山原水鳥です。
京都に来ています。
京都といえば、神社仏閣、歴史ある町並み、そして美味しいもの。
せっかく京都に来たのだから、ここでしか味わえないものを食べたい!
そう考えて伏見稲荷で目をつけたのが、いなり寿司でした。
伏見稲荷といえば、お稲荷さん。
お稲荷さんといえば、お揚げ。
そして、お揚げといえば、いなり寿司。
……いや、我ながら、もう少し気の利いた発想はなかったのでしょうか。
しかし、歴史ある門前町で長く愛されてきた食べ物には、それだけの理由があるはずです。
そんなわけで今回は、伏見稲荷の老舗のいなり寿司を題材に、あの男に登場してもらいましょう。
十五時退社を死守する元・伝説の交渉人。
黒鉄城一郎です。
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南禅寺での「湯豆腐のディール」を終えた黒鉄城一郎は、その足で京阪電車に乗り、伏見稲荷駅へと降り立っていた。
目的は、娘のゆかりへのお土産候補の調査である。
京都の旅を終える最終日までまだ時間はある。
食品にはそれぞれ適切な購入のタイミングがある。だからこそ、今は候補を見極めたい。
味、歴史、土地との結びつき、それから何より、ゆかりが喜ぶかどうか。
城一郎の中では、すでに厳格な審査基準(スクリーニング)が設けられていた。
駅を出て、大社へと続く参道を歩く。
平日の午後だというのに、国内外からの参拝客で道はあふれ返っていた。
その雑踏の中を進む城一郎の鼻腔を、不意に、濃厚な「匂いの奇襲」がくすぐった。
炭火で焼かれる香ばしいタレの香りと、どこか懐かしい甘いお揚げの匂い。
城一郎は足を止めた。
匂いの発信源は、参道の角に佇む古い食事処。
「……なるほど。ここか」
白髪交じりの短髪に、深く刻まれた眉間の皺。
身長百八十五センチの体躯を包むテーラードスーツの背筋を伸ばし、城一郎は店の佇まいを鋭いインテリジェンスを宿した瞳で見据えた。
創業は約五百年前にさかのぼる。
豊臣秀吉が母の病気平癒を祈願して参拝した際、早朝から店を開けていたこの茶屋を喜び、正室の名の一字を贈って命名したという、歴史の生き証人――。
「天性のラポール(信頼関係)構築能力と、利益をデザインする力を兼ね備えた、歴史上屈指の天才交渉人。かの秀吉公が認めたタイムマネジメントと、もてなしの質。価格以上の価値(ディール)が眠っていそうだ」
城一郎は、店頭に並ぶ三角形のいなり寿司に目を留めた。
きれいに形の整った、いなり寿司。
派手な装飾も、奇をてらった仕掛けもない。
それでいて、長い年月を経てもなお、伏見稲荷を訪れる人々に親しまれている。
(歴史のある店が、歴史のある場所で、歴史のある料理を提供している。これは単なる食事ではない。土地の記憶を味わう機会だ)
城一郎は腕時計に視線を落とした。
針は十四時四十分。
「十五時の完全撤収」まで、あと二十分。
もっとも、今日は東京の自宅へ帰るわけではない。
京都での滞在は、まだ続く。
それでも、十五時という時刻が身体に染みついているのか、城一郎はつい残り時間を計算していた。
「一分一秒の無駄もなく、この歴史を堪能する」
城一郎は無駄のない足取りで、店の入口へと向かった。
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店内に入った城一郎は、席に着くと、迷わず注文を済ませた。
「いなり寿司をお願いします」
メニューに躍る「うずら焼き」の文字と、店内に満ちる香ばしい炭火の匂いが、城一郎の胃袋に猛烈なロビー活動を仕掛けてくる。しかし、城一郎は静かにメニューを閉じ、本能の要求を却下した。
今日の調査対象は、あくまでいなり寿司だ。
ほかの料理に目移りしてはいけない。
ひとつの案件を評価(デューデリジェンス)する際には、対象を明確にすることが重要である。
うなぎも、うずら焼きも、うどんも、今日は審査対象外。
城一郎は、心の中でそう整理した。
やがて、いなり寿司が運ばれてきた。
目の前に並ぶ、きれいな三角形。
城一郎は姿勢を正した。
まずは外観。
お揚げの形状、色合い、酢飯との均衡(バランス)。
過剰な主張はない。だが、長く愛されてきた料理ならではの、揺るぎない完成度が感じられる。
「……いただきます」
城一郎は箸を伸ばし、いなり寿司を口へと運んだ。
「……!」
ひと口噛んだ瞬間、城一郎の思考が加速する。
じっくりと炊き上げられたお揚げは、関西風の薄味を想定していたこちらの予測を心地よく裏切る、一本芯の通った濃厚な甘辛さ。
だが、驚きはそこでは終わらなかった。
ただのいなり寿司ではない。これは、完成された一つの「作戦行動」だ。
