• ラブコメ
  • ホラー

手ぶらの玄関 (19.5話)

 夜道の先で、櫟凪人の背中が小さくなっていく。

 九条玻璃は、それを最後まで見届けることができなかった。
 見届けてしまったら、きっとまた何か言いたくなる。言いたくなって、でも言えなくて、結局その場で固まってしまう。そんな自分が簡単に想像できたからだ。

「……それじゃあ。また来週!」

 勢いだけでそう言って、踵を返した。

 足音が、普段より少し速い。
 自分の家までの短い距離が、妙に長く感じる。胸の奥がずっと騒がしくて、息を吸うたびにさっきの言葉が蘇る。

 ――九条さんの知らない話が聞けて、俺は嬉しかったけどな。

 嬉しかった。

 その一言が、耳の奥に残っている。
 何度も、何度も、同じ温度で再生される。

 玻璃は玄関の前まで来ると、鍵を取り出す手すら少しもたつかせた。
 いつもなら音を立てないように開ける扉を、今日は少し乱暴に開けてしまう。

 家の中に入る。
 靴を脱ぐ。
 そして、バタン、と扉を閉めた。

 その瞬間、膝から力が抜けた。

 玻璃は玄関の壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込む。
 冷たい床の感触が制服越しに伝わってくるのに、顔だけが熱い。
 頬だけじゃない。耳の裏まで熱くて、首筋まで心臓になったみたいだった。

「……〜〜っ!」

 声にならない声が漏れる。

 両手で顔を覆う。
 覆ったところで、熱は隠れない。指先まで火照っている。

 何をしているんだろう。
 ただ夕食を一緒に食べただけ。
 少しだけ外で話しただけ。
 「自販機まで」と言って、一緒に歩いただけ。

 それなのに、こんなにも胸が落ち着かない。

 しかも、あの人はずるい。

 こちらが必死に「気にしないでください」と言ったのに、
 「嬉しかった」なんて、そんなふうに返してくる。

 玻璃は膝を抱えて、顔を伏せた。
 口元が勝手に緩みそうになるのを、必死に堪える。

 堪えきれていないことは、自分でも分かっていた。

 そのとき。

 リビングの方から、パタパタとスリッパの音が近づいてきた。

 玻璃の肩が跳ねる。

 しまった、と思った時にはもう遅い。
 リビングのドアが少し開いて、そこから母――九条澄香が顔を出した。

「あら」

 澄香は玄関に座り込んでいる娘を見つけると、目を丸くした。
 そしてすぐに、その目が細くなる。

 ニヤニヤ。

 その表情を見た瞬間、玻璃は直感した。
 これはもう、逃げられない。

「おかえり、玻璃」

 澄香はゆっくりと玄関まで歩いてくる。
 座り込んだ玻璃を、上から楽しそうに見下ろした。

「……で? お目当ての飲み物は買えたの?」

 玻璃の心臓が、嫌な跳ね方をした。

「え」

「自販機まで行くって言ってたでしょう?」

 澄香の視線が、すっと下がる。
 玻璃の両手へ。

 空っぽだった。

 右手にも、左手にも、何もない。
 飲み物どころか、財布すらない。

 そこでようやく、玻璃は自分がどれだけ雑な口実で外へ出たのかを思い出した。
 自販機まで。
 そう言った。
 言ったのに、財布を持っていない。スマホも部屋に置いたまま。
 つまり、最初から何かを買う気など一ミリもなかったことになる。

