なんのために書いているのか。書いた作品があったから読まれたいと思っただけなんて、それが小説だった。
詩はちょっと違うかな。放っといても書けてしまう。日記と同じか?日記から始まっているから。
昨日映画『旅と日々』を見て感じたことがありました。韓国からやってきた脚本家なつげ義春の原作から脚本を頼まれて、映画を作るのですが、学生映画の卒業制作というような内容で作り手が見ればいろいろとテクニック面で面白いのだろうけど、脚本家は面白くなかったのか自分の才能が足りないというようなことをいう。評論家がいて、一通り面白い感想をいうのだがそれも作り手視線で、考えて見れば上映されていたのが大学のような映画館かミニシアター系。観客の学生も作り手からの質問で、それは青春映画なんだけど脚本家の反応とは何か違う。そんな時に評論家が突然死して、そのときに旅でもしてみればと言われる。葬儀て双子の弟はカメラの趣味があり、捨てるほどカメラだけが溜まっている。それは何かの暗示のようで道具が素晴らしくてもそこに目的がないと道具ばかり追いかけてしまう趣味人にすぎない。彼は永遠のアマチュアなんだろうと思います。彼は日常の散歩でいいものを写し撮ることで満足している。あるいは満足出来ないから新しい高級カメラを買う。その繰り返しだけどプロにはなれない。
脚本家はコンパクトカメラを譲り受けて旅にでる。都会でもなく、観光地でもなく、雪国の過疎地で閉鎖空間にあるような田舎て細々と暮らす孤独な男の宿に泊まり、そこで男と脚本家との出会いが事件を起こす。それが喜劇的て面白かった。雪国の閉鎖空間で暮らす男は近代の古き日本というような。都会からやってきた脚本家はよそ者なんだけど、その世界に関わっていくことで喜劇になる。それがつげ義春の世界だった。上手く書けないけど面白い映画だと思いした。創作論を含んでいるような、メタフィクション性を感じる映画で喜劇性が一般人にも受けるというような作品でした。今日はここまで。落差なのかな。それら喜劇で。悲劇は青春映画という感じで、最初の学生映画っぼい方かな。