フロントに配置された、甘く柔らかなお揚げという名の「外壁」。それはファーストコンタクトで相手の警戒心を完全に融解させる、極めて融和的なアプローチだ。だが、真の脅威はその奥深く――酢飯の領域に潜伏していた。
酢飯を噛み進めるプロセスの最中、時間差で炸裂する「伏兵」。
完璧な配置で埋め込まれた麻の実とゴボウが、口内で「プチプチ、シャキッ」と、硬質な打鍵音のごとき打撃を容赦なく打ち込んでくる。
「ほう……ごまだけではないな。これは……麻の実、そしてゴボウか」
城一郎は、深く刻まれた眉間の皺をさらに寄せ、脳内でデータをアップデートした。
噛むたびに戦略(食感)が変わり、膠着状態(飽き)を一切寄せ付けない。
甘辛いお揚げの味わい(利益)と、酢飯の酸味。そこへ麻の実の軽快な歯触りと、ゴボウのシャキッとした食感が加わる。
ひとつの料理の中で、それぞれが独立した役割を持ちながら、互いの実利(持ち味)を1ミリも損なわないポートフォリオの調和。
最大成果を狙う「足し算の美学」でありながら、ノイズとなる雑味は徹底的に引き算されている。
五穀豊穣を祈る門前町で、長い年月をかけて市場(旅人の胃袋)を完全掌握し続けてきた、逃げ場のない完成された布陣。
「……見事な交渉術だ」
城一郎は、ゆっくりと箸を置いた。
そして、もう一度、目の前のいなり寿司を見つめた。
単に美味しいだけではない。
伏見稲荷という土地に足を運び、この場所で食べるからこそ、味わいに歴史の奥行きが加わる。
ゆかりが歴史に興味を持つかどうかはわからない。
だが、食べ物をきっかけに、知らなかった土地の話をすることはできる。
「……悪くない。いや、悪くないどころか、実に見事だ」
城一郎は、残りのいなり寿司も丁寧に味わった。
食事を終えるころには、当初の目的に対する結論も出ていた。
味は申し分ない。
土地との結びつきも明確。
そして、食べたときの驚きを誰かに伝えたくなる。
お土産候補として、十分な価値(バリュー)がある。
城一郎は、脳内の審査記録に結論を刻み込んだ。
(いなり寿司。最終日購入候補、正式登録)
もちろん、今ここで買って帰るわけではない。
持ち帰るのは、帰京する直前。
それまでは、候補として大切に保留(ペンディング)しておく。
「……よし」
城一郎は満足げに頷いた。
今回の調査(リサーチ)は、これで完了だ。
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店を出ると、伏見稲荷の参道には、相変わらず大勢の参拝客が行き交っていた。
朱色の鳥居へ向かう人々。
店先で足を止める人々。
土産物を選ぶ人々。
それぞれが、それぞれの目的を持って、この場所を訪れている。
城一郎は、その光景を眺めながら、ふと、ゆかりの顔を思い浮かべた。
「お父さん、京都で何を食べたの?」
帰宅したら、きっと聞かれるだろう。
そのときには、ただ「美味しかった」と答えるだけでは足りない。
どんな味だったのか。
何が入っていたのか。
なぜ、この場所で長く愛されてきたのか。
自分の言葉で、きちんと伝えられるようにしておきたい。
それが、父親としての責任(アカウンタビリティ)である。
……いや。
そこまで大げさに考える必要はないのかもしれない。
ただ、ゆかりが喜んでくれたら、それでいい。
城一郎は小さく息を吐いた。
「今回のディールも、完全成立だな」
まだ、土産を買ったわけではない。
最終日の購入候補として登録しただけだ。
それでも、城一郎にとっては十分な成果だった。
腕時計に目を落とす。
十五時を過ぎていた。
いつもの彼なら、すでに帰宅している時間だ。
だが、今は京都にいる。
仕事の段取りも、誰かとの交渉も、今すぐ片づける必要はない。
目の前には、朱色の鳥居が連なっている。
その先に何があるのか。
今の城一郎には、まだわからない。
だが、急ぐ理由もなかった。
十五時を過ぎても、京都の一日は終わらない。
城一郎は腕時計から目を離し、ゆっくりと歩き出した。
さて、次はどこへ向かおうか。
京都には、まだ確かめたいものがいくつも残っていた。
(つづく)
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いなり寿司のディールを終えた城一郎が、本編ではどんな交渉に挑んでいるのか……?
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https://kakuyomu.jp/works/2912051605715758322/episodes/2912051605722874581