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キングダムの嬴政は中華統一に26年もかかったのに、なぜ劉邦はわずか四年でできたのか?

🔴転生JDと新たな秦王朝、https://x.gd/Zwr9K
 補足
 秦末漢初の編年史:始皇帝の死から呂雉の死まで
 https://x.gd/opVu5
 なぜ劉邦はわずか数年で中華を統一できたのか
 https://x.gd/rWQqFJ

「転生JDと新たな秦王朝」の舞台は、現在の進行では紀元前205年になります。秦の始皇帝嬴政の死が紀元前210年ですので、それから五年後の秦末漢初の物語を書いています。

「秦末漢初の編年史」を見ていただきたい。紀元前210年では、

項羽 (18歳)
劉邦 (34歳)
韓信 (26歳)
呂雉 (30歳)
蕭何 (40歳)
曽根崎アンヌ(20歳)が蜀の尾頭村の少女張蓉に転生した時、彼女は、安女 (14歳)

です。項羽と劉邦の争いである楚漢戦争は、わずか4年(紀元前206年12月~前202年12月)で決着しました。嬴政が李信将軍らと共に26年もかかった中華統一戦争でしたが、楚漢戦争は、わずか4年。なぜ、こんなに短い期間で中華統一などできたのでしょうか?

「なぜ劉邦はわずか数年で中華を統一できたのか」を見ていただきたい。

 秦王嬴政が戦国七雄の統一に要した期間は、正確に数えれば26年に及びます。紀元前230年、韓を滅ぼして最初の火蓋を切り、趩、趙、魏、楚、燕、斉と順次攻略し、紀元前221年に斉王建が降伏して天下を一統しました。

 この長い歳月は、単なる軍事力の差ではなく、六国それぞれが独自の王室・貴族層・軍事伝統を保持し、秦の侵攻に対して粘り強く抵抗した結果でした。

 秦は法家による中央集権を武器に、郡県制を各地に押し付けながらも、六国の旧勢力は滅亡後も地下で息を潜め、反秦の火種を残しました。始皇帝の死後、趙高の専横と二世胡亥の愚昧が重なり、紀元前209年の陳勝・呉広の乱を契機に、わずか15年で秦王朝は崩壊しました。

 それに対して、項羽と劉邦の争いである楚漢戦争は、わずか4年(紀元前206年12月~前202年12月)で決着しました。

 項羽が秦王子嬰を殺し、関中を三分割して十八諸侯を封じた「鴻門の宴」の直後から、劉邦が垓下の戦いで項羽を自刃に追い込み、漢王朝を建てるまでの期間です。

 なぜ、秦が26年を要した統一を、劉邦は4年で成し遂げられたのか。この問いに答えるには、戦国後期と秦末漢初の時代背景、そして「王族なき時代」の権力構造の変容を深く見つめる必要があります。

 まず、秦以外の六国の王族・貴族層がほぼ壊滅していたことが決定的な要因でした。秦の統一戦争は、六国の王室を物理的・政治的に根絶やしにしました。

 韓王安は捕らえられ、趙王遷は幽閉され、魏王假は自殺、楚王負芻は捕虜、燕王喜は殺され、斉王建は騙されて降伏し、後に処刑されました。

 貴族層も郡県制の下で地方官に転落するか、咸陽に強制移住させられ、抵抗の拠点を失いました。

 秦末の反乱で陳勝が「張楚」を名乗ったが、彼は農民出身で王族の血統を持たず、旧六国の貴族層はすでに存在していません。

 項羽が十八諸侯を封じた際も、旧王族の復活ではなく、自身の功臣や地方豪族を充てたに過ぎません。つまり、統一を阻む「正統な王族の象徴」が不在でした。

 それから、戦国時代、六国はそれぞれ独自の軍事伝統と城壁都市を持ち、秦の侵攻に対して長期の籠城戦を展開しました。

 しかし、秦末にはこうした大規模な常備軍は存在せず、反乱軍は農民や亡命兵の寄せ集めでした。

 韓信の「明修棧道、暗渡陳倉」は、わずか3万の兵で三秦を平定し、陳倉から咸陽までの200里を奇襲で制圧しました。

 戦国時代なら、こうした機動戦は六国の城壁網によって封じられたでしょうが、秦の郡県制が道路網を整備し、軍事移動を加速させました。

 さらに、秦の中央集権がもたらした「統治の空白」が、劉邦の統一を容易にしました。

 秦は郡県制によって地方の自治を奪い、咸陽に全ての権力を集中させました。

 始皇帝の死後、この中央が崩壊すると、地方は一瞬にして無政府状態に陥りました。

 項羽や劉邦が封じた諸侯は「漢か楚か」の二択を迫られ、中立を保つ余地はありませんでした。戦国時代の「連衡・合従」のような複雑な外交バランスは存在せず、勝者総取りの単純な構造が統一を加速させました。

 加えて、民衆の疲弊と「統一への渇望」も見逃せません。

 秦の苛政は、農民を極限まで追い詰めました。始皇帝の阿房宮建設や万里の長城、頻繁な戦争は、人民を疲弊させ、反乱の火種となりました。

 しかし、秦の崩壊後、項羽の無秩序な分割統治はさらなる混乱を招きました。

 戦国時代、六国はそれぞれの文化・言語・貨幣を持ち、統一を拒むアイデンティティがありましたが、秦の15年間でこれらは強制的に均質化され、人民は「統一された秩序」を求めるようになりました。

 劉邦の漢は、秦の法家を緩和し、儒家的な仁政を打ち出したことで、民衆の支持を得ました。

 劉邦が4年で統一できたのは、王族なき時代の権力真空、軍事移動の容易さ、秦の中央集権の遺産、民衆の統一への渇望、そして項羽の戦略的失敗が重なった結果です。

 秦の26年は、六国の王族・貴族・軍事伝統を一つ一つ粉砕する作業でしたが、楚漢戦争は、すでに「王なき世界」で、軍事力と補給力、外交手腕を競う単純な勝負でした。

 劉邦は、沛県の亭長という下層出身でありながら、この新しい時代のルールを誰よりも早く理解し、韓信・蕭何・張良という「チーム」を率いて、歴史上最も迅速な統一を成し遂げたのです。

 さて、ここまでが私たちの歴史で起こったことです。

 曽根崎アンヌが憑依した張蓉= 張安女(ちょうあんぬ)と藤和子が憑依した呂雉(りょち)の二人は、どう歴史を変えてしまうのでしょうか?

 張安女(ちょうあんぬ)は、劉邦が漢朝を打ち立てるのを阻止して、夫の韓信と秦の第二皇女秦瑛の子を新たな秦朝の始皇帝に祀り上げようと画策します。呂雉(りょち)は歴史通り漢朝を打ち立て、劉邦の死後、呂雉の親族・仲間と漢朝を簒奪しようとします。

 さて、いつ歴史が変わるのでしょうか?

 秦末漢初に詳しい人ならもうお気づきでしょうが、既に、紀元前205年で呂雉(りょち)が歴史を変えてしまいます。

 紀元前205年4月の「彭城の戦い」で漢軍は項羽に負けて壊滅しますが、その時、呂雉と劉邦の父親の太公は項羽の捕虜となります。

 しかし、この物語では、紀元前205年4月、呂雉は咸陽におり、劉邦について行って「彭城の戦い」で現地にはおりません。

 このことが、205年夏以降にどういう影響を歴史に与えるのか?さらにさらに張安女(ちょうあんぬ)が歴史を変えてしまうのか?

 みなさん、どう思われます?

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