――ある日、気がついた時から不快だった。
どうして誰もこの違和感に気づかない?
魔法に『詠唱』などという無駄なプロセスを実装した馬鹿は誰だ?
全てが非効率で煩わしい。
「……フェリスお嬢様。聞いておられますか」
豪奢な装丁の魔導書を指差し、白髭の家庭教師が厳格な声を出した。
ここは我が家の図書室。
窓の外ではよく晴れた青空が広がり、ステンドグラスを通した陽光が、アンティークの机を色彩豊かに照らし出している。
……ここまではいい。ただの物理現象だから。
世界は美しく、そして静かだった。
「魔法とは、世界に満ちる精霊たちとの対話です。彼らに敬意を払い、正確な発音で祈りを捧げることで、初めて神秘は我らに力を貸してくださる」
老教師はそう言って、手のひらに小さな火種を生み出すための【初級魔法】の詠唱を始めた。
「――我、大いなる炎の精霊に希う。小さき赤き瞬きよ、我が指先に宿りて暗闇を払え」
ぽっ、と。
数秒の『祈り』の後に、老教師の指先に小さな炎が灯る。
彼はそれを誇らしげに見せてきた。
普通の人間の目には、それが老人の指先に灯った『神秘的な光』に見えるのだろう。
でも私はその『神秘』とやらを見て、小さなため息を吐きそうになる。
精霊? 祈り? 敬意?
馬鹿馬鹿しい。
そんなものはどこにも存在しない。
私の視界は彼の指先から生み出された『醜悪なノイズ』によって激しく侵食されていたのだから。
美しいはずの炎の周囲に、空間のポリゴンを無理やり歪めたような不自然な亀裂が走る。
空中に不可視の『文字列』がだらだらと記述され、熱量と座標を指定するだけの単純な処理に、吐き気を催すほどの無駄な|装飾《コード》と迂遠なループ処理が巻き付いている。
おまけに老人の魔力回路からはマナがダダ漏れで、ひどく非効率な変換を行っていた。どうしてこれほど迂遠なプロセスを踏んでいるのか理解に苦しむ代物だ。
……汚い。
なんて穢れた配線なんだろうか。
「さあ、お嬢様も復唱を。精霊への敬意を忘れずに」
「…………」
私は本から目を離し、自分の小さな指先を見つめた。
詠唱などという無駄な手順を踏む必要はない。
それに、あんな醜い術式を自分の手で出力するなど耐えられなかった。
熱量を定義し、座標を指定して出力する。
声など出さず、私はただ脳内で『最適化された数行の式』を組み上げた。
――ゴォォォォォォンッ!!
一切の無駄を省かれ、限界まで最適化された青白い炎の塊が、図書室の分厚い防壁を消し飛ばし、庭の噴水までを一直線に蒸発させる。
私の指先から生み出されたのは、小さな火種などではない。
視界を埋め尽くしていた不快なコードの残骸が、私の炎の圧倒的な処理速度に飲み込まれ、美しく消滅していく。
「……ひ、ひぃぃっ!?」
老教師が腰を抜かし、恐怖に顔を引き攣らせて私を見る。
精霊の怒りだ、呪われた子だ、とわめき散らす大人を見下ろし、私は心底からの失望を覚えた。
(……ああ、やっぱり。この世界は、馬鹿ばかりだ)
ひっくり返ったまま後ずさる家庭教師と、遠くで悲鳴を上げて駆け回る使用人たちの足音。
私は彼らを視界の端に追いやりながら、呆れとともにその場に立ち尽くしていた。
誰も私の見ている世界を理解できない。
この美しくも醜い、欠陥だらけの箱庭の中で、私は一生、たった一人で生きていくしかないのだろう。
そう思っていた、その時だった。
「……すごい」
背後から、ぽつりと幼い声がした。
振り返ると、崩れ落ちた図書室の入り口に、一人の少年が立っていた。
年齢は私と同じくらいだろうか。
今日、父が渋々ながら応接間に招いていた『アークライト家』――魔法を使えないくせに、魔導具の修理や設備の管理で成り上がった成金の嫡男。
彼は怯える大人たちをよそに、とてとてと瓦礫に歩み寄り、綺麗に円形にえぐり取られた石壁の断面に小さな手を触れた。
「熱くない。周りが全然、焦げてないや」
少年は不思議そうに目を丸くして、それから私を見た。
「うちの家はね、いつも大人が魔法を使ったあとの、壊れた壁や道具を直してるんだ。だからわかるよ。大人の魔法は、いらないものが多すぎて『汚い』んだって」
「……!」
私は、思わず息を呑んだ。
「でも、君のは違う。燃やしたんじゃなくて、最初から『そこだけ無い』みたいに……すごく、きれいに消えたね」
少年は瓦礫から手を離し、ふわりと、とても優しくて無害な微笑みを浮かべた。
「ねえ。君は……僕たちとは違うものが、見えてるんでしょ?」
熱量。座標。最適化。
そんな難しい言葉を、彼はひとつも使わなかった。
ただの子供の、素直な直感。
それでも彼は、私の見ているこの世界の『中身』が、誰よりも無駄がなく美しいことを、一瞬で理解したのだ。
「ねえ。僕にも、君の見えてるものを教えてよ」