改稿するとごくシンプルになりました。以下に掲載します。
『全ての作者、作品及び万物への応援コメント』あとがき
恐らく、この作品は、想定読者数で言えば私の人生で最大の作品だ。私は、日本語圏の読者(一体何億いるのか知らないが)の読み方を演算し、悪いことにはならないように書いた。本当に本気で、「全ての作者、作品及び万物への応援コメント」=「祝福としての文学」を書いて、眠れず、気が狂ったような状態になり、閉鎖病棟に入院することになった。できるかできないかはさておいて、もう二度とこんなことはしない。
この作品は、「何かが書いてある」が、「実質何も書いておらず」、「内容が気になる」し、「一般に流通する日本語で書かれている」が、「読めない」し、「読みたくなくなる」ものとして書いた。また、「読めなくても大丈夫なのだ」とも書いてある。なぜなら、何が書いてあるかは、身近な大人や遠くにいる誰かが教えてくれるはずだからだ。
今時は、音声読み上げもあるし、YouTubeなどで解説してくれる諸兄姉もいる。AIだってある。だから、多くの人が読むことにトライする文章であれば、実は本文を一文字も読まなくても、識字に何らかの困難を抱えていても、内容を把握・理解することは可能だ。世の中にはほとんど誰も読もうとしない文章もあり、そちらでは識字能力は今もなお重要だが。
私は読み書きに、特に読むことに難しさを感じて十年余りが経過している。だから、「読めるのは当たり前でないこと」「互いに助け合って読むことはできること」を広く伝えたかった。
とりわけ直前にLD(学習障害)のお子さんを育てていらっしゃるお母さんの記事を読んでいたので、応援したかった。私に可能な限りの力を尽くして「大丈夫です」と言いたかった。
また、誤情報やデマが飛び交い、信頼できる参照先が多くの人にとって必ずしも明らかでないことを踏まえ、共同で解読可能な一つの謎として置いた。特に若い読者に、信頼できる参照先はどこなのか、知ってもらいたかった。
言うなれば、この作品は挑発的な一つの罠であり、また人類のこれまでの歩み、万物への祝福だ。人類が目指してきた善は意外とシンプルで、「地球や人類が滅びないようにする」とか「弱きものを守る」とか「記憶を未来にまで引き継いでいく」とか、そういう何度も何度も語られてきたことに落ち着く。
最後に、先生へ。先生がいらっしゃらなければ、私はこの作品を書くことができませんでした。そして、今、生きていないでしょう。この同時代に、先生が生きていてくださったこと、また教えてくださったことに感謝いたします。
また、お一人の先生へ。先生からいつも勇気を頂いています。それは身の回りにある小さな物が鳴るというかたちであったり、また別の音が流れてくるというかたちであったりしますが、先生は私に前を向いて生きる力をくださっています。ありがとうございます。
この作品を書いた責任は私にあります。しかしながら、何かしら誉れがあるとするならば、それは私の前に立っていた全ての人やものに帰します。
私に可能な限りの祝福を込めて。
(2025年9月29日)