これは、一種の備忘録です。そのうちちゃんとしたエッセイにするかもしれないし、飽きて放置するかもしれないです。
①うンまい地の文が書きたいんだよォーッ
地の文の上手さって三段階くらいに分けられると思う。
1.台本のト書き型
放課後の教室
(例)
A「(任意の台詞)」
B「(任意の台詞)」
A「(任意の台詞)」
B「(任意の台詞)」
A「(任意の台詞)」
B「(任意の台詞)」
二人は下校した。
A「(任意の台詞)」
B「(任意の台詞)」
2.起こった事実を書く型
(例)
雲一つない青空が茜色に染まったころ。放課後の教室で、AはBに声をかけた。
A「(任意の台詞)」
AはBを見上げた。
B「(任意の台詞)」
A「(任意の台詞)」
B「(任意の台詞)」
Bはくくっと喉を鳴らした。
A「(任意の台詞)」
B「(任意の台詞)」
二人は手を繋いで昇降口へと向かった。
A「(任意の台詞)」
B「(任意の台詞)」
3.動作描写以外も混ぜてくる型
これは私自身が上手く書けないので例示できない。
でも、私がカクヨムで出会った人の中には、ほんの数人だけれど、3の領域にいらっしゃる人がいた。本当に文章が、いや、表現力が高いなと思った。
彼らは、作家として頭一つ抜けている気がする。私はそれになりたい。
②小説のうまさって3つの基準で計れるんじゃね
1.キャラの書きわけ
一人称や口調を変えたり、語尾になんかつけたりするだけでは三流の書き分けだ。一流は、全く一人称や口調が同じでも、そこにキャラの思想を滲ませる。
2.情報の出し方
読者は作者が思っている3倍記憶力がないし、理解力もない。用語辞典とか作っても読まない。故に、キャラ/世界観の設定はただ羅列するのではなく、エピソードとして体感させて覚えさせるべき。
3.地の文の上手さ
うンまい(以下略)を参照
③アンチ・創作賛歌
小説家や漫画家を目指す主人公たちの話が苦手だ。特に主人公が学生で、本気でなること目指してます!みたいな話は。
そういう作品は、創作って苦しいけど楽しいよね!青春だよね!という流れがどこかしらにある、ありがちである。
……んな訳あるか。馬鹿め。
人に見せるための創作は、きったねぇもんだ。呪詛だ、嫉妬だ、孤独だ。承認欲求の塊だ。この世で一番醜いものだ。
自家発電(意味深)するために自給自足した絵や、誰にも見せていない夢小説とかは知らない。それは自己満足の世界だから。言わば脳内妄想を出力したものだから。
けれども、一度でも「自発的に」他人に見せてみろ。見せたということは、何らかの反応が欲しいということだ。そしてその反応の根底には、大抵の場合は「認めて欲しい」という承認欲求がある。
私は、その承認欲求がとても汚いものだと思う。なぜなら、承認欲求には終わりがなく、肥大化することはあれど、縮小することはないからだ。
「好きだから書いた」が「褒めてもらうために書いた」にいつの間にかすり替わってしまった事例はごまんとある。
私は、創作を一種の宗教のように崇めているから、我が神を自分の欲求を満たす道具として使いたいと思えない。それは不敬だ。
だが、私自身、その欲求を捨てられないのも事実である。
だから、小説家や漫画家という、他人に見せるための創作をする輩を目指す主人公たちの話は、私の信仰と相いれないものなので、苦手だ。ただ、これは私が苦手なのであり、その作品たちを糾弾するつもりはない。(じゃあこんなエッセイ書くなよって?ド正論だ)
カクヨムに出入りしてもう6年近くが経つが、ネット小説なんか嫌いだ。数字で嫌というほど嫉妬心を煽られる。承認欲求に火がつく。我が神をまた道具のように扱ってしまうのかという、恐怖が這いあがってくる。
しかし、それと同時に大好きでもある。他人に認められるということは気持ちがいい。他人の頭の中を覗ける。こんな表現があったのかと、学びにもなる。
この内なる矛盾が解消されることを祈る。私には祈る事しかできない。