 玻璃は慌てて立ち上がった。

「あ、えっと……」

 言葉が出てこない。
 出てこないのに、何か言わなければ終わる。

「ほ、欲しいものが、売り切れ、だったので……!」

 言った瞬間、自分でも無理があると思った。

 澄香の笑顔が深くなる。

「へぇー?」

 ゆっくり、ゆっくりと詰めてくる声。

「お財布も持たずに家を出たのに、売り切れかどうかわかったんだ?」

「……」

「玻璃の目は透視でもできるのかなぁ?」

 完全に終わった。

 玻璃はガラス細工のように固まる。
 動いたら割れる。そんな状態だった。

 澄香は遠慮なく近づいてきて、娘の肩を指でつんつんと突いた。

「ちょっと自販機まで〜、なんて言って」

「……」

「本当は櫟くんと少しでも長く一緒にいたかっただけでしょ?」

「……っ」

 肩が跳ねる。
 分かりやすすぎる反応だった。

「櫟くん、何か嬉しいことでも言ってくれた?」

 その言葉で、玻璃の頭の中に、また声が蘇った。

 ――九条さんの知らない話が聞けて、俺は嬉しかったけどな。

 嬉しかった。
 嬉しかった。
 嬉しかった。

 だめだ。

 玻璃の顔が、さらに赤くなる。
 自分の頭から、ぽん、と変な音がして何かが飛び出した気がした。

「な、何も……!」

「何も?」

「何も、ありません!」

「ふぅん」

 澄香は楽しそうに腕を組む。

「何もなかった顔じゃないけどなぁ」

「お母さん!」

 声が裏返った。
 普段の玻璃からは考えられないくらい、感情がそのまま出ている。

 澄香はそんな娘を見て、さらに目を細めた。
 からかっている。間違いなくからかっている。
 でも、それだけではない。

 嬉しそうだった。

 玻璃にはそれが分かってしまう。
 分かってしまうから、余計に恥ずかしい。

「もう……!」

 玻璃はこれ以上ここにいたら危険だと判断した。
 母を押し退けるようにして、玄関から廊下へ逃げる。

「あら、逃げるの?」

「知りません!」

「玻璃ー、飲み物はー?」

「いりません!」

 バタバタと階段を駆け上がる。
 足音が普段よりずっと大きい。けれど、もう気にしていられなかった。

 二階の自室へ駆け込み、扉を閉める。

 そこでようやく、玻璃はベッドに倒れ込んだ。
 枕に顔を埋める。

「……〜〜っ」

 また、声にならない声が漏れた。

 恥ずかしい。
 恥ずかしいのに、嬉しい。

 母に見透かされたことも、凪人にからかわれたことも、全部、胸の奥で熱になって残っている。

 また来週。

 自分で言ったその言葉が、こんなにも待ち遠しくなるなんて、少し前の自分なら信じられなかった。

 一方、リビングへ戻った澄香は、階段の方を見上げながら小さく息を吐いた。

「もう、本当に焦れったいんだから……」

 呆れたように言いながらも、その声は柔らかい。

 玄関で座り込んでいた娘。
 真っ赤になって、言い訳にもならない言い訳をして、最後には逃げていった娘。

 それは、最近までの玻璃からは考えられない姿だった。

 人と距離を取り、余計な感情を見せず、傷つく前に自分から一線を引いていた子。
 そんな娘が、誰かの言葉一つであんなにも揺れている。

 危うさはある。
 心配もある。

 けれど、それ以上に――嬉しかった。

「あんなに楽しそうな玻璃、久しぶりに見たなぁ」

 澄香はふっと優しい笑みを浮かべる。

 リビングには、まだ夕食の余韻が残っていた。
 カレーの香りも、笑い声の名残も、ほんの少しだけ。

 その中で澄香は、娘の変化を確かに感じていた。

 そして、思う。

 あの二人は、本当に焦れったい。

 でも、だからこそ見守りがいがある。

 澄香は楽しそうに口元を緩めると、片づけ途中の食卓へ戻っていった。



【更新が遅れており、大変申し訳ありません】
いつも作品を読んでいただき、本当にありがとうございます。
新社会人になり、思うように執筆の時間を作ることが難しくなってしまいました。そのため、最近は更新のペースがかなり遅くなっており、続きをお待ちいただいている皆様には心よりお詫び申し上げます。
これからもマイペースな遅い更新が続いてしまうかと思いますが、諦めずに少しずつ書き進めていく予定です。
温かく見守っていただけますと幸いです。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

なお、今後は簡単な近況や、超短編の小説などをX(@_kzari)で公開していこうと考えております。もしご興味がございましたら、そちらも覗いていただけますと幸いです。

1件のコメント

  • お疲れさまです
    焦りはミスを呼びます
    が、新社会人の手探りの混乱はいましか体験できないものですので
    楽しんで?堪能して?取材がんばって?
    うーん……
    体調にだけはお気をつけを
    今回の話もニヤニヤしながら楽しませていただきました(唐突な〆)
コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する