ある山寺に一頭の馬がいた。
元々は麓の村の庄屋に飼われていた馬だったのだが、これがとんでもない暴れ馬だった。
鞍をつければ弾き飛ばす。
手綱をかければ噛みちぎる。
まるで、人など乗せてたまるものかよとでも思っているかのように、とにかく暴れ回る。
持て余した庄屋が山寺の住職に相談すると、
「なれば拙僧にお預けなされ」
と静かに言われた。庄屋は渡りに船とばかりに、その日の夕方には暴れ馬を山寺に連れてきた。
「立派な馬ですな」
息も絶え絶えに馬を連れて来た庄屋に、住職は言った。
「いやはや、立派なのは図体ばかりでして。おつむの方はてんでダメです」
それを聞いた住職は薄く笑った。
馬は初めて来た寺の境内で、物珍しそうに辺りを見回している。
そうして庄屋は馬を置いて山を降りていった。馬は興味なさげにそれを見ていた。
翌朝、住職が朝のお勤めをしていると、馬がそれをじっと見つめているのに気付いた。
住職が仏様に向かって経を読む。
経の継ぎ目に鏧を鳴らす。
そしてまた経を読む。
それを飽きもせず、じっと見つめていた。
そんな日々を過ごしていたある日、隣国との間に戦が始まった。
何故起きたのかはわからない。
ある日唐突に、川向こうから兵隊がやってきた。
村の人々は逃げ散った。
東に走る者、南に駆ける者、そして山寺に逃げ込む者。
俄かに寺の境内が騒がしくなった。
住職は何も言わずに、逃げて来た者たちを受け入れた。
日が傾く頃、逃げた村人を追って兵隊が寺へと上ってきた。
馬に乗った侍と、十人ばかりの足軽だった。
彼らは本堂で身を寄せ合う村人たちを見て、舌なめずりをした。
「御仏の前ですぞ。お収めくだされ」
住職が侍の前に立ち、静かに言った。
侍は刀を抜いた。本堂の村人たちの中から、息を呑む声がした。
侍が刀を振り上げた。
村人たちは思わず目を瞑った。
その刹那、馬の嘶きが聞こえた。
兵たちが叫び声をあげている。
恐る恐る村人たちが目を開けると、庄屋が預けたあの暴れ馬が兵隊たちを相手に暴れていた。
侍も刀を振り上げたまま、そちらを振り向いた。
馬は兵隊たちに噛みつき、蹴り上げ、縦横無尽に暴れている。
侍が慌てて馬の方へ走る。
兵隊が三人、境内でのびていた。その真ん中で、馬は仁王立ちしている。他の兵隊はそれに慄いたまま、動けなくなっていた。
侍がやってくると、馬は一鳴きし、境内を飛び出した。
侍が自分の馬に飛び乗り、追えと叫んだ。
その声で兵隊たちは正気に戻り、慌てて馬を追っていった。
住職も村人たちも、呆気に取られたままそれを見ていた。
夜が明けた。
のびていた三人の兵隊は、村人たちが脅しつけたら這々の体で去っていった。
村人たちは口々に馬について語っている。
「お坊様は知ってたんですか?」
住職はただ首を振った。
おそらく、馬は生きていないだろう。
住職は、あの馬こそが御仏の使いだと思った。けれど、それは誰にも言わなかった。
村人たちを落ち着かせた住職は、朝のお勤めを始めた。
いつものように経を読む。
鏧を鳴らす。
また経を読む。
経を読み終える頃、また境内の方が騒がしかった。
住職がなにごとかと向かうと、血まみれで倒れた馬と庄屋がいた。
驚いた住職はすぐに駆け寄った。
「あたしが蔵で震えているところに、この馬が来まして」
住職が庄屋に何があったか聞くと、庄屋は語り始めた。
「兵隊に追われてたんです。あたしが見た時にはもう血だらけで、でもこいつは勇敢に戦っておりました」
語り始めると、庄屋の声が震え出した。
「そうこうしてたら、お殿様の兵隊がやってきましてね。奴らを追っ払ってくれたんです」
馬は倒れたまま動かない。
「そのまま、こいつはあたしを背中に乗せましてね、このお寺に向かって走り出したんです」
庄屋の目に涙が溜まる。
「近くまで来ると、住職のお経の声が聞こえたんです。多分こいつはそれを頼りにここまで走ってきたんでさ」
住職は庄屋が語り終えた後、馬の首を優しく撫でてやった。
馬は力なく、けれど嬉しそうに一鳴きし、そのまま息絶えた。
【馬の耳に念仏】