。
そして、笑い。この映画の喜劇性は、悲劇を受け入れた人間の静けさによって成り立っている。
都会では悲劇がドラマになるが、雪国では悲劇も日常のひとコマにすぎない。その温度差が可笑しく、どこか救いでもある。
永遠のアマチュアでいい。ただし、“道具に溺れないアマチュア”でありたい。